「あっいたいた! どこ行ってたのよー! 今日はあんたの昇格祝いするって言ったじゃない」
現世から戻ってきた沙羅を出迎えたのは乱菊の甲高い声だった。
「ごめんごめん。午後は休暇をもらったからちょっと現世まで息抜きに行ってたんだ」
顔の前で手を合わせる沙羅に、乱菊はキラリと目を光らせる。
「な~に? ちょっと前までは現世に行くの面倒くさがってたくせして。なにかいいことでもあったんでしょ? なに? なんなの!?」
「別になにも──」
「嘘よ、ぜぇーったい嘘! ねえどうしたの? さては向こうでイケメンでもゲットしたわけ? 教えなさいよねえ~!」
「やっ、乱菊やめ──きゃははは! ちょっ、くすぐるのはナシ! ねえ、あはははっ! ちょっと!」
執拗に問いただしてくる乱菊から沙羅は笑い泣きしつつも辛うじて逃れる。
「もー! やめてってば!」
「ちっ……しぶといわね。いいわよ。なにがあったのかまでは聞かない。でも──悪いことじゃないのは確かなんでしょ?」
気遣いの入り混じった瞳を向けてくる親友に、沙羅はふわりと笑って頷いた。
途端。
「……やっぱりなにかあったんじゃない……」
「ひゃあっ! 卑怯者ー!」
指をコチョコチョと動かして迫ってくる乱菊に身の危険を感じ沙羅は悲鳴をあげて逃げだす。
「……まあいいわ。吐かせるチャンスなんていくらでもあるしね。今夜は記憶飛ぶほど飲ませるから覚悟しなさいよね~」
そう言って黒い笑みを浮かべる乱菊に、沙羅は冷や汗を垂らしてあとずさった。
「私……ちょっとお腹が痛いかも……」
「副隊長が腹痛くらいでグダグダ言ってんじゃないわよ。さ、行くわよー!」
「いーやぁーー!!」
有無を言わせぬ気迫の乱菊になすすべなく連行されていくのであった。
*
一方その頃、
「よォ。遅かったじゃねぇか。クソ真面目なてめえが帰還予定時刻を過ぎることもあるんだなぁ?」
そう言いながら近づいてきた水浅葱の髪の男は、ウルキオラの目の前まで来るとにやりと口の端をあげた。
「聞けば最近ずいぶんと現世に入り浸ってるらしいじゃねえか。なにか面白い獲物でも見つけたのかよ?」
「……なんの用だ」
己とは正反対の位置に宮を持つこの男が、用も無しにこの辺りをうろつくとは思えない。
極めて無駄を省いて返事を返したウルキオラに、彼──グリムジョーはチッと舌を鳴らすと用件を告げた。
「藍染サマがお呼びなんだよ。……新しい任務だ」
*
「お帰り、ウルキオラ。帰って早々呼び立ててすまないね」
「……この身は藍染様とその御心のために存在するもの。お望みとあらばいついかなるときでも参ります」
淡々とそう告げると隣のグリムジョーは「けっ」と低く吐き捨てたものの、藍染は満足げに頷いた。
「ありがとう、心強いよ。さてウルキオラ、早速で悪いが君を見込んで新たな任務を与えたい」
「はい」
「今回の任務はグリムジョーと組んで当たってもらう。最近現世で我らのことを嗅ぎ回っている死神がいるようでね……少々目障りなんだ」
ざわり、と。
胸が騒いだ。
「死神、ですか」
「ああ──悪い芽は早いうちに摘んでおくに越したことはないだろう?」
ふ、と笑みを零した主からは微塵の切迫性も感じられなかった。
恐らくはそこから生じる弊害など毛ほどもないのだろう。
ただ、目障り。それだけの理由で。
「最近君には現世での任務を多く与えていたから、他の者に比べて地理にも詳しいだろうと思ってね。なに、数も霊圧も大した規模じゃない。君とグリムジョーのふたりで行けば十分だろう」
藍染は気づいているのだろうか。
揺れ惑う翡翠の瞳に。
無意識に握りしめた拳に。
否、気づかれてはならない。
破面が、十刃が、創造主である彼の意を遂げることに躊躇するなど、あってはならない。
「動きはすでに掴んである。次に奴らが現世におりるのは明日だ」
そこまで告げて、目の前の主は艶然と微笑んだ。
いつもと寸分たがわぬ穏やかな声音で。
「ウルキオラ──不運な死神どもを始末してきてくれ」
*
「頭痛い……」
昇格祝いと称した大宴会のその翌朝、自室の姿鏡を前にのそのそと死覇装に袖を通しながら沙羅は顔をしかめていた。
「んん……沙羅~?」
ふとベッドを陣取っていた乱菊が寝ぼけ
「もう起きるのぉ? せっかくの休みなんだからゆっくり寝ようよー……」
「乱菊と違って私は任務なの! ……イタタタ」
大きな声をあげると同時に脳を突き刺すような痛みが襲い頭を押さえる。
昨晩、乱菊を幹事として催された沙羅の昇格祝いの席には十三番隊の面々はもとより、霊術院時代の同期を始めとした仲間たちが駆けつけ、大規模なドンチャン騒ぎは明け方近くまで続いた。
祝ってもらえることは純粋に嬉しいが、翌朝早くから任務を抱える主役にとっては正直、つらいものがある。
「なに……あんた今日任務だったの? 早く言えばよかったのに」
「だから何回もっ……いつつ……」
再び声を荒げて、呻く。
もはや気分は最悪だ。胃の調子も。
「いいじゃない、少しぐらい遅れたって構やしないわよ。もうちょっと寝たらぁ?」
「そんな無責任な副隊長がどこにいるのよ……。今日は現世での任務だから時間厳守なの」
皮肉をこめて返したつもりだったが、眠そうに枕を抱きかかえる乱菊は別の言葉に反応した。
「現世? へぇ~、また現世に行くの」
「……今日は任務だってば」
「今日は? あ、そう。今日は任務。んじゃ任務以外で行ってるときはなんなのかしら?」
ニタリと目を光らせて体を起こす乱菊に、沙羅はしまったと
昨夜は乱菊が先に酔いつぶれてくれたおかげで追及を免れたものの、好奇心の塊のような彼女がそう易々と諦めるわけがない。
「さあ、沙羅ちゃん? ゆっくり聞かせてもらおうかしら……」
「ああっもうこんな時間! 私もう行くから出るときは鍵閉めていってね! それからテーブルの上に朝ご飯あるから! 行ってきまーす!」
「コラ! 待ちなさいっ!」
逃げるが勝ち、とばかりに沙羅は部屋を飛びでた。
「……言えるわけないじゃない。破面と会ってるなんて──」
かすかな呟きは春の朝焼けにのまれて消えた。
*
「──よって今回の任務は、観測地における虚の霊圧濃度の調査、並びに前回データとの変動幅の分析が目的となります。なにか質問のある者は?」
任務の概要の説明を終え目の前に整列する隊士の顔を見渡した沙羅に向けて、そのうちのひとりが手を挙げた。
「あの……万が一任務中に虚や破面と接触した場合はどうすればいいでしょうか」
緊張気味の面持ちでそう告げたのは、昨年霊術院を卒業し十三番隊に配属されたばかりの新人隊士の少女。
「今回の任務はあくまで調査データの取得を目的とします。従って、不要な争いは避けるべき。ただしその虚が任務遂行に支障をきたす場合、または現世の魂魄に
「は、はいっ! 了解いたしました!」
ビッと背筋を伸ばして敬礼した少女に、沙羅は目元を和ませた。
不思議なものだな、と思う。
少し前までは自分があの少女の立場だったというのに。
隊士になって間もない頃、失敗ばかり繰り返してよく海燕に怒られていたのを思いだす。
そして、その度に彼がかけてくれた言葉も。
ポン、と少女の肩に手を置いて沙羅は笑った。
「大丈夫。あなたはひとりじゃないんだから。この十三番隊の全員があなたの味方だよ」
──心配すんな、オメーはひとりじゃねえ。ウチの隊士全員がオメーの味方だよ──
力強い微笑みに、少女はぱぁっと笑顔を浮かべ、頷いた。
海燕先輩。
あなたの存在をあまりに誇大視する私に気を遣ってか、みんなは「海燕副隊長のようになる必要はない」と言ってくれるけれど。
私はあなたのようになりたいんです。
強く、優しく、誇り高く
そして誰よりもこの十三番隊を愛して止まなかった、あなたのように。
「調査は四人一組で行います。不測の事態が起きた場合は速やかに伝令神機で連絡すること。──以上、各自現世へおり次第任務開始!」
ひときわ高い声で沙羅が宣告すると、隊士たちは拳を掲げて
そうして最後のひとりまで見送った沙羅もまた、すっと表情を引きしめると現世へと続く穿界門を一歩踏みだした。
*
「藍染の話じゃ死神どもは空座町っつーとこに現れるらしいな。……ってオイ。聞いてんのかよ?」
久々の現世任務に上機嫌なグリムジョーは、隣で瞼を閉じて
が、当の本人はそれには答えずじっと辺りの霊圧を探っていた。
今のところ目標の死神らしき霊圧は感じとれない。
情報が誤りであったのならそれでも構わない。
そうしてこのままこの場を去れたら──どんなにいいか。
「……空座町はこっちだ」
空座町。
その町外れにはあの桜の公園も存在する。
彼女と幾度となくまみえた場所。
重い体を翻し、グリムジョーと共に
その瞬間だった。
ズオォォォォ──……
「へっ……おいでなすったみてぇだな」
今まさに向かおうとするその方角に、突如として現れた複数の霊圧。
愉しそうに口元を歪めたグリムジョーとは対照的に、ウルキオラは全身の血が凍りつくのを感じた。
どうか
どうか彼女であってくれるな
祈りにも似た呟きを胸に、それでも響転の速度は緩めずに霊圧が集うその場所へと進む。
次第に目的地が近づくにつれ、頭の中を言いようのない悪寒が埋めつくす。
だが、もし
もし、向かう先にいるのが彼女だったら?
俺はあいつを
殺すのか…………?
明確な答えを導きだすこともできないままウルキオラはその場所に辿りついた。
開けた視界に飛びこんできたのは、四つの死覇装。
なにやら小型の探知機のようなものを地中へ埋めこんでいる最中だった。
「──誰だ!」
即座に振り返った三人の死神の背後で、長い髪が風に揺れた。
どくん、と
鼓動が跳ねあがった。
「…………破面!?」
髪をなびかせて振り返った死神は、その瞳に二体の異様な影を捉えると顔をみるみる恐怖に染めた。
その瞬間、金縛りに遭ったかのような体の拘束がふっと解かれる。
……違う。
彼女じゃない。
後ろ姿こそよく似ていたものの、その面持ちは彼女よりもずっと幼い少女のものだった。
「どうして破面がこんなところに……」
「あァ? てめえらがチョロチョロ嗅ぎ回ってっから来てやったんだろーが。…………殺しにな」
ニィ、と猟奇的な笑みを見せるグリムジョーに対する死神の反応は早かった。即座に斬魄刀を解放し、身構える。
その後ろでは一歩後れを取った少女もまた果敢に斬魄刀を構えていた。
「せいぜい楽しませてくれよ」
グリムジョーの呟きとともに衝突は始まっていた。
ガキン、と激しい金属音が鳴る。
ふたりの男が一斉に振り下ろした斬魄刀を受けとめ、グリムジョーはそれを難なくはじき返した。
一方のウルキオラには残ったもうひとり、彼らの中のリーダー格らしき男が斬りかかる。
自らの剣を繰りだすまでもなく、ウルキオラはその剣撃を右腕で止めた。
「──破道の三十一、
声高な詠唱が響くと同時にチリ、と左腕に熱がはしった。
しかし少女が放った鬼道はウルキオラに火傷ひとつ残すことはなかった。
「そんな……」
青褪める少女の背後で「ぐあっ」と奇声があがる。
見ればグリムジョーに挑んでいた男のひとりが胸板を貫かれて口から血を噴いていた。
死神たちは理解する。
目の前に立ちはだかる相手との、絶望的なまでの力の差を。
「──
リーダーの男が決断をくだすのは早かった。
咄嗟に少女を振り返って退却を指示し、自らは再びウルキオラに斬りかかる。
「で、でも……!」
「俺たちのことは構うな! いいから行け!」
この凶悪な敵を前にしては、全員で戦線を離脱するのは極めて困難。
ならば年若いこの隊士だけでも。
無限の未来があるこの少女だけでも──
「できません! 先輩を置いてそんな──!」
「心配するな。すぐに追いつく」
菜月と呼ばれた少女は首を振って与えられた指示を拒否した。
そんな彼女に、リーダーの隊士は優しく微笑む。
彼らの新しい副隊長がいつもそうして勇気づけてくれるように。
「俺たちを信じろ。──さあ行け!」
だがそれは儚くも彼の最期の笑顔となった。
「……なにをもって信じろと?」
ウルキオラが剣を振り下ろしたその先で、血飛沫が舞った。
ゴトン、と力を失った体が音を立てて沈みこむ。
「あ…………」
「ぐっ……菜月っ! 早く逃げろ!」
事切れた上官に呆然とする少女に、グリムジョーと打ち合っている男が叫ぶ。
けれど弾かれたように駆けだした少女の眼前を鋭い刃が通過しそれを制した。
ウルキオラの刀剣の切っ先は少女の胸元をかすめ、白い柔肌に一筋の鮮血を滲ませる。
「ひっ……」
はらりとはだけた死覇装を押さえもせず、少女は間近に迫った死の恐怖に打ち震えた。
「……せめて一撃で殺してやる」
感情を押し殺した瞳で告げる。
だが腕を振り抜こうとしたそのとき、ウルキオラは少女の胸元に釘づけになった。
はだけた死覇装の内側に、見覚えのある花の紋様。
『ジャーン!』
副隊長になったんだ、と笑った彼女が得意げに見せた、副官章に刻まれた花と同じ──
この娘は、彼女の隊の……
「ふく、ちょ……草薙副隊長……」
死を目前にした少女が祈るように呼ぶのは、任務前、緊張のあまり硬くなっていた自分に聖女のような微笑みをくれた人。
いつも優しくて、温かくて。
十三番隊に配属されたときからずっと、憧れの人だった。
その人が副隊長になると知り、あんな素敵な人の下で働けるのならこんなに幸せなことはない──そう思った。
「……っ」
彼女を呼ぶ少女を前に、ウルキオラに迷いが生じる。
この娘を斬れば彼女が哀しむ。
だが斬らなければ主の命令に反することになる。
だが
だが──
「なに遊んでやがる。さっさと始末しろよ!」
最後の男を斬り捨てたグリムジョーが苛立ち混じりに言うと同時に、ゴゴゴ……という重低音が響きわたり辺りの空間が歪んだ。
「これは──穿界門!」
背後に現れた異質の空間に少女は顔を輝かせた。
ふと倒れた上官を見ると、その手には伝令神機が握られていた。
彼は退却を指示してから斬り落とされるまでのあの刹那の間に退却援護要請を出していたのだ。
即ち、尸魂界側から穿界門を開き隊士たちがすぐに退却できるようにと。
「ウルキオラ!」
瞬時にグリムジョーが声をあげた。
しかしそれよりも早く少女は瞬歩で跳んでいた。
わかっている。
今ここでこの少女を殺さなければ、敵に自分たちの情報を丸ごとくれてやることになる。
そんなことは許されない。
そう考える頭の中を彼女の笑顔がちらついた。
遥か彼方の時から、彼がずっと呼び続けていた人の、笑顔が。
だめだ
殺すな
彼女を傷つけたくない
拒絶する理性に対し、己を構成する虚の本能は容赦なく浸食を開始する。
殺シタイ
ソノ小サナ身ヲ引キ裂イテ、生温カイ血ヲ浴ビタイ
殺セ
殺セ
コ ロ セ ! !
意識とは切り離された世界で獣のような声が聞こえた。
気づいたとき、ウルキオラの足元には動きを止めた少女の体が血の海に横たわっていた。
頬を
ああ
俺はもう、人間じゃない
人の心を失ったケダモノだ
だから、沙羅
もうあの頃のようには戻れない
君を愛したあの頃のようには
もう二度と──
***
《Mission…課せられた使命》
『ヒト』の理性は『ケモノ』の本能にのみこまれた。