Dear…【完結】   作:水音.

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紫苑視点過去編、後半。


【Side Story】 Never Forget You Ⅰ ―君を忘れないⅠ―

 想いを重ねてからの時間は全てが幸せに満ちあふれたものだった。

 

「しーおーんー!」

 

 満開に花開いた桜の木の枝に寝転んでいた紫苑は、自分を呼ぶ声に薄目を開いた。眼下を見下ろせばこちらを見上げる恋人の姿がある。

 

「やっぱりここにいた」

 

 ふわっと軽やかな笑みを向ける沙羅を見て、紫苑は口元を綻ばせながら身体を起こして桜の枝から飛び降りた。

 

「よくわかったな」

「鍛錬場にいなかったから、こっちだろうなって。紫苑もすっかりここが気に入ったんだね」

 

 眩しそうに桜の花を眺めて話す沙羅に倣って、紫苑も頭上を仰ぐ。枝先いっぱいに薄桃色の花を散りばめた一本桜は見事な美しさを誇っていた。

 

「そうだな。花などなんの意味もないと思っていたが……こうして眺めるのも悪くない。この桜を見ていると、気が安らぐ」

 

 桜を見上げながら呟いた紫苑は隣で沙羅がくすりと笑ったのに気づかなかった。出逢った頃の彼からはおよそ想像もつかない台詞だが、おそらく本人は自覚していないだろう。

 

「今日は早番だろう? ずいぶん遅かったな」

「うん。明日の分まで資料の整理してきたから、ちょっと時間かかっちゃった」

「明日何かあるのか?」

「もう忘れたの!? 今朝工藤さんに誘われたじゃない、明日の夜みんなでご飯食べようって!」

「……ああ、そうか」

 

 沙羅に非難の視線を向けられ、そういえばと相槌を返す。これまでは仲間からの誘いを断りがちだった紫苑も、ここ最近では沙羅に引っ張られる形で同行することが増え、そうした飲みの席に参加するのも珍しいことではなくなっていた。

 

「もう、工藤さんに怒られるからね? 絶対に来いってあんなに念押ししてたんだから」

「あいつは俺に絡みたいだけだろ……」

「あはは、それだけ紫苑のことが好きなんでしょ」

「俺のことが、じゃない」

「え?」

 

 紫苑と沙羅の関係は今や第三部隊の中では公認となっている。その発端となったのは他ならぬ工藤だった。ふたりの進展にいち早く気づき、仲間の前で盛大に祝福してくれたのだ。

 と、ここまではなんとも人の良い工藤であったが。

 飲みの席で酔いが回ると「沙羅は俺が狙ってたのによぉ~!」などと喚いて紫苑を羽交い絞めにしてくる。それを冗談だと思ってけらけらと笑って眺めている沙羅は、その腕に並々ならぬ力が入っていることに気づいていない。

 明日もまた絡まれるのか──と内心でうなだれながらも、沙羅の前では曖昧に流すしかない紫苑であった。

 

 

「あ。そうだ紫苑、今日まだ時間ある?」

「ああ。どうした?」

「おじいさんの店に付き合ってほしいんだ。刀のお礼も言いたいし」

 

 すぐに頷いてくれるだろうと思われた紫苑は、沙羅の予想に反して難しい顔をした。

 

「都合悪い?」

「いや、付き合うのは構わないが……」

 

 いつになく歯切れが悪い。だがそのあとの台詞は続かず、結局明確な理由を語ることなくふたりは刀鍛冶の店の前まで辿り着いた。

 

「俺はここで待ってる」

 

 店先に着くなり、紫苑はそう告げて店の外壁に背をもたれる。

 

「え? どうして?」

「今のところ必要な物もないしな。行く意味がない」

 

 だからといってわざわざ店の前で待たなくても、と沙羅が頭に疑問符を浮かべていると「いいから行ってこい」と急き立てられた。何かあの老人と顔を合わせにくい事情でもあるのだろうか。

 不可解な紫苑の言動の理由を、沙羅は刀鍛冶本人の口から知らされることとなった。

 

「はっはっは! あいつめ、何を照れとるんだか」

「え……?」

 

 事情を聞くなり豪快に笑い飛ばした刀鍛冶は、悪戯っぽい笑みを浮かべて沙羅の顔を覗き込んだ。

 

「おまえさんたち、恋仲になったんじゃろう?」

「えぇっ! なんでそんな……っ」

「わかるさ。おまえさんのその刀」

「あ……」

 

 刀鍛冶が指差したのは、先日紫苑から贈られたばかりの真新しい刀。精巧な造りのその刀は他でもないこの老人が打ち上げたものだ。

 

「前回おまえさんたちが帰ったすぐあとじゃ。紫苑の奴、ひとりで息を切らして戻ってきたかと思えば『急いで刀を打ってくれ』などと言いおってな」

 

 前回、というとふたりが想いを通わせる前になる。紫苑が鍛冶屋に忘れ物をしたと言って待たされたあの日だ。

 

「おまえさんも知っておるだろうが、通常刀をこの状態から打ち始めたら完成までに一月はかかる。それをあやつ、一週間で仕上げろなどと注文をつけてきおった」

 

 店の傍らに置いてあった鋼の塊を手に取りながら語る刀鍛冶を見て、沙羅の中で全ての疑問が繋がった。

 何気なく誕生日を告げたあのとき、紫苑はもう想いを伝える覚悟を固めてくれていたのだろう。

 

「そうだったんですか……」

「ああ。まあ、十中八九おまえさんに贈るものだろうと思って握りを細めに打ったんだが、正解だったようじゃな」

「はい。すごく持ちやすくて驚きました。刀身も軽くて、振っても全然疲れないし──こんな立派な刀を打ってくださってありがとうございます」

「なんの。礼を言うのはわしのほうじゃよ。久々にいい仕事ができた」

 

 満足げに頷いた刀鍛冶はすぐにニヤリと含みのある笑みを浮かべる。

 

「それにあやつからはたっぷり報酬をふんだくってやったしのぅ」

「……あ、あの……この刀っておいくらぐらい……?」

「それはわしの口からは言えんな。ほれ、男の面子というもんがあるじゃろう? ……まあ粗末な家一軒くらいなら簡単に建てられるとでも言っておこうかのぅ」

「………………」

 

 みるみる青褪めた沙羅を面白がるように見遣っていた刀鍛冶は、その後「ひとつ良いことを教えてやろう」と前置いて、沙羅に紫苑の念込めのいきさつを話して聞かせた。

 

『斬る刀ではなく、護る刀であるように』

 

 紫苑の願いと、そこにこめられた並々ならぬ想いを。

 

「よほどおまえさんのことが大切なんじゃろうな」

「……きっとその意に沿えるような刀にしてみせます」

「ああ。紫苑も喜ぶじゃろう」

 

 嬉しそうに顔を綻ばせる刀鍛冶に、沙羅は強い決意を滲ませて頷く。

 

「……して、わしからも聞きたいことがあるんじゃが──」

「はい?」

「紫苑の奴、一体なんと言っておまえさんを口説いたんじゃ?」

 

 真剣な面差しが一転、爛々とした目で訊ねてくる刀鍛冶に沙羅は思わずむせ込んだ。

 

「な、なんでそんなこと聞くんですか!」

「いや、あの堅物がどう迫ったのか気になってのぅ」

「どうって……それは、ちょっと」

「いいじゃろう、減るもんでもなし。ほれ、ちょうど紫苑もいないしな」

「で、でも……」

 

 しどろもどろになる沙羅にはお構いなしに刀鍛冶は畳みかける。

 

「告白の場所はどこだったんじゃ? あやつにはデリカシーというもんがないからのう。ムードもへったくれもない場所を選ばないとも限らん」

「いえ、そんなことは……」

「そうか? そもそも贈り物に刀を選ぶ時点でなっとらんと思うが、まぁ過ぎたことを言っても仕方ない。うまくいったのはわしの念込めのおかげじゃろうな。それで? 台詞は?」

「台詞って……」

「とぼけなさんな。いかにあやつでも気の利いた台詞のひとつやふたつは言ったのじゃろう? わしゃあそれを聞くのを楽しみに待っていたんだからのう」

 

 ここで沙羅はようやく紫苑が店先で待つと言って聞かなかった意味がわかった気がした。

 白い顎ヒゲをさすりながら詰め寄ってくるその瞳には、子供も顔負けの好奇心が満ちあふれている。悪意こそないものの面白がっているのは明白だ。

 

「紫苑がついてこなかったのは好都合じゃ。ほれ、今のうちに吐いてしまえ。あやつはなんと言ったんじゃ?」

(助けて紫苑~~~!!)

 

 無論沙羅に刀鍛冶の猛攻を切り抜けるすべなどなく、痺れを切らした紫苑が店内に踏み込んできたときには大方の顛末を話してしまっていた。

 

「そうかそうか、あの紫苑がのう。そんな一端のことも言えるようになったとは」

「……じいさん、あんたの自慢の刀の切れ味、自分で試してみるか?」

「おー怖い怖い。まったく恩知らずな奴じゃのう。誰のおかげでうまくいったと思っとるんじゃ。そうは思わんか沙羅?」

「お、おじいさん、悪ふざけはそれくらいに──」

「おっと。大事な恋人を呼び捨てたら怒られるかな?」

「…………」

 

 慌てる沙羅を尻目にこれでもかとばかりに紫苑を冷やかした刀鍛冶は、帰り際まで終始上機嫌でふたりを見送った。

 

「……だから行きたくないと言ったんだ。大体おまえが余計なことをぺらぺらと喋るから……」

「ごめんってば~」

 

 おかげで沙羅は帰路の道中ふてくされた紫苑を宥める羽目になったのであった。

 

 

 *

 

 数日後、紫苑は不本意ながらも再び刀鍛冶の店を訪れていた。というのは沙羅の刀を仕上げてもらうためである。

 たった一週間で形状・性能ともに非の打ちどころのない刀を打ち上げた刀鍛冶だが、刀の研磨の最終工程である「仕上げ砥ぎ」にもう一日だけ時間がほしいと沙羅に願い出ていた。そこでしばらく日勤が続く沙羅に代わって非番の紫苑が刀を持ってきたのだ。

 

「じいさん、いるか」

「おお来たか。せっかくの休みをすまんの」

 

 さすがの刀鍛冶も冷やかしは気が済んだらしく、紫苑から刀を受け取るとすぐさま作業に取りかかる。しかしその後の会話の中で刀が誕生日の贈り物だったことを明かすとピクリと眉根を寄せた。

 

「なんじゃ、じゃあ結局誕生日にはこの刀しか贈っとらんのか?」

「……仕方ないだろう。それ以外にあいつに合うようなものが思い浮かばなかったんだ」

「紫苑、相手は女性じゃぞ? 指輪のひとつでも贈れば大層喜んだろうに」

 

 大仰にため息をこぼす刀鍛冶に紫苑はむっとして言い返す。

 

「馬鹿言え、指輪なんてつけていたら刀を握る感覚が狂う。そんなものを沙羅に贈れるか」

「おまえさんは本当に女心をわかってないのう。指輪に限らずともいくらでもあるじゃろうが。装飾品を贈られて悪い気のする女性なぞおらんぞ?」

「…………」

 

 組んだ脚の上に片腕で頬杖をついたまま紫苑は黙り込んだ。自分の選択が間違っていたとは思わないが、刀鍛冶の言うこともあながち否定できない。

 その後もなんだかんだと発破をかけられ、しまいには「さっさと彼女に会いに行って求婚せい」などと言われる始末。

 

「あの子は器量も良いし、とても優しい子だからのう。うかうかしていると他の男に横から奪われないとも限らんぞ」

「……」

 

 無意識に拳に力をこめたのは図星だったから。

 第三部隊の中で沙羅に想いを寄せていたのは何も工藤だけではない。その工藤の働きかけで周囲に公認の仲とはなっているものの、いまだ沙羅への未練を断ち切れていない者も多くいるだろう。

 

「男と女が結ばれるのに時間は関係ないもんじゃよ、紫苑。それに──大事なものがあるなら、少しでも手が届く場所で護ったほうがいい。こんな荒れた時代じゃ、いつ失ってしまうかもわからんのじゃからな……」

 

 どことなく物哀しさを滲ませた横顔で刀鍛冶は呟いた。自身のことについて多くは語らない彼だが、きっと長い人生の中で幾多の哀しみをその身に受け止めてきたのだろう。

 

「……言われなくても護るさ」

 

 その横顔を目の当たりにして尚、紫苑は自信に満ちた力強い声で告げた。

 

 沙羅を護る。

 この身を削っても、この命を賭けても、必ず沙羅を護る。

 それが今の紫苑が胸に掲げるただひとつの誓い。

 

「……そうか。おまえさんには余計なお節介だったようじゃの」

 

 確かな決意がこめられた紫苑の言葉に、刀鍛冶は穏やかに目を細めた。

 

 

「よし、完成じゃ。これ以上磨きようもないわ」

 

 数刻後、刀鍛冶が満足げに掲げた刀身はそれまでに増して鋭い輝きを放っており、紫苑は「さすがだな」と感嘆の息をもらした。

 刀を受け取り店を出ようと腰を上げたところで、ふと奥の鍛冶場にまだ錬成されている途中の鋼が寝かされているのを見て、なんとなしに問いかける。

 

「また新しい刀を打っているのか?」

「ん? ああ、まだ打ち始めたばかりじゃがな」

「あまりぼったくるなよ。客が寄りつかなくなるぞ」

「安心せい、ぼったくるのはおまえさんに対してだけじゃ。それにな、あれは一銭の儲けにもならんよ。友人に贈ろうと考えているものじゃからな」

「へえ、じいさんにも友人と呼べるような奴がいたのか。そいつは良かったな」

「……おまえさんはつくづく厭味ったらしい男じゃのう」

「安心しろ、俺もあんたに対してだけだ」

 

 皮肉を交えて刀鍛冶を見遣りながらも、紫苑は胸中でその友人とやらを羨んでいた。この頑固な老人が依頼もなしに刀を打とうと言うのだ。その人物はよほど気に入られているに違いない。

 

「おまえさんとおると無駄口ばかり増えるのう。ほれ、さっさと行け」

 

 出口を顎でしゃくって紫苑を見送ると、刀鍛冶はやれやれと肩をすくめた。

 

「まったく、鈍い奴め」

 

 静まり返った店内で刀鍛冶が優しい笑みを浮かべてそう呟いたことを紫苑は知らない。

 

 

 *

 

 帰り道、紫苑は商店街へと立ち寄っていた。

 様々な店が軒を連ねるその中で、女性向けの宝飾品専門店の前で立ち止まり、ショーウィンドウを眺める。華美な光を放つアクセサリーの数々を見つめながら紫苑は首を捻った。

 

「指輪じゃなければ何を贈れというんだ……」

 

 自慢じゃないが女性物の装飾品など贈ったこともなければ選んだこともない。

 沙羅の好みすら見当もつかないのだ、それをどう決めろと言うのか。

 ウィンドウの中、綺麗に並べられたアクセサリーは確かに綺麗だとは思うが、どれもこれも派手さばかりが際立っていてどうも沙羅のイメージにそぐわない気がする。

 

 紫苑が難しい顔をして唸っていると、陳列ケースの隅で控えめな輝きを放っている銀色のチェーンがふと目についた。

 チェーンの先に小さな宝石が埋め込まれたヘッドがついている、シンプルなデザインのネックレス。他の商品のような煌びやかさはないものの、透明感のある輝きが沙羅にはよく合いそうだ。首につけるのなら日々の鍛錬の邪魔にもならないだろう。

 

 その場でネックレスを眺めたまま、紫苑は先程の刀鍛冶の台詞を思い返していた。

 すぐにでも求婚すべきだという彼の言い分もわからないでもない。紛争が絶えないこの時代、いつ何時生命の危機に晒されてもおかしくはないのだ。

 想いを通わせて間もないのに性急すぎる、そんな諫言は他者の見解。沙羅とどう過ごしたいか、どんな未来をともに歩みたいか、それは自分で決めること。そして自分の気持ちはもう固まっている。

 この先もずっと沙羅とともにいたい、その決意に迷いはない。

 

「桐宮沙羅……悪くはないな」

「何ぶつぶつ言ってるの?」

 

「……っ沙羅!?」

 

 ごく小さな声でひとりごちたつもりが、思いがけず後方から返答があって紫苑はうろたえた。その声の主がまさに今想いを馳せていた人物なのだから尚更である。

 

「なぜこんなところにいる?」

「予定より早く仕事が終わったんだ。それでさっき紫苑の家まで行ったんだけど、灯りがついてなかったからまだおじいさんのところにいるのかと思って、向かってる途中だったの。入れ違いにならなくてよかった」

「そうか……」

「紫苑こそこんなところでぼーっとして何考えてたの? 紫苑が独り言なんて珍しいよね」

 

 もしも入れ違いになって沙羅が刀鍛冶の店に顔を出していたら、あの世話焼きな老人が何を吹き込んでいたかは想像に難くない。安堵の息を漏らすも束の間、次いだ沙羅の問いかけに紫苑の背筋を冷汗が伝った。

「いや……」と平静を装いながらさりげなくショーウィンドウと距離を置く。まさか「君にどう求婚するか考えてました」とは言えまい。

 

「この刀の出来栄えに感心していたんだ。ほら、じいさんに研磨を仕上げてもらった。これ以上の出来はないそうだ」

「えっ、もう仕上がったんだ! ありがとう!」

 

 幸い沙羅は目の前の宝飾店に対してはなんの注意も払っていない。紫苑から受け取った刀を鞘から抜き放つと、感嘆の声を上げて刀身を眺めていた。

 

「腕だけなら文句のつけようがないんだがな」

「今日はからかわれなかった?」

「あれだけ冷やかせばさすがに満足しただろう。あんな辱めは二度と御免だ」

 

 今日は冷やかしではなく大真面目に提言を受けたのだが、それについては触れずに告げると沙羅は可笑しそうにくすくすと肩を揺らしていた。

 

「……どうしておまえまで面白がってるんだ」

「えっ? そんなことないよ? あ、ところで相談があるんだけど──」

 

 眉間に皺を寄せて見据えると、沙羅は慌てて首を振って話題を逸らした。

 

「この刀にね、名前をつけようと思うの」

「名前?」

「そう。名前をつけると刀との絆が深まるって言うでしょ。それでずっと考えてたんだけど、なかなか浮かばなくて。紫苑は何がいいと思う?」

 

 愛用の刀に名を与えるというのは剣豪の間では古くから伝わる風習だ。名を持つことによって刀にも魂が宿るとの説もある。

 

「おまえの好きな名前をつければいいんじゃないか」

「それが浮かばないから相談してるんでしょ」

 

 唇を尖らせる沙羅に、紫苑は視線を上げてしばらく考え込んだ。

 

「──桜」

「え?」

「おまえは桜が好きだろう。その刀の刀身も桜の花の色に似ているしな。名前には『桜』の字を入れたらどうだ?」

「桜……桜の花……」

 

 その提案をしばし反芻していた沙羅はパッと明るい表情で顔を上げた。

 

「うん、いいかも! 紫苑もたまにはいいアイディア出すんだね」

「……どうせろくに期待もしないで訊ねたんだろう」

「そんなことないって」

 

 その後も他愛ないやりとりを交わしながら、夕暮れの街をふたり並んで歩く。

 紫苑にとって何より満ち足りたその時間が過ぎ去るのは早く、気づけば沙羅の家の前まで辿り着いていた。

 

 

 既に空は黄昏色から深い紺色へと変わっていた。

 ぽっかりと浮かんだ月が暗がりの中のふたりを照らす。

 

「じゃあね。送ってくれてありがとう」

「──沙羅」

 

 手を振って背を向けようとする沙羅を呼び止める。

「ん?」と振り返った沙羅と目が合うと、無意識のうちに喉がごくりと鳴った。

 

「明日は早番だったな」

「うん。紫苑もでしょ?」

「ああ。そのあと少し時間を空けておけ。話がある」

「話? それなら今話せばいいじゃない。上がってく?」

 

 沙羅が自分を部屋に上げるのに何の躊躇いも持っていないことを嬉しく思いつつ、紫苑は首を横に振った。

 

「明日でいい。……いや、明日がいい」

 

 明日は任務が入っているが、その後は時間に余裕がある。仕事を切り上げたら先程の宝飾店へ行って、沙羅に贈るネックレスを用意しよう。

 あの世話焼き老人の脅しを真に受けたようで癪だが、自分の中で沙羅に対する想いが固まっているのは確かな事実。ならば刀鍛冶の言う通り早いに越したことはないだろう。

 唐突で驚くことはあっても、拒絶されることはないはずだ。……きっと。多分。

 

「わかった。じゃあまた明日ね」

 

 幸いにも沙羅はすんなりと納得した。

 紫苑の含みのある物言いも特に気に留めていない様子だ。まさか求婚されるとは思ってもいないのだろう。

 

「おやすみ、紫苑」

「ああ……おやすみ」

 

 小さく手を振って離れていく沙羅を、紫苑は瞳を細めて見送った。

 明日への期待と、少しの不安と、そして溢れんばかりの沙羅への愛しさを胸の奥にしまい込みながら。

 

 

 もしもこれが最後の夜になると知っていたなら

 

 黙って見送ったりはしなかったのに

 

 決して君を離しはしなかったのに

 

 

 

 最後の夜だと

 

 知っていたのなら──

 

 

 

 ***

 

 




《Never Forget You Ⅰ…君を忘れないⅠ》

 ふたりで歩む未来を、疑うことなく信じていた。
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