Dear…【完結】   作:水音.

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【Side Story】 Shion Ⅱ ―紫苑Ⅱ―

 それから二週間が過ぎた。恒例の朝稽古を終えて詰所へと向かった紫苑は、引き戸の前でたむろしている数人の隊員と鉢合わせた。

 

「やっぱいいよなぁ~」

「まあ、おまえが熱を上げるのもわからなくはないな」

「だろ!? ──お、紫苑じゃねえか。よォ!」

 

 こちらを向いて陽気に片手を挙げる隊員の名は工藤といって、紫苑とはほぼ同期に近い間柄だ。それに軽く頷きを返して横を通り過ぎようとすると、工藤は「紫苑もそう思うだろ?」と話を振ってきた。

 

「なんの話だ」

「沙羅だよ沙羅! 可愛いしよく働くし気も利くし、ホントいい子だよなぁ」

 

 デレデレと目尻を下げて語る工藤に紫苑は嘆息する。普段まったくと言っていいほど女っけのない生活を送っているだけに、たまに女性隊員が入ってくると男たちはすぐに色めき立つ。

 

「あれだけの器量だもんなぁ。やっぱ男がいたりすんのかな」

「……興味ない」

 

 話をするのも面倒だと言わんばかりに一蹴して、工藤を退けながら詰所の引き戸を開いた。すると。

 

「あ、おはよう紫苑」

 

 真っ先に声をかけてきたのはまさに今話題に上っていた人物だった。

 

「ああ」

 

 何食わぬ顔で返事を返して、紫苑はじっと沙羅を見据える。

 確かに顔の造形は整っているのだろう。仕事ぶりも申し分ないし、剣の稽古にもよく励んでいる。

 そんな考えを巡らせながら見ていると、沙羅がつかつかと歩み寄ってきた。

 

「……だから『ああ』じゃないって言ってるでしょっ!」

 

 すぐ目の前まで迫ってきたかと思った途端──紫苑は沙羅にどつき倒されていた。

 

「何回言わせれば気が済むのよ! 人が挨拶してるのに『ああ』はないでしょ!」

「お、おい。沙羅」

「おはようって言われたらおはよう! こんにちはにはこんにちは! 子供だってできることだからね!」

 

 呆気に取られる萩谷や他の隊員たちなど気にもとめず、沙羅は紫苑にビッと指を突きつける。

 

「はい、おはよう紫苑!」

「……おはよう、沙羅」

「そうそう、やればできるじゃない」

「言わないとおまえがうるさくて敵わないからな」

 

 しれっとした顔で言い捨てれば沙羅は「可愛くないなぁ」と唇を尖らせたものの、その表情には笑みが浮かんでいた。

 

 つくづく変わった奴だ、と思う。

 決して社交的とは言えない──むしろ他者との関わりを最小限に留めようとしている自分に対しても、こんな風に物怖じせず真っ向からぶつかってくる。

 そしてまた、あの鮮やかな笑顔を見せる。

 

 先程工藤に「興味ない」と言ったのは事実だ。女として見ているわけではない。だが。

 

「沙羅。時間があるなら手合わせしてやるがどうする?」

「本当? やる!」

 

 ぱっと顔を輝かせて身支度を整える沙羅と連れ立って詰所を出る。

 女の身でありながら剣の道を登り詰めようという向上心は立派なものだ。そして彼女はそれに見合うだけの素質を持っている。

 そう、自分がこうして目をかけているのは、剣士としての沙羅の成長を促したいから。

 回を重ねるごとに頭角を現していく沙羅と刀を交えながら、紫苑はそんなことを考えていた。

 

 *

 

 沙羅との朝稽古が日課になるにつれ、紫苑の心境にも変化が見られた。

 否、本人はまるで自覚しておらず、たまに自身の心情に違和感を抱いても「気のせいだ」と決め込んでいたのだが。

 

 その日、紫苑はとうとう沙羅への想いを認めた。認めざるを得なかった。

 それは彼女に好意を寄せる同僚の一言から始まったのだった。

 

「なあ紫苑、おまえ最近よく沙羅と朝稽古してるんだって?」

 

 朝、顔を合わせるなりそわそわと声をかけてきた工藤。ここのところますます沙羅に熱を上げているらしい。

 

「ああ。それがどうした?」

 

 淡々とした口調で紫苑は答えた。別に後ろめたさなど感じない。確かに毎朝剣を交えてはいるが、単なる稽古だ。

 

「いや、いいんだ。ただちょっと頼みがあってさ。ほら、俺って沙羅とは班も別だし、なかなかふたりで話す機会ってないだろ? それでおまえからちょっと探りを入れてみてくんねえかなって」

「探り?」

「だから、男はいるのかとか、どんなタイプが好みなのかとか……」

 

 もごもごと照れながら話す工藤に、ふと、理由もわからずに、苛立ちを覚えた。

 

「くだらん。自分で聞けばいいだろう」

「えー! いいじゃねえかよ、ちょっとぐらい協力してくれたって!」

「面倒事は御免だ」

 

 吐き捨てるように顔を背ける。心臓の辺りで疼いているこの不快感はなんなのか。

 

「だから言っただろ、紫苑に頼むだけ無駄だって」

「ちぇー……」

 

 他の隊員に笑われた工藤はむすっと顔をしかめて黙り込む。が、暫しの沈黙のあと、意を決したように拳を握りしめて立ち上がった。

 

「いーよわかったよ、自分で聞けばいいんだろ! 決めた! 今夜沙羅を食事に誘う!」

「おー。頑張れよ、どうせ無理だろうけど」

「うるせえ! やってみなきゃわかんねえだろ!」

 

 仲間の野次にもめげずに奮い立つ工藤を、紫苑は素直に応援する気にはなれなかった。

 自分で聞けと言ったものの、いざ沙羅と工藤がふたりきりで食事をする場面を想像したら嫌気がさした。

 

 なぜ? 

 女としての興味はない。確かにそう思っていたはずなのに。

 

「色事に呆けている暇があったら少しは腕を磨いたらどうだ。うかうかしていると沙羅にも先を越されるぞ」

 

 必要以上に冷たい言い方になっているとわかっているのに止められない。

 

「う……それを言われるとなぁ。まあ稽古も頑張るって」

 

 にへら、と悪びれのない笑顔を向ける工藤への苛立ちも、止められない。

 自分でも正体が掴めない感情を持て余したまま、紫苑は足早にその場を立ち去った。

 その日一日紫苑の心が休まることはなかった。

 

 *

 

 夕刻、詰所に戻ってきた紫苑の耳に自分の名前が飛び込んできた。

 

「いや~世の中信じられねぇことも起こるもんだ。あの紫苑がなぁ!」

「俺がなんだって?」

「うおおぉっ紫苑!? いるなら言えよ!」

「今戻ったんだ」

 

 跳ね上がって驚いた隊員の隣には沙羅の姿があった。

 ふたりで自分のどんな話をしていたのだろう、と気にかけるよりも早く、紫苑の脳裏に今朝の工藤の言葉が甦る。

 工藤は沙羅を誘ったのだろうか? そして沙羅は──その誘いを受けたのだろうか? 

 じっと視線を注ぐと沙羅が「ん?」と不思議そうに見つめ返してくる。気づけば紫苑は口を開いていた。

 

「沙羅。このあと予定はあるか?」

 

 一体何を訊ねているのか。なぜ自分はそんなことを確かめようとしているのか。

 しかし沙羅からの返答は意外なものだった。

 

「ううん。今日の仕事は全部終わったけど」

 

 この言い方からすると、予定は何もないということになる。つまり工藤の誘いは断ったということだろうか。

 いや、見たところ工藤はまだ出先から戻っていない。もしかすると詰所に戻ってから誘うつもりなのかもしれない。

 なのに、なぜ。

 

「今から刀鍛冶の店へ行く。暇なら付き合え」

 

 なぜ俺は、沙羅を誘い出している? 

 まるで工藤から遠ざけるように。

 

「あっちょうど良かった! 私も研磨剤が切れてたんだ」

 

 なぜ俺は、こんなにも安堵している? 

 なぜ──

 

 鍛冶屋へ行くというのは本当だった。けれど沙羅を連れていこうと思っていたわけではない。

 そもそもあの鍛冶屋は紫苑にとって数少ない馴染みの店だ。誰かに教えようと思ったことすらないのだから。

 にも関わらず自分は今、鍛冶屋へと続く町外れのあぜ道を沙羅と歩いている。悶々と頭にまとわりつく葛藤にうんざりし、紫苑は思いきって訊ねた。

 

「本当に予定はなかったのか?」

「え?」

「工藤に……誘われなかったか?」

 

 我ながらもう少しまともな訊き方があるだろうと溜め息をつきたくなった。

 けれど仕方がない。紫苑当人でさえ今の自分の感情を正確に把握できていないのだ。

 

「工藤さん? ああ、ご飯食べようって?」

 

 そんな紫苑の苦悩をよそに、沙羅はけろりと返す。どうやら既に誘われていたらしい。

 

「誘ってもらったけど、断っちゃった。今月金欠でね」

「……そうか」

 

 罰が悪そうに肩をすくめる沙羅に、紫苑は今度こそ安堵の息を吐き出した。少なくとも工藤が誘う前に連れ出してしまったわけではないようだ。

 だが──『金欠だから』断った? 個人的な誘いなのだから、当然支払いは工藤が持つだろうに。その紫苑の疑問は次に続いた沙羅の言葉によって解消された。

 

「紫苑こそ行かなくて良かったの?」

「……なぜ俺が行くんだ」

「え? だってみんなでご飯食べるんでしょ?」

「……」

 

 どうやら工藤の誘いは本人の意図とは別の意味で受け取られていたらしい。

 がくりと肩の力が抜ける一方で、紫苑の中には別の疑問も湧いていた。

 もしも工藤の誘いが男女間のものだとわかっていたら、沙羅はなんと返事をしたのだろう。

 さすがにそれを問う気にはなれなかった。聞きたくなかったのかもしれない。

 顔を上げるとちょうど刀鍛冶の店が視界に捉えられる辺りまで近づいていた。それを機に紫苑は思考を中断し、「もう少しだ」と沙羅に告げて店までの道のりを急いだ。

 

 *

 

「おやおや、珍しく客が来たかと思えば──こんな綺麗なお嬢さんを連れてどうした? ここはデートスポットには向かんぞ」

 

 店内に入るなり軽口を叩いてきた刀鍛冶の老人に紫苑は思わず呆れ声をもらした。

 

「相変わらず口がよく回るじいさんだな。……うちの部隊の仲間だ」

「初めまして。草薙沙羅です」

 

 隣でぺこんと頭を下げた沙羅を、刀鍛冶は人の良い笑みを浮かべて迎える。

 

「なんだ恋人ではないのか。そりゃあ残念。まァいずれにしても紫苑がここに誰かを連れてきたのは初めてじゃ。何もないがゆっくりして行きなされ」

「ありがとうございます。町一番の刀匠さんにお会いできて光栄です」

「ははは! 面白い子じゃ。こりゃあ益々紫苑の連れ合いじゃないのが惜しまれるのう。どうだねお嬢さん? こいつは堅物だが顔は悪くないと思うんだが──」

「え?」

 

 さらりととんでもないことを言い出した刀鍛冶に、紫苑は慌ててふたりの間に割って入った。

 

「じいさん! くだらないことを言ってる暇があったら少しは手を動かしたらどうだ」

「そういうおまえさんもずいぶん生意気な口を叩くようになったもんじゃ。言われんでも手は動かしとるわい。ほれ。修理依頼を受けた刀、できておるぞ」

 

 なんとも愉しそうにそう言って刀鍛冶は壁にかけてある刀を顎先で示す。

 

「……それを先に言えよ」

 

 このじいさん、間違いなく愉快犯だ。

 内心で悪態を突いたものの、また突飛なことを言われてはたまらないと紫苑は壁の刀を手に取った。

 性格に若干の問題はあるものの、紫苑はこの老人の刀鍛冶としての腕には絶対の信頼を置いている。その信頼に違わず握りしめた刀は見事な出来栄えだった。彼に預ける前の、あのボロボロに刃こぼれした刀と同じものとはとても思えない。

 隣で覗き込んでいた沙羅もその出来には感激したようだ。

 

「すごい……」

「ああ。見ての通り腕だけは確かなじいさんだ」

「失礼な奴じゃのう。そんなことを言ってると後押ししてやらんぞ」

「……なんの話だ」

 

 この悪ふざけさえなければ素直に敬意を払う気にもなるのだが。

 にやりと含み笑いを浮かべる刀鍛冶に、紫苑は眉間に皺を寄せて「そんなことより支払いはいくらだ」と話を逸らした。それを見て刀鍛冶がますます面白がったのは言うまでもない。

 その後ひと通り店内の作品を見て回り、沙羅の目的の研磨剤も手に入れたところで、ふたりは店を後にした。

 

 *

 

「あー楽しかった!」

「なかなかいい仕事をする鍛冶屋だろう?」

「うん! 他の作品も見せてもらったけど、どれも業物みたいな逸品で驚いた。あんなに腕のいい鍛冶屋さんがこんなに近くにいたなんて!」

 

 帰り道、嬉々とした表情で語る沙羅に紫苑の頬も緩む。

 あまり他人には教えたくないとっておきの店だが、ここまで喜んでくれるのなら連れて行った甲斐もあるというもの。

 

「本当に行って良かった。刀の手入れの仕方なんかもすごく勉強になったし、それに──」

「……? なんだ?」

 

 言いかけたままこちらに視線を寄越した沙羅を見つめ返すと、彼女はくすくすと肩を揺らした。

 

「なんでもない」

 

 勿体ぶった言い方で身を翻し、先へ踏み出す沙羅。

 何を言いかけたのか気にならないわけではないが、きっと今はどう訊ねても答えないような気がした。ならばこの笑顔を見ているだけで、いい。

 そんな穏やかな時間が第三者によって中断されたのは、ふたりが町外れのあぜ道を抜けて大通りに差しかかったときだった。

 

「これはこれは。第三部隊の桐宮殿ではないか」

 

 唐突に背後で響いた声の主は振り返らずとも知れた。

 

「……杉原か」

 

 途端に声色が変わったのを自分でも感じながら、こちらに歩み寄ってくる元同僚を見遣る。

 彼──杉原とは防衛軍に配属されて間もない頃、同じ隊で剣の腕を競い合った仲だ。もっとも、彼のほうから一方的に対抗意識を向けられていただけで、紫苑はこれといって関心はなかったのだが。

 

「あれ、君は──先月第九部隊から転属になった子かい?」

「はい。草薙沙羅と申します」

「やはりそうか。私は第一部隊の杉原龍之介だ」

 

 杉原は紫苑の隣に佇んでいる沙羅に無遠慮な視線を向けると、大仰に胸を張って自らを名乗った。わざわざ「第一部隊」と強調するところがこの男らしいな、と思う。

 

「……貴部隊のご活躍はかねがね拝聴しております」

「ははは、そんなに恐縮しなくていいよ。面を上げてくれ。ところで──」

 

 丁重に応じる沙羅に気を良くしたのか、杉原は上機嫌に言いながらこちらへ視線を移した。

 

「相変わらず第三部隊でくすぶっているようだけど、最近調子はどうだい?」

 

 やはり来たかと紫苑は盛大に吐息を漏らしたくなった。

 この男ときたら顔を合わせればすぐにこの話題だ。自分がエリート部隊に属していることがよほど鼻が高いらしい。

 

「……悪くはない」

「へえ。それじゃあうちの部隊への転属も近いのかな?」

「…………」

「不思議だな。君ほどの実力があればうちの部隊に召集がかかってもおかしくはないはずだが。まあ女にうつつを抜かしているようではそれもやむなし──か」

 

 普段ならこの程度の嫌味は無言を貫いてやり過ごすのだが、今日は無性に(かん)に障った。

 原因はわかっている。沙羅を引き合いに出してきたからだ。自分はともかく沙羅にまで侮蔑の目を向けられたことがひどく不快だった。

 

「桐宮、私はまた君と肩を並べて闘いたいんだよ。どうかその期待を裏切らないでほしいものだね」

「勝手な期待を寄せられても迷惑だ」

 

 紫苑の静かな怒りを知ってか知らずか、杉原は取って付けたような笑みを浮かべる。

 

「そういうところは昔とちっとも変わらないな。まあいいさ、精々下級部隊で名を上げてくれ。──それじゃあ。邪魔して悪かったね」

 

 こちらに背を向けて去ってく杉原を、紫苑は射抜くような眼差しで見据えた。沸々と湧き上がる怒りが治まらない。が。

 自分よりももっと怒りを露わにしている人物が、すぐ横にいた。

 杉原の前でこそ平静を装っていたが、沙羅はいたく腹を立てていた。

 

「……何よあの言い方……偉そうにふんぞり返っちゃって……」

「沙羅」

「第一部隊が何よ……一体何様のつもり? あれで格好良いとでも思ってるの?」

「……沙羅」

「そもそも最前線はなりふり構わず斬り込んでいけばいいかもしれないけど、後方部隊は敵の反撃も対処しなきゃいけないし、前線のサポートもしなきゃいけないし、第一部隊なんかよりずっとずっと大変なんだから! それも知らないで大きな口叩くんじゃないわよ!」

 

 何度か呼びかけてみたものの、ちっとも彼女の耳には入っていないらしい。

 

「沙羅……少し落ち着け」

「なんで紫苑はそんなに落ち着いてるの!? 私じゃなくて紫苑が怒るところでしょ!」

「だからおまえが怒ることないだろう」

「紫苑が怒らないから怒ってるの! あの人、紫苑が第三部隊だからってばかにして! 第一部隊が何よ!」

 

 ぷんすかと肩を怒らせて激昂する沙羅。別に腹が立たなかったわけではないのだが、こうも素直に怒りを露わにする沙羅を見ていると逆に冷静になる自分がいた。

 胸の奥に固まっていたわだかまりが、いとも容易く溶けていく。

 

「落ち着けと言ってるだろ。……第一部隊への転属の打診は前から来ている」

 

 ふっと表情を緩めて告げると沙羅の動きが止まった。

 

「…………え? ……そうなの?」

「ああ」

「だったらなんでさっきそれを──」

「とっくに断った」

「えええっ!?」

 

 沙羅の素っ頓狂な声が街角で木霊する。

 

「断ったって……どうして? あのエリート部隊への誘いでしょ?」

「……別に俺は自分の腕をひけらかしたいわけじゃない。お前も言っただろう、最前線だけが戦場じゃない。俺たちにしかできないこともある」

 

 西の空を染める夕焼けに目を細めて、紫苑は沙羅を振り返った。

 

「それに俺は──第三部隊を気に入ってる」

 

 強がりでも詭弁でもない。素直な本音だった。

 それを聞いた沙羅は嬉しそうに笑う。

 

「そっか……。うん、そうよね」

 

 夕日を浴びるその微笑みは、まるで黄昏に色づいた大輪の花のように。

 

 ああ、やはりそうだ。

 この笑顔を見ているだけで、苛立っていたはずの心が鎮まっていく。

 全てが満たされた心地になる。

 

 彼女は気づいているだろうか。

 自分が気に入っていると告げた第三部隊。そこには、もはや草薙沙羅という存在が必要不可欠なのだということを。

 

「でも不思議。どうして紫苑ってそんなに冷静でいられるの?」

「どうしてと言われてもな……。いちいち怒る気にもならないだけだ」

「本当に? 何を言われても腹立たない?」

「ことと次第による」

「ふぅん……」

 

 何やら興味深い顔をして考え込んだ沙羅に、紫苑は直感的に嫌な予感がした。

 

「紫苑のバカ。アホ。冷血漢」

「…………」

 

 やはりそうきたか。

 

「カタブツ。無愛想。朴念仁。人でなし」

「……おまえな」

「悔しかったらちょっとは言い返してよ。そこで黙ってるから相手がつけ上がるんじゃない」

「別に悔しくはないんだが」

「いいから! 何か言い返してみて!」

 

 こんな子供じみた悪口を言われてもちっとも腹は立たないのだが、それでは沙羅は納得しないようだ。要は何か言い返せば済むわけで。

 

「ババ沙羅」

 

 腰に手を当ててこちらを見据えている沙羅に、正面から放った。

 

「……バ……っ」

 

 沙羅は目を見開いて絶句している。これで気が済んだかと紫苑が歩き出した──直後。

 それはそれは激しい雷が落ちた。

 

「ババ!? ババって言った今!? 紫苑に言われたくないわよ! そっちのほうが年上じゃない! オヤジ! 中年! ヨボヨボ!」

「おまえが言い返せと言ったんだろ……」

「だからってそんなこと普通言わないでしょ! なんでよりによってババ!? 信じられない! 紫苑のバカ! アホ! 人でなしー!」

「わかった……俺が悪かった。頼むからそれ以上叫ぶな……」

 

 突き刺さる周囲の町人たちの視線にうなだれながら沙羅を宥める。

 これだから女の心理はわからない、と思うものの。一方でこうも素直に感情を表現できる沙羅を羨ましいとも思った。

 だからこそ自分は彼女に惹かれるのかもしれないとも。

 

 俺だって、別に怒りが湧かないわけじゃない。

 ただおまえといると、心が妙に揺さぶられて

 くるくると変わる表情から目が離せなくて

 そんな些細な怒りなんて、すぐに吹き飛んでいくんだ──

 

 

 どうにか沙羅の怒りを治めて、彼女の自宅までの道のりをゆっくりと辿った。

 普段よりもずっと遅い歩調になっているのは沙羅に合わせているからではない。自分が一秒でも長くこの道を歩いていたいと思っているからだ。

 

「どうした?」

 

 急に立ち止まった沙羅を振り返ると、その視線は街路からは少し外れた空き地へと向けられていた。

 切り開かれた平原の中央に、巨大な一本の木が佇んでいるのがここからでも窺える。

 

「立派だね──あんなに大きいの初めて見た」

「なんの木だ?」

「見てわからないの? 桜の木!」

 

 確かに立派な木だった。幾重にも伸びた枝には無数の蕾が芽吹き、少し春風が吹けば今にも咲きこぼれそうなほど。

 

「……あの様子だと開花までもう少しよね。きっと綺麗なんだろうな」

 

 眩しそうに目を細めて桜を眺める沙羅を見て、ならば見せてやりたいと、そう思った。

 

「じゃあ開花したらここで花見でもするか」

 

 なんとなしに告げてはっとする。これではいかにもな誘いかけじゃないか。仕事帰りに鍛冶屋に立ち寄るのとはわけが違う。

 小さく息を呑んでこちらに顔を向けた沙羅を直視できず、紫苑は桜を見つめたまま何食わぬ表情を装った。

 

「うん!」

 

 弾んだ声がすぐ隣から返る。

 実際にはほんの一瞬だったのだろうが、沙羅が笑顔で頷くまでのこの時間が紫苑には異様に長く感じられた。

 それと同時に込み上げる安堵。くすぐったいような不思議な感覚が胸中に広がっていく。

 

「約束ね」

「ああ」

 

 屈託のない笑みを浮かべる沙羅につられて微笑んだ。

 自分が笑っていることを自覚したのは何年ぶりのことだろう。いや、もはや記憶にすら残ってはいない。

 ただひとつ確かなことは、それは隣に沙羅がいるからだ。

 

 凛と佇む桜を眺めて、紫苑はこれから毎朝この道を通ろうと決めた。

 春の温かな日差しが一日も早くこの桜の蕾を膨らませることを願って。

 

 

 もう言い訳は必要ない。

 自分を誤魔化すための建前も、ここまできては意味がない。

 

 稽古にかこつけて何かと目をかけているのも

 沙羅への好意を素直に表す工藤に苛立ちを覚えたのも

 馴染みの鍛冶屋にわざわざ連れて行ったのも

 普段なら気にも留めないはずの杉原の嫌味が癇に障ったのも

 理由づけるとしたらたった一言で十分だ。

 

 

 俺は

 

 沙羅のことが……

 

 

 

 第一印象など特になかった

 

 第二印象は、『花のように笑う女』

 

 

 そして、その笑顔に触れ

 

 その温もりに触れ

 

 いつしか俺は、君に恋をした──

 

 

 

 ***

 




《Shion Ⅱ…紫苑Ⅱ》

 近づく距離。

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