第一印象など特になかった。
王都防衛軍・第三部隊詰所内、鍛錬場。桐宮紫苑の一日はここから始まる。
「はっ」
白銀の刀身が朝の冷えた空気を切り裂いてひゅんと唸りを上げる。日課としている千本の素振りを終えた紫苑は、刀を鞘に収めて汗を拭った。
息を整えながら東の空を見遣る。ちょうど朝日が完全に姿を現す頃合いだ。
時間か、と呟いて紫苑は荷物片手に踵を返した。もうじき朝礼が始まるだろう。
変わらない日常。変わらない朝。
不変的に繰り返されるこの日々を、紫苑は特に不満には感じていなかった。かといって満足していたわけでもないが。
ただ変えたい部分が見当たらないだけだ。
願い、夢、野望。そんな大それたものは特にない。
何もせずとも月日は流れていく。ならばその流れに身を委ねていればいい。
そしていつの日か最期の瞬間が訪れて、自分の人生は幕を下ろす。そんなものだろうと。
このわずか数分後、彼の人生に劇的な変化をもたらす出逢いが待っていることを、紫苑はまだ知らない。
そう、春を間近に控えたこの朝に。
「おーい紫苑!」
詰所の引き戸を開くなり、部隊長の萩谷の呼び声が響いた。
声の方向へ顔を向ける。と、その隣に見慣れぬ人影が立っていることに気づいた。
(……女?)
「紫苑、今日から配属された新しい隊員だ」
じっとこちらを見据えていた女は、萩谷から紹介を受けると慌てて頭を下げた。
「この度第九部隊から転属命令を受け参りました、草薙沙羅と申します。若輩者ですがよろしくお願いします!」
勢いよく捲し立てる女を紫苑はやや目を見開いて見つめる。
転属命令が出されることそれ自体は何も珍しいことではない。だがそれが女性となると話は別だ。そもそも彼らが籍を置いている王都防衛軍において女性隊員の数は圧倒的に少ない。
いくら男女平等の思想が一般に広まりつつあるとはいっても、「武器を持って闘うのは男の仕事」という古くからの風潮の名残も根強く残っているのが現状だ。事実、防衛軍の女性隊員は援護が主体の後方部隊に所属していることがほとんどで、第三部隊のような前線部隊へ配属されるのは極めて稀な例だと言っていいだろう。
よほどの力量の持ち主なのか、それとも単に処世術に長けているのか。とはいえ紫苑が発する台詞は平時と変わらなかった。
「桐宮紫苑だ」
己の名を告げる、ただそれだけ。
彼女がどういう経緯を辿って第三部隊に配属されたのか、そんなことはどうでもいい。これから隊務をともにする上で名前さえ知れていれば支障はないのだから。
「……え、あ……」
まだ何か言いたそうに顔を上げた彼女を尻目に踵を返す。
そう、特に興味はなかった。だから彼女に対する印象も特に残らなかった。
このときはまだ。
*
翌朝。普段通り鍛錬場で素振りをしていると引き戸の向こうから人の気配が感じられた。無人の鍛錬場ではわずかな衣擦れの音さえも耳につく。
「……誰だ?」
この時間に他の隊員が現れることは滅多にない。しばしの沈黙ののち、引き戸を開いて姿を見せたのは昨日配属されたばかりの女性隊員、草薙沙羅だった。
「おはようございます」
「……ああ」
笑みを浮かべて愛想良く話しかけてくる彼女に短く頷きを返す。
「てっきり一番乗りかと思っていたのに驚きました。桐宮さんはいつもこんなに早くからいらしてるんですか?」
「……ああ」
「…………。……お邪魔しました」
「待て」
居心地悪そうに背を向けた沙羅を呼び止めると、訝しげに振り返った。
「俺はおまえの上官でもなんでもない。その話し方はやめろ」
「……え? ですが桐宮さんは──」
「紫苑でいい」
「紫苑さんは」
「紫苑でいい」
「…………紫苑は次の部隊長候補の筆頭だって、昨日萩谷さんが言ってましたけど」
愛想笑いはやめたのか、沙羅はいささかむっとした様子で見上げてくる。
「候補であろうと今はただの隊員だ」
「──でも」
「普通に話せと言っているだけだ。聞いているこっちが疲れる」
「そんな言い方しなくても……わかったわよ、普通にすればいいんでしょ! これでいい!?」
「ああ」
敬語だのなんだのといちいち気を遣われるのは面倒だ。正直このやりとりも面倒だったが、彼女が意外にあっさりと(実際は自棄になっただけだが)受諾したので話は簡潔に済んだ。
「これからよろしく頼む」
なんの他意もなく紫苑はそう告げた。同じ部隊に所属する者への、ごく自然な言葉として。
無論「なぜそれを昨日言ってくれなかったのか」と沙羅が疑問に感じていることなど知るよしもなく。
「……よろしく」
ぎこちなく頷く沙羅を気にもとめず、紫苑は再び素振りを始めた。
*
翌朝、沙羅は前日よりも更に一時間早く鍛錬場に現れた。
「……驚いた。本当に朝早いんだ」
目を丸くしている彼女には構わずそのまま素振りを続けていると、自身の刀の手入れを終えたらしく再び話しかけてきた。
「──ねえ。朝礼までまだ時間あるし、一本相手してくれない?」
ぴた、と素振りの動作を止めて振り返る。流れ落ちる汗をタオルで拭ってから紫苑は首を横に振った。
「女と剣を交えるつもりはない」
「あ。紫苑も偏見持ってる人なんだ。今時そんなの流行らないよ?」
「流行り廃りの問題じゃない。女に剣は振るえない」
低い声色で言い放ったものの、沙羅はなおも食い下がってきた。
「じゃあ戦場で斬りかかってきたのが女だったらどうするの?」
「……そのときは斬るしかない」
「ならその練習ってことで、ね?」
強引に言いくるめてくる沙羅に紫苑は面食らった。
なんなんだこいつは。ペースが乱される。
こと対人関係において紫苑が相手のペースに巻き込まれることはまずなかった。彼は決して他者の領域に踏み込まない。そして自分の領域に他者を踏み込ませない。はず、だったのだが。
「大切なものを護るために闘うのに、男も女も関係ないでしょ?」
濃紫の双眸に強い意思を滲ませて言ってのける沙羅に興味が湧いた。
「……護る?」
「そう」
人を傷つけるための道具を手にしておきながら、まるで正反対のことを口にする彼女に。
なぜだ?
俺は戦で闘うために防衛軍に入り、敵を斬るために刀を握った。
おまえは違うというのか?
「……一本だけだ」
ここで紫苑は初めて女性と剣を交える気になった。護るために闘うという彼女の剣筋を見てみたくなったのだ。
「うん! ──ってちょっと待ってよ。木刀じゃ真剣勝負にならないでしょ。そっちにして」
「……それこそ勝負にならないぞ」
腰の刀を指さして言う沙羅に眉根を寄せる。
「ばかにしないで。自分を過信しているわけじゃないけど、そこまで気を遣われるほど弱くもない」
まただ。またこの目をする。
普段の愛想笑いとはまるで異なる彼女の表情。
その濃紫色の鮮やかな瞳に一層の光を灯して。
「そこまで言うなら手加減はなしだ。──来い」
すらりと腰鞘から刀を抜き放って、紫苑は沙羅とまっすぐに向き合った。
*
沙羅と一太刀目を合わせた瞬間に紫苑は悟った。彼女の自信が単なる虚勢ではなく、確かな実力に裏付けされたものだということを。
「いい太刀筋だ」
「どうもっ」
紫苑の素直な感想に勝気な瞳で沙羅が答える。
本当に見事な闘い方だと思う。女性である以上如何ともしがたい非力さを、身のこなしと手数で上手くカバーしている。
だが、やはり男女の体力差は否めない。こんなギリギリの攻防を数分も続けていればさすがに息も上がってくるというもの。
「……そろそろか」
沙羅の表情から疲弊を見て取った紫苑は、力強く地面を蹴って彼女の側面に一瞬で回り込む。
完全に捉えた。そう思った。
首筋に剣先を突き付けて決着、そのはずだった。
ガキンッ
紫苑の一撃を沙羅は自らの刀で受け止めていた。だが、さすがに全ての衝撃は受け切れず刀が手から弾かれ大きく吹っ飛ぶ。
それが離れた地面に突き刺さったのを見て、沙羅はふっと笑みをこぼした。
「参りました。本当に強いのね」
両手を上げて降参のポーズを取る沙羅に、紫苑は「……いや」と首を振る。
「あそこで受け止められるとは思わなかった。見事な反応速度だったな」
「え……」
あれだけ追い詰められていながら、なお集中力を切らさない。技術だけでなく精神的にも鍛錬を重ねている証拠だ。
「太刀筋もよく精錬されているし、うちの隊員にも見劣りしない。侮るような言い方をして悪かった」
彼にしては珍しい、心からの賞賛だった。
それを受けた沙羅は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「……ありがとう」
──ああ、こいつは
まるで小さな蕾が力強く花開くように、鮮やかに笑うんだな──
思えばそれが彼女に対して初めて抱いた印象だったのかもしれない。
このとき、紫苑の内側には確かに沙羅に対する興味が芽生え始めていた。
「手」
「え?」
「右手を出せ」
「なに──っつ!」
半ば強引に腕を引くと、沙羅は痛みに顔をしかめた。
「あれ? 私いつこんな怪我──」
「……すまない。まさかおまえがあれほどの反応を見せるとは思わなくて剣閃が逸れた」
彼女の右の肘から手首にかけて切り裂かれた傷は、紫苑が勝負を決めようと放った最後の一撃によるもの。剣の稽古に怪我はつきものとはいえ、やはり女性に傷を負わせたとなると罪悪感も湧く。
すると沙羅は「なんだそんなこと」とばかりに軽快に笑い飛ばした。
「紫苑が謝ることないじゃない。むしろ良い意味で期待を裏切れてよかった」
「……本当に変わった奴だな、おまえは」
「沙羅」
「……?」
「おまえじゃなくて、沙羅」
急に真剣な顔つきになってこちらを見据えてくる彼女。
「そんなことか」
「そんなことじゃないでしょ! ちゃんと名前で呼んで。そうでもしないと紫苑っていつまで経っても名前覚えてくれなそうだもの」
「おまえのような奴なら嫌でもすぐに覚えるさ」
「……それって良い意味? 悪い意味?」
どちらだろうな。
自分でも疑問に思いながら、紫苑は手早く薬箱の蓋を閉じて立ち上がる。
「もうじき朝礼が始まるな。そろそろ中へ戻ろう」
「こら! 逃げないでよ!」
「逃げてないだろう。──行くぞ、沙羅」
さらりとその名を口にすると、彼女は呆気に取られて立ち竦んでいた。
自分で要求してきたくせに、何を驚いているんだこいつは。突っ込んでやろうかと思ったが、その直後沙羅の満面に浮かんだ笑顔を見て紫苑は言葉を失った。
「──うん!」
それはまるで
春の光を浴びて輝く大輪の花。
第一印象は特になかった
第二印象は
『花のように笑う女』──
***
《Shion Ⅰ……紫苑Ⅰ》
大切な君との、出逢い