救援要請を受けて駆けつけた先に待っていたのはあまりにも無残な光景だった。
地面に無造作に転がっているのは、ほんの数刻前に別れたばかりの隊士たち。
ふらふらとその中のひとりの傍へ近づいた沙羅は、呆然とその名を呼んだ。
「菜月……」
いつも元気が良くて、明るい笑顔を振りまいていた無垢な少女。
慣れない任務に身構える彼女に「大丈夫」と声をかけたのはつい先ほどではなかったか。
まだこんなに温かいのに。
沈黙する沙羅の背後から、部下の隊士が遠慮がちに声をかけた。
「調査中に破面と接触した模様です。数は二体。霊圧濃度からすると……恐らくは
「十刃……」
藍染の元に集う数多くの破面の中でも、圧倒的な力を有するとされる最強の十体。
そんな相手にこのうら若き少女は立ち向かったというのか。
慣れない鬼道を放ったのであろう左手は赤く焼けただれ、右手は息絶えてなお斬魄刀の柄を握りしめていた。
──護ってやれなかった。
『この十三番隊の全員があなたの味方だよ』
そう声をかけたとき、少女はほっとしたように笑って頷いたのに。
なにひとつ……護ってやれなかった。
「副隊長……」
気遣わしげに声をもらす隊士に、背を向けたまま告げる。
「彼らを連れて帰還の準備を。尸魂界へ戻り次第葬儀を執りおこないます」
哀しんではならない。
虚と闘い散った死神は、魂の安定のためその身を呈した英雄として瀞霊廷で手厚く葬られる。
よって残された者は嘆き哀しむのではなく、栄誉の死を称えなければならない。
どんなに辛く、苦しくとも。
また、隊士の死をその家族や近しい者に伝えるのは副隊長の役割とされていた。
副隊長は、自隊の隊士は凶悪な敵を相手に勇敢に立ち向かい、最期まで死神としての誇りを貫いたのだ──と、揺るぎない敬意を表して家族に話す必要があった。
決して涙など見せてはいけない。
どんなに辛く……哀しくとも。
現世へ降りた調査部隊が十刃と接触したという情報はすでに瀞霊廷中に広まっていた。
「沙羅……」
帰還した沙羅を浮竹が沈痛な面持ちで迎えた。
「隊長、申し訳ありません……私の力不足です……」
唇を血が滲むほどに噛みしめて、頭を下げる。
「……おまえのせいじゃない」
ポン、と優しく肩を叩くと浮竹は横を通り過ぎて他の隊士たちへ労いの言葉をかけた。
そんな気遣いすら、今はただ苦しい。
私のせいじゃなければ誰のせいだと言うのだろうか。
今回の任務監督者は自分だ。
任務中に起きた事象は全て自らの責任の元に置かれる。
四人もの隊士を死なせて。
誰よりも責められるべきは私、なのに──
こみあげる
泣いてはいけない。
それで赦されると思うな。
ぐっと拳を握って、顔をあげた。
「隊長。私、近親者のところへ行って話してきます」
「……俺も行こう」
「いえ……ひとりで行かせて下さい」
やんわりと首を振って断ると、浮竹もそれ以上はなにも言わず「わかった」と頷いた。
逃げるな。
甘えるな。
己のなすべきことをなせ。
近しい者の死を知らされた家族たちの罵声やすすり泣きを一身に浴びながら、それでも沙羅は視線を逸らすことなく「彼らの働きに感謝します」と告げた。
強くなれ。
力が足りないのなら、それを補って余りあるほどに強くなれ。
そう諭してくれた彼の微笑みを思い浮かべると、今にも折れそうな心も不思議と少しだけ前を向けた。
逢いたい。
あの人に、逢いたい。
心とは裏腹に広く晴れ渡った空を仰いで呟いた。
この空の下のどこにもいるはずのない、異界の住人の名を。
*
殉職した隊士たちの葬儀がしめやかに営まれたあと、任務監督者であった沙羅はその後の報告処理に忙殺された。
だが沙羅にとってそれはかえってありがたいことだった。
こうして忙しさにかまけていれば、頭を悩ませる暇もない。
そして事件から二週間が過ぎ、久方ぶりの休暇をもらった沙羅は同じ十三番隊の隊士である朽木ルキアとともに現世へと向かった。
四人もの隊士が散っていった、あの場所へ。
「そうか……菜月はここで」
声を押しだすようにして告げるルキアに、沙羅は墓石もなにもないその場所へ花を手向けながら頷いた。
ルキアとは同じ十三番隊の隊士として、席官にあがる前から親交を深めていた仲だ。
沙羅にとっては気兼ねなく話せる友人のひとり。
沙羅が副隊長に昇格した直後こそ気を遣って「草薙副隊長」などと呼称を変えたルキアだったが、「それなら私も朽木家の令嬢に敬意を払ってルキア様とお呼びしましょうか」と笑った沙羅にたまらず元の呼び名に戻した。
ルキアにとっても沙羅は大切な友人なのだ。
そんな友の横顔を盗み見て、ルキアは人知れずため息をもらした。
「──沙羅」
「ん?」
振り向いた顔はいつもの凛とした表情に戻っている。
だがルキアは知っていた。あの横顔こそが、今の彼女の素顔なのだと。
「……あまり自分を責めるな。十刃の襲来は予測不可能な事故だった。彼らの死はおまえの責任じゃない」
その言葉に沙羅は力なく「うん」と頷いた。
恐らくはもう何度も同じことを言われているのだろう。彼女を案じる多くの仲間たちから。
まるでいつかの自分のようだと思いながら、ルキアはもう一度吐息をこぼした。
「おまえの気持ちはわかる。私も──海燕殿を手にかけたときはこれ以上ないほどの自責の念に
苦しげな声でそうこぼすと、沙羅はすぐさま反応した。
「……ルキア。何度も言ったでしょう? ルキアは海燕先輩を救いだしたんだって」
「そうだ。おまえがそう諭してくれた」
もう何年も前の記憶を思い返しながらルキアは頷いた。
どうして彼が死ななければならなかったのか。
どうして自分が生き残ってしまったのか。
死ぬべきは誰からも愛されたあの副隊長ではない、無力な自分だったのに。
こらえようのない罪の重さに押し潰されそうになりながら、しかしそれを償う手段も見つけられずにただ抜け殻のように日々を生きていた。
そんなルキアの横っ面を容赦なく引っぱたき、「そんなんじゃ海燕先輩が哀しむ!」と一喝したのは他でもない沙羅だ。
自室に引きこもりがちだったルキアを無理やり引っぱりだした彼女はこう告げた。
『私たちが前を向いて生きること。それが海燕先輩の一番の願いだよ』
そう鮮やかに微笑んで
『だから……泣いていいんだよ、ルキア?』
涙を流すことで前に踏みだせるのなら、それを躊躇うことはない。
好きなだけ泣いて、そして笑えばいいのだと。
一点の曇りのない笑顔でそう言いきってくれた。
海燕の死後、ルキアが涙を流したのはそれが初めてだった。
「おまえのおかげで私は再び前を向くことができた。おまえが泣いてもいいと言ってくれたから。──だから、沙羅」
自分をはっきりと見据えるルキアの瞳を沙羅は見つめ返した。
「おまえもこれ以上……無理に明るく振る舞わなくていい」
慈愛といたわりに満ちた瞳だった。
心まで温かくなるような。
沙羅はふっと表情を緩めると、手向けた花束に目をやった。
護れなかった命。
前を向いて生きることが、その贖罪になるのなら。
「ありがとう……」
顔をあげた沙羅はまるで泣き笑いのような顔だった。
それでも涙を流さなかったのは彼女の強さだ。
「ルキア……ありがとう」
もう一度そう告げて、沙羅はきゅっとルキアの手を握りしめた。
深く澄んだ濃紫の瞳はうっすらと潤んでいた。
「……雲行きが怪しくなってきたな。そろそろ帰ろう」
頭上の黒い雲を眺めて腰をあげたルキアに沙羅は追随しなかった。
「ごめん。私ちょっと寄りたいところがあるから先に帰っててくれる?」
「……」
「大丈夫だよ、すぐに帰るから」
咄嗟に眉間に皺を寄せたルキアに苦笑を浮かべてそう約束すると、彼女は渋々頷いた。
「絶対にすぐ戻ってくるんだぞ」
「はーい」
笑いながら去っていく背中を見送って、ルキアはここにきて三度目となるため息をもらした。
「私ではだめなのだな……」
泣いてもいいと言ってもなお、沙羅は涙をこらえた。
副隊長という重圧は、それほどまでに彼女に重くのしかかっているのか。
ならば自分の前でなくともいい。
ただ、どうか沙羅が思いのままに泣ける場所があるように。
そして、どうか彼女の涙を拭ってくれる人がいるように。
遠ざかる後ろ姿にルキアは心から祈りをこめた。
*
二週間ぶりに訪れた公園は相変わらずひっそりと静まり返っていた。
恐る恐る桜の木に近づいて、ほっとする。
だいぶ蕾が膨らんではいるが、開花はしていない。
まだ彼との約束は果たせそうだ。
「……ウルキオラ……」
呪文を唱えるかのように、そっと音に乗せてみる。
無論声は返らない。元々こんな場所にはいるはずのない相手だ。
そうとわかっていても、呼ばずにはいられなかった。
この桜の木こそが彼との繋がりを感じられる唯一の場所だから。
「……ウル、キオラ……ウルキオラ……!」
呼び声は次第に嗚咽に変わる。
桜の幹に額を押しあてて、こみあげる涙を必死にこらえようとした。
ルキアはいいと言ってくれたが、やはり彼女の前で涙を流すことは躊躇われた。
隊士たちを救えなかった自分に、彼らの死を悼む権利なんてない──
その思いが懸命に涙を押しとどめた。
でも本当は
ずっとずっと泣きたかった。
苦しくて
哀しくて
胸が焼けるように痛くて
ずっと大声で泣き叫びたかった。
「…………っ」
ポタリ、と握りしめた拳に雫が落ちて
とうとう沙羅は自らに課した戒めを解いた。
「うあぁぁぁぁぁっ……」
胸の奥にひた隠しにしていた塊は、悲痛な叫びとなって沙羅の口からあふれだした──
*
現世におりたのは例の任務以来だった。
あの日、グリムジョーとともに虚圏へ帰還し報告を終えたウルキオラに、彼らの主はふと首をもたげて問いかけた。
「どうしたんだいウルキオラ? 顔色が優れないようだ。具合が悪いなら医療隊に診てもらうといい」
「いえ……問題ありません」
表情ひとつ変えずに首を振るが、藍染は憂いの表情を浮かべて続ける。
「無理をすることはないよ。君は大事な戦力だ。ここ最近君には任務を与えすぎたかもしれないな。少しの間休むといい」
「……はい」
主の提案に異を唱えるでもなく、ウルキオラは頷いた。
働けと言われればいくらでも働くし、休めと言われれば休む。それが配下たる自分の務めであった。
そうしてしばしの休暇が与えられたものの、なにをするでもなくただ自宮で時間が過ぎるのを待つばかりだった。
無論、脳裏に浮かぶのはただひとり。
あまりある時間は余計に彼女を思い起こさせる。
沙羅は今どうしているのか。
あのあと、もの言わぬ塊となり果てた仲間の姿を見てしまったのだろうか。
沙羅は──……
そこまで考えて失笑した。なにを今更、と。
あの少女を斬った感覚は今も手に残っている。
全身に浴びた返り血の生温かさが張りついて消えない。
沙羅が今、どれだけ傷つき、どれだけ嘆いていたとして。
その原因を生みだした張本人である自分になにができる?
あのとき、虚の本能に駆られて刀を振りおろした俺は
舞い上がる血飛沫に確かに悦びを感じていたというのに──
ざわっと黒い影が迫ってくるのを感じてウルキオラは寝台から飛び起きた。
あのときと同じ……自分が自分でなくなるような、そんな感覚が身を包む。
汗の滲んだ額を押さえると、ふっとあの桜の頂上から眺める景色が頭をよぎった。
……あそこに行けば少しは心が休まるかもしれない。
穏やかな町並みはきっと平穏をもたらしてくれる。
そう、あくまで自分のため。
決して彼女に逢うためではないのだと言い聞かせながら、ウルキオラは現世への道を辿った。
そうして二週間ぶりに訪れたあの公園で
桜の前にひとり佇む彼女を見つけたのだった──
桜の下で揺れる薄茶の髪に、咄嗟に息を殺して身をひそめた。
木陰からじっとその姿を確認する。
……間違いない。沙羅だ。
久しぶりに目にした姿に、無意識のうちに安堵の息がもれる。
その横顔はなにを思っているのか──桜の枝を見上げて切なげに歪んでいた。
思わず声をかけたくなって、すんでのところでこらえた。
…………だめだ。
俺にそんな資格はない。
だが、次の瞬間信じられない声がウルキオラの耳を貫いた。
「……ウルキオラ……」
祈るように
願うように
小さく呟かれた己の名。
まるで心臓が鷲掴みにされたかのような感覚を覚えた。
まだ出逢って間もない頃、「名前に意味などない」と吐き捨てたウルキオラに対し、「呼ぶ人が気持ちをこめれば、意味のあるものになる」と笑った沙羅。
だとしたら、今何度も繰り返し紡がれるその名にはどんな想いがこめられているのか。
それを語ることなく呼び声は嗚咽に変わり、嗚咽は悲痛な叫びに変わった。
桜の幹に額を押しあてた沙羅の頬を幾筋もの涙が伝う。
一体どれほどこらえていたのか、流れ落ちる涙はいつまでも枯れることはなく、それと共に呼ばれる自分の名にウルキオラは胸が引き裂かれそうな痛みを覚えた。
できることなら──今すぐ抱きしめたい。
この腕の中にかき抱いて、好きなだけ泣かせてやりたい。
だがそう思う心とは裏腹に体は一歩も動かなかった。
彼女の仲間を手にかけた俺が
その仲間の死を悼んで泣く彼女に、なんと声をかけろと?
もうこれ以上近づくな。
余計に傷つけるだけだ。
こうしてひとりで涙を流す彼女を、遥か彼方の時から知っている。
……同じだ、あの頃と。
俺は、今も昔も、あいつを苦しめてばかりいる──……
迫りくるのは漆黒の闇。
何度も夢に見た虚無の世界。
絶望にも似たあの闇の中で、ウルキオラは必死に彼女の名を呼び、その姿を捜し求めていた。
それこそが、虚に堕ちた彼が理性を保つ唯一の手段だったから。
そして彼はついに見つけた。
闇の中で光輝く一輪の花を。
嬉しくて嬉しくて、駆けよって、手を伸ばして、そして躊躇った。
たおやかな光を放つその花は、美しくあると同時にひどく儚げで
穢れたこの手で摘みとってしまったら、たちまちその輝きを失ってしまうのではないだろうかと。
この腕に抱いた途端、彼女まで闇に引きずりこむことになってしまうのではないだろうか、と……。
悩んで、迷って、そしてとうとう彼は決意した。
花に向けて伸ばしかけた手をおろして、何事もなかったかのように身を翻して。
求めるものすらなくなった闇の世界へ向けて再び踏みだす。
背後からはいまだまばゆい光があふれているというのに。
これでいい。
本当に彼女のためを思うならこうする他ない。
そのほうがきっと幸せになれる。
俺の傍にいるよりも、ずっと──
そう言い聞かせて背中越しに別れを告げた。
愛してやまないその人へ。
さようなら
沙羅……
そのとき
弱々しい声が耳に響いた。
「ウルキオラ…………?」
***
《You Can Cry…どうか涙を》
涙をこらえる姿を見るのは、余計につらいから。