「紫苑、少し急ぎすぎだ。これじゃ進軍のペースが乱れる」
「……ああ。すまない」
正門へと進路を取る一向の先頭に立っていた紫苑は、後方から駆けてきた工藤にたしなめられ進軍の速度を緩めた。
振り返ると、確かに後続の隊員の表情には疲労が滲んでいる。先程感じた胸騒ぎのせいで無意識のうちに焦りが生じていたのだろう。
「まあ気持ちはわかるけどな。あの萩谷さんが負傷したぐらいだ、正門側の反乱は相当激化してるんだろ」
「ああ。あの人のことだから心配ないとは思うが……一刻も早く闘いを収めるに越したことはない」
「そうだな。で、おまえは一刻も早く沙羅のところに戻ってやんねえと。あんまり待たせると愛想尽かされるぞ?」
茶化すように笑った工藤は、ふと真顔に戻って紫苑を見据える。
「おまえだってもちろん沙羅のことは心配だろうけど、残されたほうはそれ以上に不安なはずだ」
「……」
涙は見せまいと唇をきつく結んでこちらを見送っていた沙羅の姿が甦る。
それに胸の奥が痛んで黙り込んでいると、工藤は口調を緩めて続けた。
「あいつのこと、幸せにしてやれよ? ……って俺が言えた柄じゃねえけどな」
「おまえは……呆れるほどのお人好しだな」
「バーカ、ちげえよ。俺にできるもんならとっくにかっさらってるっつーの。仕方ねえだろ、沙羅は最初っからおまえのことしか見てなかったんだから」
「……そうか?」
「自覚ねえとこがまたむかつくな、オイ」
ピクピクと片眉を動かしたものの、工藤は「まーいっか」と力を抜いた。
「沙羅を幸せにできるのはおまえだけだよ、悔しいけどな」
台詞の割には清々しい表情で話す工藤を、紫苑は素直に羨ましいと思った。自分にはここまで潔く敗北を認めることも、そして相手を励ますこともできない。
それを口に出す代わりに紫苑はまだ他の誰にも打ち明けていない覚悟を語った。
「この戦が終わったら──沙羅にはっきり言うつもりだ」
真剣味を帯びた紫苑の横顔を見て察したのか、工藤は「何を」とは訊かなかった。
「……そうか」
ただ一言、そう呟いてほっとしたように笑った。
その後無事に正門の本隊に合流した紫苑はその足で救護室へと向かった。
「──紫苑!? おまえなぜここに……」
腹部を包帯で覆われてベッドに横たわっていた萩谷は、紫苑に気づくと目を丸くして身体を起こした。
「あんたが負傷したって聞いたから助けに来てやったんだ。……大丈夫なのか」
「ああ。これでも悪運は強いもんでね。後ろからざっくりやられたんだが急所は綺麗に外れていたそうだ」
あっけらかんと答える萩谷に紫苑は押し殺していた息をそっと吐き出す。
萩谷は第三部隊にとっていわば支柱だ。彼が健在かどうかで部隊の士気は大きく上下する。これで隊員たちの気も少しはほぐれるだろう。
「それで、今の戦況は? 伝令の話じゃずいぶん押されていたようだが、そんなに苦戦するほどの数なのか」
「ああ、だが……どうも様子がおかしいんだ」
紫苑の問いに表情を曇らせた萩谷は、声を低めると現在の戦況を語り始めた。
此度の反乱は予想の範疇を大きく越えるものだった。
暴動勃発後、防衛軍はただちに第一部隊を筆頭とする主戦力で応戦したが、反乱軍はその倍以上の兵力を有していた。
例え実戦経験に劣る民間の寄せ集め兵とはいえ、兵数で圧倒していれば自然と士気が高まりその脅威も増す。押され気味になった防衛軍はすぐさま救援要請を出したが、勢いづく反乱軍を相手に援軍が到着するまで持ちこたえられるかは正直微妙なところだった。
しかし、ここへきて急に反乱軍の攻撃の手が緩んできたと萩谷は言う。
当初の勢いが嘘のように、徐々に戦線を下げながら波状攻撃を仕掛けてくるのだと。
「持久戦になれば圧倒的にこちらが有利になるのがわからないわけはないだろうに──なぜ一斉攻撃を仕掛けてこない? こちらが援軍を呼んだのを知って様子を見ているのか?」
顎に手を当てる萩谷のぼやきに紫苑はぴくりと反応した。
「反乱軍が退いたのは援軍が合流してからなのか?」
何か──言葉では言い表せないが、とてつもなく嫌な予感がした。
これは、そう、裏門の本陣を発つときに感じていた胸騒ぎと同じ。
「ああ。普通敵に援軍が現れたら、これ以上増える前にと一気に片をつけようとするもんだが。……紫苑? どうした?」
背筋を冷汗が伝う。
脳内にけたたましい警鐘が鳴り響いている。
「違う……」
「何?」
訝しげに眉を潜めた萩谷の声も、今の紫苑には届かなかった。
反乱軍の不可解な行動には何かしらの裏があるはずだ。そして自分はそれに気づいてしまった。
「開戦直後に一気に攻め込んで本隊を怯ませ、防衛軍が正門に戦力を集中させるのを待ってから、守りの薄くなった後方を全力で叩く……」
先程の裏門での闘いを思い返しながら呟く。
こちらが感心するほど引き際の切り替えが早かった相手部隊。まるで最初から退却することが決められていたかのような。
そう、彼らには別の目的があったのだ。「裏門の兵力を把握する」という、本来の目的が。
「……息を潜めているんじゃない。兵数が多かったのは最初だけで、あとは第一線の部隊を残して裏門へ回らせていたんだ。波状攻撃を仕掛けているのはそれを悟らせないための目くらましと、単なる時間稼ぎ……」
「馬鹿な……それじゃ反乱軍は」
顔色を変えた萩谷の横で紫苑は椅子を倒して立ち上がった。胸騒ぎの正体を確信して。
「奴らの狙いは最初から裏門だったんだ──」
『信じてる』
不安を隠すように微笑んだ彼女の残像が、脳裏に浮かび上がっては
「沙羅……っ!」
稲妻に打たれたように立ち尽くす紫苑に、萩谷は躊躇う間もなく指示を与えた。
「紫苑、おまえはすぐにうちの小隊を率いて裏門へ戻れ。総司令官には俺から説明する。ただちに全軍を裏門へ回すよう手配してもらおう」
「だが──あんたは怪我が」
「そんなことを言ってる場合か。余計な気を回している暇があったら早く行け!」
その面差しは怪我人ではなく、第三部隊の全隊員が信頼を寄せる部隊長の顔そのものだった。
「……頼む」
ぐっと握り拳を作って告げると萩谷は力強く頷く。
救護室を飛び出した紫苑はすぐさま小隊を編成し裏門へと引き返すのだった。
まさに時を同じくして、杉原の提起した作戦により沙羅を含む全ての隊員が裏門を離れて進軍しているなどとは夢にも思わずに。
*
裏門の本陣が目視で確認できる辺りまで来たところで、紫苑はひとまず胸を撫で下ろした。
見たところ土煙も上がっていなければ戦の喧噪も聞こえない。どうやら反乱軍よりも先に戻ることができたようだ。
だが、本陣に近づくにつれすぐに違和感を覚えた。
闘いの様子はない。しかし、それにしても静かすぎるのだ。敵兵どころが自軍の兵すらいないかのような静まり方──
実際そこには一握りの番兵しか残っていなかった。
「なんだこれは……別動隊はどこへ行った? 門の防衛を放棄して何を──」
「恐れながら……杉原司令官の部隊は、反乱軍の本拠を叩くために二刻ほど前に出陣されました」
「なんだと? これから反乱軍の本隊が攻め込んで来るんだぞ!」
それが杉原の采配であることは言わずとも知れた。反乱軍が体勢を立て直す前にこちらから打って出れば相手の出鼻をくじけるとでも思ったのだろう。手柄に拘るあの男の考えそうなことだ。
しかし実際のところは、反乱軍は体勢を立て直すどころか全軍を集結させてこちらへ攻め込もうとしている。裏門に残された僅かな小隊のみで太刀打ちできる数ではない。
苛立ちのあまり番兵に掴みかかった紫苑であったが、その番兵の遥か後方、南の地平線上に砂煙が上がっているのを見て動きを止めた。
敵襲かと身構えたが、こちらへ進軍してくるその部隊が掲げているのは自軍の旗印。出陣したはずの杉原の部隊だった。
「引き返してきたんだな。これで守備体制を固められる」
すぐに表へ出て帰還した第三部隊の面々を迎える紫苑。だがそこには──
「おまえたち、無事だったか。──沙羅はどこだ?」
誰よりも待ち望んでいた彼女の姿は、なかった。
「それが……」
「……どうした」
言い淀む隊員を見れば嬉しい報せでないことは明らかだった。一度は広がったはずの安堵が一転して不安へと変わる。
そしてその答えは最も聞きたくない男の口からもたらされた。
「彼女はここにはいない」
振り返った先に立っていたのは、司令官の記章を身につけた杉原。
「……どういう意味だ?」
「反乱軍の狙いを知り全軍に退却命令を出した直後、敵の先兵と接触した。……彼女は足止めのためその場に残った」
「残った? 沙羅ひとりでか?」
「ああ」
ざわり、と紫苑の背筋が泡立つ。全身に震えが奔っているのがわかった。
「……相手は何人いたんだ」
「ざっと見た限りで二十。だが敵の本陣のすぐ傍だったからな。そこから更に増えることも十分に考えられる」
「……それを知ってて……置いてきたのか」
「そうだ。軍の進軍を考えれば当然の判断だ」
「貴様……っ!」
おそらく囮を引き受けたのは沙羅本人の意思だろう。しかしそれを当然だと言い捨てるこの男は我慢ならない。
一瞬にして怒りが沸点まで到達した紫苑は、拳を固く握りしめると杉原に殴りかかった。
「──よせ、紫苑!」
紫苑の拳が杉原を捉えるすんでのところで、後方から現れた萩谷が肩を掴みそれを制した。
「萩谷さん!」
「無事だったんですか!」
「ああ。心配かけたな」
驚いた様子で声を上げる第三部隊の隊員たちに短く頷きを返して、萩谷は紫苑と杉原の間に入る。
「……杉原司令官へ本隊より伝言だ。防衛軍本隊は正門へ駐留させた十部隊を除き、全軍中央街道を南下中。もう半刻ほどで裏門陣営に集結する故、それを見込んだ上で布陣準備を整えられたし──とのことだ」
「……どうやら敵襲には十分に間に合いそうだな。対応が早くて助かった」
「こいつの機転が利いてたもんでね」
くいっと紫苑を指して萩谷は笑った。それに杉原が口惜しそうに顔を歪めたのを見て、鋭い声音で続ける。
「とにかくこれで反乱軍の一斉攻撃に対抗する備えはできた。──我々第三部隊は貴殿の指揮下から外させてもらう」
「なんだと? そんな勝手が許されると思うのか。司令官は私だぞ」
「文句は自分の失態の後始末をしてから言ってもらおうか」
そう言われてしまっては杉原に反論の余地はなかった。背後を振り返った萩谷は力強く頷く。
「行け、紫苑!」
もしも彼が止めていなければ、自分はあのまま杉原を殴り飛ばしていた。
一隊員が司令官に手を挙げるなど言語道断。そうなれば紫苑は沙羅を救出しに行くどころか反逆者として捕らわれていただろう。
口調とは裏腹に、こちらを見つめる萩谷の顔色は優れなかった。怪我を押してここまで進軍の指揮を執ってきたのだ。相当無理をしたに違いない。
だが、今はその身を案じるよりも、感謝の言葉を口にするよりも、なすべきことがある。
だから、
「……ああ!」
紫苑は萩谷に向かって深く頷き、すぐさま背を向けると第三部隊の仲間たちを率いて本陣を飛び出したのだった。
愛しい恋人を救い出すために。
*
沙羅が敵兵と接触したと見られる場所には既に彼女の姿はなかった。
代わりに幾人もの負傷した敵兵が横たわっている。
「沙羅はどこだ!」
その中のひとりの胸倉を掴み上げて紫苑は問い質した。
「沙羅……あの女のことか……?」
苦しげに息をもらしながらも男はゆっくりと口を開く。
「あの女……わざと急所を外して……情けでも、かけたつもりか……? 自分が今にも殺されるってときに……」
「どこへ行ったと聞いている!!」
共通しているのは横たわる彼らの誰もが、深手を負いながらもそれが致命傷には至っていないということ。
この男たちが沙羅の身を脅かしたかと思うとすぐにでも息の根を止めてやりたい衝動に駆られるが、それでは沙羅の決死の覚悟を踏みにじることになる。震える指先で森の奥を指した男を紫苑は低く舌打ちして解放した。
「……おまえはこんな状況に追い込まれてもまだ敵の身を案じるのか……?」
道を示すかのように続く真新しい血痕といくつもの足跡を追いながら歯噛みする。
思い遣り深い沙羅が、易々と人の命を奪えるはずもないことは紫苑とて理解している。敵に情けをかけることもあるだろう。けれどそれは我が身の安全が保障されてこその話だ。
闘いにおいてはまず何よりも自分の身を護ること。即ち、自分の身を脅かす者を排除すること。
そう何度も言い聞かせたのに。
『大丈夫。自分の身は自分で護るから。心配しないで』
沙羅が笑ってそう言ったのは、ふたりが想いを通わせた夜のこと。
何が心配するなだ。ちっとも護りきれていないじゃないか。これが心配せずにいられるか。
今日という今日はきつく灸を据えてやる。
二度とこんな無茶な真似をしないように。
だから。
俺が行くまで待っていろ。
死ぬな、絶対に。
「間に合ってくれ…………!」
荒い呼吸の合間に呟き、鬱蒼とした森を抜けると唐突に視界が開けた。
「ここは……」
見開かれた翡翠の瞳に、切り開かれた平原にそびえ立つ一本の桜の木が映る。
そしてその根元には。
「沙羅──!」
複数の敵兵に囲まれたその姿を見つけた瞬間、紫苑は刀を抜いて駆け出していた。
最後方にいた敵兵が斬りかかってくるが、それを一太刀で薙ぎ払いそのまま加速する。続く兵の攻撃を交わし、彼らの相手を後続の仲間に任せて紫苑は一直線に沙羅の元へと向かった。
近づくにつれて激しい剣戟の音が聞こえる。物々しく響くそれは、しかし沙羅が闘っている何よりの証。
……よかった。
間に合った──
「どけっ!」
なりふり構わず刀を振るう紫苑に敵う者はなく、たちまち数人を斬り伏せて桜の木の下まで辿り着くと、紫苑は沙羅と打ち合っていた最後のひとりに刀を振りかざした。
背後から容赦なく斬り捨てようとしたその瞬間、男の身体がぐらりと揺れて地面に伏す。
その先には返り血に濡れた沙羅の姿があった。
「紫苑……」
脱力したように刀を握った手を下ろした沙羅に駆け寄り、紫苑はほっと笑みを浮かべる。
杉原から話を聞いたときには最悪の事態も想像しただけに、こうして再び沙羅の姿を目に留めることができて心の底から安堵した。
「もう大丈夫だ。よく頑張った──」
言いながら沙羅の頬に触れようと手を伸ばす。けれど。
左胸に突き立てられた銀色の刃に気づいた瞬間、その手は止まった。
「……っ!?」
最後に残された敵兵が繰り出した刀は、深く鋭く突き刺さり、ふたりの約束の桜の木に沙羅の身体を縫い止めていた。
愕然とする紫苑の目の前で沙羅はゆらりと刀の柄に手を運び、苦痛に顔を歪ませながらそれを抜き去る。途端に傷口からは血飛沫が舞った。
「……紫苑」
清らかな声に呼びかけられても、紫苑の思考は凍りついたまま。
それを気遣ったのか沙羅はふわりと微笑んだ。そのままスローモーションのように崩れ落ちていく。
「…………っ! 沙羅……沙羅!」
抱き止めた身体がみるみる赤く染まっていくのを見て、紫苑はようやく我に返った。
「待ってろ。今止血を──」
「……紫苑、正門は……陽動だったの。反乱軍の狙いは……」
そっと桜の根元に横たえて傷口に布をあてようとすると、沙羅は紫苑の腕を掴んで切れ切れに声をもらす。
「わかってる。それ以上喋るな」
「間に、合ったの……?」
「防衛軍は全部隊を裏門に回し守備を固めた。あとは反乱軍を迎え撃つだけだ」
「そう……よかっ……」
表情を緩めた沙羅の口からごぽっと鮮血があふれた。
「紫苑……、あのね……」
「沙羅……もう喋らないでくれ……!」
なおも話を続けようとする沙羅を、紫苑は首を振って制する。自身の隊服を引き裂いて傷口にあてたがすぐに赤く滲んだ。
「ごめんね……。約束、したのに……」
不規則に胸を上下させながら沙羅が呟く。
「紫苑の笑顔を……護るって。言ったのにね……」
その瞳は紫苑の背後にそびえる桜の木を見つめていた。
ふたりが未来を誓い合った思い出の桜。あのときはまだ開花して間もなかった桜は今や枝先いっぱいに色づき、心地よい風が吹き抜ける度に鮮やかな花弁を散らしている。
それを眩しそうに見上げて、沙羅はくしゃりと顔を歪めた。
「ごめんね……」
口元は笑っているのに、まるで泣いているように見えて。
「違う……」
懸命に止血を続けながら紫苑は首を振る。
「おまえのせいじゃない。俺がおまえを裏門に残らせたから──」
こみ上げるのは悔恨の念。
沙羅はついて行くと言い張ったのに。自分は彼女を危険な戦場へ連れて行きたくないばかりに、強引に理由をつけて裏門へ留まらせた。それで沙羅を護ったつもりでいた。
なんて横暴で──浅はかな自己満足。
「約束を破ったのは俺のほうだ……。護ると誓ったのに、おまえの傍から離れた。俺が……、俺の、せいで……」
悔しさで震える拳の上に、温かい手が重なる。
慈愛をたたえた濃紫色の双眸が紫苑を見上げていた。
「……そんなことない。紫苑は、ちゃんと約束守ってくれたじゃない……」
紡がれる声はか細くとも、その瞳はしっかりと紫苑を捉えていた。
守ってなどいない。そう否定しようとした紫苑の手をきゅっと握りしめて、沙羅は微笑む。
「こうして、私の元に帰ってきてくれた……」
沙羅にとってそれは何よりも嬉しいことだった。必ず帰るという約束を果たして紫苑が戻ってきてくれたことが。
それこそが、沙羅をここまで支え続け、限界を超えた身体でなおも刀を振るう原動力となった約束だったから。
「ありがとう……」
ふわりと顔を綻ばせる沙羅に、紫苑は唇を噛みしめる。
違う、違う。
俺は何も護れてなどいない。
これで防衛軍が勝利を収めたとしても、おまえがいなくなってしまったら、俺は──
「死ぬな……沙羅……」
ひりひりと焼けつく喉から、紫苑はすがるような声を絞り出した。
握りしめた手が震えているのは自分のせいか、それとも沙羅自身の震えなのか。それすらわからないまま必死に白い手を揺さぶる。
「また俺を……ひとりにするのか? 俺を置いて逝くのか……?」
ぐにゃり、と視界が歪んで沙羅の顔がぼやけた。
「おまえと逢えて、やっと……やっと護るものができたのに……」
頬を伝った雫が一粒、血の気を失った彼女の頬に落ちる。
願いも夢も持ち得なかった紫苑の人生を、その笑顔ひとつで鮮やかに色づけた沙羅。
君がいたから、心から笑うことができた。
君がいたから、人を愛することができた。
君がいたから、俺は生まれて初めて、誰かのために生きようと思えた。
生きる意味を、知った。
そう、何もかも全て。
隣に君がいたから。
君がそこで笑ってくれたから──
「泣か……ない、で……」
哀しそうに瞳を細めた沙羅に言われて初めて、自分が涙を流していることに気づいた。
頬へ向かって伸ばされた手が途中でくたりと滑り落ちる。それを包み込むように握って紫苑は懸命に沙羅の名を呼んだ。
行くな。
行くな。
俺はおまえにまだ何も言えていない。
今日こそ伝えると決めたのに。
「……紫、苑……」
沙羅が紡ぐ声は今にも消え入りそうで、徐々に薄れていく息遣いが否応なく現実を突きつける。
それでも沙羅の表情は満ち足りていた。
「あり……が…………」
向けられた笑顔は、まさしく紫苑が心惹かれた沙羅の笑顔そのもので。
息を呑んで見つめる紫苑に向けて、沙羅は音にならない声で最期の一言を放った。
唇の動きが告げたその言葉は
『 あ い し て る 』
そして沙羅はゆっくりと瞼を閉じた。
「沙羅…………?」
紫苑の眼前をひらひらと舞った桜の花弁が、沙羅の頬に落ちる。だが彼女の瞳は閉ざされたままだった。
長い睫毛を伏せ、口元に薄く笑みを浮かべたその様はまるで眠っているようで。
軽く揺すってみるものの、腕の中の彼女に反応はない。
「嘘だ…………」
握りしめた手はまだこんなにも温かいのに。
光を浴びるときらきらと輝いたあの濃紫色の瞳は、もう紫苑を見てはくれない。
『この度第九部隊から転属命令を受け参りました、草薙沙羅と申します。若輩者ですがよろしくお願いします!』
『大切なものを護るために闘うのに、男も女も関係ないでしょ?』
『おまえじゃなくて、沙羅』
『何回言わせれば気が済むのよ! 人が挨拶してるのに『ああ』はないでしょ!』
あの笑顔も、あの声も、あの仕草も。
もう目の前の彼女から発せられることはない。
『刀一本振るい続けることで護れるものがあるのなら、それがどんなに小さなものだとしても、私は闘いたい』
『ずっと見ていればわかる。紫苑は奪ったり傷つけたりするために刀を振るうような人じゃない』
沙羅はもう、動かない。
『……好き。私は紫苑のことが大好き、です』
『それじゃあ私は、紫苑の笑顔を護るね』
『私が隣にいれば笑顔になるでしょ?』
ざあっと一際強い風が紫苑と沙羅の周囲を吹き抜け、頭上から何枚もの花弁が散った。
美しい薄桃色の色彩の中に、ころころと表情を変える沙羅の残像が走馬灯のように浮かんでは消える。
あまりにも短すぎた、幸福な日々。
「沙羅────っ!!」
大好きな桜の花に包まれて、果たせなかった約束を置き去りに、沙羅の時間は止まった。
そしてそれと同時に
紫苑の時間も──止まった。
***
《Never Forget You Ⅲ…君を忘れないⅢ》
次話で紫苑の番外編、ラストです。