Dear…【完結】   作:水音.

64 / 87
【Side Story】Never Forget You Ⅳ ―君を忘れないⅣ―

 敵兵を倒した工藤が駆けつけたとき、既に沙羅は紫苑の腕の中で息を引き取っていた。

 

「沙羅……?」

 

 紫苑と沙羅を囲むようにしてすすり泣く第三部隊の仲間をかき分けて、その前に歩み出る。

 辺りが血の海に染まってさえいなければ、眠っているのだと思えるような穏やかな表情で沙羅は瞼を伏せていた。

 

「沙羅……ちくしょう!! どうしてこんな……っ!」

 

 力任せに桜の幹を叩きつける工藤。ビキビキと音を立てて割れたそのすぐ横には、沙羅が貫かれたのであろう生々しい刀の傷跡がくっきりと残っていた。

 

「紫苑……」

 

 悔しさに声を震わせながら工藤が呼びかけるも、返答はない。

 紫苑は徐々に冷え固まる沙羅の身体に温もりを分け与えるかのように、両腕で彼女を抱き続けていた。

 

 一体どれ程の間そうしていたのか。

 日が傾き、隊員たちのすすり泣きも枯れ果てた頃、工藤は静かに紫苑の肩に手を置いた。

 

「紫苑……本陣へ戻ろう」

「…………」

「……しっかりしろ。沙羅を埋葬してやらないと──」

 

 言いながら工藤が沙羅に手を伸ばした途端、それまで沈黙を貫いていた紫苑の口から鋭い声が放たれた。

 

「触れるな」

 

 感情の読み取れない、低く押し殺した声で。

 

「沙羅に……触れるな」

 

 誰にも触れさせまいと沙羅を抱きしめるその姿は、まるで自分以外の者は全て敵だとでも言いたげに排他的で、強い懐疑心に満ちていた。

 その後工藤や他の仲間に促され仕方なく腰を上げたものの、紫苑は誰の手も借りることなく沙羅を抱きかかえて本陣へと帰還した。

 

 

 反乱軍の鎮圧に成功した防衛軍の本陣は勝利に湧いていたが、沙羅を抱いた紫苑が戻ると第三部隊の隊員たちを中心にしんと静まり返った。

 

「沙羅……」

 

 力ない足取りで歩み寄った萩谷が喉を詰まらせる。痛ましい沙羅の姿に、彼は顔を歪めて涙を滲ませた。

 奥には沈痛な面持ちを浮かべた杉原が立ち尽くしていたが、紫苑はそちらに顔を向けることなくひたすら沙羅を抱き続けていた。また、杉原もそれ以上近寄ることはなかった。

 

 

 **

 

「紫苑……沙羅の葬儀の準備が整った」

 

 沙羅の亡骸の傍らでうずくまっていた紫苑に萩谷がそう伝えたのは、それから二日後のことだった。

 

「葬儀……?」

 

 虚ろな瞳で萩谷を見上げる紫苑。あれからまともな食事も睡眠も取っていない彼は、見るからに憔悴していた。

 

「そうだ。本来戦の犠牲者の埋葬はまとめて執り行われることになっているが、沙羅は今回の勝利の功労者として個別に火葬されることになった。今日の午後、全部隊を召集して追悼するそうだ」

 

 萩谷の言葉が耳から入ってくるものの、今の紫苑にそれを理解するだけの思考能力はない。

 すると萩谷の後ろから真新しい棺を抱えた数名の隊員が現れ、それを沙羅が横たえられた寝台の隣に下ろした。

 

「……っ何をする!」

 

 隊員のひとりが沙羅に手を伸ばすのを見て紫苑は弾かれたように立ち上がる。

 

「やめろ! 沙羅に触れるな!」

 

 胸倉を掴んで押しのけようとしたものの、心身ともに消耗しきった紫苑にはそんな力さえ残っていない。逆にその隙に他の隊員に押さえ込まれ、身体の自由を奪われた。

 

「すまない紫苑……だが、このままでは沙羅も浮かばれないだろう……」

 

 苦しげにもらす萩谷の声など耳にも入らなかった。

 

「放せ! 沙羅を返せ!! やめろぉ──ッ!!」

 

 紫苑の悲痛な叫びが木霊する中、棺に納められた沙羅が運び出されていく。

 取り押さえられた紫苑が最後に見たのは、棺の中で白い花に囲まれて眠る沙羅の、あまりにも美しい安らかな死に顔だった。

 

 

 その夜、沙羅の葬儀はつつがなく執り行われた。

 途絶えることのない献花の列、会場に響く哀しみの声は、彼女の人望の厚さを物語っていた。

 

 その中にはあの刀鍛冶の老人の姿もあった。

 彼は献花を終えると、会場で暴れかねないとして別室で拘束されていた紫苑の元へ赴き哀しげに眉根を寄せた。

 

「紫苑……まさかこんなことになろうとは……」

 

 すでに抵抗する力もないのか、後ろ手に縛り上げられたまま俯く紫苑は刀鍛冶の呼びかけにも応えない。

 

「自ら囮を買って出たそうじゃな……なんとあの娘らしいことか。そういうのはわしのような老いぼれの役回りじゃと言うのに……」

 

 苦しげに呟き刀鍛冶は紫苑に視線を戻す。

 

「おまえさんが受け入れられんのも無理はない。じゃがな──自分を責めるな、紫苑。おまえさんもやれるだけのことはやった……そうじゃろう?」

 

 その問いかけにも紫苑は表情ひとつ動かすことはなく、刀鍛冶は吐息をもらして静かに背を向けた。

 部屋を出る間際に足を止め、振り返る。

 

「もしも……おまえさんが再び前に踏み出そうと思える日が来たら──そのときはわしの元へ来い。おまえさんに渡したいものがある」

「……」

「……待っているからな、紫苑」

 

 目尻に皺を寄せた優しい眼差しでそう言い残すと、刀鍛冶は今度こそ部屋を出ていった。

 

 *

 

 その後も刀鍛冶は何度も顔を見せたが、紫苑がその心遣いに応えることはなかった。

 そして沙羅の葬儀から一週間が過ぎた頃。

 

「よお紫苑。上がってもいいか?」

「……ああ」

 

 萩谷と隊員たちが紫苑の自宅を訪れたその日、残酷な事件は起きてしまった。

 

「おまえ少し痩せたんじゃないのか? ただでさえ細いのに、このままだと骨と皮だけになるぞ」

 

 気遣わしげな萩谷の声に応えるでもなく、紫苑は窓辺にもたれて外を眺める。

 この目に映るものも、この耳に聞こえる音も、なんの意味も持たない。沙羅がいないこの世界で、何を求めて生きていけばいいのか。自分がここに存在する意味さえ掴めなかった。

 

 沙羅と出逢う前の俺はどうやって日々を過ごしていたのだろう。

 何を想い、何を願い、何のために生きていたのだろう。

 そう昔のことでもないはずなのに、何ひとつとして思い出せない。甦るのは沙羅との思い出ばかりで。

 

『敵兵ひとりひとりにも、家族がいるの』

 

 いつだったか、沙羅が泣きそうな顔で告げた言葉の意味が今になって理解できた。

 愛する者を失うということは、生きる目的を奪われるも同然。自分がこれまで王都を守るという大義のために躊躇なく斬り捨ててきた者たちにも、その死を嘆く家族や恋人がいたのだろう。

 沙羅は──そんな顔も知らぬ相手でさえ、護りたいと思っていたんだ。

 己の使命や大義だけでなく、戦によって虐げられる力なき者たち全てを。あの小さな身体で護ろうとしていたんだ。

 

 それに引き換え、俺は。

 たったひとりの大切な人さえ護れなかった。

 

「紫苑……おまえの気持ちはよくわかる。だがせめて飯だけは食え。このままじゃ本当に死んじまう」

 

 差し入れの食材をテーブルに広げながら萩谷が言うが、食欲など微塵も湧かなかった。腹の底から湧き上がるのは黒く淀んだ悔恨の念だけ。

 

「約束したんだ……」

 

 そう、あの日。

 あの桜の下で。

 

「ずっと傍にいて……護ってやると。だが間に合わなかった」

「紫苑……」

 

 萩谷が苦しげに顔を歪める。

 

「俺が……もっと早く向かっていれば。……いや、そもそもあいつを裏門に残らせなければよかったんだ。俺のせいで沙羅は──」

 

 護ると誓ったその場所で、沙羅は息を引き取った。

 どれほど自分を呪っても足りない。どれほど責めても……失ったものは戻ってこない。

 

「それは違う。おまえのせいなんかじゃない」

「そうですよ。紫苑さんは悪くない! 悪いのは全部あいつです──」

 

 萩谷に続いた若手隊員が発した言葉に、紫苑はゆっくりと目線を動かした。

 

「……あいつ?」

「杉原司令官ですよ……あいつが自分の手柄のために無茶な奇襲をかけようとさえしなければ、あんなことにはならなかったのに……!」

 

 悔しそうに話す隊員を萩谷が首を振って制する。

 

「確かに杉原の采配は軽率だったが、あの時点ではまだ反乱軍の狙いが裏門だと判断するのは難しかった。……一概に奴を責めることはできないさ」

「でも! 斥候部隊が反乱軍の兵数が急増したのを報告したとき、沙羅は真っ先に気づいたんですよ? 正門は陽動なんじゃないかって!」

「……なんだって?」

 

 驚く萩谷の背後で、紫苑もまた眉を潜めた。

 静まり返っていた鼓動が、ひとつ大きく脈打つ。

 

「それですぐに引き返すように進言したのに、杉原司令官は耳も貸さなかった。第三部隊の指揮官ごときが口出しするな、なんて偉そうに言って──沙羅が囮になって残ったのだって、司令官であるあいつを先に逃がすためだったんですよ? 全部……全部あいつのせいで──」

 

 隊員の言葉を全て聞き終える前に紫苑は立ち上がっていた。

 

「紫苑……?」

 

 訝しげに振り返る萩谷には見向きもせず、ただまっすぐに若い隊員を見据える。

 

「……今の話は本当か?」

 

 自分でも聞いたことがないような冷たい声色で問うと、隊員は戸惑いながらも頷いた。次の瞬間。

 

「──紫苑!?」

 

 傍らに立てかけていた刀を握りしめて、紫苑は部屋を飛び出していた。

 

 

 止まっていたはずの時間が再び動き出す。

 

 ……終焉に向けて。

 

 

 *

 

 紫苑の内側で行き場を失くしていた歪んだ感情は、その矛先が他者に向いた途端、一気に弾けた。

 一週間もの間飲まず食わずだった身体とは思えない速さで第一部隊の詰所まで辿り着いた紫苑は、脇目も振らず奥にある執務室へと踏み込んだ。ノックのひとつもなく現れた来訪者に、部屋の主である杉原は机から顔を上げて眉をしかめる。

 

「……桐宮か。今更君に礼儀を求めるつもりはないが、挨拶ぐらいはしたらどうだ」

「黙れ下衆が」

「なんだと?」

 

 間髪入れずに吐き捨てると杉原は目を見開いた。

 

「貴様のせいで沙羅は死んだ」

 

 敵意を隠しもしない瞳で、紫苑は目の前の男を射抜く。その気迫に杉原は一瞬怯んだ様子だったが、すぐにまた元の表情を取り繕った。

 

「彼女には感謝している。彼女の犠牲があったからこそ我が軍は勝利を手にしたと言っても過言ではない」

「沙羅が犠牲にならなくとも勝てた闘いだった。……貴様が武勲に焦りさえしなければな」

 

 一歩杉原に近づくごとに、紫苑の声音は低く冷たくなっていく。ここで初めて杉原は顔を曇らせた。

 

「とても聡明で──勇敢な女性だった。……悪いことをしたと思っている」

「は……そんな態度を一度でもあいつに向けたことがあったか?」

 

 釈明をするような物言いに紫苑は鼻で笑ったものの、その目に宿る怒りは強まるばかりだった。

 今更そんな言葉を紡いだところでなんの償いにもなりはしない。

 沙羅はおまえのせいで死んだんだ。

 

「……詫びならあの世で入れろ。もっとも貴様が沙羅と同じ場所に行ければの話だがな」

 

 キン……

 

 ゆっくりと、左手の親指で刀のつばを押し上げる。

 

「……正気か? 同胞を手にかければ君もただでは済まないぞ」

 

 杉原の刀は外套とともに執務室の片隅に立てかけてあった。手を伸ばして届く距離ではない。

 

「桐宮……血迷うな。君はこれから皆の上に立つ人間だろう」

 

 間合いを詰めれば詰めるほど、杉原の表情には焦燥の色が浮かんだ。

 

 血迷う? 

 俺は何も血迷ってなどいない。

 沙羅を死に追いやった貴様が赦せないだけだ。

 

「桐……」

 

 壁際に追い詰められた杉原に最早逃げ場はなかった。懇願するような眼差しが向けられるが、憐れみの情など微塵も湧いてはこない。

 刀を鞘から抜き放った紫苑は、その切っ先を杉原に向けて腰を落とした。

 

 “紫苑”

 

 “紫苑”

 

 沙羅の屈託ない笑顔が脳裏を過ぎる。

 記憶の中にしか存在しない、沙羅の笑顔が。

 

 

「俺にはもう……失うものは何もない」

 

 

 そう呟いた自分は、笑っていたのだろうか。

 

 それとも──泣いていたのだろうか。

 

 もう何もわからなかった。

 

 

 

「──やめろっ紫苑!」

 

 背後から萩谷の叫び声が響いても、紫苑は振り下ろす刀を止めなかった。

 

 *

 

 狙い澄まされたその一撃は寸分たがわず目の前の男の心臓を貫いていた。

 力を失って凭れかかる身体を押しのけるように、紫苑は突き立てた刀を抜き去る。崩れ落ちた杉原は既に絶命していた。

 

「紫苑……!」

 

 声を震わせている萩谷を振り返りもせず、血飛沫を浴びた頬を拭う。憎むべき男の返り血に濡れるのはひどく気分が悪かった。

 

「これは……! 杉原司令官!?」

 

 騒ぎを聞きつけた第一部隊の隊員が現れ、執務室内の惨状に驚愕の声を上げた。

 

「おまえは第三部隊の桐宮──なぜおまえが司令官を!」

「まさか反乱軍の手の者か!?」

 

 続々と集った隊員たちはすぐさま抜刀し紫苑に向かって構える。

 

「待て!」

 

 今にも斬りかかりそうな彼らを制したのは萩谷だった。隊員たちと紫苑の間に入り、真剣な眼差しで紫苑を見据える。

 

「紫苑……刀を置くんだ」

 

 ここでわずかでも反抗の意を見せれば、紫苑は司令官を手にかけた逆賊としてこの場でただちに斬殺されるだろう。

 それだけは避けたい。処分は免れないとしても、こんな終わり方ではあまりにも惨すぎる。

 

 一瞬だけ萩谷を振り返った紫苑は、ぶらんと腕を下げて刀を手放した。床に広がる血の海の上に紫苑の刀が落ちる。

 それは呼びかけに応えたというよりは、全てを投げ出したように萩谷の目には映った。

 

「捕らえろ!」

 

 両腕をきつく縛り上げられて第一部隊の隊員に連行される間も、紫苑の顔にはなんの感情も浮かび上がらなかった。

 

 

 *

 

『同胞への抜刀及び此れに準ずる一切の行為を働いた者を極刑とする』

 

 王都防衛軍、軍規第八十一条第四項はこう定めている。

 杉原斬殺から一週間後、監獄に捕らえられていた紫苑に下された処分はまさしく軍規に則ったものだった。

 

「第一部隊特別司令官・杉原龍之介への抜刀、及びその斬殺。これは防衛軍の隊員として赦されざる反逆行為であり、一切の情状を考慮する余地はない。よって軍規第八十一条第四項の定めにより、第三部隊・桐宮紫苑を極刑に処する」

 

 極刑を言い渡されて尚、紫苑は固く口を結んだまま一言も発しなかった。

 監獄の隅にうずくまり、配膳される食事に手もつけず、ただ時が過ぎるのを待つ。廃人と化したその姿は、看守が処刑よりも先に餓死するのではないかと案じるほどであった。

 そして、処刑執行日の前夜。

 最後の面会者として紫苑の元を訪れたのは萩谷だった。

 

「紫苑!」

 

 力強いその声がずいぶんと懐かしく感じられた。顔を上げると、金網越しにこちらを見つめている萩谷の姿が映る。

 捕らえられてから今日に至るまで、紫苑は毎日のように足を運ぶ萩谷との面会を拒み続けてきた。

 先程も看守から萩谷の面会の申し出を伝え聞いたが、受諾した覚えはない。彼の様子を見るに強引に押し切ってきたのだろう。

 

「紫苑……なぜあそこで刀を抜いた。同胞へ刀を振るえばこうなることぐらいわかっていたはずだろう……」

 

 金網に手をかけた萩谷は哀しそうに顔を歪めている。その面持ちは記憶の中の彼よりも幾分やつれたように見えた。今回の件でひどく心労をかけたに違いない。

 けれど。

 

「……沙羅は胸に刀を突き立てられて死んだ」

 

 俺は

 一切の後悔もしていない。

 

「その苦しみをあいつにも味わわせてやりたかったんだ」

 

 杉原に裁きを与えられればそれでいい。

 あとはこの身がどうなろうと構わない。

 生きる意味などもうどこにも存在しないのだから。

 

 渇いた声で告げると、萩谷は悲愴な表情で首を振った。

 

「沙羅は……そんなことは望んじゃいなかったはずだ」

 

 ぐ、と金網を握る手に力をこめて。

 

「ましてやそのせいでおまえが死刑になるなんて、そんなことを沙羅が望むわけがない」

 

 その台詞に、起伏を失っていたはずの感情がざわついた。

 

 あんたにあいつの何がわかる。

 あんたが沙羅を語るな。

 沙羅を誰よりも理解していたのはこの俺だ。

 

 沸々と湧き上がるのは傲慢な独占欲。

 それほどに、愛していた。

 彼女は自分の全てだった。

 もしも沙羅が生きていたのなら、どれだけ杉原が憎かろうとこんな真似はしなかっただろう。

 沙羅が生きてさえいたのなら。

 

「……だが、沙羅はもういない」

 

 護りたかった。

 他の何を犠牲にしても。

 けれど護れなかった。

 

「……紫苑……」

「あんたには世話になった……感謝している。だがもう……全てどうでもいいんだ」

 

 投げやりな台詞とともに瞼を伏せると、萩谷が喉を詰まらせる気配が伝わった。

 

「すまない……俺は……もうおまえにどうしてやることもできない……」

 

 力なくうなだれた萩谷は声を殺してむせび泣いた。紫苑はそれに首を振るでもなく、鉄格子の隙間から僅かに射し込む月明かりにぼんやりと目を細める。

 やがて看守に面会時間の終了を告げられた萩谷は、名残惜しそうに振り返ると「明日は俺も立ち会う」と最後に言い残し去っていった。

 

 

 再び静寂に包まれた監獄の隅で、紫苑はただただ沙羅を想う。

 杉原の失策が招いた窮地を脱するため、自ら囮を引き受けた沙羅。

 数十人もの敵兵を相手にたったひとりで闘い抜いた沙羅。

 

 どれほど恐ろしかったろう。

 どれほど苦しかったろう。

 それに比べれば、杉原が味わった苦痛などほんの一瞬でしかない。

 もっと苦しませてから殺しても良かったくらいだ。

 そこまで考えたところで甦ったのは萩谷の言葉。

 

『沙羅は……そんなことは望んじゃいなかったはずだ』

 

 言われるまでもなく、わかっていた。

 杉原を殺めたことに後悔はない。しかしその行いを正当化する理由が見当たらない。

 

 沙羅の無念を晴らすため? 

 違う。

 沙羅は杉原に一片の恨みも抱いてはいないだろう。

 沙羅の願いは、きっと──

 

 俺が、

 

 生きて、

 

 幸せになること──……

 

 

 鎖に繋がれた両手で額を覆った。

 俺は、沙羅を失った怒りをぶつけたいがために杉原を仇と見なし、手にかけた。

 俺は、沙羅が命を懸けて護ったものを壊しただけでなく、沙羅の心からの願いさえも踏みにじった。

 沙羅のためにと掲げておきながら、俺自身が誰よりも沙羅を裏切っていた。

 

 真に忌むべきは、俺自身ではないのか? 

 己への憎悪は瞬く間に肥大し、色濃さを増す。

 やがてそれは自分と関わりを持っていた他人へと転嫁され、そして沙羅亡きあとも変わらず廻り続ける世界に対する憎悪へと変貌を遂げた。

 

 長い夜が明け、東の空がうっすらと白く染まる。

 鉄の錠で拘束されたまま処刑台に立たされたのは、その翡翠の双眸に絶望を宿した男だった。

 

 

「──以上の罪により、罪人、桐宮紫苑を斬首刑に処す。……何か言い残すことはあるか?」

 

 処刑の執行人が重々しい口調で問いかける。

 少し離れた場所から萩谷が固唾を飲んで見守っていたが、紫苑は口を開くことなく目を伏せた。

 

 未練も、執着も、ありはしない。

 沙羅がいない世界で生き長らえて何になる。

 

 こんな世界、いっそ全て壊れてしまえばいい。

 消えてなくなってしまえばいい。

 

 そして全てが無に帰せば

 

 俺の罪も洗い流されるのだろうか──

 

 

 

 跪いた紫苑の眼前を、どこから舞い込んだのか桜の花弁が一枚はらりと散っていった。

 それが地面に舞い落ちたのを見届けて視界を鎖す。

 淡い薄桃色の色彩に、どこまでも色褪せない愛しい恋人の残像を重ね合わせながら。

 

 

「沙羅……」

 

 

 柔らかな声音でその名を紡いで、想いを馳せた。

 

 紫苑の意識はそこで途絶えた。

 

 

 

 **

 

 あれからどれだけの時間が過ぎたのだろう。

 肉体を失った紫苑の魂はいまだ現世を彷徨っていた。

 人間でも(プラス)でもない──凶悪な虚と化して。

 

 沙羅への強い執着と、その彼女を奪い去ったこの世界への憎悪が、彼をより残虐にさせた。虚の捕食本能に突き動かされるまま、天へ召されるべく昇っていく周囲の魂魄を捉え己の内に取り込んでいく。

 それはまるで失った心の隙間を埋めるように。

 けれど、どんなに魂を喰らっても彼の飢えが満たされることはなかった。

 喰らえば喰らうほど喉はヒリヒリと焼けつき枯渇していく。それと同時に霞んでいく自我。

 新たな魂魄を取り込む度に憎悪は募り、紫苑の魂は天へ昇るどころか地獄の底へ引きずり込まれていくようだった。

 

『沙羅……』

 

 ほとんど失いかけた自我の中で、ぽつりとその名を紡ぐ。

 そのとき彼は既に自分が何者であるかもわからなくなっていた。

 思い出せるのは愛する人の名前だけ。だがその大切な名前すら、自分はもうじき口にできなくなるのだろう。

 恐ろしいのは個を失うことではなく、彼女の記憶を失うことだった。

 

 沙羅。

 

 沙羅。

 

 魂に刻むように、何度も何度も繰り返す。

 その間にも意識は禍々しい本能に浸蝕されていく。

 

 沙羅。

 

 俺はじきに醜い獣へと成り果てる。

 憎しみに取り憑かれ無為な殺戮を繰り返し、やがて誰に惜しまれることもなく朽ちるのだろう。

 天へ昇った君には、きっと逢えない。

 

 ……けれど、いつか。

 

 この世界じゃなくてもいい。

 生まれ変わって、再び君と巡り逢うことができたのなら。

 

 俺は今度こそ

 

 君を護ってみせる。

 

 この魂の全てを賭して、護り抜いてみせる。

 

 

 だから俺は、君を忘れない。

 

 どんな化け物に姿を変えようとも

 

 どれほどの長い時間が過ぎようとも

 

 俺は決して、君を忘れない。

 

 それだけがこの愚かな俺に残された、ただひとつの希望──……

 

 

 

 ***

 

 

 





《Never Forget You Ⅳ……君を忘れないⅣ》

 “紫苑”の花言葉:『君を忘れない』『追憶』『遠方にある人を思う』

 紫苑視点の過去編でした。次話より本編に戻ります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。