スタークらと別れたウルキオラ・沙羅・グリムジョーの三人は、玉座の間へと続く回廊の途中で一旦歩みを止めていた。
沙羅の卍解により鏡花水月の完全催眠を無効化できるかもしれないとの考えに至ったものの、正面きって突入するのはあまりにも浅はかだ。相手は気迫だけで十刃を圧倒できるほどの霊力を持つ男。斬魄刀の能力がなくとも段違いの強さを誇る。
「俺が最後に見たとき、藍染様は崩玉を手にしていた。もうほとんど覚醒している状態だと思っていいだろう。恐らく今も崩玉に守られているはずだ」
「崩玉か……くそっ、厄介だな。鏡花水月を封じても崩玉をどうにかしねえと手の出しようがねえ。どこを切っても超速再生で回復するだろうからな」
「でも、超速再生にも限界はあるんじゃないの?」
「もちろん再生できない部位もある。どんなに優秀な再生能力を持っていても脳と臓器の再生はほぼ不可能だ。だが、それはあくまで俺たち破面を基準にした話だ。崩玉が有する再生能力がそれを上回る可能性は充分にある」
「…………」
ウルキオラとグリムジョーが神妙な面持ちで意見を交わす間、沙羅は顎に手を当ててじっと考え込んでいた。
「──少なくとも鍵となる沙羅の卍解の効力をもう少し知っておく必要があるな。沙羅。おまえの卍解を俺に見せてくれ」
「えっ?」
思考を巡らせていたところに呼びかけられ沙羅は上擦った声を上げた。一拍遅れて言われたことを理解して更に驚く。
「危険だよ! 何かあったらどうするの?」
「相手を眠らせるだけだろう? おまえに敵意がなければ受けても害はないはずだ。現に卍解を受けたグリムジョーは傷ひとつ負わなかったと言っている」
「それはそうだけど……」
「夢幻桜花。問題はないな?」
ウルキオラが沙羅の背後に向けてそう語りかけると、夢幻桜花がうっすらと姿を現して頷いた。
『ええ。例えあなたが夢の中に捉われたとしても、沙羅が卍解を解けば済むことです。あなたが抗わなければ霊力もさほど消費しないで済むでしょう』
「なら決まりだ。沙羅、やってくれ」
こちらを見るウルキオラの瞳は本気だ。沙羅はごくりと喉を鳴らして夢幻桜花を抜刀した。
「卍解──百年夢幻咲き」
一枚、二枚と夢幻桜花の刀身から舞い出る桜の花が、瞬く間に視界を埋め尽くしていく。
それと同時にとても穏やかな温もりに包まれた。春の木漏れ日に眠気を誘われるような心地よい感覚。
その感覚を懐かしく思いながら、ウルキオラは自分を呑み込まんとする無数の花弁に身を委ねて瞼を閉じた。
**
目が覚めたとき、辺りの景観は一変していた。
だがウルキオラは取り立てて動揺することはなかった。すぐにそこがどこであるかがわかったからだ。
「懐かしいな……」
思わずそう呟いたものの、実際にはつい最近まで足繁く訪れていた場所だった。だが一時的に記憶を奪われたり自我を失っていたこともあり、今のウルキオラにはずいぶんと懐かしく感じられた。
あの一番太い枝に腰かけてよく沙羅を待っていたものだ。遠くから駆けてきた沙羅が、俺を見つけてパッと顔を輝かせる瞬間が好きだった。自分の中の願いが体現されるとしたら、それはいくつもの思い出が詰まったこの場所しかないだろう。
初めて沙羅と想いを通わせた場所。
人間として出逢ったときも、破面として生まれ変わってからも。
何度も彼女と時をともにし、他愛のない話をしたりふざけ合ったりしながら過ごした場所。
そう、全てこの桜の下で。
「ウルキオラ」
美しく色づいた桜の木を見上げていたウルキオラの背後から不意に声が届く。振り返った先には、長い薄茶色の髪を気持ちよさそうに風になびかせる沙羅の姿が。
「やっと逢えた」
ふわりと目を細め彼女は柔らかく微笑んだ。
「ずっと待ってたんだよ?」
「ああ……すまない」
自然に返事を返してからウルキオラは自身に起きた変化に気づく。仮面も翼もないただの人間の姿へ戻っていることに。
だが沙羅はそんな自分を『ウルキオラ』と呼んだ。
これもまた己の願いのひとつなのだろうか。過去の自分ではなく今の自分を見てほしいという幼稚な自己顕示欲。結局はどれも自分自身に違いないということは紫苑との対話を通じてわかったはずなのに。
「いいよもう。いつまででも待つつもりでいたし。こうして逢えただけで十分」
俯き加減になったウルキオラを気遣ってか沙羅はわざと軽い調子で肩をすくめる。そしておもむろに視線を上方へ移すと、遠い空の彼方を眺めて深い笑みを浮かべた。
「いろいろあったけど……これでようやくウルキオラと一緒にいられるんだよね……」
「……」
「世界は変わった。尸魂界も、虚圏も」
沙羅の澄んだ声色を乗せて穏やかな風が吹き抜ける。それはまるで時代の流れを伝えるかのようにふたりの周囲を駆け巡り、鮮やかな桜の花弁を舞い上げた。
「もう死神と破面が争う必要もない。誰も私たちを引き離したりしない」
ゆっくりと振り返った沙羅の瞳がウルキオラを捉える。
その輝きに目を奪われそうになりながらウルキオラは頭の隅でぼんやりと考えた。
世界が変わり、時代が変わっても、決して色褪せないものがある。
それは花の美しさと、人の想いだ。
沙羅への想いだけは何があろうと変わることはない。そして沙羅もまた同じように想ってくれているものと確信できる。
何年後でも、何十年後でも、……百年後でも。
そうしていくつもの時を超え、争いのなくなった世界で誰にも邪魔されることなく沙羅とふたりで生きることができたなら──
それこそが自分の理想の未来であるに違いない。
「これからはずっと一緒にいようね」
桜の花に包まれながらはにかむように沙羅が笑う。
そう、これが俺の願いだ。
沙羅が隣にいて、春には鮮やかな花が咲いて、平穏な日々が続いていく。
どこにでも存在するようなありふれた幸せを、本当の意味でありふれたものにすることが。
俺の、俺たちの、百年前からの願い。
「ああ……そうだな。だが──」
穏やかな笑みを返して、ウルキオラは言葉を続けた。
「俺にはまだ為すべきことが残っている。おまえとともに生きるのはそれを片付けてからだ」
おまえもわかっているんだろう?
口には出さずにそっと愛おしむように沙羅の頬を撫でる。
すると沙羅は一瞬目を見開いたあと、瞳を細めて笑った。少し寂しそうな、けれど安堵したような表情で。
「……そっか。あなたはまだ……闘わなくちゃいけないんだね」
このままずっと、ここで沙羅とふたり生きていけたら。そんな甘い考えがよぎらなかったわけではない。
けれどそれではただの夢物語になってしまう。
俺はまだこの願いを実現させるだけの成果を挙げていないし、闘いすら挑んでいない。
己の手で切り開いた未来でなければ沙羅を幸せになどできるはずもない。
「……行くの?」
窺うように見上げてくる沙羅に頷きを返す。
名残は惜しいが、ここに留まっていても想いは募るばかりだ。今目の前にいる彼女ではない、虚夜宮で闘いの渦中にいる沙羅が自分の帰りを待っている。
そう明確に意識した途端ウルキオラの身体は淡く光り出した。
「わかった。でもひとつだけ約束して」
ウルキオラの覚悟を感じ取った沙羅は一度瞼を伏せてから顔を上げる。
「全てが終わったら必ず戻ってきて」
「ああ……約束する。必ずおまえの元へ戻る」
祈りを籠めた眼差しに向けてはっきりと告げると彼女は嬉しそうに微笑んだ。その輪郭が白く霞んでいく。
「……ありがとう。信じて待ってる」
桜の花弁に包まれ消えゆく沙羅を見て思った。
夢幻桜花が生み出す夢の世界は、対象者の願いを具現化したもの。
もしも俺の願いがそのまま具現化されているのなら、今目の前にいるのは──
「また逢おうね。いつか、きっと」
「沙羅……」
未来の君……なのか?
幾分髪が伸びたように見える沙羅に歩み寄ろうとするも、降り注ぐ桜の花に阻まれそれは叶わずウルキオラの視界は白く染まっていった。
**
薄く開いた瞳に真っ先に映し出されたのは沙羅の驚いた顔だった。
「えっ……?」
「……どうした? 何か問題でも起きたか?」
むくりと起き上がってウルキオラは辺りの様子を確認する。見たところさほど時間は立ってないように思える。身体にも特に変わった様子はないのだが。
「あ、ううん。ビックリしただけ。今卍解を解こうとしたところだったから──」
沙羅の言い方からすると、まだ卍解を解いていなかったということになる。つまりウルキオラは自力で夢幻桜花の卍解を解いたのだ。
『……驚きました。まさかあなたまで自力で眠りから覚めるとは』
沙羅の隣に姿を見せた夢幻桜花もまた、動揺を隠せない様子だった。しかしその表情はどこか嬉しそうでもある。
『やはりあなたも夢に囚われない強い意志を持っているのですね』
「ウルキオラが戻ってきてくれてよかった……」
「おまえと約束したからな」
「私と?」
不思議そうに首を傾げる沙羅にウルキオラは黙って微笑みを返した。
「おい、呑気なこと言ってる場合かよ。おまえ本気で卍解したのか? ウルキオラに破られてるようじゃ藍染なんて話になんねえだろうが」
「言ったはずだ、卍解の効力に霊圧の強さは関係ない。必要なのは願う強さとその願いに対する執着心。俺は夢だとわかっていたから戻ってこられただけだ。大体おまえ自身まんまと沙羅の卍解に嵌まっていただろうが」
ウルキオラがすかさず反論するとグリムジョーは低く舌打ちして顔を逸らした。
「ねえ、ウルキオラはどんな夢を見たの? その……誰か出てきた?」
おずおずと問いかけてくる沙羅にウルキオラは何度か目を瞬いた後、おもむろに口元を緩める。
沙羅にまつわること以外一体何を願えというのか。そんなわかりきったことを尋ねる彼女が可笑しくて、そしてこの上なく愛しくもあった。
「おまえしかいなかった。何か不満か?」
わざとらしく告げれば沙羅は照れたのか目線を外して「体調は?」と話題を変えた。もう少しからかってやりたいとも思ったが、今はグリムジョーもいる手前控えておくことにする。
「特に変わったところはないな。気分も悪くない」
「それで肝心の鏡花水月の催眠は解けたのかよ」
緊張を欠いたふたりのやりとりにグリムジョーがイライラと腕を組む。節々を動かして自身の身体を確かめていたウルキオラは、そこで初めて頭の中がやけにすっきりと冴え渡っていることに気がついた。
これまで絶えず圧しかかっていたはずの罪の意識──主に刃を向けるという背徳感が綺麗に払拭されている。てっきり己の創造主に対する本能的な服従心がそうさせるのだとばかり思っていたが、沙羅の卍解を受けて解消したということはこれも完全催眠の一種だったということなのだろう。
「そういうことか……」
「ウルキオラ?」
「完全催眠というのは、催眠下にいるという自覚すら奪われるものなんだな」
自身の掌を見つめウルキオラはぽつりと呟く。完全催眠下から解き放たれたことにより、これから敵対する相手がいかに強大な力の持ち主かをまざまざと思い知らされた。
「まあいい。これでこいつの卍解の効果は実証できた。あとは崩玉か……どうにかして藍染から崩玉を引き離せれば付け入る隙もあるだろうが──」
眉間に皺を寄せて唸るグリムジョーに沙羅が顔を上げた。ぎゅっと夢幻桜花の柄を握りしめて口を開く。
「そのことなんだけど、ひとつ試してみたいことがあるの」
*
「なるほど。試す価値は十分にあるな」
「うん。結果がどうなるかはわからないけど……」
「面白れェ。いいぜ、おまえの案に乗ってやる」
沙羅の提案をウルキオラとグリムジョーがそれぞれ了承したことで、対藍染惣右介の戦術は概ね固まった。
無論戦術といっても、希望的観測ばかりを並べたある種の賭けにすぎない。仮にそれらが全て成功したとしてもかの男を止められる保証はどこにもないのだ。それほどに圧倒的な力を誇る相手。
それでも。
未来を掴むためには、立ち向かうしかない。
ごくりと唾を飲み込んだ沙羅が上を向いたその瞬間だった。
「──っ!?」
ズシンッと全身に重みを感じて沙羅は咄嗟に身構えた。
後方で突如膨れ上がった爆発的なふたつの霊圧。するとウルキオラとグリムジョーが同時に反応を見せた。
「おい……スタークの霊圧じゃねえか。解放したのかよあいつ」
「バラガンも一緒にいるようだな」
「バラガン?」
「
「どういうことだよ! なんでスタークがバラガンと闘ってんだ」
衝撃に耐えかねて崩れ落ちてきた瓦礫を鬱陶しそうに弾くグリムジョーには答えず、ウルキオラはふたつの霊圧の動きに集中していた。だが隣で沙羅が不安そうに見つめているのに気づいて、振り切るように前を向く。
「行こう」
「でも……」
「スタークのことを気にかけるなら、尚更俺たちは先に進むべきだ」
きっぱりと言い放ったウルキオラに沙羅も表情を引きしめて頷いた。
スタークの解放の理由が自分たちにあるとして、それに報いる方法はただひとつ。この闘いを終わらせることだ。
最早一刻も無駄にはできない。
「急ぐぞ」
後方の霊圧がぶつかり合う度に激しい地鳴りと衝撃波が辺りを包む。それでも三人は振り返ることなく奥を目指し、遂に玉座の間まで辿り着いたのだった。
*
虚夜宮の最深部に存在するその場所は、それまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。息遣いさえも響きそうな静寂に沙羅は自然と拳に力を籠める。
王が鎮座する場所を守るのに相応しい重厚な扉の前には、ひとりの男が立っていた。
それはウルキオラもグリムジョーも、そして沙羅にとってもよく見知った人物だった。
「来たか。草薙沙羅」
「東仙隊長……」
元九番隊隊長、東仙要。盲目でありながら人を見る目に長け、檜佐木を始めとする部下からは厚い信頼を寄せられていた男。
沙羅は直接関わりを持つことこそほとんどなかったが、霊術院の先輩である檜佐木が酒の席で度々「あんなに正義感が強い人はいない」と熱弁するのを聞いていたので必然的にその印象が定着していた。
その東仙がまさか尸魂界を裏切って藍染につくなど誰が予想できただろう。彼の古くからの友人である七番隊隊長の狗村ですら、いまだにその行動の真意を測りかねているのだから。
「まさか本当に現れるとは……檜佐木の話を聞く限り君はもう少し利口な者だと思っていたが」
淡々と話す東仙を沙羅はじっと唇を引き結んで見つめる。語り口こそ沙羅の知る東仙要そのものだが、今の彼は藍染に忠実な腹心であり、多くの破面たちを束ねる統括官という立場だ。
「悪戯に争いを生むこともないだろう。嘆かわしいことだ」
「……あなたは違うと仰るんですか」
「何?」
「悪戯に争いを生んでいるわけではないと……尸魂界を裏切ったのにも正当な理由があると、そう仰るんですか!」
酒が入って饒舌になった檜佐木が誇らしげに東仙のことを語っていた姿を思い出して、思わず強い口調で言い放っていた。
すると感情的になった沙羅を抑えるようにウルキオラが前に出る。
「そこを退いて頂けますか、東仙統括官」
「ウルキオラ……君には失望したよ。君は最も藍染様に忠実な十刃だとばかり思っていた」
「……」
「まあいい、君たちの処罰は藍染様がお決めになることだ。通るといい。藍染様がお待ちだ」
すっと扉の前から退いた東仙は、そこで初めてグリムジョーへと顔を向けた。
「だがグリムジョー。おまえは別だ」
「ンだと?」
「今朝の定例会にも姿を見せなかったな。日頃の反抗的な振舞いに重ねて、あろうことか侵入者に手を貸す始末。例え藍染様がお赦しになっても私が貴様を赦さない」
「ハッ! そりゃ奇遇だな」
光を映さぬ瞳が憎悪を浮かべて自分を射るのを見て、グリムジョーは鼻でせせら笑った。ぱきん、と指の関節を鳴らしながら。
「俺も藍染の前にまずてめえをぶっ殺したいと思ってたところだ」
途端に膨れ上がった東仙の霊圧に沙羅は反射的に身構える。しかしグリムジョーがそれを制した。
「こいつは俺の獲物だ、先に行ってろ。片付けたらすぐに行ってやる。それまでドジ踏んでやられんじゃねえぞ」
そう吐き捨てて背を向ける。その際一瞬だけウルキオラと目線を交わしたが、双方の間に言葉はなかった。
ウルキオラは沙羅を連れて玉座の間へと続く扉の前に立つ。
この扉を隔てた先に全ての元凶となった人物がいる。虚圏を力で支配し、尸魂界を混乱に陥れ、更にはこの天地全てを我が物にせんと目論む男。
ともすれば怖気づきそうになる心を、ウルキオラは沙羅に視線を注ぐことで奮い立たせた。
夢幻桜花の卍解が見せた自身の願いと、彼女の願い。それを現実のものとするために。
こちらを見上げる沙羅に一度頷いてから、ウルキオラは扉へと手をかけた。
***
《Swear to You…遠き日の君に誓う》
夢が見せた幻が、いつか現実となるように。