Dear…【完結】   作:水音.

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第59話 Happiness ―魂の幸福―

 天挺空羅の術式を解除してしばらく経っても尚、沙羅は誰もいない虚空を遠い眼差しで見上げていた。

 その肩に触れようと手を伸ばしたウルキオラは、わずかな逡巡ののち拳を引き戻す。するとその気配を察した沙羅が笑顔で振り返った。

 

「さ! これでできる限りのことはやったよね。もう時間もないし、急がないと」

 

 友へ決別の言葉を向けたその瞳に涙はない。強がっている様子もなく、ただ覚悟を決めたのだとわかる表情だった。

 崩玉の状態を確認した沙羅は、再び霊力を集中させると高難度の縛道を重ねて詠唱していく。それを周囲に張り巡らせると、崩玉を中心に辺り一帯を覆うように包み込んだ。少しでも破壊の衝撃を軽減できるように。

 

「これだけ重ねればだいぶ吸収できると思うんだけど」

「ああ……」

 

 額に滲んだ汗を腕で拭って、縛道の強度を確かめる沙羅。その横顔をじっと見つめていたウルキオラは短く頷くと目を細めた。

 

「これなら俺が崩玉を破壊しても問題なさそうだな」

「ふたりで、でしょ?」

 

 迷いもなく言い切る沙羅にウルキオラは窺うような視線を向ける。

 

「……未練はないのか?」

「え? ……うん。伝えたいことは伝えたから」

 

 本当は、伝えたい言葉なら後から後から溢れ出てくる。

 危険を省みず虚圏まで助けに来てくれた親友や同期たち。自分を信じて副官証を託してくれた敬愛する隊長。尸魂界で待つ十三番隊の仲間たち。

 ごめんもありがとうも、どんなに伝えても足りない。伝えきることなど到底できないから。

 

「ウルキオラも言ったでしょ? 何をなすべきかを決めるのは自分の心だって」

 

 朗らかに笑う沙羅をウルキオラは眩しそうに見ていた。

 

「大丈夫。ウルキオラと一緒なら、怖くない」

 

 恐れなど微塵も感じさせない、蕾がぱぁっと花開くように鮮やかに色づいていく微笑み。己の全てを賭してでも護ると決めた笑顔。

 この笑顔を護るために、俺は──

 

「……いや」

 

 気づけばウルキオラは首を振っていた。

 

 

「おまえは生きるんだ、沙羅」

 

 

 *

 

「え……?」

 

 ぽかんと口を開けた沙羅は、何を言われたのか理解できていないようだった。

 

「おまえの役目はここまでだ。崩玉の破壊は俺に任せて、おまえはここから離れろ」

「本気で言ってるわけじゃないよね?」

 

 問いながらも沙羅の口調は怒りを滲ませていた。しかしそれを受けるウルキオラに怯む様子はない。

 

「藍染様が消え、虚夜宮が崩壊すれば、虚園は変わる。破面の未来を正しく導くにはおまえの存在が必要だ。破面の苦しみを理解できるおまえが」

「だからってウルキオラに全てを背負わせて私には逃げろって言うの?」

 

 強い眼差しがウルキオラを射る。

 

「私はもうどんなことがあってもウルキオラから離れないって決めた。ずっと一緒にいるって約束したじゃない!」

 

 どんな誤魔化しも許さないと言わんばかりに、まっすぐに。

 

「……頑固な奴だな」

 

 ふっとウルキオラが顔を綻ばせたので、沙羅は彼が納得して諦めたのだとそう思った。胸の内で安堵の息を漏らし、ウルキオラに歩み寄ろうとする。

 そこで初めて気がついた。身動きが全く取れないことに。

 

「何……?」

 

 自身の身体に目線を落とすと、黒い糸が絡みついていた。

 それが何なのか確認するよりも早く、突如ウルキオラが刀剣解放しブワァッと巨大な黒翼が背中に広がる。沙羅の身体はウルキオラの両翼から舞った黒い羽根に絡め取られていく。

 

「言って聞くような奴じゃないことはわかっているからな」

 

 困ったように肩をすくめるウルキオラを沙羅は驚愕の面持ちで見つめていた。

 この状況に頭が追いつかない。

 

『おまえがどんな選択をしようと、俺はおまえと運命をともにするだけだ』

 

 つい先ほどそう言ってくれたのは彼ではなかったか。

 

「心配しなくていい」

 

「次に目覚めたときには……全て終わっている」

 

 低い呟きが耳を掠めて、沙羅はキッとウルキオラを睨みつけた。

 

「……離して」

「……」

「今すぐ離して!」

 

 沙羅にしては珍しく、本気で怒っているとわかる目だった。

 当然だ。こんな裏切りがあっていいはずがない。

 どんな運命でも、ふたり一緒なら。ウルキオラと一緒なら恐れはしないと、そう心に決めたのに。

 

「私はウルキオラと生きる未来のためにここまで来たの。ウルキオラを失ってまで生きようなんて思わない!」

 

 そう、願う未来のために、心に宿る希望のために。

 遥かな空間を越えてこの地へ来た。

 結果的にふたりで生きる未来を選ぶことは叶わなくとも、それでも歩む道はふたり一緒だと。そう信じて疑わなかったのに。

 なぜウルキオラはそれを根底から覆すようなことを言うのか。

 

 沙羅の憤りをウルキオラはただ黙って受け止めるだけだった。

 

「どうして……?」

 

 どんなに霊力を込めても一向に解ける気配のない拘束に、沙羅は苦しげに顔を歪める。

 

「残される痛みを一番わかってるのはウルキオラでしょ……? なのにどうしてこんなことするの!」

 

 百年前、目の前で沙羅を失い、心を引き裂かれた紫苑。

 その痛みが彼を凶行に駆り立て、そして虚へとなり果てた。

 

「ああ……よくわかっている」

 

 ぐっとこらえるように瞼を伏せたウルキオラはそこで初めて表情を崩した。

 愛する者を失う痛み。ひとり残される苦しみ。あの耐え難い苦痛を、自分は沙羅に課そうとしている。

 

「だったら──!」

「だからこれは……俺のエゴだ」

 

 泣かせるとわかっていても

 傷つけるとわかっていても

 溢れ出す願いを止められない。

 

 俺は

 

 おまえに

 

 

「生きていてほしいんだ……」

 

 

 翡翠の双眸に哀しみを浮かべて告げたウルキオラに、沙羅は息を呑んだ。

 

「生きて、笑って……幸せになってほしい。二度もおまえを死なせたくはない……」

 

 掠れた声で吐露されたそれは紛れもないウルキオラの本心で。それに胸が締め上げられる想いをしながらも沙羅はきっぱりと首を横に振った。

 

「ウルキオラを失って……笑えるわけない」

 

「ウルキオラがいないのに、幸せになんてなれるわけない!」

 

 それだけは断言できるから。

 

「……大丈夫だ」

 

 微かに微笑みを浮かべたウルキオラに沙羅は直感的な悪寒を感じた。

 

「おまえの記憶は封じて行く」

「え…………?」

 

 呆然と目を見開いた沙羅の頬を、慈しむように撫でながら。

 

「おまえにあんな思いはさせない。俺に関する記憶は全て消していく」

「何を、言ってるの……」

「そうすれば、おまえが苦しむこともない。現に俺と逢うまでおまえは死神として充足した時間を過ごしていたはずだ」

 

 言い知れぬ恐怖が背筋を駆け上がっていく。

 頬に触れるウルキオラの指先は微かに震えていて、決して冗談ではないのだと否応なく突きつけられた。

 

「嫌……」

「おまえには多くの友がいて、多くの仲間がいる。皆がおまえの帰りを待っている。俺がいなくても──幸せになれる」

「やだ……やめて!」

 

 いつも自分を護ってくれていたはずの手が全く違うものに感じられて、沙羅は首を振って後ずさる。だが実際には身体は一歩たりとも動かなかった。

 

「……桜花……」

 

 追い詰められた沙羅が祈るように口にしたのは自身の愛刀の名だった。

 ウルキオラの意思を曲げることができないのなら、力づくでも抵抗するしかない。

 

「夢幻桜花……咲き誇れ、夢幻桜花!」

 

 既に卍解を会得している沙羅にとって、斬魄刀の化身を具現化することは容易い。だが沙羅の声高な呼び声に反応はない。

 

「夢幻桜花……? どうして応えてくれないの!」

 

 すると一拍遅れて目の前にポゥ……と白い光が現れた。光の中に桜色の長い髪が浮かび上がる。

 けれどそれは沙羅が普段目にするよりも朧げで、今にも消えそうに透けていた。

 

『沙羅……ごめんなさい……』

 

 か細い声で告げた夢幻桜花は申し訳なさそうに目を伏せる。

 

『力が使えないのです……』

「どういうこと? 私の霊力ならまだ──」

『そういうことではないのです。私は……』

 

 静かに首を振った夢幻桜花は髪と同じ桜色の瞳でウルキオラを見る。

 

『私は、彼の願いに抗うことはできないのです』

「え……?」

『最初に生を受けたとき、私にはあるひとつの願いがこめられていました』

 

 その言葉に沙羅ははっと瞠目した。

 夢幻桜花の誕生は百年前に遡る。かつてのウルキオラ──桐宮紫苑が、沙羅に贈るために刀鍛冶の老人に頼んで打ち上げてもらった一振りの刀。

 

『斬る刀ではなく、護る刀であるように──あなたが大切に思うものを護れるように、そして何よりも、あなた自身を護る刀であるように』

 

 それが紫苑が刀鍛冶に伝えた願い。

 その念を込めて打ち上げられたのが夢幻桜花で。

 

『今彼は、あなたを護りたいその一心で動いている。私は……その願いに抗うことができない…………』

 

 歯痒そうに唇を震わせる夢幻桜花は、主である沙羅の願いと生みの親であるウルキオラの願いの狭間で苦しんでいるようだった。

 

「すまないな……」

 

 今のウルキオラには夢幻桜花の姿も見えていた。葛藤に苛まれながらも自身の願いを尊重してくれた彼女に胸中で感謝する。

 

「これからも沙羅を護ってくれ」

 

 哀しそうに瞳を揺らしながらも夢幻桜花はこくりと頷いた。やがて風に溶けるようにその輪郭は失われていく。

 

「……っやだ……待って、夢幻桜花!」

 

 縋るような沙羅の呼びかけに、夢幻桜花は完全に姿が見えなくなる最後の瞬間まで『ごめんなさい』と唇を動かしていた。

 

 唯一にして絶対の頼みの綱を失った沙羅は呆然と立ち尽くす。

 がくがくと膝が震える。どうしよう。どうすればいい。

 錯乱する頭は何も答えを導き出してくれない。

 

「…………私じゃない」

 

 俯いたままぼそりと呟くと、沙羅は今にも泣き出しそうな顔でウルキオラを見上げた。

 

「ウルキオラを忘れるなんて、そんなのもう、私じゃないよ……っ!」

 

 ウルキオラと、そして紫苑と過ごしてきた時間。

 どんな些細な出来事も、他愛のないやりとりも、彼と共有する思い出はそれだけできらきらと星のように輝いた。

 哀しみも、苦しみも、彼と乗り越えてきたものなら全てが愛しく思えた。

 

 それが今の私を形成する根幹で、原動力で、支えなのに。

 それを失ってしまったら。

 

 だがウルキオラはやんわりと首を横に振った。

 

「おまえはおまえだ」

 

「人間のおまえも、死神のおまえも、何も変わらない」

 

 宝物を愛でるような眼差しで沙羅を見つめながら。

 

「感情豊かで、情に脆くて、お人好しで。俺が距離を取ろうとしても物おじせずに真正面からぶつかってきて、いつの間にかすんなりと心の中に入り込んでいる」

 

 沙羅との最初の出逢い、そして二度目の出逢いを思い返してウルキオラの口元に緩い弧が浮かぶ。

 

「そのくせ頑固で生真面目で、強がりで。こうと決めたら意地でも譲らない。おまえをなだめるのにいつも苦労したな」

 

 そう話すウルキオラはとても穏やかな笑みをたたえていて、こんな状況でなければ沙羅もつられて笑っていただろう。

 けれど溢れたのは笑顔ではなく涙だった。親友に決別の言葉を告げてもこらえていたはずの透明な雫が、いとも容易く頬を伝い落ちた。

 

「そんなおまえだからこそ、常に周りの者から愛された。おまえの周りにはいつも自然と人が集まっていた」

「でも私は……!」

「俺の記憶がなくともおまえはおまえだ。それは変わらない。友や仲間がおまえの支えとなるだろう。幸せな未来が待っているはずだ」

「やめて……やだ、こんなの……」

 

 一度零れるともう止まらなかった。

 視界がぼやけるのが怖くて、どうにかこらえようとするのに。一瞬でも目を離せば次の瞬間にはウルキオラが消えていそうな気がして、必死に押しとどめようとするのに。

 ぽろぽろと溢れて止まってくれない。

 

「お願い……私も一緒に……」

 

 連れていって。

 嗚咽にまみれた懇願にも、ウルキオラは頷いてくれない。

 代わりに白い手を伸ばして沙羅の頬を包み込むと、とめどなく流れ落ちる涙を拭った。

 

「破面と死神という存在になっても俺たちは出逢った」

 

「だから──きっとまた逢える」

 

 沙羅の目をまっすぐに見据えて話すウルキオラの声は、思わず聞き入ってしまいそうなほど強い自信に満ちていた

 

「次は敵同士じゃなく、あの頃のように、誰にも邪魔されない立場で」

 

 あの頃のように。

 沙羅の脳裏に紫苑と過ごした日々が甦る。

 

 防衛軍の同志として、背中を預ける仲間として、ともに歩む恋人として。

 誰に咎められることもなく笑い合えた日々。

 

 決して長くはない。けれど他のどんな時間にも替えられない。

 この上なく幸せだった日々。

 

 

「沙羅」

 

 こつん、と額を合わせて、ウルキオラは涙でぐちゃぐちゃになった沙羅の顔を視界いっぱいに映し出す。

 

「俺はかつて──俺からおまえを奪ったこの世界の全てを憎んだ」

 

「だが今は、おまえと引き合わせてくれたこの世界の全てに感謝する」

 

 そう語るウルキオラは、今まで沙羅が見てきたどんな瞬間よりも、満ち足りた表情をしていた。

 

 

「おまえと出逢えたことは、俺の魂にとって最大の幸福だ。……ありがとう」

 

 

 触れ合っていた額が離れる。

 待って、と言ったつもりだった。

 けれど沙羅の喉はまるで言葉を忘れてしまったかのように声を詰まらせただけだった。

 

 

「……愛してる」

 

 

 それはどんな誓言よりもひたむきで、優しい響きを纏って

 ウルキオラはそっと触れるだけのキスをした。

 

 視界を埋め尽くすウルキオラの顔が、穏やかな微笑みに染まるのを沙羅はただ見つめることしかできなかった。

 

 

「鎖せ──記憶舞翼(メモリア)

 

 

 言霊と同時にウルキオラの腕の中に包まれる。肩越しに彼の背にざぁっと黒翼が広がるのが見えた。

 舞い上がった黒い羽根が沙羅を覆うように降ってくる。

 よく見るとその一枚一枚に懐かしい光景が浮かび上がっていた。

 

 

『こんなところで昼寝とはな。随分気の抜けた死神もいるものだ』

『……本物?』

『偽物などいるのか』

 

『あなたと闘う理由はない』

『俺は破面だ』

『でも悪い人じゃない』

 

 

 これは……私とウルキオラの、記憶? 

 

 

『……本当に変わった奴だな、おまえは』

『おまえじゃなくて、沙羅』

 

『少しは黙れないのか……沙羅』

『呼んだ? 今私の名前呼んだの⁉』

 

『……バカキオラ』

『ババ沙羅』

 

 

 闇よりも深い漆黒に染まっていたはずのその羽根は、沙羅に触れるとぱっと光を放って純白へと色を変えた。

 その度に、羽根に映し出された記憶が頭の中から弾け飛ぶのを感じた。

 

 

『紫苑なんでしょ……?』

『だから来るなと言ったんだ…………』

 

『私はただ、話してほしかっただけ。自分がどうするかくらい自分で決めたいから』

『おまえは昔からそうだったな……』

 

 

 ひとつ、またひとつと。

 

 

『なぜ……おまえは死神なんだ』

『なぜ俺は……破面なんだ──!』 

 

『もうひとりにさせない……全部私が一緒に受け止める! だからもうひとりで苦しまないで……!』

 

『俺は藍染様のためでもなく、死神のためでもなく、ただおまえのために生きたい。……もう二度とおまえを苦しませたくはない』

 

 

 消えていく。

 

 ウルキオラが、きえていく。

 

 

『なぜこんな無謀な真似を……俺がこんなことを望むとでも思ったのか!』

『逢いたかったから来た……それ以外に理由なんてない!』

 

『沙羅。俺はもう虚の本能に流されはしない。二度とおまえを傷つけない』

『だから……俺の傍にいてくれ』

 

『おかえり』

『もうどこにも行かないでね』

 

 

 とうとう最後の一枚の羽根が沙羅の眼前に舞い降りた。

 

 

『じゃあ──最後の夜に言おうとしたことは?』

『……それは』

 

 羽根の中に、少し言葉に詰まった様子のウルキオラが浮かび上がる。

 そして澄んだ翡翠の双眸で沙羅を捉え、こう告げた。

 

『言うべきときがきたら言う』

『それまで待っていろ』

 

 

 あの続きを

 まだ聞いていないのに。

 

 

 頬を伝い流れた涙が、最後の羽根の上に落ちる。

 それとともに沙羅の頭の中も白く染まった。

 

 

 そしてウルキオラに抱きしめられたまま、沙羅の意識は鎖された──

 

 

 *

 

 腕の中で崩れ落ちた沙羅をウルキオラはゆっくりと抱き上げた。固く閉じられた瞳が自分を映すことはもうない。

 沙羅の長い睫毛の先に涙の粒が揺れる様がひどく儚げで、ウルキオラは懺悔するかのようにそっと瞼に口づけを落とした。

 

 背中の翼を大きく羽ばたかせ、地を蹴る。

 沙羅を抱いて飛び立ったのはこちらへ向かってくる霊圧に気づいたからだった。

 玉座の間から繋がる回廊を滑空し、曲がり角に差しかかる手前で下に降りると、ちょうど角を曲がってきた彼女と鉢合わせた。

 

「──っ⁉」

 

 霊圧の主である金髪の女死神は即座に身構えたものの、ウルキオラの腕に抱きかかえられた沙羅を見るなり血相を変えた。

 

「沙羅!!」

「気を失っているだけだ。じきに目を覚ます」

 

 悲痛な声を漏らした女死神──松本乱菊にそう言えば、彼女は目に見えて肩の力を抜いた。

 天挺空羅で沙羅の言葉を聞いても尚ここへ向かってきたのだ。危険を承知で沙羅を止めに来たに違いない。

 

「……沙羅の仲間だな」

「ただの仲間じゃないわ。親友よ」

 

 一片の迷いも覗かせずそう答えた乱菊に、ウルキオラはふっと頬が緩むのを感じた。

 厳密に言えば彼女と顔を合わせるのは初めてではない。かつてウルキオラが虚の破壊衝動に憑りつかれて沙羅を手にかけようとしたとき、救援に駆けつけたのが乱菊だった。

 が、当時のウルキオラは藍染によって自我を奪われていた上に暴走している状態だったので、ウルキオラ当人の感覚では初対面に近い。

 しかし不思議と距離を感じさせない相手だった。沙羅に近しい者同士という共通点があるからかもしれない。

 

「頼みがある。沙羅を連れてここから離れてくれ。崩玉は俺が破壊する」

 

 唐突なウルキオラの発言に目を見開いた乱菊は、彼の腕の中で眠る沙羅の頬に幾筋もの涙の跡が残っているのを見て顔を強張らせた。

 

「……沙羅はそれを納得してるの?」

「……」

「するわけないわよね。あんた──なんのために沙羅がここまで来たと思ってんのよ! あんたを助けるためでしょ⁉」

 

 乱菊の糾弾をウルキオラはじっと押し黙って聞いていた。彼女が激昂するのも無理はない。沙羅の気持ちを慮ってのことだ。

 けれどウルキオラもまた、沙羅への想いを曲げることはできない。

 

 沙羅に生きて、笑ってほしい。

 幸せになってほしい。

 それがウルキオラの何よりの願いなのだから。

 

「俺とともに死ぬことが沙羅にとっての幸福だと思うか?」

「馬鹿言ってんじゃないわよ。あんたと一緒に生きることが沙羅の幸福でしょ!」

 

 物怖じせずに言い放つ乱菊を素直に好ましく思った。さすが親友というだけあって、性格こそ違えど心根はよく似ているらしい。

 こういう強気な物言いはおまえそっくりだな、と腕の中の沙羅に胸中で語りかけて、ウルキオラは微かな笑みを零した。

 

 ──大丈夫だ。俺がいなくても。

 

 乱菊との会話でウルキオラの中には確かな安堵が広がっていた。

 こんなにも沙羅を想う親友が傍にいる。

 

 だから

 だから、俺がいなくても。

 

「俺に関する全ての記憶を沙羅から消した」

「え……?」

「次に目が覚めたときには……俺の名前すら憶えてはいない」

 

 自嘲気味に呟いたウルキオラに乱菊はみるみる表情を変えた。

 

「どうして……そんなこと!」

「沙羅にはいつでも笑っていてほしい。……それだけだ」

 

 自身の内側に存在した紫苑に後押しされ、拘束を引きちぎって第4の宮を飛び立ったあのとき。

 願ったことは至極単純だった。

 

 沙羅に、逢いたい。

 彼女といられればそれだけで十分だと思った。

 そうしてふたりで未来を築けたらどんなに幸せだろう。

 俺の隣で、沙羅が笑っていてくれたら──

 

 そこで気づいたのだ。自分の本当の願いに。

 

 これまでに幾度となく泣かせ、傷つけてきた。

 だからこそ沙羅にはこれから続く長い道のりを笑って歩んでほしいと。

 例えその隣に俺の姿がなくとも、沙羅が笑顔で日々を過ごせるのなら

 記憶を残すことで、その笑顔が涙に変わってしまうのなら

 全てを封じて、彼女の中から消えよう。

 

「勝手な言い分なのはわかっている。だがそれが俺の願いなんだ」

 

 愁いを帯びた表情で語るウルキオラに、乱菊はそれ以上問い詰めることはできなかった。

 

 愛する人の記憶から消える。そこにどれほどの葛藤があったかなんて、推し量るまでもない。

 誰より苦しんでいるのはこの人だ。そうまでして沙羅の笑顔を護ろうとしている彼に、一体何が言えるというのだろう。

 

「沙羅を頼む」

「……言われなくたって。護ってみせるわよ」

 

 熱くなった目頭に気づかれないように俯きながら乱菊が言うと、目の前でふっと吐息を漏らした気配が伝わった。

 

「ああ。任せた」

 

 ウルキオラから譲り受けた沙羅の身体は乱菊が思っていたよりもずっと軽くて、こんな華奢な身体ひとつでここまで戦い抜いてきたのだと思うと鼻の奥がつんと痛くなった。

 そうして沙羅を抱いたまま駆け出した乱菊は、もう立ち止まることはなかった。

 

 

 *

 

 沙羅と乱菊が去ったのを見届けたウルキオラは両翼を広げて一気に飛び上がった。

 天井を抜けて宙へ羽ばたく。虚閃を放って天蓋を突き破り、更に上空を目指した。

 

 天蓋の上は深い闇に覆われている。ぐんぐんと高度を上げるウルキオラを照らし出すのは冷たい三日月が放つ朧げな光だけ。

 やがて玉座の間を遥か下に見下ろす高台まで辿り着くと、ウルキオラは懐から取り出した崩玉を掌に乗せた。

 ギンが残したであろう内部の亀裂はまだ完全に閉じ切ってはいない。ぐぐぐ、と力を込めて全身の霊圧を掌に集中させる。

 

「これで……全てが終わる」

 

 ウルキオラの霊圧に応じるように薄桃色の光を放つ崩玉。

 

 ──と、どこから舞い込んだのか、桜の花弁がひとひら、ウルキオラの前をふわりと舞った。

 虚圏には桜など存在しないというのに。淡い月光が見せた幻か。

 

 ひらひらと揺れる桜に、長い髪をなびかせる沙羅の姿が重なる。

 

 屈託なく笑う顔。

 

 眉根を寄せて怒る顔。

 

 瞳いっぱいに涙を溜めた顔。

 

 頬を紅潮させて慌てる顔。

 

 子供のように唇を尖らせる顔。

 

 そのどれもがたまらなく愛おしくて、気づけば笑みが零れていた。

 もしもその様子を見ている人がいたならきっと口を揃えてこう言っただろう。

 

 彼は今、とても幸せなんだね、と。

 

 

 

 目を細めたウルキオラの鼻孔をくすぐるように舞い踊った花弁は、闇に溶けるように消えていく。

 

 

 沙羅

 

 叶うことならもう一度

 

 おまえとふたりであの花を見たかったな──

 

 

 

 一点に凝縮された霊圧が、手の中でキュオッと熱を帯びる。

 閃光と爆風に包まれながらもウルキオラは不思議な温もりを感じていた。

 

 まるですぐ隣で沙羅が笑っているような、そんなあたたかさだった──……

 

 

 

 ***

 




《Happiness…魂の幸福》

 それが、彼の幸福。
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