Dear…【完結】   作:水音.

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第43話 Phantom Pain ―幻肢痛―

 カツ──ン……

 

 カツ────―ン……

 

 実際の何倍にも伸びた靴音が虚夜宮の回廊に反響する。

 玉座の間から第4の宮へと一直線に続く通路上に揺れるのは一体の白い影。それは自身の創造主からその左胸に4の数字を刻まれた男だった。

 

 自室へ帰るという目的にそぐわず、ウルキオラの足取りは重い。

 藍染には速やかに自宮へ戻り待機するよう命じられた。そう、命じられたのだ。ならば自分は一も二もなくそれに従うべき。そう頭では理解しているはずなのに、歩みは一向に進まない。

 原因は明白。先程玉座の間で見せられた、崩玉の映像の中に浮かんでいた人物──

 

 なぜ草薙沙羅が虚圏にいるのか。

 なぜグリムジョーと行動をともにしているのか。

 

 そして

 

『彼女は君に会うためにここまで来たんだ。そんなことを言っては可哀想だよ』

 

 主のあの言葉の意味は。

 

「…………」

 

 徐々に緩まっていたウルキオラの歩調はここへきて完全に止まった。

 そもそも草薙沙羅は自分が課された任務の捕獲対象だ。任を解かれたとはいえ、その対象人物が虚圏に侵入しているとあっては看過するわけにもいくまい。こうなる前に彼女を捕らえられなかった責任は取ってしかるべき。

 鉛のように床に貼りついて動かない足をウルキオラはそう理由づけた。それが主君の意に反する行動であることなど、全て思考の外側に追いやって。

 

(奴らが通っていたのは第6の宮の近辺だったな)

 

 後方に目線を投げると、瞼を伏せてウルキオラは探査神経(ペスキス)を全開にした。

 対象の霊波の特徴と大体の位置が把握できていれば、幾百もの破面がひしめくこの虚夜宮の内部であっても霊圧を感知することは可能だ。

 

(あの女の霊圧……)

 

 記憶を辿るまでもなく全身にふわりと木漏(こも)()のような温もりが流れ込む。主君の命を受けて現世に降り立ったあの三日月の夜、現世の巨大な桜の木の下で刃を交えた死神の霊圧が。

 

『ウルキオラ──』

 

 唐突に頭の中で澄んだ声が響いて、ウルキオラは動きを止めた。

 

 まただ。またあの女の声。

 鼓膜が震えると同時に左胸に小さな違和感が生じる。細い棘が刺さったようなおぼろげな──けれど確かな不快感を訴える痛み。

 

 くっきりと刻まれた4の刻印の上に手を当てながらウルキオラは無意識のうちに耳を澄まし、声の主へと想いを馳せた。

 棘は次第に耐えがたい痛覚を伴って4の刻印の奥深くを貫く。回廊を支える石柱に片手をついてウルキオラは顔を歪める。

 

 なぜ? 

 この左胸の下にあるのは単に体内へ血液を循環させるだけの臓器。

 そして自分はそこに傷を負っているわけでも病を患っているわけでもない。

 

 戯言を好む人間や死神どもはよく「心が痛い」だの「胸が苦しい」だのと口にするが、そんなものはただの錯覚だ。

 心などというものはどこにも在りはしないし、存在する意味もない。

 ましてこの俺の中になど。

 

「……っ」

 

 胸を抉るような痛みに阻まれウルキオラの思考はそこで中断された。

 

 ならばこの感覚はなんだ? 

 何がこんなにも苦痛を訴えている? 

 

 在る筈のない痛みは、つい先程までそこに存在したはずの「何か」の喪失を強く訴えているかのようで

 それはまるで、肉体に刻まれた記憶が欠如した身体の一部を切望して起こる作用──幻肢痛(げんしつう)に似ている。

 

(俺は……)

 

 自分のこの身体になんの変化が起きたというのだろう。

 

(俺は……何を失った?)

 

 一体何が存在したというのだろう。

 この4の数字の奥底に。

 

 

 

『卍解』

 

 

 

 声が響いたのはその直後だった。

 何度消しても甦る、あの死神の残像とともに。

 

 

『百年夢幻咲き』

 

 

 脳裏から切り離そうにも離せないその声は、ウルキオラが初めて耳にする言霊を旋律の一部のように清らかに紡いだ。

 そしてウルキオラがその意味を測ろうとするよりも早く。

 衝撃は、訪れた。

 

「──っ!!」

 

 外気など入るはずのない虚夜宮の深層部に一陣の風が吹き込む。

 ウルキオラの白い装束の裾を高く巻き上げながらも、頬をすり抜けるその温度は優しい。

 風が運んだのは温もりだけではなかった。幾千、幾万もの桜の花弁が風に誘われるまま舞い踊り、瞬く間にウルキオラの眼前を薄桃色に染めていった。

 

 ──幻覚だ。

 こんな目くらましにみすみす嵌まる道理はない。

 

 それでもウルキオラが視界を閉ざさなかったのは、その花弁の中に浮かんでは消えていく無数の残像に目を奪われていたからだった。

 

 

『あなた、名前は?』

 

『呼ぶ人が気持ちを込めて呼べば、その名前も意味のあるものになるんじゃないかな』

 

『呼んだ? 今私の名前呼んだの!?』

 

 薄茶色の長い髪が、桜の花弁に包まれてさらさらと揺れていた。

 

『じゃあこの桜が満開になったらお花見しよう? 約束ね』

 

『……バカキオラ』

 

『敵だから悪だなんて決めつけたくないだけ』

 

 希望をたたえた濃紫色の瞳は、陽の光を浴びるとより一層鮮やかに煌めいた。

 そしてその中央にウルキオラの姿を捉えると、嬉しそうに笑った。

 

『……十刃……?』

 

『どうして殺したの……っ!』

 

 ときにはその瞳を怒りに歪ませたことも

 

『ウルキオラは……ずるい』

 

『紫苑なんでしょ……?』

 

 哀しみに曇らせたこともあった。

 

 それでも、彼女は

 

『何もしなくていい! 傍にいてくれるだけでいい……』

 

 こんな俺を

 

『仮面があるからなんなの? ウルキオラはウルキオラでしょ?』

 

 こんな醜い獣に成り果てた、俺を

 

『もうひとりにさせない……全部私が一緒に受け止める! だからもうひとりで苦しまないで……!』

 

 ──愛して、くれた。

 

『ずっとひとりにしてごめんね。……だけどもう離れないから』

 

 

 百年前と同じように。

 

 

 *

 

 一度伏せた瞼を押し上げると、次の瞬間には視界が広く開かれていた。

 辺りには桜の花弁の一枚すら残ってはいない。元の静寂に包まれた白い回廊には、ただウルキオラの影だけが長く遠く伸びていた。

 

 足元から這い上がるようにして脳髄まで震えが走る。

 心臓を貫く痛みは消え失せた。代わりにこみ上げるのは、こらえようのない憤りと恐怖。

 

 それは誰に対して向けられたものなのか。

 自分に? あるいは──

 

『ああ、すまない。今の君に言ったところで届きはしないか』

 

『ウルキオラ……てめえまさか藍染に──』

 

 そうだ

 俺はあの人に

 

『……ほんまに憶えてないん?』

 

『あの子……哀しむやろなぁ』

 

 あの人に記憶を奪われて

 それで

 

 それで──

 

『彼女は君に会うためにここまで来たんだ。そんなことを言っては可哀想だよ』

 

 たった今、虚夜宮のある一点から放たれ、桜吹雪の幻影とともに押し寄せてきたあの霊圧は

 

 ウルキオラの4の刻印を蝕んでいた痛みを丸ごと洗い流していった、あの膨大な、それでいて優しい霊圧は

 

「くっ!」

 

 声にならない呻きを漏らして、ウルキオラは力任せに石柱に拳を突き立てた。防護に特化した特殊な構造を施してあるはずの柱に深い裂け目が入り、ビキビキと亀裂が伸びていく。

 

「なぜ……」

 

 渇いた声ははっきりとわかるほどに震えていた。

 どれだけの力がこめられたのか、握りしめた拳に幾筋もの血管が浮かび上がる。

 

「なぜおまえが……」

 

 否、その答えはわかりきっている。

 自分に逢うためだ。それ以外に彼女がここに現れる理由などない。

 それでもウルキオラは問わずにはいられなかった。

 

「俺は、おまえを……」

 

 傷つけたのに

 

 裏切ったのに

 

 なのに、どうして

 

 

「沙羅……ッ!!」

 

 

 愛しい名前が、喉の奥から溢れた。

 

 

 *

 

 第4の宮へと通じる回廊の片隅でひとつの霊圧が不安定に揺れる中、玉座の間にはこの城の主ともう一人、東仙要(とうせんかなめ)の姿があった。

 

「今の霊圧は──」

 

 眉を潜めて頭上を振り仰ぐ東仙。彼もまた市丸ギン同様藍染に忠誠を誓い、九番隊隊長の名を捨てて護廷十三隊から離反した反逆の徒であった。

 

「草薙沙羅だよ」

 

 部屋の中央で崩玉に手をかざしていた藍染がそれに答える。

 

「一度見失ったんだが、どうやら十刃の専用通路を通っていたらしい。同時に消えたのはザエルアポロの霊圧だろう。グリムジョーまで丸め込むとは、彼女は相当なやり手かもしれないな」

 

 大仰な語り口だが、その表情を見ればそれが彼にとってなんら緊迫性のない事象であることは明白だった。しかしそれでも東仙は神妙な面持ちを浮かべたままで、振り返った藍染は薄く笑みをもらす。

 

「私も驚いているんだよ。まさか彼女が卍解まで会得しているとは」

「はい。我々が瀞霊廷にいた頃には、そこまでの力はつけていなかったはずです」

 

 東仙とてかつては九番隊の隊長を務めた人物。のちに離反することを踏まえれば、それに伴い敵対するであろう護廷十三隊の危険人物を注視しておくのは当然のこと。

 当時十三番隊の第七席であった草薙沙羅も例外ではなく、東仙の脳裏にはくっきりとその名が刻まれている。が、それはあくまで『十三番隊第七席』としての記憶。

 名のある貴族の血を継いで生まれたわけでもなく、突出した能力を見せるわけでもない沙羅を、このとき東仙は特に注視すべき人物とは捉えていなかった。

 その娘が、この短期間の間に卍解を習得し、単身虚圏に乗り込んでくるなど──

 

「浮竹は元々草薙沙羅を副隊長の座に据えたがっていた。七席から副隊長に昇格したこと自体はさして不思議じゃない。だが彼女が卍解の域にまで到達したとなると、ここ数ヶ月で急速に力を付けたのは確かだ」

 

 そう告げた藍染は崩玉から浮かび上がった沙羅の映像に目を細めた。

 

「副隊長の名を背負って一段と成長したのか、それとも──」

 

「ウルキオラを救い出すために、死に物狂いで力を得たのか」

 

 半透明に映し出される映像の一端が、刹那おぼろげに霞む。

 

「愛する者のためなら闇の底に身を投じることさえ(いと)わない。胸を打つ話だと思わないか?」

 

 微笑をたたえる藍染に東仙は是も非も唱えなかった。光を捉えぬ目で主を見据えたまま、一言。

 

「このまま野放しになさるおつもりですか?」

 

 言葉の上では訊ねていても、その口調はただちに手を打つべきだと訴えていた。それを知ってか藍染の口元にはますます長い線が刻まれる。

 やがて崩玉の映像から視線を外した彼は、白い衣の裾を大きく翻し、自身の忠実な部下へ向かってひとつの命を下した。

 

「要、天挺空羅(てんていくうら)を」

「はっ。捕捉対象は」

「ウルキオラを除く全ての十刃へ繋いでくれ」

 

 悠然と玉座に腰かける主に東仙は逡巡した。

 

「グリムジョーも含めてよろしいのですか」

「もちろん。彼も十刃の一員だろう? ああ、それから──彼女にも聞かせてやるといい」

 

 そう言って玉座に片肘をついた藍染は、この広大な虚圏を統べる支配者たる顔で放った。

 

「むざむざと獣の棲み処に飛び込んできた、あの勇敢な姫君にもね」

 

 

 *

 

 ザエルアポロとの遭遇により十刃の専用通路の進行を断念した沙羅とグリムジョーは、下級破面の居住区域を突っ切って虚夜宮の最北端に位置する第4の宮へと向かっていた。

 

 通る場所が場所だけに、破面との遭遇はあとを絶たない。しかし大抵の破面はグリムジョーの姿を見た途端に恐れ(おのの)いて逃げ出すか、その強大な霊圧にあてられて身動きが取れなくなるため、ふたりはさしたる足止めを食うことなく歩を進めていた。

 無論なかには、グリムジョーの存在を認識していながら沙羅に狙いを定めて飛びかかってくる破面もいる。そこでグリムジョーがわざわざ沙羅を守る義理もなく、沙羅は自らの刀を抜いてそれに応戦していた。

 もっとも「てめえみてえな雑魚が俺の前に立つんじゃねえ」とグリムジョーが別の理由で蹴散らすことは少なからずあったが。

 

 

「──さっき」

 

 沙羅が一通りの破面を撃退し終えたところで、それまで黙り込んでいたグリムジョーが口火を切った。

 

「ウルキオラが虚になったのは自分のせいだっつったな」

「……うん」

「じゃあおまえは、奴のためなら命をくれてやってもいいと思ってんのか」

 

 温度のない蒼の双眸に射抜かれ呼吸が止まる。しばしの沈黙ののち、沙羅は首を横に振った。

 

「……思ってない。そんなこと、思うわけない」

 

 そう、どうしてそんなことができようか。ウルキオラのためを思えばこそ、私は。

 

「私はもう死ぬわけにはいかないの」

 

 頭の中で彼の声が木霊する。

 深い闇の底に囚われながら、それでも彼が切に願い続けたこと。

 

『おまえは絶対に死ぬな』

 

「それがあの人との約束だから」

 

 瞼を伏せた沙羅に、グリムジョーが何かを言いかけようとした瞬間。ふたりは同時に頭上を仰いだ。

 

「何……!?」

「東仙の霊圧だ──」

 

 一瞬の空気の震えを合図に、急速に辺りを覆っていく霊圧は沙羅にも憶えがあるものだった。

 剣呑に目を細めるグリムジョーの横で、沙羅は蜘蛛の巣状に張り巡らされたその霊圧から展開される鬼道の術式に意識を傾ける。

 

「これは……天挺空羅」

 

 高位の死神の間で緊急の通信手段として用いられる縛道のひとつ。

 やがてその霊圧が辺りを完全に囲った頃、響いてきたのは霊圧の主ではなく、その彼を配下に据える男の声だった。

 

 

『我が親愛なる十刃の諸君──聞こえるかい』

 

 

「藍染隊長……!?」

「野郎……なんの真似だ」

 

 天挺空羅を介して響いた声は、紛れもなくこの城の主──藍染惣右介のものだった。

 記憶の中に残る、黒縁の眼鏡をかけた柔和な笑顔が甦る。無意識にその面影を追いそうになって沙羅は自身を押しとどめた。

 

 違う。この人は。

 私が知っている藍染隊長じゃない。

 尸魂界中を震撼させた一連の騒動を引き起こしたのは、全てこの男。

 ルキアを処刑に追い込んだのも、雛森に深い傷を負わせたのも、そして

 

 ウルキオラの自我を奪ったのも──……

 

『寛いでいるところすまないが、状況が状況だ。各自心して聞いてほしい。虚夜宮に侵入者が現れた。我らが同胞、ザエルアポロが既にその犠牲になっている』

 

 緊迫を煽るような台詞とは裏腹に、その口調はまるで危機感に欠けていた。

 

『侵入者は一名。護廷十三隊、十三番隊副隊長・草薙沙羅』

「……!」

『彼女の目的は十中八九、ウルキオラだ。どんな理由があってかは知らないが、彼との対面を望んでいるらしい』

 

 愉しんですらいるような声色が自分の名を紡ぐのを、沙羅は拳を震わせて聞いていた。

 

『無論理由もわからないまま大切な同胞を危険に晒すわけにはいかない。ウルキオラは第4の宮で待機させている。従って十刃諸君には、草薙沙羅がウルキオラの元へ辿り着く前に、彼女を捕縛してもらいたい』

「捕縛だと?」

 

 眉を潜めたグリムジョーの呟きが届いたかのように藍染は続ける。

 

『捕縛の意味はわかるね? 会話に支障のない、正常な意識を保った状態で私の元へ連れてくるということだ。見事彼女を玉座の間まで連行した者には好きな褒美を取らせよう。その働きによっては十刃の階級を引き上げることも考えている。信頼を置く君たちだからこそ頼めることだ』

「ほざきやがって!」

 

 天挺空羅は一方的な伝達手段であるためこちら側の声は伝わらない。

 バンッと壁に拳を叩きつけて憤るグリムジョーの傍らで、沙羅はこわばった面持ちのまま立ち尽くした。

 

『……さて』

 

 不意に声が柔らかさを帯びる。

 

『君にも聞こえているだろう? 沙羅』

 

 穏やかな呼びかけに背筋が凍った。声の主は遠く離れているはずなのに、まるですぐ耳元で囁かれているような威圧感。

 それでも沙羅は怯まずに顔を上げた。弱みを見せたらすぐさまつけ込まれそうな気がした。

 

『物々しい言い方をしてしまったが、私とて手荒な手段は望まない。君に敵意がないと言うのなら、客人として手厚くもてなすつもりでいるよ。危険がないと判断すればウルキオラにも会わせよう』

 

 甘美な誘い文句で藍染はゆったりと語りかける。

 

『君に興味があってね。一度ゆっくり話がしたいんだ』

 

 真意はどうあれ、その声は彼が本心でそう告げていると思わせるには十分すぎるほど親しみがこめられたものだった。それがどんな思惑から派生しているのかは知る由もないが。

 

『その気があるなら、君のすぐ傍にいる十刃にそう告げてくれ。彼なら玉座の間まで迷わず案内できる。──そうだね? グリムジョー』

「……ッ!」

『待っているよ、沙羅』

 

 軽やかな笑い声を残して天挺空羅の術式は解かれた。

 沙羅とグリムジョーが立ちすくむ虚夜宮の一画は、再び不気味な静寂に包まれていた。

 

 *

 

「おまえ、平気か」

「……え?」

「藍染のあの声を聞いてなんともねえのかって聞いてんだよ」

 

 一拍置いてから振り返ると、グリムジョーが苛立たしげに声を荒らげた。どうやら心配してくれているらしい。

 

「別に大丈夫よ。天挺空羅は声を届けるだけで、何をされたわけでもないし」

「呑気なこと言ってんじゃねえよ。藍染は声だけでも能力を使えんだぞ」

「大丈夫だってば。グリムジョーだって平気な顔してるじゃない」

 

 沙羅が首を傾げてそう言うと、グリムジョーはまじまじと見つめ返してから自身の手に視線を落とした。右の拳を何度か握り直して、そういやそうだな、とひとりごちる。

 決して大袈裟に言ったわけじゃない。藍染には声だけで人を従える力が本当に存在するのだ。既に鏡花水月の完全催眠に捉われているグリムジョーとてその例外ではなく──

 

 怪訝に思いながら顔を上げると妙に嬉しそうな表情の沙羅と目が合った。

 

「……なんだよ」

「ううん。グリムジョーって結構心配性なんだなって」

「はァ!? てめえ人がわざわざ──!」

「うん。ありがとう、心配「してねえッ!!」

 

 言葉を待たずに怒声を響かせると、グリムジョーはずかずかと歩み始めた。

 

「ウルキオラの宮に行くんだよね?」

「たりめーだろ。おまえまさか藍染の言うこと真に受けてんじゃねえだろうな? ウルキオラに会わせるなんて嘘に決まってんだろ! そこまで馬鹿だと救いようがないぜ」

「そんなこと一言も言ってないでしょ! 確認しただけ!」

「どうだかな」

 

 喧々と言い合う沙羅とグリムジョーの背後でごそりと黒い影が蠢く。

 気配を殺して飛びかかってきた巨体の破面を、ふたりは振り向きざまに一刀した。

 

「どけ!」

「どいて!」

 

 黒い巨体が地に沈むのを確認してからどちらからともなく走り出す。

 先程の藍染の指示によって、他の全十刃が沙羅の捕縛に向けて動き出すであろうことに関してグリムジョーは何も言及しなかった。そして沙羅もそれに呼応するように口を噤んだ。

 

 言いたいことはある。沙羅と行動をともにしたことで、グリムジョーも藍染に目をつけられてしまった。

 けれどそれを謝罪したところでまた派手な怒号が飛んでくるだけだろう。

 喉まで出かかった言葉を呑み込んで、沙羅はグリムジョーのあとを追いながら第4の宮を目指した。

 

 

 

 *

 

 それは、心臓を縛りつけていた幻肢痛よりも耐えがたい苦しみだった。

 無残に崩れ落ちた石柱に額を寄せたままウルキオラは拳を震わせていた。

 

「沙羅……」

 

 一度は記憶からかき消されたはずの名前を呼ぶ。

 

「沙羅……!」

 

 何度も何度も何度も。

 深く、強く、刻みつけるように。

 

「沙羅……っ!」

 

 どうして自分は忘れていた。どうして忘れられた。

 こんなにも愛しい人のことを。

 

 どうして

 

 どうして

 

『いい加減に……目、覚ましてよ……』

 

 どうして、あんな風に

 

『……バカキオラ……!』

 

 傷つけることができた──

 

 

 バラバラに砕け散ったはずの欠片がぴったりと組み合い、ひとつの絵図を導き出したようにウルキオラの記憶は鮮明だった。

 

 何もかも憶えている。

 主君・藍染惣右介に心を囚われ、その命を受けて現世へと下りたあの三日月の夜。

 驚愕に打ち震える濃紫色の瞳も

 祈りを籠めて自分を呼び続ける声も

 血に濡れた細い左肩も

 仲間の死神に抱えられて穿界門をくぐっていく姿も

 全て、何もかも、憶えている。

 

 だが、絶え間なく浮かんでは消える残像の中に、笑顔はひとつもなかった。

 

 瞳いっぱいに涙を溜めた顔。

 懸命に哀しみを押し殺した顔。

 そのどれもが、如実に甦れば甦るほど苦しくて。

 

 再び叩きつけた拳の下で石柱がビキビキと音を立てて割れていく。

 どれだけ自分を痛めつけても、消えない。

 彼女の声も、残像も。──消えない。

 

「なんや荒れとるなあ」

 

 背後から声が飛んできたのはあまりにも唐突だった。

 それは彼が巧みに気配を殺していたからなのか、それとも単にウルキオラの注意が削がれていただけなのか。

 

「どないしたん? 君がそこまで取り乱すなんて珍し──」

 

 風のように現れたその男──市丸ギンは平時と変わらない飄々とした笑みを浮かべていたが、憔悴しきったウルキオラの表情を一目見ると「ああ」と眉尻を下げた。

 

「……そか。思い出してしもたんか」

 

 ゆったりとした作りの白装束の袖をなびかせて、ギンは音もなく歩み寄ってくる。ウルキオラはそれをただ目で追うことしかできなかった。

 

「綺麗さっぱり忘れてんのも不憫やと思たけど、こうなってもうたらいっそ忘れたままのほうがラクだったのかもしれんなあ」

「……何を……」

「聞いたやろ、さっきの藍染隊長の話」

 

 眉を潜めたウルキオラにギンは一瞬目を見開いたが、すぐに合点がいったように瞳を細める。

 

「ああ……君には聞かせへんかったんか。そらそうやな」

 

 事実、東仙が発動した天挺空羅の伝達対象にウルキオラは含まれていなかった。

 感知能力に優れるウルキオラであれば天挺空羅を発動する際の霊圧の震えを感知することも十分可能だったが、今の彼にはそこまでの余裕はなかった。

 

「あの人も酷いことしはるわ」

 

 狼狽するウルキオラに憐れみの眼差しを向けてギンは呟く。

 

 虚無を司るはずの第4十刃が心を得た。表情ひとつ動かさず、感情も露わにしない石像のようなウルキオラを長い間見てきたギンにとって、それは非常に驚くべきことだった。

 けれど彼はまだ知らないのだ。

 自身の最愛の恋人が、主君の命により全十刃の標的となってしまったことを。

 

「知らぬが仏、か。とりあえず君には自宮に戻ってもらわんとな」

 

 ゆらりと右腕を上げたギンにウルキオラは本能的に身構えた。

 

「俺に……何を……」

「さあ。ボクにもようわからんけど、ゴールがなければゲームにならんのやて。……君も難儀やなあ」

 

 ありありと敵意をぶつけてくるウルキオラの眼差しがギンには心地よかった。一瞬でウルキオラの横まで移動し、耳元でそっと囁く。

 

「あの子のことはボクに任せて、君は眠っとき」

「……!?」

 

 途端、ウルキオラの視界は暗転した。

 途方もない強大な引力に意識が呑み込まれていくのがわかる。

 抗わなければ──と心が訴える一方で、ウルキオラは己を取り込もうとするこの闇を半ば受け入れようとしていた。

 

 もう何も考えたくなかった。

 記憶を辿ることも、思考を重ねることも、全てが億劫だった。

 

 このまま眠りについてしまえばそれで終わるのだろうか。

 このまま、消えてしまえば。

 

『──また逃げるのか?』

 

 脳髄の奥深く、頭の芯から自分とよく似た声が響いた気がしたが、ウルキオラはそれすらも耳に入らない振りをして瞼を伏せた。

 

 かんがえたくない

 

 もう、なにも──……

 

 

 そして彼はそのまま意識を手放した。

 

 

 

 ***

 




《Phantom Pain…幻肢痛》

 たとえ記憶を失くしても、その痛みは消えない。


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