Dear…【完結】   作:水音.

55 / 87
第45話 Doll in Distress ―囚われの人形―

 暗い。

 

 深く、冷たく、物音ひとつ響かない。

 それはまるで海の底にいるような感覚だった。

 

 もうどれくらいこうしているのだろう。

 麻痺した五感では、時間を計ることも記憶を辿ることもできない。

 海底に忘れ去られた貝殻のようにそこにいるだけ。

 

 やがて彼が再び眠りにつき始めたとき、誰かに名を呼ばれたような気がした。

 否、正確にはそれが自分の名前だったのかすらわからない。ただ聞こえただけだ。

 そんな漠然とした感覚に導かれて、彼の意識は浮上した。

 

 

 開いた瞳に映ったのは、闇。

 あまりにも暗いその視界に、ウルキオラは「自分はまだ夢の中にいるのだろうか」と錯覚した。

 しかし彼の優れた視覚はすぐに闇と調和して、辺りの景観を映し出す。

 

 海の底でもなんでもない。そこは彼が管理する第4の宮の一室に過ぎなかった。

 だが、ウルキオラは訝しげに目を細める。住み慣れた自宮ではあるが強い違和感を覚えた。

 なぜなら今自分がいるのは居住用の部屋ではなく、従属官や仕えの者に罰を与えるために備えつけられた懲罰房だったから。

 

 鉄格子で覆われた重厚な懲罰房ではあるが、従属官を持たないウルキオラにとっては不要の設備でしかなく、埃をかぶった室内はじめじめとしてカビ臭い。

 その牢獄を、ウルキオラは今内側から眺めていた。

 

「……──」

 

 身体を起こそうとしてひやりと冷たい感触に触れる。次いでジャラ、と無機質な音が響いた。彼の両手首を後ろ手に縛り上げた鉄の鎖は、牢の柱にしっかりと括りつけられていた。

 

 ギィ……

 不意に懲罰房と廊下を隔てる扉が音を上げる。

 闇に慣れた瞳にはそこから射し込むわずかな光さえ眩しく、ウルキオラは反射的に顔を逸らした。

 

「……お目覚めになりましたか」

 

 入室してきたのは何度か見た覚えのある顔だった。普段ウルキオラの宮の清掃や食事の運搬などを担当している下級の破面だ。

 人間であればまだ年若い青年であろうその破面は、牢に繋がれたウルキオラの姿を正面に捕らえると哀しそうに瞳を細めた。

 

「ウルキオラ様……一体何があったのですか」

 

 何があったのか、そんなことはこちらが訊きたい。

 黙って眉を潜めていると、破面はウルキオラを抱えた市丸が現れ、彼を牢に投獄するよう命じたのだと説明した。

 

「もちろんお断りしたのですが、藍染様へ歯向かう危険性があるからと、市丸様が強く命じられまして……」

 

 たどたどしく言葉を紡ぐ破面の言葉は途中から耳に入っていなかった。

 市丸。そうだ、あの男が突然目の前に現れたのだ。そして不可解な発言を残して、自分の意識を奪い去った。

 

 意識を手放す直前に彼が呟いた言葉を思い返そうとしたが、ウルキオラは本能的にそれを拒絶した。

 あのまま眠っていられればよかったのに。そうすれば何も考えずに済んだのに。どうしてまた目覚めてしまったのだろう。

 

「ウルキオラ様が反乱を起こすなどと……僕には到底信じられません」

 

 黙考するウルキオラの耳に再び破面の青年の声が届く。そういえばこの青年はやけに自分に対して盲信的であったことを思い出した。

 給仕として宮に出入りするようになってしばらく経ってから、従属官にしてはもらえないかと申し出てきたこともある。それを「必要ない」と吐き捨てると彼は至極残念そうに俯いたが、すぐに「お傍にお仕えできるだけで光栄です」と笑顔を見せたのだった。

 

 この青年に限らず、従属官になりたいという申し出はこれまでにも少なからずあった。

 彼らのような下級の破面にとって、絶対神・藍染惣右介に選ばれし十刃はそれはそれは至高な存在で、羨望の的となるのだろう。そしてその感情は、第4十刃という地位を与えられなおかつ主から厚い信頼を置かれている自分には特に強く向けられるであろうことをウルキオラは自覚していた。

 だが、今となっては──

 

「そうですよね? ウルキオラ様に限って、藍染様の意に背くようなことをなさるはずが……」

「黙れ」

 

 青年の言葉を遮ってウルキオラは瞼を伏せた。

『主に忠実な第4十刃』

 そのレッテルを貼られているのは自分なのだと、考えるだけで反吐が出そうだった。

 

 偶像だ。

 全て、何もかも。

 

『藍染様の御心のままに……』

 

 心なき者にどうして真の忠誠心など芽生えようか。

 俺はただの人形だ。己の意思を持たぬ操り人形。

 

「消えろ」

 

 それ以上聞きたくもないとばかりにウルキオラは一蹴する。

 青年はまだ何か言いたそうにしていたが、ウルキオラの気配を察すると静かに頭を下げて房をあとにした。

 

 再び静寂に包まれた房内でウルキオラは自身の背面に目を向けた。牢の柱とウルキオラの身体を括りつけているのは頑丈な鉄の鎖ではあるが、十刃である彼を捕らえておくにしてはあまりにもお粗末だ。

 ウルキオラにはわかっていた。この鎖は己の身体を縛っているのではない。心を縛りつけているのだと。

 この程度の戒めを解くのはいとも容易い。けれどその瞬間、ウルキオラは藍染への反逆を自ら認めることになる。そうなればもう主は黙っていないだろう。

 結局は彼の手の上で転がされているに過ぎないのだ。

 

 俺に何ができる? 

 あの人の操り人形でしかない、この俺に。

 

 光が鎖された牢の中、ウルキオラの瞳に映るものは何ひとつとしてなかった。

 

 *

 

 その頃、虚夜宮・第1の宮のとある一室にて。

 

「……──ク!」

「んー……」

「スターク! いつまで寝てんだよッ!」

「ずっと起きてるっつーの! 悪かったな常に眠そうな顔で」

「起きてるんだったら返事しろ!」

「おわっ危ね! 股間を狙うな股間を!」

 

 自分の背丈の半分にも満たない少女が繰り出してきた鉄拳を、ソファに寝そべっていたスタークは身体を反転させて間一髪のところで避けた。

 それがますます気に障ったのか、少女──リリネットはギリリっと目を吊り上げて彼を睨みつける。

 

「あんた何呑気に転がってんの!? さっきの藍染サマの話聞いてなかったのかよ!」

「いや……聞いてたけど」

「だったら早く準備しなよ! さっさとその草薙沙羅って死神とっ捕まえて、藍染サマのとこに連れてくんだよ!」

 

 息巻くリリネットに、スタークはけだるそうに欠伸(あくび)をこぼしてぐるりと室内を見渡す。虚夜宮で数ある宮の中でも最も広い敷地を与えられたこの第1の宮は、彼(正確には彼ら)のために誂えられた居住地であった。

 

「いいよ面倒くせえ。放っときゃそのうち誰かが捕まえんだろ。別に俺は褒美なんて興味ねえし、十刃の階級だってこれ以上上がりようがねえし」

「ヤミーがいるじゃんか! 第0十刃(セロ・エスパーダ)が!」

「あいつの場合は特殊だろ」

 

 依然としてソファから起き上がる気配のないスタークにリリネットは地団駄を踏んだ。ひとつの魂を分け合った存在でありながら、彼と彼女の性格は正反対に近い。

 

「こンのアホッ! バラガンの爺さんが捕まえたら、第1十刃(プリメーラ・エスパーダ)の座を奪われるかもしれないんだよ!」

「俺は数字なんて何番でも構わねえよ」

「そういう問題じゃない! 大体あんたには第1十刃の自覚ってもんが──」

「あーわかったわかった。もう一眠りしたら真面目に考えるよ、それでいいだろ」

「スタ──ークッ!!」

 

 キーキーと喚くリリネットをやり過ごしながら、スタークは宙に視線を浮かべてひとりごちた。

 

「……ったく……死神だかなんだか知らねえが、面倒事持ち込んでくれたもんだぜ」

 

 そう、たったひとりの死神の侵入によって湧き起こった波紋は、瞬く間に虚夜宮内に広まっていた。

 

 *

 

 場所は変わって、虚夜宮中枢部・玉座の間。

 

「ただいま戻りました。藍染隊長」

「──お帰り、ギン。ウルキオラの様子はどうだった?」

 

 玉座に腰掛けてこちらを見下ろしてくる主に、ギンはゆっくりと歩み寄る。

 

「隊長の言うた通り、戻ってましたわ、記憶。真っ青な顔して、第4の宮の前でフラついて」

「やはりそうか。草薙沙羅の卍解の霊圧にあてられたとはいえ、鏡花水月の催眠が破られるとはな。私の能力もまだまだ未熟なようだ」

「よう言いますわ。そないおっかない力持ってはるのに」

 

 皮肉るように告げたギンに藍染は微笑を浮かべた。静かに玉座から腰を上げてギンの横に降り立つ。

 

「それで、彼をどうした?」

「言いつけ通り、第4の宮に拘束しときました。──この通り」

 

 ギンが片手を上げると、その上の空間が歪んでひとつの映像を映し出した。薄暗い牢の中、鉄の鎖で身体を縛りつけられたウルキオラの姿を。

 

「憐れなものだな……」

「ほんまにそう思ってはるん?」

 

 主の呟きにギンは冷えた笑いを浮かべて首を傾げる。

 

「なんや愉しんどるように見えるから」

「心外だな。私にだって憐れみの情くらいはあるさ」

 

 淡々と告げて、藍染は映像の中のウルキオラに目を細めた。

 薄闇の中、壊れた機械人形のように身動きひとつ取らず俯くウルキオラの瞳に、光はない。皮肉にもそれは「虚無」を司る彼には似合いの光景のようにも思えた。

 

「不要な感情を持ったばかりに、叶わぬ願いに溺れ身を滅ぼす。実に滑稽で、憐れだよ──ウルキオラ」

 

 一体どこまでが本音でどこからが戯言なのか。あるいはその全てが虚言にすぎないのか。真意が読み取れないその横顔をギンは無言のまま見つめる。

 しばしそのまま映像に見入っていた藍染は、不意にくすりと笑みをもらした。

 

「彼のこの姿を見たら、彼女はどんな顔をするのかな」

 

 ──ほら、やっぱり。愉しんどるやないですか。

 

 ギンの視線には気づいていないのか、藍染はゆったりと身を翻すと頭上を仰いだ。

 

「ああ……噂をすれば。到着したようだよ、彼女が」

 

 悠然と微笑むその様は、まるで全てを見通した神のように。

 

 *

 

 グリムジョーたちと別れてから半刻は走っただろうか。

 後方で絶え間なく続いていた巨大な霊圧の衝突が感じ取れない辺りまで来たところで、沙羅は立ち止まった。

 

 肩で浅く呼吸を繰り返しながら前方を見据える。ここまで走り抜けてきた白い回廊から一変、目の前には重厚な銅製の門が控え、その先には殺風景な通路が続いていた。

 上品な置き物が通路の両脇を彩ることもなければ、周囲を煌々と照らす派手な電飾もない。およそ生活感の感じられない無機質なその空間を、沙羅は直感的に第4の宮だと感じた。

 

 この奥にウルキオラはいる。

 意を決して門の下を通り抜けようと踏み込んだ瞬間、足場がぐにゃりと歪んだ。

 

「──っ!」

 

 咄嗟に後方へ飛びのいて距離を取る。

 門の下の空間はまるで生き物のように形を変え、いくつか幾何学的な模様を描いたあとそこに人の姿を浮かび上がらせた。

 段々と輪郭を帯びていくその姿に沙羅の全神経が戦慄する。

 

「あ……」

 

 もう隊長羽織は身につけていない。トレードマークだった黒縁眼鏡もない。

 けれどもそれは、沙羅が十分すぎるほどに見知った人物だった。

 

「まずは久しぶりとでも言っておこうか、“草薙くん”」

 

 あの頃と同じ呼び声で、あの頃と同じ微笑みで。

 なのになぜこんなにも震えが走るのか。

 

 ──それは沙羅がもう知っているからだ。この笑顔がまったくの偽りだと。

 

「遥々虚夜宮までようこそ。こんな辺鄙(へんぴ)な場所じゃ客人が来ることなど滅多になくてね。歓迎するよ」

 

 ゆったりと腕を振るう藍染の一挙手一投足を注意深く追いながら、沙羅は静かに呼吸を整える。

 目の前の男が実体でないことは明らかだが、相手が相手だけにどれだけ警戒を強めても足りない。

 

「できれば客間でお茶でも振舞ってもてなしたいところだが──」

「私の目的はひとつです」

 

 巧妙な話術も彼の手口の一端に過ぎない。藍染の言葉を遮った沙羅は彼に向かってまっすぐに言い放った。

 

「ウルキオラを返してください」

 

 恐れを感じていないはずはないのに、それでも毅然とこちらを見据える濃紫色の瞳。それを正面から捉えて藍染はくつくつと喉を鳴らした。

 

「おかしな言い方をするね。彼は元々私の忠実な部下だ。先に私からウルキオラを奪ったのは君だろう?」

「ウルキオラは誰の物でもありません」

 

 ほんの一瞬でも弱みを見せてはならないと、沙羅は強く拳を握りしめながら前を向く。

 

「ウルキオラにはウルキオラの心があります。意思があります。たとえあなたがウルキオラの主だとしても、心まで縛ることはできません」

 

 ウルキオラを取り戻したい。

 ただその一心だけが沙羅を突き動かしていた。

 

「心、か」

 

 幾許かの沈黙ののち、藍染はふっと微笑を浮かべた。

 

「そんな余計なものを君が植えつけたせいで、彼は今どうなっていると思う?」

「え……?」

 

 取って付けたような憂いを含めた瞳で藍染は沙羅を見つめる。そして次の瞬間、彼の後方に映し出された映像に沙羅は息を呑んだ。

 闇に浮かぶ白い装束。見慣れた白い仮面、白い肌。

 

「どうして……っ!」

 

 沙羅の悲痛な叫びが回廊に木霊する。ここで感情を荒立てれば藍染の思う壺だとわかっていても、そうせずにはいられなかった。

 そこには暗い牢獄の中に捕らえられたウルキオラの姿があったのだから。

 

「君の言う通りだよ。私はウルキオラの心まで操ることはできなかった。彼は私の鏡花水月の術を打ち破ったんだ」

「鏡花水月を……?」

 

 つまり、それはつまり。

 ウルキオラが正常な状態に戻ったということだろうか。

 沙羅との記憶を備えた、元の優しい彼に。

 

「君の卍解の霊圧に影響されたようだよ。それも君の言う『心』のおかげなのかな」

 

 思わぬ事実に安堵した反面、急速に不安がよぎった。

 ウルキオラが記憶を取り戻したということは、彼が藍染にとって目障りな存在へ成り変わったということ。もはやウルキオラの身の安全は保障されていない。

 

「それでウルキオラを──」

「今はあの様子だが、いつ私に牙を剥かないとも限らない。危険分子を捕らえておくのは当然だろう?」

 

 わざとらしい口調で話す藍染を沙羅はきつく睨んだ。やはりこの人はウルキオラを自身の所有物としてしか見ていない。

 

「彼が再び私に忠誠を誓うというのなら、すぐにでも解放するつもりだが──」

 

 シャンッ! 

 

 ほんの一瞬の出来事だった。目を瞠る速さで抜刀した沙羅が剣先を横一閃に薙ぎ払うと、腰から上下に分断された藍染の姿は陽炎のように揺らめいた。

 

 ──君は実に勇敢な子だね。だが……知っているかい? 歴代の英雄が歴史に名を残せたのは、結果を伴うことができたからだ──

 

 白い影が闇に消えていく中、くすくすと彼の声の残響が響く。

 

 ──歴史に名を刻む英雄となるか、勇敢さをはき違えた愚者となるか──それは結果が決めることだ──

 

 刀を鞘に納めて残像の中を突き抜ける。彼の言葉に惑わされている余裕などない。

 

 ──果たして君はどちらかな?──

 

 頭の中にまとわりつく藍染の声を振り払って、沙羅はただただ先を急いだ。

 

 

 *

 

 ウルキオラ。

 

『おまえが草薙沙羅か』

 

 思い出したの? 

 

『なぜ俺の名を知っている』

 

 私のことも、自分のことも。

 

『俺はおまえのことなど知らん』

 

 全部全部、取り戻したの? 

 

『……ス……コロス……!』

 

 

 廊下を蹴る足に一層の力がこもる。

 逢いたい。今すぐに。

 いるんだ。この先に。

 

 やがて、沙羅がウルキオラの宮に入ってふたつ目の門をくぐり抜けたときだった。

 

「……?」

 

 覚えのある霊圧を感じた。すぐ目前に。

 突き当たりの角を曲がる。そこに佇む人物と、目が、合う。

 

 そんな。

 まさか。

 どうして。

 

 それはある意味で沙羅が藍染よりも対面を恐れていた相手だった。

 

「久しぶりやなぁ」

 

 尸魂界にいた頃と何も変わらない間延びした口調で彼は告げる。乱菊とともに何気ない談笑を交わしていた、あの頃のように。

 

「市丸……隊長……」

 

 やっとのことでその名を呟くと、彼──ギンは意外そうに肩を竦めた。

 

「まだボクのこと隊長て呼んでくれるん?」

 

 かの謀反の一件で、彼はとうにその肩書を剥奪されている。

 それでもまだどこかで信じられない思いが沙羅の中にはあった。嘆き哀しむ乱菊の姿を見ていたからかもしれない。

 けれど、今目の前にいるこの人は、紛れもない──

 

「本当に……市丸隊長なんですね」

 

 震える拳を胸元に寄せて唇を噛んだ。

 何かの間違いであってほしいと、そう願わずにはいられなかった。

 

「そないな顔せんといてよ」

 

 銀糸の髪をわずかに揺らして、ギンは困ったように、笑った。

 

 *

 

 掴みどころのない人だと思っていた。

 乱菊と行動をともにしていることで必然的に言葉を交わす機会は増えたが、その人物像を把握することは難しく。飄々とした語り口はまるで空を漂う雲のようで、その表情や言動から真意を読み取るのは困難だった。

 そんな一面が薄気味悪いと取られ、一部の隊士には彼を苦手とする者も少なくなかった。

 

 その一方で信奉者が多かったのも事実。

 吉良を始めとする三番隊の隊士の多くは、自隊の隊長であるギンに絶対的な信頼を寄せていた。

 それは沙羅も例外ではなく。

 

「どうして……」

 

 知っている。

 知っている。

 彼が乱菊をとても大切に想っていたことを。

 いつも本音を隠すように細められていた瞳が、乱菊を見つめるときだけは優しい色に染まっていたことを。

 

 なのに。

 

「あかんよ」

 

 身を乗り出しかけた沙羅をギンは静かに制した。

 

「刀から手ェ離したらあかん」

 

 言われて初めて構えを緩めていたことに気づく。

 ここに来てからずっと、警戒を怠らないようにしていたはずなのに。

 

「ボクは君の敵なんやから」

 

 それでも、淡々と紡ぐこの人を簡単に敵だとは割り切れなかった。

 割り切るには知りすぎていた。彼の秘められた一面を。

 

「どうしてですか……」

 

 だからこそ、疑問に思う。

 

「どうして市丸隊長がこんなことするんですか」

 

 彼の行動の真意を。

 

「市丸隊長がいなくなって、乱菊がどんな想いで──」

「沙羅ちゃん」

 

 普段よりも幾分強い口調で名を呼ばれて、沙羅は呼吸を止めた。

 

「その名前は出さんといて」

 

 彼が沙羅の見たこともないような表情で笑っていたから。

 とても哀しく、寂しそうに。

 

「市丸隊長の……行動の理由を、私に話してほしいとは言いません」

 

 ぽつり、と。沙羅の内に小さな期待が生まれる。

 もしかしたら彼には何か事情があるのではないか。

 

「だけどせめて、乱菊には話してあげてください」

 

 本心では裏切りなど働いていないのではないか。

 

「乱菊は今でも市丸隊長のことを信じて……」

「話したほうが乱菊にとって良かったん?」

 

 高揚する沙羅の言葉を、次の瞬間冷たい声が遮っていた。

 

「え……?」

「護廷十三隊で、反逆は最大の罪や。反逆者の情報を得るために、そいつの近親者は片っ端から聴取を受けることになる」

 

 詰まる沙羅にギンは顔色ひとつ変えずに続ける。

 

「まして反逆の事情を知ってるなんてことになったら──聴取なんて可愛いもんやないやろなぁ。あれは拷問や。散々いたぶって吐かせるだけ吐かせたら、今度はその裏切りモンをおびき出すための餌にされる」

 

 それは長く隊長を務めていた彼だからこそ知り得ることだった。

 信義を重んずる護廷十三隊において反逆は御法度。反逆者本人はもとより、その近親者もまた厳しい扱いを受けることになる。

 

「それでも乱菊には話すべきやった?」

 

 首を傾げてギンは訊ねた。

 

「だから、乱菊には何も話さずに……?」

 

 沙羅の心臓が大きく脈打つ。自分がとてつもなく大きな真実に足を踏み入れようとしていることがわかって、全身に震えが走った。

 

「じゃあやっぱり理由が……!」

「なーんてな」

 

 くすりと失笑が響く。

 

「ボクがええヒトに見えてきたやろ?」

 

 またいつもの掴みどころのない笑みを浮かべて、ギンが肩を揺らしていた。

 

「すぐ真に受けるんは沙羅ちゃんのええトコやけど、欠点でもあるなぁ」

 

 ころころと表情を変えるギンに沙羅の頭はいとも容易く混乱する。

 

「気をつけないと、簡単に騙されてまうで。ボクみたいな悪いヒトに」

 

 一体何が真実で、何が嘘なのか。どれが彼の本当の顔なのか。

 ただひとつ確かなことは、

 

「私は……騙されたとは、思っていません」

 

 自分が彼を信じたいと思っていることだ。

 

 まっすぐな視線を向けられ、ギンはやれやれと嘆息した。

 

「相変わらずやなぁ。ま、ボクのことはどうでもええわ。それより」

 

 沙羅の瞳をそのまま見つめ返してギンは宣告する。

 

「ウルキオラのことはもう諦め」

「……諦められないからここまで来たんです」

「ここに来てもウルキオラは救い出せへん」

 

 静かに、けれどはっきりと言い放つ。

 

「今はまだ藍染隊長も遊んでるだけや。それに飽きたら君はすぐに消される。あの人が遊び半分で楽しんでるうちに逃げ」

「嫌です」

「君には無理や。ウルキオラに会えたとしても、それを藍染隊長が見逃すはずがあらへん」

「だとしても、行きます」

「どうしても行く言うんなら──」

 

 強い決意を滲ませる沙羅の前で、ギンはゆっくりと腰に手を運んだ。

 

「ボクの手で始末することになるで」

 

 緊迫した空気がふたりの間に流れていた。

 否、焦燥しているのは沙羅だけだ。目の前に立つ男は相変わらず緩い笑みを浮かべたまま沙羅を見つめている。

 けれど彼の刀の柄にかけられた右手がはっきりと告げていた。このまま通す気がないことを。

 

「お願いです……そこを退いてください」

「先に進みたいならボクを倒してから行き」

 

 沙羅の懇願にも、ギンは表情ひとつ崩さない。

 

「無理です。市丸隊長とは闘いたくありません」

「それはボクかて同じや」

「市丸隊長!」

「早うここから逃げ」

 

 頑として譲らないギンに沙羅は言葉を失って立ち尽くした。

 これは彼なりの精一杯の譲歩なのだろう。本来ならば一も二もなく沙羅を捕らえて、主の元へ連行すべき立場にあるはずだ。

 しかし沙羅とてここで引き下がるわけにはいかない。決死の思いで虚圏に乗り込んで、グリムジョーや彼の従属官たちの協力を得てようやくここまで辿り着いたのだ。

 あと少しでウルキオラに逢えるというのに、今更逃げ帰るだなんて。

 

「市丸隊長は……諦められましたか?」

 

 静かな、それでいて芯の通った声で沙羅は語りかける。

 

「自分の心を偽って、一方的に別れを告げて──それで本当に、大切な人のことを忘れられましたか?」

 

 きっとこの人には届くと信じて。

 

 だがそれでもギンの表情は動かなかった。

 ゆらりと腰を屈め、抜刀の体勢に入る。もはや脅しではない。

 

「市丸隊長……っ」

 

 顔を歪めた沙羅がなおも食い下がろうとしたそのとき、だった。

 

 

「そいつにそれ以上言っても無駄よ」

 

 

 第4の宮の回廊に凛と響きわたった声。

 すっと耳に馴染む聞き慣れた声色に、沙羅は一瞬状況を忘れて振り返った。

 この場にいるはずのない人物が、そこに立っていた。

 

 

 

 ***

 




《Doll in Distress…囚われの人形》

 心を取り戻した人形の運命は。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。