主を失った玉座の間はそれまでの出来事が嘘のように静まり返っていた。
虚空を見つめたまま立ち尽くす沙羅の足元にころころと崩玉が転がってくる。未だ薄桃色に光り続けるそれに手を伸ばし、しばし逡巡してから指先でそっと触れた。拾い上げてみても崩玉は変わらぬ輝きを放つだけだった。
「沙羅」
呼び声に振り返って、ウルキオラの顔を見て、ようやく実感する。ウルキオラは
ああ……終わったんだ。
だが手放しで喜ぶことはできなかった。そう割り切るには代償が大きすぎた。
否、正確にはまだ終わってはいない。彼に託された願いが、残っている。
崩玉を握り締めて、ウルキオラを見上げた。ウルキオラも沙羅を見ていた。互いに言葉はなかった。
「……おい。何ぼさっとしてんだよ」
沈黙を破ったのはどちらの声でもない。後方から姿を現したグリムジョーだった。
「グリムジョー! 動いて大丈夫なの?」
藍染に放った
「人の心配してる場合かよ。んなことより──」
言いながら沙羅の手元へと目を向けるグリムジョー。
淡い光を放っていた崩玉に異変が起こり始めていた。小刻みに震え出した崩玉の内側に、幾重もの亀裂が入っていく。
「市丸隊長……」
恐らくこれがギンの卍解の効力なのだろう。外部からのあらゆる干渉を弾いていたはずの崩玉の防壁が、みるみる弱まっていくのが見てとれた。
それと同時に崩玉の内部からただならぬ霊圧が漏れ出してくる。これまで崩玉の中に蓄積されてきた幾百、幾千もの魂魄の集合体。
藍染という絶対的な主の存在によって均衡を保っていたその霊子の塊が、今にも崩玉の殻を破って飛び出そうとしていた。それらの全てが放出されれば、この虚夜宮はおろか、虚圏全土をも巻き込む爆発にもなりかねない。
「──縛道の七十三・
沙羅は縛道を詠唱し、崩玉を結界の中に閉じ込める。一旦は鎮まったものの崩玉から溢れ出す霊圧の量を考えれば結界が破れるのは時間の問題だった。
「チッ……藍染の予言通りってわけかよ」
結界の中で渦巻いている膨大な霊圧に目を細めてグリムジョーが眉根を寄せる。
「このままだと崩玉が暴走するってんなら、とりあえずおまえが宿主になるしかねえだろ。あとのことはそれから考えりゃいい話だ。死神の頭でっかちどもがどうにかすんだろ」
「……うん……」
グリムジョーにしては珍しく、気遣いを含んだ物言いだった。だがそれに応じる沙羅の歯切れは悪い。
「おまえがやらねえなら俺がやってやる。崩玉をこっちに寄越せ」
「やめておけ。口より先に手が出るようなやつを崩玉が選ぶはずがない」
「あァ? てめえそりゃどーゆー意味だ!」
「言葉通りの意味だ」
胸倉に掴みかかったグリムジョーの手をそれ見たことかと言いたげに振り払うウルキオラ。その様子に一瞬笑みをこぼした沙羅だったが、その表情はまたすぐに曇った。
「……おまえ、まさか市丸の言ったこと真に受けてんじゃねえだろうな」
「……」
今度は何の返答もできず、押し黙る。
「馬鹿か! それで崩玉をぶっ壊しても死んだら何の意味もねえだろ!」
まっすぐに怒りをぶつけてくるグリムジョーが心地よかった。
「グリムジョー……ありがとう」
「は⁉ てめ、人の話聞いてんのか!」
へらりと笑う沙羅に苛立ちを露わに詰め寄るグリムジョーだが、行く手をウルキオラに阻まれた。
「もう身体は回復したようだな。動けるのなら、おまえは付近にいる同胞たちにすぐにここから離れるよう伝えに行け。なるべく多くの者にな」
「んだと? 誰がてめえの指図なんか──」
「沙羅が宿主になったとして、完全に暴走が収まるとは限らない。巻き込まれるのはごめんだろう」
「だったらてめえがやりゃあいいだろうが」
「俺は沙羅から離れるつもりはない。おまえができないというのならそれまでだ。他に頼める者などいないからな」
「…………」
無言で睨み合うこと数秒。チッと舌打ちしてからグリムジョーは身を翻した。
「てめえわかってんだろうな? これで貸しはふたつだぞ」
「いちいち細かい奴だな。言われなくても早々に返すさ。おまえにふたつも借りがあるのは気分が悪い」
「……前みてえに忘れたらただじゃおかねえからな」
「しつこいぞ。わかったから早く行け」
「グリムジョー、お願いね」
あしらうウルキオラを肩越しに睨んでから、グリムジョーは崩壊した玉座の間の扉をくぐっていく。その背中を笑顔で見送っていた沙羅だが、グリムジョーの姿が消えてしばらくすると寂しげに視線を落とした。
──ぽん。
頭上に置かれた手を辿るようにして、隣のウルキオラを仰ぎ見る。
「……そんな顔をするな」
その翡翠の双眸に映る私は、一体どんな顔をしていたのだろう。
案じるようにふわりと頬を撫でるウルキオラの手の温もりに沙羅は瞼を伏せた。
自分の手と比べたらいくらか冷たいのかもしれない。それでも確かな温度が、この手にはある。
「どうして何も言わないの?」
意を決して尋ねるとウルキオラはさして驚きも見せず、小さく肩を竦めてこう告げた。
「おまえがそうと決めたのなら、何を言っても無駄だろう」
そうだろうか。
もしもウルキオラが本気で止めるなら、私は……
そこまで考えて耳の奥に響いたのは彼の声だった。
──ほな、あとは頼むわ──
「……っ」
ギンの哀しげな笑顔が瞼の裏に焼きついて離れない。
百年の時の長さを知っている。
彼はその長い長い時間を、たったひとりで、孤独に闘い続けたのだ。大切な人から奪われたものを取り返す、そのためだけに。
「私は……」
ここへ来る前に願ったことはなんだったか。
桜の木の下でふたりがようやく想いを通わせ合ったあのとき
一度は死に別れた恋人と再び出逢い、結ばれて、ただそれだけでこの上なく幸せだった。
『ずっとひとりにしてごめんね。……だけどもう離れないから』
ウルキオラの自我が奪われ、虚圏へ乗り込む覚悟を固めたあのとき
今背負っている立場や責務の全てを捨ててでも、ウルキオラを取り戻したいと思った。
ウルキオラと生きる未来が欲しいと思った。
『私は死なないし、ウルキオラも死なせない。そのために行くんだから』
でも、多くの仲間の助力を受けて、ようやくウルキオラと再会を果たして
藍染により仕向けられた、憎しみが新たな憎しみを生むだけのこの闘いを、終わらせたいと思った。
『藍染惣右介を──止める』
単にこの場を収めるだけならば、グリムジョーが言ったように沙羅が崩玉の宿主となればいい。その後の崩玉の対処については、暴走を止めてから考えればいい。崩玉の主となることに不安はあるがそれが一番妥当な選択のはずだ。
けれど──
シュウウウ……
崩玉に小さな光の粒が発生し、内部に広がる亀裂を止めようとしていた。既に超速再生が始まっているのだ。
内部の再生が遂げられたらもう崩玉を破壊することは不可能になるだろう。そしてギンが百年もの時間をかけて紡ぎ上げたものも、全てが無に帰す──
「……」
ウルキオラと共に生きる未来。それが何よりの願いのはずだった。
『……約束よ。帰るときは一緒だからね?』
『先へ進め! そして戻って来い!』
自分を信じて送り出してくれた仲間たち。きっと帰りを待っているに違いない。
それなのに、私は
市丸隊長の願いを切り捨てることができないでいる──
力の加減も忘れて拳を握りしめる沙羅の手を、それよりも一回り大きいウルキオラの手が包んだ。
「つくづく不器用だな、おまえは」
口調とは裏腹に優しい眼差しが注がれる。
「おまえ自身の望みを一番に考えればいいものを。といっても、それで出たのが今の結論だと言うんだろう? ならば迷う必要はない。自分を責める必要もない。おまえがどんな選択をしようと、俺はおまえと運命をともにするだけだ」
その言葉にどれだけの想いがこめられているのか。
ウルキオラが何も言わなかったのは、これ以上沙羅に重荷を背負わせたくなかったから。どんな言葉をかけたとしても、どんな道を選んだとしても、沙羅は果たせなかった約束に対して罪悪感に駆られるに違いないから。
だが、それでも決して答えを人任せにはしない。自分で決めた道を、自分の足で突き進む。それが沙羅の強さなのだということをウルキオラはとうの昔から知っていた。
そんな彼女を、我が身全てを賭して護ろうとも。
「ウルキオラ……」
沙羅は視界が歪みそうになって、けれど今はそんな場合ではないと叱咤して、ウルキオラの手をぎゅっと握り返した。
崩玉の様子を見るに、残された時間はそう長くはない。迷っている暇は、ない。
「ありがとう、もう大丈夫。吹っ切れた」
からりとした笑みを浮かべた沙羅にウルキオラも瞳を和ませる。
「でも不思議、どうしてウルキオラって私の考えてることお見通しなの? ちょっと怖いくらい」
「それを不思議がっていることのほうが不思議だ。おまえほど顔に出やすくてわかりやすい奴が他にいるか?」
「失礼な! そりゃあ……ポーカーフェイスでは……ないかもしれないけど」
「自覚があるようで何よりだ」
「ウルキオラは逆にもうちょっと顔に出してもいいんじゃないの? 楽しいときは手を叩いて笑ったりしてもいいんだよ?」
「…………おまえ、それを想像できるか?」
「あ、ごめん、無理」
互いに図ったかのように軽口を叩き合うのは、これが最後になるかもしれないと知っていたから。仏頂面のウルキオラに沙羅はけらけらと笑い転げた。絡め合う指にこめた力はそのままに。
「グリムジョーはどこまで行ったかな……」
刻々と霊圧濃度を高めつつある崩玉を手に、沙羅は宙を見上げる。
崩玉を破壊すれば暴走そのものは止められるだろう。だが破壊の衝撃がどの程度まで及ぶかは想像がつかない。
この玉座の間一帯で済むのか、更に広範囲に亘るのか。いずれにせよ破壊した当事者は一瞬で消し飛ぶことになるだろう。
「なるべくならこの近くには誰も立ち入らないでほしいけど──」
「グリムジョーひとりでは動ける範囲も知れている。そもそもあいつがまともに避難を誘導できるかどうかが疑問だ。二言目には喧嘩を売るような奴だからな」
「またそんなこと言って……」
そこでふと黙り込んだウルキオラは、しばし顎に手を当てて思索を巡らせたのちに顔を上げた。
「沙羅」
「ん?」
「虚夜宮にいる者たちに、声を届けられるか?」
「え……あっ」
その言葉の意図するところに気づいた沙羅は目を瞠った。
「そっか、
やおらウルキオラの手を放すと、掌に霊力を集中させて紋を描く墨を生成する。天挺空羅は霊圧を細い網状に張り巡らせ、その中にいる複数の対象者の霊圧を捕捉し電信する縛道だ。
「ウルキオラの霊圧を介して接触すれば、他の破面たちの霊圧も補足できるかもしれない」
崩玉をウルキオラに手渡して自身の両腕に黒い紋様を描くと、沙羅はこくりと頷いた。
再びウルキオラの手を握り、瞼を伏せ、意識を研ぎ澄ましながら空中にも紋を描いていく。
「黒白の羅、二十二の橋、六十六の冠帯、足跡・遠雷・尖峰・回地・夜伏・雲海・蒼い隊列──」
詠唱とともにできる限り遠くまで霊圧を広げていくと、乱菊やルキア、恋次たちの反応を捕捉できた。それと同時に繋いだ手から流れ込んでくるウルキオラの霊力を、天挺空羅の網に乗せて運んでいく。彼と関わりのあった破面たちが示す反応を絡め取るようにして。
「太円に満ちて天を
声高に放つとふたりの身体から一気に霊圧が放出され、虚夜宮内を駆け巡っていった。
*
「──!」
玉座の間へ向かって瞬歩で駆けていた乱菊は足を止め、上方を仰ぐ。
「……沙羅?」
また別の場所では、遭遇した破面の集団と一戦交えていたルキアたちもその波動を察知していた。
「これは──天挺空羅? 恋次、おまえも感じるか?」
「ああ、沙羅に違いねえ!」
一方で破面の間にも動揺が走る。
「おい、この霊圧……」
「ウルキオラ様の──」
やがて彼らの耳に一筋の清廉な声が響いた。
《……ますか》
《聞こえますか? 私は護廷十三隊、十三番隊副隊長の草薙沙羅です》
「やはり沙羅だ!」
「まさか……本当に草薙くんが藍染隊長を倒したっていうのか?」
「沙羅ちゃん──!」
「そんな……では藍染様は……」
歓喜に沸くルキアらと、戦意を喪失する破面たち。だが彼らが本当に驚いたのはこの後に続いた声だった。
《…………第4十刃、ウルキオラ・シファーだ》
*
沙羅とウルキオラは玉座の前で互いに固く手を握り合い、天挺空羅の波動に言葉を乗せていた。
「急ぎ伝えたいことがあって通信を繋げました。この声は、ウルキオラの霊圧を介して破面の皆さんにも届けています。……どうか私たちの話を聞いてください」
言いながら沙羅はウルキオラを見上げた。ウルキオラはまっすぐ宙を見つめたまま、静かに口を開く。
「第4十刃の名において、全ての同胞に告ぐ。我らが主・藍染惣右介は崩玉に呑まれ消滅した」
抑揚のない口調で淡々と続ける。
「速やかに全ての戦闘行為を停止せよ。藍染様はもういない。死神と戦う意味もない」
「私たち死神も、これ以上の戦いは望んでいません。どうか戦いをやめてください」
祈るように、届くように。
紡がれた言葉は霊子の網に乗って飛んでいった。
*
「ウソ……。藍染様が、消滅……?」
玉座の間の手前に位置するその場所で、だらんと腕を垂れ下げて呟いたのはリリネット。その傍らでは座り込んだスタークが疲弊した顔で虚空を仰いでいた。
「あいつら……まじで藍染様を倒しちまったのかよ」
白を基調とした宮の様相は物々しい瓦礫の山へと一変していた。先程までのバラガン一味との衝突の名残だ。
「これで本当に──終わりなのか? ……いや、始まりというべきか……」
「なぁにカッコつけてんだよっ!」
「痛ってえッ!!! おまえなぁ! ちっとは怪我人をいたわれよ!」
リリネットに蹴られた尻を涙目でさするスターク。
「あたしだって疲れてんだよ! 人のこと馬鹿みたいにぶっぱなしやがって、おかげで弾切れだっての!」
「俺の霊圧で作ってんだから弾切れはねえだろ……っておい馬鹿! タマを狙うな殺す気か!!」
「一歩間違えればこっちが死んでたんだよ! あんたがバラガンのじじいに喧嘩売ったせいで!」
「仕方ねえだろ……あのじいさんを先に進ませるわけにはいかなかったんだ」
急に声色を落としたスタークに、リリネットもつられて口を噤んだ。
玉座の間へと向かうウルキオラたちを見送って間もなく、スタークの前に現れたのは第2十刃・バラガンとその従属官だった。
さも当然のように通り過ぎようとするバラガンを引き止めると、彼らは即座に霊圧を膨れ上がらせた。その後は互いに解放し、文字通りの死闘を繰り広げ、かろうじて一行を退けて今に至る。
そこに突然響いた藍染の消滅を告げる声。自分たちの戦闘に必死で玉座の間の動向にまで気を向ける暇などなかったのだから、ふたりが愕然とするのも無理はない。
「あーあ。くたびれたしじいさんの恨みは買うし、散々だな」
「スターク……これからどうするの?」
「さあな。もう藍染様はいないんだ、自分で考えるしかねえだろ。生きるってめんどくせえなぁ」
「でも、ひとりじゃない」
きゅっと袖を掴んで見上げてくるリリネットに、スタークはわずかに目を見開いた。幾ばくかの沈黙のあと、おもむろに口元を綻ばせる。
「ああ、そうだな。おまえもいる。仲間もいる。俺たちはもうひとりじゃない──」
リリネットの頭にぽんと手を乗せて、スタークは力強く踏み出した。
「行くぞリリネット」
「うん!」
*
沙羅とウルキオラの声は、玉座の間から遥か離れた第5の宮までも届いていた。
「どういうことだ……。藍染様が消滅しただと?」
自宮で状況を窺っていたノイトラは、突然の知らせに動揺を顕わにしていた。
《私たち死神も、これ以上の戦いは望んでいません。どうか戦いをやめてください》
「あの女……戯言抜かしやがって!」
「ですが、確かに藍染様の霊圧はどこにも感じられません」
後方に控えていたテスラが顔を上げる。その間も声は続いた。
《俺たちはこれから崩玉を破壊する》
《破壊の反動による大規模な爆発が予想されます。すぐに玉座の間から離れた場所へ避難してください》
「崩玉を破壊するだと……? んなことがあいつらにできんのかよ」
「ノイトラ様、どうされますか?」
「てめえはいやに冷静だな」
「私が仕えるのはノイトラ様ただひとりですから。ノイトラ様の指示に従うまでです」
表情ひとつ崩すことなく言い切るテスラに、ノイトラの片眉がぴくりとはねる。
そうだ。こいつは俺のために生き、俺のために死ぬ。
なら俺は──?
甦るのは数刻前に刃を交えた水浅葱の髪の男の台詞。
『それでもてめえは自分のために生きてるって言えんのかよ』
粗野で浅薄で気に食わない第6十刃が、去り際に言い放った言葉をもう一度自分に投げかける。
藍染が消えた今、この俺を縛るものは何もない。
俺は──
俺のために、生きる。
「テスラ。ここを出る準備をしろ」
「はっ。ただちに」
立ち上がった主にテスラは深々と
*
更に場面は第6十刃とその従属官たちへと移る。
「おい! どういうことだよグリムジョー! 沙羅が崩玉の宿主になって暴走を止めるんじゃなかったのか⁉」
慌てるディ・ロイには一瞥もくれず、グリムジョーはギリッと唇を噛み締めた。
「あんの馬鹿野郎……やっぱり借り逃げする気じゃねーか……!」
幾筋もの血管が浮かび上がった拳を力任せに壁に叩きつける。その背中を従属官たちは黙って見守っていた。
もしもこのときひとりだったなら、グリムジョーはすぐに玉座の間へと取って返していただろう。そしてウルキオラを殴り飛ばして「ふざけんじゃねえ」と罵っていたに違いない。
だが拳を収めて振り返ったグリムジョーは、上に立つ者の顔をしていた。
「ここを離れるぞ。近くに他の破面がいたらとっとと逃げるように伝えろ」
「グリムジョー……いいんだな?」
念を押すシャウロンに返事をする代わりに鋭い瞳を向ける。聡い腹心はそれ以上問うことはなかった。
「グリムジョー! あっちに倒れてる連中がいるがどうする?」
「ああ? 生きてんのか?」
「意識はあるようだがだいぶ派手にやられたみたいだ。
「……」
眉間に皺を寄せて逡巡するグリムジョー。と、まるでそれを見越したかのように再び沙羅の声が響いた。
《自力での避難が困難な人には、どうか手を貸してあげてください。──それが見ず知らずの相手でも》
「好き勝手言いやがって!」
いかにもあの女が言いそうな絵空事だ。やってられるかと一蹴すれば良いのにそうしなかったのは、切々と語りかけるその声があまりに真剣だったからだろうか。
《私たちは、お互いのことを何も知らないまま、ただ破面と死神というだけで長い間戦い続けてきました》
《戦う意味を考えず、相手を理解しようともせず、血で血を洗う争いを……何百年も》
物怖じしない澄んだ声は、それを聴く者たちの耳に染み渡るように響いた。
《何が私たちを敵同士と決めたんでしょうか。何をもって敵と見なしたのでしょうか。偏見を捨てて言葉を交わせば、争うことなく理解し合うこともできたはずなのに》
「……変わんねえな」
くっと喉を鳴らしたグリムジョーは現世で初めて沙羅と会ったときのことを思い出していた。
『破面と死神が和解なんてできるわけねえだろ!』
『試してもいないうちから決めつけないで』
『相手を理解しようともしないで、どうしてできないなんて言えるの! 話し合えば何か手段が見つかるかもしれないじゃない』
あのときとまるで同じことを言っている。
いつだってそうだ。頑固で負けん気が強くて──呆れるほどに馬鹿正直な女。
《死神だから。破面だから。そんなの戦う理由にはなりません。私たちはただお互いのことを知らなすぎただけ。それならこれから、知っていけばいい》
だからこそその言葉には
凍てついた破面の心さえも溶かす温度があるのだろう。
《私たちはもう敵同士じゃない。……ううん、最初から敵なんかじゃなかった。あなたが敵だと思っていたその相手は、もしかしたらかつては仲間だったかもしれない》
《かつては家族だったかもしれない》
《かつては──》
《誰よりも愛した人、だったかもしれない》
「…………」
「え、え? かつてはってどーゆー意味だ?」
「全く……無知にも程があるぞ兄弟。我々が破面として生まれる前──人間だった頃という意味だろう」
「へえーそっか。なんにも覚えてねえけど、俺にも可愛い彼女がいたりしたのかなぁ」
「安心しろ、それはない」
冷たくあしらうイールフォルトにディ・ロイは鼻息を荒くして詰め寄る。
「でもよ! でもよ! もしもその子が生まれ変わって死神になってたりしたらどうすんだよ!」
「万が一、いや億が一そうだったとして、おまえ自身が覚えていないのだから気づきようがないだろう」
「だから! そう思ったらもう女の死神とは戦えねえじゃん! 彼女だったかもしれねえんだから! 決めた、俺もう死神とは戦わねえッ!!」
「……単細胞もここまでくると清々しいな」
呆れを通り越して感心すらしているイールフォルトに、シャウロンも全くだと深く頷く。と、それまで口を閉ざしていたグリムジョーがざっと身を翻した。
「グリムジョー?」
「……おまえら、向こうの連中に手貸してやれ」
思いがけない台詞に顔を見合わせる従属官たち。だがすぐに気の良い笑みを浮かべてみせた。
「了解した。行くぞディ・ロイ」
「ほいさっ。──にしても……へへへ」
「んだよ?」
「いや、グリムジョーがそんなこと言うなんてなぁ。やっぱ沙羅に感化されたんだろ~?」
「るっせえ! とっとと動かねえとミンチにすんぞ!」
「うわああああ!」
沙羅が見ていたらきっと声を上げて笑っていたであろう光景が、そこには広がっていた。
**
「かつては──誰よりも愛した人、だったかもしれない」
いつを思い返しているのか、懐古を滲ませて語る沙羅の横顔をウルキオラは吸い込まれるように見つめていた。光もまばらな倒壊した宮の片隅にありながら、決して輝きを失わないその濃紫の彩りを目に焼き付けて。
ふぅ、と頬を上気させた沙羅が緊張が解けた面持ちでこちらを見上げる。それを機にウルキオラは引き結んでいた口を開いた。
大衆に向けて語りかけるような柄ではないが、沙羅が懸命に紡いだ言葉をただの夢物語で終わらせたくない。今の自分が伝えるべきことはわかっているつもりだ。
「……俺たちは、仮面を剥いで破面となることで力を得て、心を得た」
すぅっと息を吸い込んでウルキオラは話し出した。
「だが俺は、破面に心など必要ないと、そう思っていた」
低い声色の中にくっきりと意思を宿して、ひとつひとつの言葉を響かせるように。
「与えられた任務を全うし、藍染様に尽くす。そのためには感情など邪魔でしかないと思っていた」
──沙羅と出逢うまでは。
ちらりと沙羅に視線を移して、また戻す。
その姿を視界に収めるだけで心が震える。
そう、心は生きているのだ。
喜びに踊ることもあれば、悲しみに涙することもある。
怒りに熱くなることもあれば、絶望に凍てつくこともある。
決して楽しいことばかりではない、けれど。
心があるから、分かり合える。
心があるから、愛し合える。
全て沙羅が教えてくれたことだった。
「今ならわかる。俺たちが心を得た意味が」
「自分で自分を導くためだ」
「生きる意味も、戦う理由も、他人に委ねることなどできはしない」
「これから先何をすべきか、どうあるべきか。それを決めるのは自分の心だ」
ウルキオラの声は天挺空羅の波動に乗って、高く遠く広がっていく。
それは戦いに敗れ、傷つき横たわる破面に。
我関せずと逃げ出そうとしていた破面に。
主の敗北を知り、復讐に燃える破面に。
彼らの心に刻みつけるかのように、静かに木霊する声だった。
「全ての破面たちよ。俺たちを支配していた王は消えた。もう誰に戦いを強いられることもない」
「自由を手にするのは簡単だ。自らの意思で動けばいい」
願わくはそれが、血に染まらぬ道であるように。
「未来は誰かに与えられるものではない」
「願う未来は、自分自身の手で掴み取れ」
自分が沙羅と出逢えたように、彼らにも心の拠り所となる存在があるように。
「それが俺達に残された──ただひとつの、希望だ」
ウルキオラが話し終えたのを見て、沙羅はそっと繋いでいた手を離した。
途端にウルキオラの霊圧を介して接続していた全ての通信が途切れる。残ったのは自身の霊圧を基にして繋いだ5本の回線だけだ。
きゅ、と一度唇を引き結んでから沙羅はその残った通信──乱菊、ルキア、恋次、吉良、雛森へと繋がる回線へ向けて口を開いた。
《ルキア》
「……っ!」
突然耳元で呼びかけられたような感覚にルキアの肩がはねる。
《こんなところまで来てくれて、本当にありがとう。最後まで無責任な副隊長でごめんね。待雪草はルキアに託すよ。隊長やみんなのこと、お願いね》
「沙羅……!」
《雛森》
《ここへ来るのはすごく怖かったと思う。それでも助けに来てくれて、本当に嬉しかった。雛森は弱くなんかないよ。私たちはいつも雛森の笑顔に救われてた。これからもみんなを支えてあげてほしい》
「沙羅ちゃん……やだよ! そんな最後みたいな言い方!」
《恋次、吉良。いつもくだらないことで言い合ったりふざけたりしてたけど、私には最高に楽しい時間だったよ。ふたりとも、大切な人にはちゃんと気持ちを伝えてね。大丈夫、きっとうまくいくよ》
「なっ……何言ってんだよあいつ! 勝手なこと言ってんじゃねえ!」
「草薙くん……!」
そこまで言い終えて一旦目線を落とした沙羅は、揺らぐ瞳で押し出すようにその名を呼んだ。
《…………乱菊》
「……はっ……はぁっ……」
《前は私が乱菊の面倒見る役だったのに、いつの間にか私のほうが面倒かけてばかりになっちゃったね》
わざと明るく話す沙羅の声を耳元で聴きながら、乱菊は走る足を止めなかった。
乱菊がギンに白伏をかけられて気を失ったのはものの数分に過ぎない。それでも、目覚めたときギンの姿はそこになく、霊圧を辿れば沙羅が向かった玉座の間の方向から感じられた。
そしてギンの霊圧はそこで藍染の霊圧とともに──消えた。
《市丸隊長は……最後まで乱菊のことを想ってた。乱菊のことだけを……》
沙羅の声が震えそうになっているのが手に取るようにわかる。ギンはもう二度と戻らないのだと冷静に理解している自分がいた。そして今、沙羅も同じ道を辿ろうとしているのだと。
「なによ……なんなのよ……! ギンも沙羅も……いつもあたしを……置いてきぼりにして……ッ」
切れる息の合間に毒づいて、乱菊は手中にある緋色の石を一層強く握りしめた。
沙羅から預かった魔霊石。帰るときは一緒だと、そう約束した。約束したのに。
《私……乱菊といられて、いつも楽しかった……! 乱菊がいたから、前を向けた……強くなれた。本当にありがとう……っ》
嗚咽を押し殺した沙羅の声に、堪えきれず乱菊の目尻から涙が零れ落ちた。
「冗談じゃ……ないわよ……」
《一緒に帰るって約束……守れなくて、ごめんね》
「ごめんですむわけ……ないでしょっ……沙羅!」
こんな結末、納得できるはずがない。平手のひとつでもお見舞いしてやらないと気が済まない。
なのに声はどんどん遠ざかっていく。遠く。遠く。遥か彼方へと。
《……大好き。今までありがとう》
その声を最後に、天挺空羅の通信はぷつりと途絶えた。
「沙羅──ッ!!」
どれだけ呼んでも沙羅の声が返ることはなく、乱菊の悲痛な叫びだけが無人の回廊に虚しく響いていた。
***
《Through the Sky…天駆ける声》
この声が、この祈りが、届きますように。