Dear…【完結】   作:水音.

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第60話 Nothingness ―心の空白―

 夢を見ていた。

 

 それはとても幸せな夢。

 

 大切な人がいた。

 大好きな人がいた。

 

 その人が隣にいてくれるだけで、嬉しくて。

 温かくて、満たされて。

 目が合って、言葉を交わして、触れ合って。

 その度に心が弾んで。

 

 どうしようもなく幸せだった。

 

 あの人の声が聞こえる。

 ひどく懐かしくて、誰よりも愛しい声。

 何度も私の名を呼んでいる。

 

 大丈夫、私はここにいるよ。

 あなたの声はちゃんと私に届いてるよ。

 だけどごめんね。

 私はあなたを呼べない。

 

 あんなに傍にいたのに

 

 こんなに愛しているのに

 

 あなたの名前を、私は知らない──

 

 

 それはとても幸せな夢。

 けれど同時にひどく哀しい夢でもあった。

 

 これが夢だと知っていたから。

 次に目が覚めたらもう彼のことは何ひとつ思い出せないのだと、私は知っていたから──

 

 

 **

 

 ぼんやりと開いた視界に映ったのは白い天井だった。

 

 何物にも染まらぬその色を、懐かしい、と感じる。

 つい先日もここで目覚めた気がするのに。まるで遠い過去の出来事のような。

 鼻をつく薬品臭でそこが救護詰所の一室であることはすぐにわかった。

 

「沙羅!」

 

 まだ夢うつつだった沙羅の意識は、横から飛んできた甲高い声に引きずり起こされ、そこでようやく覚醒する。

 

「……乱菊?」

 

 自分を覗き込む親友の顔を見て、沙羅はゆっくりと上半身を起こした。

 

「身体はどう?」

「うん。大丈夫……だと思う」

 

 言いながら確かめるように手や肩を動かしてみた。けだるさはあるものの特別痛むところはない。

 

「良かった。あんたあれから二日も眠ったままだったのよ」

「二日も?」

 

 驚いたものの、それよりも別の部分に沙羅は反応した。

 

「あれからって……私、何してたんだっけ」

 

 間の抜けた疑問だと思いつつも自問せずにはいられなかった。

 記憶が曖昧なのだ。ぽつぽつと浮かび上がる映像はあるもののどれも断片的で、頭の中に点在する記憶が繋がってくれない。

 困惑しながら目線を彷徨わせる沙羅は、乱菊がぐっと喉を詰まらせたことに気づかなかった。

 

「私……虚圏にいた?」

「……ええ」

「それで……藍染隊長と戦って……」

「そうよ。あんたが藍染を倒したのよ」

「倒した?」

 

 今度こそ沙羅は目を丸くした。

 

「そんなわけ……私ひとりで(かな)うはずが──」

 

 否定しかけて脳裏に浮かび上がった記憶にはっとする。

 

「違う……助けてもらった。乱菊やルキアたちが来てくれて……それだけじゃない、破面も力を貸してくれた。グリムジョーと従属官のみんな……それに、スタークさんやリリネットも……」

 

 確かめるように呟く沙羅を乱菊は固唾を飲んで見つめる。だがそこに当然挙がるであろう破面の名前は最後まで紡がれることはなかった。

 

「本当に……私が藍染隊長を……」

 

 他人事のように言って沙羅は白い天井を仰ぎ見る。藍染と対峙したはずの自分がこうして生還していることが何よりの証なのだろう。

 けれどちっとも実感が湧かなかった。まるで全てが夢であったかのように。

 

「どうして私は虚圏に行ったんだろう……」

 

 藍染の凶行を止めたいとは思っていた。けれど自分の力でそれを成し遂げられると過信するほど思い上がってはいないつもりだ。

 

 そもそも私は藍染隊長を倒すために虚圏に向かったのだろうか? 

 それとも別の目的があったのだろうか? 

 もっと大切な……

 

「あんた……本当に何も──」

 

 ふと顔を上げると乱菊が肩を震わせて泣いていた。そんな乱菊を見るのは初めてで、沙羅は心底驚いた。

 

「乱菊? どうしたの?」

 

 訊ねても彼女はただ首を左右に振るばかり。

 

「……ごめん。なんでもないわ。あんたの顔見たら気が緩んじゃったのかも」

 

 取り繕うように明るい調子で話す乱菊の言葉をとてもそのまま受け取ることはできない。

 けれど沙羅にはわからなかった。親友の涙のわけも、その意味も。

 

「とりあえず卯ノ花隊長を呼んでくるわね。診てもらえばあんたの記憶が曖昧な原因もはっきりするかもしれないし」

「うん……」

 

 ほどなくして乱菊と連れ立った卯ノ花が姿を見せた。普段と変わらず落ち着き払った四番隊隊長はいくつかの問診と検査を終えると、椅子に腰かけて沙羅と向かい合う。

 

「まず身体的な負傷は全て治療済みです。とはいっても治療が必要な部位はほんの一部でしたが」

「ありがとうございます」

「それから記憶障害についてですが、これといって脳に異常は見受けられませんでした。外傷や脳機能の低下に起因するものではないようです。日常生活はもちろん、副隊長として隊務をこなす上でも特段支障をきたすことはないでしょう」

 

 表情ひとつ崩さずつらつらと述べる卯ノ花に、沙羅は控えめに口を開く。

 

「……あの、記憶が戻ることはあるんでしょうか?」

「それは何とも言えません。恐らくは藍染との戦いで何かしらの干渉を受けたためだと思いますが……一時的なものかもしれませんし、このままずっと戻らないかもしれません」

「そうですか……」

 

 俯くと同時に漏れた吐息は、落胆なのか安堵なのか。自分でも把握できない感情に戸惑っていると、ガラッと無遠慮に病室の戸が開かれた。

 

「沙羅! 気がついたのか!」

「隊長……!」

 

 長い白髪に縁どられたその顔が随分と懐かしく感じられた。十三の字が刻まれた羽織をはためかせて現れた浮竹は、沙羅を目に留めるなりずかずかと歩み寄る。

 

「卯ノ花隊長! 沙羅はどうなんだ⁉」

「浮竹隊長、病棟ではお静かに願います。草薙さんなら心配いりませんよ。若干の記憶障害があるようですが、それを除けば健康体そのものです」

 

 息まく浮竹に今しがた沙羅にした説明と同じ内容を伝えると彼は途端に肩の力を抜いた。

 

「そうか、良かった……」

 

 目尻に皺を寄せたその横顔が幾分やつれて見えるのは気のせいではないだろう。

 瀞霊廷を出奔する際、沙羅は自室に辞表を書き残していった。その辺りの記憶は鮮明だ。自分の勝手な行動で浮竹には相当な心労をかけたに違いない。

 

 ──あれ……? 

 

 ふと胸を掠めた違和感に沙羅は動きを止めた。

 

 あのとき私は、辞表を書き、副官証を置いて瀞霊廷を出た。

 私はここへ戻るつもりがなかった……? 

 それなら私は、虚圏へ乗り込んだその後、一体どうするつもりだったのだろう──? 

 

 あちこちに散乱する記憶の欠片を拾い集めるようにぐるぐると巡っていた思考は、浮竹がポンと肩に手を置いたことで中断される。

 

「心配するな。今はまだ混乱しているんだろう。落ち着いたらきっと思い出せるさ」

 

 父が娘を見るような穏やかな笑みを向けられ、自然と沙羅の表情も和らぐ。

 いつも沙羅に絶対的な安心を与えてくれる存在、それがこの人だった。

 

「隊長……」

「すみませんはいらないぞ。おまえの口からその台詞は聞き飽きたからな」

「…………」

「はは、図星か?」

 

 言葉に詰まる沙羅にカラカラと笑って浮竹は卯ノ花を振り返った。

 

「それで、沙羅にはいつまで休暇を与えればいい?」

「そうですね。もう治療の必要はありませんが、記憶障害の件もあることですし今週いっぱいはこちらで休んで頂きましょうか」

「あ……でも」

「おまえに拒否権はないからな? これは隊長命令だ」

 

 口を開くよりも早く浮竹に言いくるめられ、ぐうの音も出ずに頷く。

 

「虚圏でのおおよその顛末は松本から報告を受けている。無論おまえ自身からも話を聞くことになるが──いずれにせよ落ち着いてからだ。記憶が定まらない状態ではまともに聴取もできないだろう」

 

 それもまた、自分を思い遣ってのことなのだと沙羅は知っていた。

 救護詰所での療養生活は退屈極まりないが、頭の中を整理するにはちょうどいいのかもしれない。いずれにせよ浮竹の決定に抗うことはできない。普段は温和だがこういうことになると頑として譲らない人だ。

 

「では、私はこれで」

「ああ。ありがとう卯ノ花隊長。あとは俺がついているから大丈夫だ」

「何を仰ってるんですか。次はあなたの診察ですよ」

「へ」

 

 身に覚えがないとでも言うように目を瞬いた浮竹に、卯ノ花はいつも通りの微笑みの裏に何やら黒い感情を覗かせて顔を寄せる。

 

「聞けば今朝も薬を飲み忘れたそうですね? 全くあなたは部下のことには目の色を変えるくせに、自分のこととなると無頓着で──」

「お、おいおい。あまり沙羅の前でそういうことを……」

「今更格好つけようとしても無駄ですよ。草薙さんだってよくご存じでしょうから。さ、行きますよ。あまり主治医の手を煩わせないでください」

「わかった、わかったから! いいか沙羅、しっかり休むんだぞ!」

 

 卯ノ花に引きずられるようにして出ていく浮竹を、沙羅と乱菊はくすくすと肩を揺らしながら見送った。

 

 *

 

 再びふたりきりになった室内で、沙羅は先程から気にかかっていたことを尋ねた。

 

「ねえ乱菊。これ……私いつから付けてた?」

 

 そう言って沙羅が示したのは首元で光る銀色のチェーン。その先には翡翠の宝石が埋め込まれており、神秘的な深緑色の輝きを放っていた。

 それだけを見れば素直に美しいと思う。けれど、そもそも沙羅は乱菊と違って装飾品を好まない。

 女性らしく着飾ることに興味がないわけではないが、動きやすさを損ないたくはない。よって身に着けるものは最小限にするというのが沙羅のスタンスだ。

 

 そんな自分が、意味もなくネックレスなんてつけるはずがない。けれどこれを入手した経緯も思い出せないのだ。

 

「乱菊?」

 

 見上げた乱菊はどこか傷ついたような目をしていた。

 

「あ……どう、だったかしら。ずっと前から付けてたような気もするし……」

 

 さっと顔を背けて歯切れの悪い返事をする乱菊に、今度は別の疑念が湧く。

 何をそんなに悲しんでいるの? 

 何を……隠しているの? 

 けれどそれを訊いてはいけないと、もうひとりの自分が警鐘を鳴らしていた。訊けばきっと、乱菊はもっと悲しい目をするに違いないから。

 

「そっか……他のことはちゃんと憶えてるんだけどなぁ」

 

 わざと軽い調子で言って、掌で光る宝石に視線を戻した。

 

「でもね……なんでかわからないけど、これを外しちゃいけないような気がするの。おかしいよね、どうやって手に入れたのかも憶えてないのに」

 

 窓から射し込むわずかな陽光を浴びてきらきらと輝く翡翠。

 それは花を彩る葉の色に似ていた。いずれ鮮やかに咲き誇る花の蕾を、冬の寒さから守り包み込む緑葉。決して目を引くような色ではないけれど、そこに存在するだけで安堵をもたらしてくれるような。

 

「いいんじゃない」

「……え?」

「あんたがそう感じるなら、それはあんたにとって大切なものだってことでしょ。……例え記憶がなくたって」

 

 そう言って金糸の髪をふわりとなびかせた乱菊は、微笑んでいるのに泣いているようにも見えた。それにつられて泣きそうになりながら、沙羅はぎゅっと翡翠の宝石を握りしめる。

 

「うん……そうだね。憶えてなくても……手放したくないって、思う──」

 

 それからしばらく他愛のない会話を続けて、窓の外が赤くなり始めたのを見て乱菊は「いっけない!」と席を立った。

 

「隊長から夕方までに報告書を提出するように言われてるんだった! それじゃ、また明日来るわね。何か必要なものがあったら言いなさいよ」

「うん。──乱菊」

「ん?」

「ありがと」

 

 振り向いた乱菊がはっと目を見開いて固まった。だがすぐに笑みを形作って手を上げる。

 

「あったりまえでしょ。親友なんだから」

 

 最後は顔を見せずに呟いて、乱菊は部屋をあとにした。

 

 

 *

 

 救護詰所を出た乱菊はふぅーっと重い息を吐き出して肩を落とした。目線を下げると小刻みに膝が震えている。

 

『俺に関する全ての記憶を沙羅から消した』

 

 彼の言った通りだった。沙羅の記憶の中から、ものの見事に「ウルキオラ・シファー」の存在だけが消えていた。

 

 覚悟はしていた。

 けれど目覚めた沙羅と向き合った途端、心臓が鷲掴みにされたのかと思えるほどの痛みが生じた。

 

 あんなにも

 あんなにも焦がれてやまなかったひとを

 全てを捨ててでも共にありたいと願ったひとを

 まるで最初から存在していなかったかのように忘れてしまうなんて。

 

「……っ」

 

 沙羅の前ではこらえていた嗚咽を吐き出す。

 自分は沙羅の前でうまく笑えていただろうか。

 人の感情の機微に敏いあの子のことだ、きっと気づいただろう。

 

 浮竹隊長には虚圏で起きた全てを話していた。だから彼は沙羅がウルキオラの記憶を失っていることを知っている。

 沙羅の診療にあたる卯ノ花隊長にも、かいつまんでではあるが記憶に欠如があることはあらかじめ伝えておいた。

 そのふたりはごく自然な態度で沙羅に接していたのに。

 

「何やってんのよ……あたしは」

 

 力なくひとりごちて額を押さえる。

 よりによって沙羅本人の前で泣いてしまうなんて。ただでさえ記憶が曖昧で心もとない沙羅に、余計な不安を与えるに違いないのに。

 

 それでも沙羅は笑ってくれた。

 一片の曇りもない眼差しで、いつものように笑いかけてくれた。

 あの瞬間、思わず呼吸を忘れたのはウルキオラの声が甦ったからだ。

 

『沙羅にはいつでも笑っていてほしい。……それだけだ』

 

 虚圏で沙羅を託されたとき、彼が儚げに告げた言葉を。

 

 そう、これが、彼の願い。

 沙羅が笑顔でいることが、彼にとって何よりの。

 

 もしも事実を知ったら、沙羅はきっと同じように笑うことはできないだろう。

 だからこの痛みは。胸を焼き焦がされるようなこの苦しみは。

 自分の中に押しとどめて昇華するしかない。

 

 沙羅にあのネックレスを外してほしくないと思うのも

 その心の中にわずかでも彼の記憶があればいいと願ってしまうのも

 全て乱菊の自己満足に過ぎないのだ。

 

「あー、もう全然ダメ! あたしがこんなんでどうするのよ、しっかりしないと」

 

 パン、と両手で頬を叩いて喝を入れると、乱菊は足早に歩き出した。途中一度だけ振り返り、沙羅がいるはずの二階の右端の部屋を見上げてふと思う。

 

 ギンを失い、その記憶と共に生きる自分と

 ウルキオラを失い、その記憶すらも失った沙羅と

 本当に辛く悲しいのは、一体どちらなのだろうかと。

 

 

 *

 

 その夜。なかなか眠りにつけずにいた沙羅は、窓辺にもたれて闇色の空をぼんやりと眺めていた。

 今宵の月は細い三日月。そこから零れる月光は幻想的で、青白く照らし出された室内は沙羅を夢の中にいるような心地にさせる。

 

 いつかもこんな月を見ていた。

 ……誰と? 

 その問いに返る答えはない。

 

 まるで胸にぽっかりと穴があいたようだ。ありがちな表現だが今はそれがしっくりくる。

 痛いわけでも苦しいわけでもない。そう、何もない。

 ここにあるのはただの喪失感──言うなれば『虚無』だ。

 

 そんな考えを巡らせていると無意識のうちに心臓に手をあてていた。

 とくん、とくんと規則的な鼓動が伝わり、少なくとも本当に穴があいているわけではないのだと確認する。

 

 浮竹や乱菊が去り、ひとりになってからずっと沙羅は記憶の整理に追われていた。

 パズルのようにバラバラに散りばめられたピースを、場所や時系列ごとに並べてつなぎ合わせていく。

 その作業を続けていくうちに気づいたことがあった。記憶が欠如しているのは虚圏での出来事だけではない。沙羅が虚圏に向かうよりもっと前の時間軸でも、ぽつぽつと記憶が抜けている部分がある。

 共通するのはそれらのほとんどが現世に降りていたときだということだ。尸魂界にいる間のことはおおむね思い出せる。

 

「……夢幻桜花」

 

 一度瞼を閉じた沙羅は、喉の奥で愛刀を呼んだ。沙羅自身ですら聞き取れるかどうかの微かな呟きだったが、ベッドの傍らに立てかけてあった斬魄刀はすぐに反応した。

 

『はい』

 

 ぽぅ……と薄桃色の光を纏って浮かび上がったその姿は、背後から月光を浴びていることもあってかこの世のものとは思えないほど儚げだった。

 

「夢幻桜花は知っているの? 私が何を忘れているのか」

 

 これまでに整理したことを踏まえれば、自分がある特定の事柄についてのみ記憶を失っているのだと推察するのは容易い。問題はそれが何か、だ。

 

『あなたの中にない答えを、私が得ることはありません』

 

 風が水面を撫でるような柔らかな声音が返る。見上げた愛刀の化身は長い睫毛を伏せ、静かに言葉を紡いだ。

 

『仮に私がその答えを得たとしたら、それは即ちあなたの中に答えがあるということ』

 

 夢幻桜花が言葉遊びをするのはいつものことだ。沙羅が迷い立ち止まるとき、彼女は決して道を示さない。

 進む道は自分で定めるものとして、夢幻桜花はいつだって沙羅自身が答えを導き出すのを見守ってきた。そうして沙羅が選んだ道を共に歩み、その身を、その志を護るのが己の使命として仕えてきたのだ。

 

 けれど今の彼女は、沙羅が答えを手にするのを待ち望んでいるようには見えなかった。その美しい面差しに仄暗い影が見え隠れするのは、窓から射し込む月明りが雲に遮られたからではないだろう。

 夢幻桜花もまた、何かに揺れている。沙羅には見えない枷を背負って、その重みに耐えている。

 

 何のために? 

 理由はひとつしかない。

 

 わたしの、ために。

 

 

「……疲れちゃった。そろそろ寝ようかな」

 

 沙羅の思考回路はとうに限界に達していた。

 どうしたいのか。どうすべきなのか。どうすることを望まれているのか。

 考えることは山ほどある。だけど今は考えたくない。今はただ、この淡い月明りの下で静かに眠りたい。

 

『ええ。おやすみなさい、沙羅。良い夢を……』

 

 夢幻桜花の白い手が額に触れると、たちまち沙羅の意識はまどろんだ。

 

 夢……

 夢を見るなら……

 

 閉ざした視界の向こうに白い影が浮かび上がる。

 

 何度も何度も私を呼ぶ、あの人の

 どうかもう一度、あの夢を

 名も知らぬあの人の夢を、見られますように…………

 

 

 

 ***

 




《Nothingness…心の空白》

 胸にあいた穴の中にいたのは、誰?
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