Dear…【完結】   作:水音.

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第61話 Into Oblivion ―忘却の彼方に―

 救護詰所での沙羅の療養生活は予想を裏切る形で慌ただしく過ぎていった。というのは、朝から晩まで入れ替わり立ち替わりに訪れる見舞客への対応に追われたからだ。

 

 真っ先に現れたのはルキアだった。遠慮がちに病室の戸を開いた彼女は、気づいた沙羅が嬉しそうに手招きするのを目の当たりにした途端、くしゃりと顔を歪ませた。

 ふたりでしばし無言の抱擁を交わしていると、雛森、恋次、吉良の三人も揃って顔を見せた。虚圏での記憶が部分的であるとはいえ、彼らが自分のために駆けつけてくれたことははっきりと記憶していた沙羅は、改めて四人に頭を下げて深い感謝を伝えた。

 

「しっかし驚いたよなぁ! あの藍染隊長を倒しちまうなんて」

 

 頭の後ろで手を組んで反り返る恋次に、沙羅は困ったように肩をすくめる。

 

「んー……あんまり憶えてないんだけどね」

「それじゃあ草薙くんはどうやって戦ったかも記憶にないのか?」

「全く憶えてないわけじゃないんだけど、ところどころ記憶が抜けてて。でも最後に市丸隊長が助けてくれたのは……なんとなくだけど憶えてる。あの人がいなかったら、私も崩玉に飲み込まれてたはずだから」

「そうか……隊長が……」

 

 俯いた吉良の表情は長い前髪に遮られて見えなかったが、その声には侘しさと安堵が混在しているように感じられた。

 

「雛森……ごめんね」

「えっ? どうして沙羅ちゃんが謝るの」

「もっと他に方法はあったかもしれないのに、結局戦うことでしか止められなかった。雛森はちゃんと自分で向き合おうとしてたのにね……」

 

 雛森は丸くしていた瞳を細めてやんわりと首を振った。

 

「ううん。藍染隊長の前に出たら、元のあたしに戻ってたかもしれない。沙羅ちゃんが藍染隊長を止めてくれてよかったと思ってる……ありがとう」

「雛森……」

 

 束の間室内がしん……と静まり返る。するとその沈黙に耐えかねた恋次が「大体よぉ!」と声を張り上げた。

 

「おまえ別れ際にあーゆーこと言うのやめろよ! おまえは最後だと思って言ったんだろうけどな、言われたこっちの身にもなってみろ!」

「あーゆーことって?」

「だから天挺空羅で話しかけてきただろ、あの十刃と一緒に──ぶっ!」

 

 恋次の話が不自然に途切れる。その顔面にはルキアの拳が思いっきりめり込んでいた。

 

「……ごめん、私何か言ったんだっけ?」

「バカの言うことだ、気にしなくていい」

 

 心配そうに恋次を覗き込む沙羅にルキアが答える。

 

 沙羅には天挺空羅でルキアたちに別れを告げた記憶がなかった。

 あのとき、沙羅はウルキオラの手を取り、彼の霊圧を介して天挺空羅を繋げていた。それを思い出すにはウルキオラの存在が不可欠となる。よって沙羅の中にその記憶は残されていない。

 自分との思い出にとどまらず、自分を連想させるあらゆる記憶をウルキオラは封じていったのだ。ウルキオラの存在を知るルキアたちもそのことは当然乱菊から伝え聞いていた。

 

「あの十刃って?」

「あ、いや、なんでもねーよ! だからほら、おまえっていろいろと鋭いから、まるでエスパー? かと思ったんだよ! な? エスパー! ははははは!」

 

 恋次のあからさまな誤魔化しを釈然としない面持ちで聞きながらも、沙羅はそれ以上追及することはなかった。彼らもまた同じなのだと悟ったから。

 乱菊や夢幻桜花のように、何かを知りながら、それでも沙羅のためにそれを伏せているのだと。ならば自分は、それを知るべきではないのだと。空虚に揺れる心にそう言い聞かせて。

 

 その後も清音や仙太郎を始めとする十三番隊の隊士たちが列をなして押しかけてきて、沙羅の病室は大変な騒ぎとなった。詰所の責任者である卯ノ花の無言の圧力を浴びると皆一様に小さくなって退室していったが。

 そうしてようやく落ち着きを取り戻したその日、沙羅を最も驚かせる来訪者が現れた。

 

「入ってもよいかの」

「山本総隊長⁉」

 

 低くしゃがれた声と共に姿を見せたのは、言わずと知れた護廷十三隊の最高責任者、総隊長の山本元柳斎重國であった。

 即座にベッドから飛び起きた沙羅に「そのままで良い」と告げ、元柳斎は窓際の長椅子に腰かける。言葉を発さなくともただそこにいるだけで辺りの霊子が震えるほどの威圧を放つ元柳斎を前に、沙羅は深く腰を折った。

 

「すぐにご報告に上がるべきところを……申し訳ありません」

「構わぬ。浮竹から報告は受けておる。まずは此度のお主の働きに総隊長として礼を言おう。よくぞ藍染を打ち倒してくれた」

「……もったいないお言葉です」

「失った記憶は戻ったのか?」

 

 やや声色を落とした元柳斎の問いに、沙羅は「いえ……」と首を振った。

 

「……そうか」

「ですが、隊務に支障はないと卯ノ花隊長も仰ってました。明日には退所しますので、お許しを頂けるのならすぐにでも隊務に復帰したいと考えています」

「それは今後も十三番隊の副隊長を担うということじゃな?」

「……隊規違反の処罰は覚悟の上です」

 

 膝の上で握りしめた拳が震える。独断での出奔、虚圏への侵入、戦闘行為。到底許されることではない。副隊長降格どころか死神としての資格を剥奪されてもおかしくはない。

 俯く沙羅を目を細めて見据えていた元柳斎は、トン、と杖で床をついて腰を上げた。

 

「処罰、か。確かに今回のお主の行動は護廷十三隊の行動指針に反しておる。隊規に則るなら然るべき処分を下すことになるが──」

「はい……」

「叛徒・藍染惣右介を倒し、奴の計画を阻んだ功績は大きい。虚圏のみならず尸魂界の安定にも多大な貢献を果たしたと言ってよいじゃろう。よって、その働きに免じて此度の隊規違反は不問とする」

「えっ」

 

 驚いて顔を上げた沙羅に元柳斎は長い顎鬚を撫でながら続ける。

 

「対外的には、今回のお主の行動は上層部からの密命を受けてのものだったということにさせてもらう。藍染から尸魂界を守った功労者を罰するわけにもいかんからの」

「いえ、そういうわけには──」

「なあに、年寄りの打算じゃよ。管理下で挙げた戦果でなければ上にも大見得きって報告できんだろう? 要はお主の手柄にあやかろうというわけじゃ。それでは不満かな?」

 

 冗談とも本気とも取れない口調で問われ、沙羅は慌てて首を振る。元柳斎は幾重もの皺が刻まれた笑みを浮かべるとふわりと羽織を翻した。

 

「話は以上じゃ。今後も一層の働きを期待しておるぞ、草薙副隊長」

「っはい! ありがとうございます!」

 

 *

 

 翌日、退所許可を得た沙羅は救護詰所を出たその足で十三番隊の隊舎へと向かった。

 入り口の扉の前に立ち、しばし逡巡する。一度深呼吸をしてから意を決して手を伸ばすと、沙羅が開くよりも早く扉が勢いよく開け放たれた。

 

「せ~~~のっ!」

「「「副隊長! おかえりなさい!!!」」」

 

 清音の号令を合図に一斉に響いた大合唱。呆気にとられる沙羅の目の前には、浮竹やルキアを始めとした十三番隊の隊士たちがずらりと並んでいた。

 

「ただい、ま……」

 

 半ば無意識にそう口にしてはっとする。

 帰ってきたんだ。私の在るべき場所へ。

 

「待ち侘びたぞ、沙羅」

「隊長……」

 

 浮竹の優しい眼差しに、ぴんと張りつめていた糸が緩む。

 

「沙羅! てめえコンニャロ、心配かけやがって!」

「わっ、仙太郎、ちょっ痛っ! ごめん! ごめんなさい!」

「くぉら小椿ぃッ! 病み上がりの沙羅に乱暴すんじゃないわよ!」

「グホッ! てめえのほうがよっぽど乱暴だろうがこの鼻垂れ女!」

「なにおう⁉ ワキクサに言われたかないわ!」

「んだとォ⁉」

「あの、虎徹三席も小椿三席もそのくらいに……」

「朽木はどっちの味方なんだ⁉」

「もちろんあたしだよね⁉」

「は⁉ え、いやその……!」

 

「……ぷふっ」

 

 険しい形相の仙太郎と清音に詰め寄られ、しどろもどろになるルキア。と、三人の後方で何やら噴き出す声が漏れた。振り返ると沙羅が肩を揺らして笑っている。

 

「ごめん、なんか……こういうの懐かしいなぁって」

 

 くすくすとこみ上げる笑いが止まらない沙羅を見て、ルキアも、清音も仙太郎も、つられて笑みをこぼす。そしてその様子を見ていた隊士たちも、次第に笑い出す。沙羅を中心として、笑顔の花が咲く。

 

「これでやっと十三番隊(うち)らしさが戻るな」

 

 仲間に囲まれもみくちゃにされる沙羅を遠巻きに眺めて、浮竹は空に語りかけるようにぼやいた。

 

 敬愛する隊長がいる。

 絶対の信頼を寄せてくれる仲間がいる。

 

 そうだ。

 ここが私の──

 

 私の、居場所。

 

 

 **

 

 かくして副隊長として隊務に復帰したものの、沙羅を取り巻く環境は激変していた。というのも、沙羅が虚圏で藍染を倒したという噂は瀞霊廷中に広まっており、その真偽を確かめようと他隊の隊士たちがこぞって押しかけてきたのだ。

 その後総隊長である山本元柳斎より正式な通達が出されたことで、沙羅はいよいよ仇敵を倒し尸魂界を救った英雄として持ち上げられ、一躍有名人となったのだった。

 

「た……ただいま戻りました」

「おかえり沙羅──って、どうしたんだその荷物は」

 

 隊舎の縁側でお茶をすすっていた浮竹は、すぐ隣の十二番隊へ書類を届けに行っただけのはずの沙羅が両手いっぱいに紙袋だの花束だの小包だのを抱えている様にぎょっと驚いた。

 

「気持ちだけで十分ですとは伝えたんですけど……」

「ははっ、うちの副隊長殿はすっかり人気者だな」

「でも……はっきりと憶えてないのにこんな風にされても、居心地悪いです……」

 

 ぐったりと肩を落とした沙羅は、テーブルの上を占領している贈答品の山に辟易した。

 藍染惣右介という尸魂界始まって以来の大罪人が消滅し、緊迫状態から解放された護廷隊士たちが浮かれたくなる気持ちはわからなくもない。けれどそれが自分のおかげだともてはやされても沙羅には一向に実感が湧かなかった。

 

「今は皆舞い上がっているんだ。じきに落ち着くだろう」

「だといいんですけど……」

 

 どこへ行くにも注目を浴び、時には握手を求められ、こうして手土産を持たされることも少なくない。崇敬の眼差しを注ぐ彼らの目には、沙羅は未曽有の脅威から尸魂界を守った救世主として映っているのだろう。

 隊士たちの間では沙羅の虚圏での活躍がさながら英雄譚のごとく語り広められ、今や護廷十三隊の死神で沙羅を知らぬ者はいないほどだ。けれどそれらは人の口を渡り歩くうちに尾ひれがついたものばかりで、実態からどんどんかけ離れて脚色されていく噂話に沙羅は戸惑いを覚えていた。

 そもそも、本当に自分が藍染惣右介を倒したのだろうか。彼の最期の瞬間すらもろくに憶えていないのに。

 思い出そうとすると途端に頭の中がもやがかってしまうのだ。まるで記憶を掘り起こすのを拒んでいるかのように。

 

「──沙羅? どうかしたか?」

「あ、いえ! そうだ、これお茶菓子にって頂いたんですよ」

 

 覗き込んできた浮竹にパッと笑顔を向けて紙袋から包みを取り出す。と、ちょうど奥から顔を出した清音が目ざとく反応した。

 

「あーっ! それって井村亭の生大福じゃない⁉ 限定販売でなかなか手に入らないやつ!」

「あれ? 清音、昨日ダイエットするって宣言してなかったっけ?」

「ぐっ……イジワルッ!」

「ふふっ嘘だよ、みんなで食べよ。茶葉ももらったからお茶の準備してくるね」

「あっ副隊長、お茶なら私が淹れますよ!」

 

 荷物を下ろして給湯室に向かう沙羅を、すぐさま他の隊士が追いかける。

 

「平気平気、いつも淹れてもらってばかりだしたまにはやらないと」

「そんな、副隊長はお忙しいんですから少しは休んでください」

「大丈夫だって。あ、じゃあ大福配るの手伝ってくれる?」

「もちろんです!」

「あっずるい! 私も手伝います!」

 

 沙羅を中心に自然とできあがる輪。

 仲間たちに囲まれて笑みを浮かべながら、沙羅はふと疑問を抱いた。

 今ここでこうして笑っているのは、本当に私自身なのだろうかと。

 

 

「こんちはー……ってまーた貢ぎ物が増えてる。今にファンクラブでもできそうねぇ」

 

 縁側から顔を覗かせた乱菊は、一方的に贈りつけられた品々が山積みになっている沙羅の執務机をしげしげと眺めてぼやいた。

 

「お、ちょうどいいところに来たな松本。ひとつどうだ?」

「わ! 井村亭の生大福じゃないですか!」

 

 いち早く気づいた浮竹に席を勧められるまま縁側に腰を下ろしたものの、乱菊の目線はすぐに大福から逸れて皆にお茶を配っている沙羅へと向けられる。

 

「沙羅は……」

「ずっとあの調子で動き回ってるよ。少しは休めと言っても聞かなくてな、逆に俺を休ませようと口うるさいくらいだ。ここで見ている分には塞ぎ込んでいる様子もなさそうなんだが。……松本の前ではどうだ?」

「あたしといるときもあんな感じですよ。この前ランチに誘ったときもやたらと元気で、ずっと笑いながらくだらない話ばっかりしてました」

「記憶が戻った様子は?」

 

 やや声を潜めた浮竹に乱菊は小さく首を振る。

 

「記憶が欠けている間のことをいくつか聞かれたりしましたけど、何も思い出せないみたいで」

 

 伏し目がちに呟いた乱菊は、再び沙羅へと視線を戻すとその赤い唇をきゅっと引き結んだ。

 沙羅の笑顔を見るたび、乱菊の胸には安堵と苦悩が広がる。あれからずっと乱菊を縛り続けているのは、ウルキオラの遺した言葉だ。

 

「沙羅にはいつでも笑っていてほしい……それが彼の願いでした」

 

 あのとき──最愛の人を乱菊に託した破面の青年は、彼女の笑顔を護るためにその記憶を消し、彼女の未来を護るために崩玉と共に消えた。

 

「だから……沙羅がこうして仲間に囲まれて、毎日楽しそうに笑って過ごしているのは、きっと彼の本望で。あの笑顔を護っていくことが、あたしにあの子を託した彼に報いることになるんだって……そう思うように、してます」

 

 自分に言い聞かせるような口ぶりは割り切れない感情のあらわれだろう。それを黙って聞いていた浮竹も、沈痛な面持ちで一度目を伏せて短く「そうだな」と告げるにとどまった。

 

 真実を知る者は皆、この如何ともしがたい感情をもてあましている。

 けれどどうすることもできないのだ。

 

 これで良かったのだと

 これが沙羅にとってもウルキオラにとっても最善の結末だったのだと

 そう言い聞かせて無理矢理にでも納得するほかないのだから。

 

 何かを振り切るように勢いよく大福にかぶりつき、「ん! おいひー!」と声を張る乱菊。するとそれに気づいた沙羅がお茶を持ってきた。

 

「乱菊いつの間に来てたの? ほら、喉詰まるよ」

「む、あいあほー」

「だから詰め込みすぎだってば」

 

 苦笑交じりに湯飲みを差し出すその笑顔には何の陰りもなくて、気丈に振舞っているようには見えない。

 少なくとも、見ている者の目にはそう映った。嘘偽りのない心の底からの笑顔であると。

 

 

 乱菊の隣で沙羅もお茶を飲んでしばし一息ついていると、任務から帰還した席官の隊士が熱弁を振るう声が飛び込んできた。

 

「あの程度の虚相手に怖気づいてどうする! 虚の前では一瞬の気の緩みも命取りなんだ、霊術院でも叩き込まれただろう!」

「はい! 申し訳ありません!」

 

 どうやら若手の隊士たちに戦いの心構えを説いているらしい。

 今でこそ八席を務めてはいるものの、あの青年も昔は教えを乞う立場だったのに成長したものだな──と微笑ましく見守る沙羅だったが、あとに続いた彼の台詞にお茶を噴き出した。

 

「草薙副隊長なんてな、総隊長直々に密命を受けて単独で虚圏に潜入したんだぞ! 破面の巣窟に、たったひとりでだ!!」

「ひとりで……!」

「そうだ! 襲い来る破面共をものともせず、隊長格に匹敵するとも言われた十刃をバッタバッタと斬り倒し、ついにはあの藍染をも打ち破ったんだ!」

「すごいですっ!」

「いいか? ここだけの話だけどな、副隊長の卍解は藍染の鏡花水月をも破る尸魂界最強の技だと言われている……」

「ちょ、ちょっと待って! ストップストップ!!」

「あっ副隊長! お疲れっす!」

 

 堪らず待ったをかけた沙羅に、ぱっと顔を輝かせて敬礼する八席の隊士。若手隊士たちに至っては緊張のあまり「おおお疲れ様です!」と声が上擦っている。

 

「話が誇張されすぎ! バッタバッタ斬り倒してないし、最強の技でもないから! そういうこと言うのやめて!」

「副隊長はすぐに謙遜するんすから~。もっと胸張ってくださいよ!」

「謙遜とかじゃなくて!」

 

 必死に弁解する沙羅の後ろでは乱菊が笑いを噛み殺している。

 

「藍染隊長を倒したのだって、私ひとりの力じゃないし! 本当に、そんな風に言われるようなことしてないから──」

「何言ってるんすか! 副隊長が藍染を倒したのは事実じゃないすか! これで虚圏の指揮系統はガタガタだろうし、今なら総力で攻め入れば破面共を一網打尽にできますよ!」

「え……」

 

 八席の思いがけない言葉に沙羅は口を開いたまま固まった。

 

「あ、でも……破面がみんな敵ってわけじゃないし、対話で解決できることもあると思うから……」

「対話が通じない奴らだって大勢いますよ。いくら破面になって理性を得たって言っても、結局奴らの本質が虚なのは変わらない……」

「そんなことないよ、私が会った破面は──」

「だってそうじゃないすか! 現に菜月たちだって、何もしてないのに十刃に一方的に殺されたんすから!」

「なつき……?」

 

 八席が苦々しく顔を歪めて吐き出した名前に、沙羅は怪訝な反応を見せた。

 憶えのある響き。その答えを捜すように、しばし視線を宙に彷徨わせる。

 

「なつき……菜月……?」

 

 意識して呟いた途端、フラッシュバックのようにあどけない少女の顔が浮かび上がった。

 真新しい死覇装に袖を通して、緊張した面持ちで敬礼していた新人隊士の少女。声をかけるとさぁっと頬を紅潮させて、けれどとても嬉しそうに笑っていた。

 

 そうだ。年若いあの少女を含む、四人の隊士が犠牲になった痛ましい事件だ。

 それを、どうして今の今まで忘れていた? 

 どうして──

 

「そこまでにしておけ。前にも言ったはずだ、憎しみをたぎらせて刀を振るうならそれは虚と変わらないと。仲間を失った痛みを憎しみに変えるな。俺たちが刀を抜くのは、いつだって希望のため。それが十三番隊の掟だ」

「隊長……。すみません……」

 

 浮竹になだめられ、八席は渋々といった様子で頷く。けれど沙羅の脳内はぐるぐると落ち着きなく回り続けていた。

 記憶が欠けているのは現世と虚圏での出来事が大半で、まさか仲間の記憶まで抜け落ちているなどとは思いもしなかった。大切な仲間の死を忘れていたことへの罪の意識が押し寄せる。

 

 どうして忘れられた? 

 どうして……忘れる必要があった? 

 

 固く鎖された意識の深層から、かすかに甦ってくる。

 あのとき、菜月たちを手にかけたのはふたりの十刃だった。

 

 ひとりは第6十刃、グリムジョー・ジャガージャック。

 

 そしてもうひとり──

 

 

「……っ!」

「沙羅⁉」

 

 異変を察知した乱菊が真っ先に駆け寄り肩を支えた。

 

「だい、じょ……つぅっ!」

 

 言葉が続かなくなった沙羅は額を押さえてうずくまる。血色を失った頬が震え、その横顔は苦痛に歪んでいた。

 

「沙羅ッ!」

「沙羅! しっかりしろ!」

「はっ……はぁっ……はぁっ」

 

 乱菊や浮竹の声が随分と遠くに聞こえた。

 異常なまでの速さで脈打つ鼓動が、脳髄にまでドクドクと不協和音を響かせている。

 

 今、何を思い出しかけた? 

 誰を──

 

 瞳を閉じて暗転した視界に、誰かの姿が浮かび上がってくるような気がした。

 

 ああ……やっぱり私は、忘れているんだ。

 

『誰か』のことを──……

 

 

 その後、落ち着きを取り戻した沙羅は救護詰所に連れていくと言ってきかない浮竹をなんとかなだめて自室に戻っていた。鬼道や薬でどうにかなる類のものではないことは、自分が一番よくわかっている。

 

「本当に大丈夫なの? やっぱり卯ノ花隊長に診てもらったほうがいいんじゃない?」

「大丈夫だって! もう、隊長もみんなも心配しすぎ。さっきのはほんの立ち眩みだから」

 

 ここまで強引に付き添ってきた乱菊にわざと明るい声を上げて肩をすくめる。これでまた救護詰所で療養生活なんてことになったらたまったものではない。

 

「大体あんた働きすぎなのよ。まだ完全に調子が戻ってるわけじゃないんだから、もうちょっと身体を労りなさい」

「乱菊っていつからそんな心配性になったの? 隊長みたい」

「あーのーねぇ! 誰のせいでこうなったと思ってんの⁉」

 

 目尻を吊り上げた乱菊にごめんごめんと手を合わせて笑う。ちっとも反省している素振りのない沙羅に嘆息しつつも、乱菊はそれ以上追及することはなかった。

 

「仕事上がったらまた来るから。ゆっくり休んでなさいよ」

「うん。ありがとう」

 

 部屋を出た乱菊の霊圧が遠ざかっていくと、沙羅はそっと布団から抜け出た。

 

 鏡台の前に立ち、鏡に映った自分の顔と向き合う。

 覇気のない瞳。

 そこに映っていたのは勤務中や誰かが傍にいるときには決して見せることのない表情だった。

 

 皆の前で無理に明るく振舞っているつもりはない。

 副隊長として隊務に勤しむのは苦じゃないし、やりがいもある。大好きな仲間たちに囲まれて過ごす時間は純粋に楽しい。充実した日々を過ごせている、と思う。

 その想いに偽りはないのに。

 

 時折、輪の中で笑っている自分が別人のように思えた。

 自分なのに、自分じゃない。まるで別の誰かが成り代わっているような。

 それはきっと、私が大切なことを忘れているからだ。

 

 小さく吐息を漏らした沙羅は鏡台から離れると壁にもたれて天井を仰いだ。

 このところ、毎晩同じ夢を見る。とはいっても夢の内容は全くと言っていいほど憶えていない。わかるのは、同じ『誰か』の夢を見ているということだけ。

 

 確かに知っている人なのに、目覚めた途端にその記憶は泡沫のごとく消えて。顔も、名前も、声すらも思い出せない。

 知るべきではない。そう釘を刺すのは、皆に囲まれて笑っているほうの私、だ。

 

 乱菊やルキアの接し方で彼女たちが気を遣っているのは嫌でもわかる。窺うような視線と、腫れ物に触るような態度。

 きっと彼女たちは知っているのだろう。沙羅が何を忘れているのか。

 そしてきっと恐れているのだろう。沙羅がそれを思い出すことを。

 

 このまま忘れていたほうがいいのかもしれない。

 そうすれば誰も傷つけることなく、自らも傷つくことなく、平穏な日々を過ごせるのかもしれない。

 だけど──

 

 気づけば胸元で右手を強く握りしめていた。

 指の隙間から翡翠の輝きがこぼれる。あれからもずっと肌身離さず着けていたネックレス。

 

 だけど私は……

 ここにあるはずの私の心の、本当の願いは。

 

 再び鏡台の前に立つと、その中央に映る自分がこくりと頷いたように見えた。

 

 

『……行くのですね』

 

 呼びかけたわけでもないのに、頭の中で声が響いた。枕元に横たえていた愛刀に目を向けて沙羅は無言で頷く。

 

『その先に待ち受けているのが望まぬ真実だったとしても、ですか?』

 

 踏みとどまらせるかのように絡みつくたおやかな声色。それに沙羅は迷いのない眼差しで返した。

 

「望まぬ真実だからって、目を背けていいわけじゃない」

 

 夢幻桜花にというより、自身に言い含めるように。

 

「たとえそれがつらい記憶だったとしても、その記憶ごと忘れてしまったら私は何がつらかったのかさえもわからない。つらいのも、苦しいのも、全部私の本物の感情でしょ? それが積み重なって今の私があるんだと思うから」

 

 きっと誰にでもあるだろう。

 思い出したくない過去。忘れ去りたい記憶。

 けれどそれは、そのときの苦しさや哀しさを憶えているからこそ思い出したくないのであって、本当に忘れてしまったらそう感じることすらなくなるのだ。そのとき、自分の中には確かに生きた感情があったはずなのに。

 

「本当は、知るのは怖い。でも知らなきゃいけないと思う。そうしないと、私はいつまで経っても私になれない」

 

 綺麗事だろうか。

 記憶を取り戻したとき、「やっぱり忘れたままでいればよかった」そう思うだろうか。

 だとしても。それがこの心の空白を埋める唯一の手段なら。

 

「自分自身からも、真実からも逃げたくない。だから──行くよ」

 

 夢幻桜花を手に取って、腰紐に固く括り付ける。

 愛刀はもう言葉を発することはなかった。きゅっと帯を結び直した沙羅はしっかりとした足取りで自室を出た。

 

 

 

 ***

 

 

 

 




《Into Oblivion…忘却の彼方に》

この穴を埋める鍵は、きっとそこにある。
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