Dear…【完結】   作:水音.

80 / 87
第62話 Memories ―君の記憶―

 その日の勤務を終えた乱菊は手早く執務机の上を片付けるとすぐに隊舎を出た。

 自室がある方向とは逆に進んでいるのは沙羅の部屋へ向かうためだ。ちょうど十三番隊の隊舎の前を通りかかったところで、中から出てきたルキアと鉢合わせた。

 

「松本副隊長! お疲れ様です」

「あら、朽木じゃない。あんたも今上がり?」

「いえ。来週の隊務予定を一番隊へ提出しに向かうところです」

 

 普段ならその手の報告は副隊長である沙羅がこなしている。不在の沙羅に代わって頼まれたのだろう。自然と歩調を合わせて進む形になると、ルキアは気遣わしげな瞳で訊ねてきた。

 

「沙羅が倒れたと聞きましたが……」

「本人は立ち眩みだって言い張ってたけどね。根詰めすぎてたんだと思うわ。復帰してからろくに休んでなかったらしいじゃない?」

「はい。いくら言っても聞き入れないんです。動いていたほうが調子がいいからなどと言われると、こちらも引き止めるのが難しくて……」

「ふふっ、あの子らしいわ。絶対わかってて言ってるのよそれ」

 

 いかにもそれらしく言ってルキアを言いくるめる沙羅の様子が容易に想像できて乱菊はくすりと笑う。ルキアもそれに合わせて微笑んだものの、またすぐに顔を曇らせた。

 

「……あの……本当にこのままで良いのでしょうか」

「え?」

「沙羅に……何も伝えないままで……」

 

 意図を察した乱菊は歩みを止めた。

 

「それが彼の願いだということはわかっています。ですが……今の沙羅を見ていると、痛々しくて。沙羅が笑っていると安心するのに、それと同時に苦しくなって……」

 

 胸の辺りを押さえながらルキアはたどたどしく言葉を紡ぐ。

 

「朽木……」

「すみません。こんなこと……私が言うべきことではないのでしょうが」

 

 いたたまれず俯いたルキアの頭に、乱菊はポンと手を置いた。

 

「あたしも同じよ。これで良かった、なんて思えない。沙羅が彼のことを思い出してくれたらいいのにって……どこかで思ってる自分がいるのよ」

 

 自嘲気味に呟いて、けれどそれを振り払うように乱菊は顔を上げる。

 

「だけど彼がこうすることを決めたのも、全部沙羅のため。さっきあんたが言ったように、周りを安心させるあの笑顔を、いつでも絶やさないようにするため」

 

 乱菊の瞼の裏には屈託なく笑う沙羅が浮かび上がっていた。

 

「だから……納得はできなくても、あたしは沙羅を見守るって決めたの。何があってもずっとあの子の傍にいる。沙羅を護るって彼に約束したんだから……」

「松本副隊長……」

 

 そう告げる乱菊の横顔を見上げるルキアはそれ以上言葉を発することはなく、一番隊の隊舎への分かれ道でふたりは別れた。

 

「引き止めてしまってすみませんでした」

「いいのよ。ちょうどこれから沙羅の様子見に行こうとしてたところだから」

「沙羅を……よろしく頼みます」

「任せて。縛り上げてでも休ませてやるわ」

 

 ぺこりと頭を下げて小走りに去っていく後ろ姿を見届けてから、乱菊は沙羅の自室へと向かった──が。

 辿り着いた部屋に沙羅の姿はなかった。

 

「沙羅?」

 

 静まり返った部屋に乱菊の呼び声だけがぽつんと響く。

 布団はもぬけの殻、辺りに気配も感じられない。戸を閉じた乱菊はすぐに足早に歩き出した。

 

「どこほっつき歩いてんのよ……!」

 

 先程のルキアの様子からして十三番隊の隊舎にはいなかったはずだ。沙羅自ら救護詰所に赴くとも思えない。ならば一体どこへ向かったというのか。

 あてもなく瀞霊廷内を駆け回ってみるも、沙羅は一向に見つからなかった。

 

「あれー副隊長、ランニングなんて珍しい。ダイエットですか?」

「んなわけないでしょ! 沙羅を捜してんのよ!」

 

 冷やかしてきた十番隊の隊士をギッと睨みつけると、彼は意外な反応を見せた。

 

「草薙副隊長ならさっきすれ違いましたよ?」

「え⁉ どこで!」

「ちょうど任務から帰ってきたときだったんで、穿界門の近くですね」

 

 ぴく、と乱菊のこめかみが震えた。

 

「穿界門……」

 

 

 *

 

 薄闇に包まれる断界を駆け抜けて穿界門をくぐった瞬間、目が眩んだ。

 雲ひとつない空を沙羅は眩しそうに見上げる。陽は傾きかけているものの、さんさんと照りつける日差しは本格的な夏のそれだ。

 一年を通して比較的気候が穏やかな尸魂界に比べて、現世は四季の変化が顕著に現れる。うっすらと額に滲んだ汗を袖口で拭った沙羅は、軽く地を蹴ると空座町の空に舞い上がった。

 

 あれからずっと思い起こせる限りの出来事を遡り、記憶を失った糸口を辿り続けていた。

 鍵となるのはやはり現世だ。先の菜月たちの事件もそう。

 ここ数ヶ月、頻繁に現世に降りていたはずなのに、その間の記憶がほとんどない。

 そしてその発端は──……

 

 向かう先に一本だけとび抜けた巨木が見えて、沙羅は地面に降り立った。

 

 町外れの公園。下からは頂上が窺えないほどの巨大な桜の木。

 今は生い茂る緑葉に染まっている桜に、不思議な懐かしさを感じた。

 

 初めてここに来たのは、久しぶりに乱菊と組んだ合同任務を終えたあとのこと。

 珍しく迅速に任務をこなしたかと思えば現世で遊び回るべく義骸に入って飛び出していった親友を、仕方なく待つ間に辿り着いたのがこの公園だった。

 

 ……いや、本当に初めてだったろうか。あの日ここを訪れたときも、妙な感覚に陥った気がする。

 まるでずっと前からこの場所を知っていたような──

 

 どくん。

 

 懐かしさは胸騒ぎへと姿を変える。

 記憶が途切れ始めたのは恐らくここからだ。

 あの日、ここで起きた何かを、私は忘れている。

 

 どくん。どくん。

 

 一歩一歩、桜の根元に近づくたびに胸騒ぎは確信へと変わっていった。

 

 そう、この根元に座って乱菊を待っていた。

 葉の間から射し込む木漏れ日が心地よくて、眠気を誘って。

 朧げな記憶に倣って腰を下ろすと計ったように瞼が重くなる。

 

「え……?」

 

 唐突な睡魔に抗う間もなく、沙羅は夢の世界へと堕ちていった。

 

 

 

 もう何度も繰り返し見てきた光景が沙羅の目の前には広がっていた。

 

 白く染まった世界。その中央に、うっすらと浮かび上がるひとつの影。

 

『沙羅』

 

 この声を、何度耳にしただろう。白い衣をなびかせて影の主は私の名を紡ぐ。

 

『沙羅……』

 

 時には大切な宝物を愛でるように

 

『……沙羅……っ』

 

 時には哀しみに押しつぶされるように、何度も何度も私を呼ぶ。

 

 その姿を捉えようと目を凝らしても、影はいつまでも朧げなまま。

 ……いや。違う。何かが視界を遮っているのだ。

 明確に意識した途端それはくっきりと映し出された。

 沙羅を覆うように包み込んでいたのは、純白の美しい羽根だった。

 

「……どいて。邪魔しないで」

 

 羽根をかき分けるようにして前へ踏み出す。けれど後から後から降ってくる羽根に阻まれて思うように進めない。

 

「お願い。思い出したいの」

 

 どんなに歩いても、影との距離は一向に縮まらない。それでも沙羅は立ち止まらなかった。

 力強い眼差しで前を見据え、夢幻桜花の柄を握り締める。

 

「つらくても、これは全部私の記憶なの。忘れたくない。失いたくない。お願い──あの人の記憶を返して!!」

 

 喉から絞り出した声と共に薄桃色に染まった夢幻桜花を、沙羅は力いっぱい振り下ろした。

 

 シャンッ……

 鋭利な刀身が空を切る。

 その途端、まるで一陣の風が吹き抜けたように沙羅を覆っていた純白の羽根が一斉に舞い上がった。

 

 遮るもののなくなった視界に、今度こそはっきりと影の主の姿が浮かび上がる。

 細身の体躯に、風に流れる黒髪。

 ネックレスと同じ翡翠の輝きをその瞳の中に見た瞬間、沙羅は安堵と懐かしさで胸がいっぱいになった。

 

「やっと逢えた……」

 

 宙を舞っていた羽根が光の粒子となって霧散する。

 真っ白に塗りつぶされていた記憶が、本来の色を取り戻すように、ひとつひとつ甦ってくる。

 

 

「ウルキオラ──」

 

 

 誰よりも愛しいその名を、沙羅は噛み締めるように呟いた。

 

 

 *

 

 初めて逢ったとき、私たちは人間だった。

 彼が所属する王都防衛軍・第三部隊に転属になったことによって生じた必然の出逢い。

 

『桐宮紫苑だ』

 

 第一印象は『宝石のような眼をした人』だった。

 その瞳に宿る深緑色の宝石に思わず魅入ってしまったのを憶えている。

 それと同時に『ものすごく不愛想な人』だとも思った。

 けれどその後、朝稽古で刀を交えるようになり、少しずつではあるが彼の素顔を垣間見るようになった。

 

『おまえのような奴なら嫌でも覚えるさ』

『それって良い意味? 悪い意味?』

 

『こら! 逃げないでよ!』

『逃げてないだろう。──行くぞ、沙羅』

 

 口数こそ少ないものの、本当は人一倍仲間想いで、責任感が強い人物なのだということを知った。

 そして気心の知れた刀鍛冶の前では、幼い子供のような表情を見せることも。

 

 もっと知りたい。もっと近づきたい。

 縮まる距離が嬉しくて、時折見せてくれる笑顔が嬉しくて。

 気づけばいつも彼を目で追うようになっていた。

 

『初めて自分以外の存在を大切だと思った。……おまえを護りたいと思った』

 

『俺におまえを護らせてくれ。これからずっと──』

 

 だから、開花した桜の下で彼が初めて想いを告げてくれたときも、これは夢なんじゃないかと思うほど嬉しくて。

 

『それじゃあ私は、紫苑の笑顔を護るね』

『……どうやって?』

『私が隣にいれば、笑顔になるでしょ?』

 

 これから続く長い道のりを、ずっと共に歩んでいくのだと、何の疑いもなく信じていた。

 それからひと月と経たずして命を落とすことになるなど夢にも思わずに。

 

『死ぬな……沙羅……』

『また俺を……ひとりにするのか? 俺を置いて逝くのか……?』

『おまえと逢えて、やっと……やっと護るものができたのに……』

 

 大好きな翡翠の瞳が霞んで見えるのは、自分の涙のせいなのか、それとも彼の涙か。

 ふわふわと舞う桜の花びらが綺麗で、けれどその色彩も徐々に薄れていった。

 

『沙羅────っ!!』

 

 あのときの彼の慟哭が、今も耳に焼きついて離れない。

 そうして私を失った彼は、憎しみに駆られるまま同胞を手にかけ、軍規違反の罪で処刑された。

 

 己を憎み、仲間を憎み、世界を憎み。

 肉体が朽ちても尚昇華されないその憎しみは彼の魂を虚へと堕としめて。

 手当たり次第に周囲の魂魄を貪った彼は、次第に桐宮紫苑としての自我を失っていった。

 

 それから百年の月日が流れ

 

『破面……?』

 

 死神として日々を過ごしていた私を待ち受けていたのは、『ウルキオラ・シファー』という名の破面へと姿を変えた彼との、二度目の出逢いだった──

 

 

 不可視の引力で引き寄せられるかのように、私たちは惹かれ合った。

 

『つくづく変わった奴だな』

『変わってるのはお互い様でしょ』

 

『花を愛でる趣味はないが──おまえとなら見ていて飽きないだろうな』

『じゃあこの桜が満開になったらお花見しよう? 約束ね』

 

 そこに死神と破面という隔たりがあっても、膨れ上がる想いを止められずに。

 

『……案ずるな。今更おまえを取って食おうなどとは思わないさ』

『もっと知りたい……ウルキオラのこと』

 

『おまえの仲間を殺したのは……俺だ』

『……十刃……?』

 

 どれだけ傷ついても、苦しんでも、断ち切ることなどできなかった。

 

『今ここで俺を殺さなければ、この先もっと多くの仲間を失うことになるぞ』

『ずるいよ……』

 

『二度とここへは来るな……』

 

『紫苑なんでしょ……?』

『だから来るなと言ったんだ……』

 

 前世の記憶を取り戻してからはなおのこと。

 百年もの間、孤独な闇の中で過去の呵責を背負い続けてきた彼を、苦しみから解放してあげたかった。

 

『もう十分苦しんだじゃない……百年も苦しみ続けてきたじゃない!』

 

『ずっとひとりにしてごめんね。……だけどもう離れないから』

『俺は……おまえの傍にいてもいいのか……?』

 

 傍にいたかった。

 誰の目をはばかることなく、ふたりで肩を並べて笑い合える日々がいつかきっと訪れる。

 そんな未来を信じることが、私たちの唯一の希望だった。

 

 だから、たとえ彼が自我を奪われ、私のことを忘れても

 

『おまえが草薙沙羅か』

 

 護ると誓ったその手で、私の身体を切り裂いても

 

『俺が斬ったのか……?』

 

 血に飢えた獣になり果てても

 

『……ス……コロス……!』

 

 諦めることなんてできなかった。

 

 彼と生きたい。

 彼と生きる未来が、欲しい。

 ささやかな、けれどこの上なく困難な願いを、私はどうしても手放すことができなかったから。

 

『ウルキオラに逢いに行く』

 

『そうまでして救わなければならない人なんスか?』

『生きるために、命を懸けるんです』

 

『あいつが藍染の術に嵌められたのをわかってて、そこから救うために乗り込んできたってのか?』

『諦められるならこんなところまで来たりしない』

 

『今のあいつの目だけは……どうしても許せねえんだよ』

 

『譲れない願いなら、私にだってある!』

 

『じゃあおまえは、奴のためなら命をくれてやってもいいと思ってんのか』

 

『私はもう死ぬわけにはいかないの』

 

 必ず取り戻してみせると、そう決めたから──

 

 

『ここをまっすぐ突き抜けりゃウルキオラの宮まではすぐだ。あとはおまえひとりでも行ける』

『……グリムジョー』

 

 力を貸してくれる破面がいた。

 

『この先に彼がいるんでしょう? 早く行きなさい』

『先へ進め、そして戻って来い!』

 

 背中を押してくれる仲間がいた。

 そしてやっと

 

『ウルキオラ……?』

『俺がこんなことを望むとでも思ったのか!』

『逢いたかったから来た……それ以外に理由なんてない!』

 

 求めてやまなかった声が、眼差しが、温もりが帰ってきた。

 

『逢いたかった…………沙羅……っ!』

 

 もう二度と離さない。離れない。

 そしてふたりで生きる未来を手にしてみせる。

 そんな心からの誓いとともに。

 

 

 *

 

 薄く開いた視界に、さらりと風に揺れる黒髪がよぎったような気がした。

 幻だったのだろうか。一度瞬きをするとそれは忽然と消えて、代わりに目に飛び込んできたのはもうじき地平線に吸い込まれようとしている夕日の残光だった。

 黄昏の風を浴びてざわざわと鳴る桜の葉擦れの音が、彼と二度目の出逢いを果たしたあの日とは季節が異なることを伝えている。

 

「……ウルキオラ」

 

 今は誰もいないその場所へ向かって呼びかける。返るのは葉のさざめきだけ。

 

 ──こんなところで昼寝とはな。随分気の抜けた死神もいるものだ──

 

 あのときの彼の声は今もはっきりと耳に残っているのに。

 芽吹いたばかりの真新しい蕾の匂いも、頬をすり抜ける風の優しさも、こんなにも鮮明に思い出せるのに。

 

 私の中はこんなにも

 こんなにもあなたの記憶で溢れているのに。

 

「……嘘つき」

 

 ぽつり、と

 喉の奥から漏れ出したのは

 

「傍にいてくれ、なんて言ったくせに……自分だけいなくなって……っ」

 

 怒りというよりは悲しみに染まった声だった。

 

 記憶を取り戻しても

 あなたはもうどこにもいない。

 二度と傷つけないんじゃなかったの? 

 何があっても護ってくれるんじゃなかったの? 

 私の命さえ護れればよかったの? 

 それで私の心がどうなっても? 

 

 心臓がチリチリと焼けつくように疼く。

 刀を突き立てられたわけじゃない。その上に決して消えない4の数字を刻まれたわけでもない。なのに、こんなにも痛い。

 ウルキオラ──紫苑も、私を失ったあのとき、こんな如何ともしがたい怒りと悔恨と苦悶にさらされたのだろうか。

 返らない声に絶望して。

 

 わかってる。頭ではわかっている。

 この引き裂かれるような胸の痛みを、ともすれば死を選んだほうがましだとすら思える苦しみを課さぬようにと、彼は私の記憶を封じていった。

 それでも思い出すことを望んだのは他でもない、私自身だ。

 

 望まぬ真実でも、目を背けたくはない。そこにあるのは私の本物の感情だから。そう願ってここへ来た。

 思い出さなければよかったとは、思わない。思わない、けど。

 

「……苦しいよ」

 

 桜の幹に額を寄せて、かすれた声を紡ぐ。

 

 いない。

 あなたがいない。

 現世にも。虚圏にも。どこにも。

 あなたは、もう、いない──……

 

 

「逢いたいよ…………ウルキオラ……ッ!」

 

 悲痛な叫びは誰に届くこともなく、宵闇にのまれて消えた。

 

 

 **

 

 乱菊がその地に足を踏み入れると、既に空には深い藍色が溶けて広がっていた。

 街灯のひとつもない町外れの公園に人気はなく、辺りは薄闇に包まれている。

 

 沙羅が穿界門に向かったと聞いたときに、乱菊には行き先の見当がついていた。案の定桜の大木の根元に小柄な後ろ姿を見つける。

 ひとまず無事を確認できて安堵したものの、こっちはあれだけ心配して駆け回ったのだ。嫌味のひとつくらい言ってもバチは当たらないだろう。

 わざと枯れ枝を踏んで音を立てると、それで初めて気づいたのか彼女はおもむろに振り返った。

 

「乱菊……」

 

 顔を向けた沙羅を目の当たりにした途端、乱菊は言おうとしていた台詞を全て忘れて立ち尽くした。

 向かい合った瞳が見たこともないような悲哀の色に染まっていたから。

 

「沙羅……あんた──」

「……ごめんね」

 

 愕然とする乱菊に沙羅は弱々しく口を開く。

 

「傍で見てるの……つらかったでしょ?」

「……っ!」

 

 確信を得るにはその一言で十分だった。

 濃紫の瞳はいつ透明な雫がこぼれ落ちても不思議じゃないほど悲しげに揺れているのに、それでも口元に緩く笑みを浮かべて沙羅は告げた。

 

「……勝手だよね」

 

「記憶を消したからって、全部なかったことにできるわけじゃないのに」

 

 今はもう花びらの一枚も残っていない桜を見上げて、けれどそれよりももっと遠くを見つめるような眼差しで。

 

「こんなにたくさんのものを私の中に残していったくせに、それを忘れて幸せになれだなんて……っ」

 

 気丈な声がかすかに震えたその瞬間、こらえきれず乱菊は沙羅を抱き締めた。

 沙羅が彼のことを思い出してくれたらいいのに──なんて。わずかでもそう願った自身を呪った。

 こんなにも傷つき、打ちひしがれる沙羅を見て、それでもまだ同じように願えるだろうか。

 

「ごめん……」

 

 この事態を避けるために、沙羅の笑顔が失われないようにと、彼は何より苦しい手段を選んだのに。それを見守る役を託された以上、何があろうと沙羅に気取られてはいけなかったのに。

 何度沙羅の前で動揺を露わにしただろう。どれほど不安にさせただろう。

 

「ごめん……ごめん……!」

「なんで乱菊が謝るの」

 

 背に回した腕に力をこめて繰り返すと、身じろぎした沙羅が不思議そうに笑った。

 

「だってあたしは……あんたのことはあたしが護るって、彼に──!」

「私は自分で望んで思い出したんだよ。後悔なんてしてない」

 

 それは紛れもない沙羅の本心だった。そして、あとに続いた言葉も。

 

「ただ、寂しいだけ……。それは仕方ないよね? だって……」

 

 ぽつ。

 とうとう、沙羅の頬を涙が伝った。

 

「それくらい、たいせつな、ひとだったんだから……」

 

 震えが止まらなくなった沙羅の肩を乱菊は全身で覆うように包み込んだ。

 乱菊の温もりに守られながら沙羅は声を上げて泣いた。

 

 *

 

 淡く輝く三日月が夜の公園を朧に照らしていた。

 乱菊の胸でひとしきり涙を流した沙羅は、きゅっと唇を引き結んで顔を上げる。

 

「……私、乱菊に言わなきゃいけないことがあるの。本当はすぐに伝えるべきだったのに──市丸隊長のこと」

「ギンの?」

 

 反射的に身体を強張らせた乱菊に頷きを返して続ける。

 

「市丸隊長は乱菊を裏切ってなんかいなかった。乱菊のためにずっとひとりで戦い続けてたの」

「……どういう意味?」

「乱菊がまだ子供の頃、藍染隊長に狙われて魂を削られたんだって市丸隊長が言ってた。それで崩玉に奪われた乱菊の魂魄を取り戻すために、藍染隊長に従うふりをしてたって。……百年以上も、ずっと」

 

 沙羅が語るギンの真実を、乱菊はこぼれ落ちそうなほどに目を見開いて聞いていた。

 

「それじゃ……あいつが言ってた『一番大切なもの』って……」

 

 虚夜宮で対峙したときのギンの言葉を思い出す。

 

『それを護れるんやったら、他のモンがどうなろうと構へん』

『ボクにとって一番大切なモンだからや』

 

「乱菊のことだよ……」

 

 鈍器で思いっきり頭を殴られたような衝撃だった。

 

「他の何を犠牲にしても、乱菊だけは護りたかった。それが市丸隊長のただひとつの願いだったんだよ……」

 

『あかん……。乱菊だけは巻き込まれへん。乱菊がここにおったら意味ないねん』

 

 静かに語る沙羅の声にギンの台詞が重なる。

 点在していた疑問符が、ひとつの線になって、繋がる。

 

「そう……」

 

 ぐっと感情を押し殺して乱菊はなんとか声を絞り出した。

 

「だからあいつは……」

 

 無論だからといってギンの行いを正当化できるわけではない。

 ギンが藍染の計画の一翼を担ったことにより、尸魂界は更なる混乱に陥った。特に彼に心酔していた三番隊の隊士たちへの影響は計り知れない。敬愛する隊長の裏切りに嘆き、苦しみ、今なお葛藤を続ける隊士は多くいるだろう。

 それでもギンは己を貫いた。他の誰でもない、自分自身の願いを叶えるために。

 それが乱菊の願いとはかけ離れていても。

 

「子供の頃のことは……正直よく憶えてないの。あの日──目が覚めたらギンが泣きそうな顔であたしを見てたことは、なんとなく思い出せるんだけど」

 

 かつてギンと過ごした流魂街のボロ小屋を思い返して、乱菊は目を細める。

 

「でもこれでわかったわ。崩玉が破壊されたとき、妙に懐かしい感じがしたのよ。ずっと昔になくしたものが戻ってきたような。……そういうことだったのね」

 

 現にあの日を境に乱菊の霊力は格段に跳ね上がっていた。それも失った魂魄を取り戻したからだと理由づければ合点がいく。

 ギンがいつも自分を置いて先に行ってしまう理由も、時折見せた悲しげな横顔も、全てが腑に落ちた。彼は一度として乱菊を裏切ってなどいなかったのだ。

 

「…………乱菊」

 

 俯き黙り込んだ乱菊に沙羅が手を伸ばした、直後。

 

「ほんっっっと!! バカよね、男って!」

 

 がらりと調子を変えて高らかに声を張る乱菊。

 

「自分だけ犠牲になればいいなんてカッコつけて、勝手にいなくなって。それで護ったつもりでいるなんておめでたいわ。残される身にもなってみなさいってのよ!」

 

 呆気に取られる沙羅に、乱菊はふんぞり返って腕組みした。

 

「大体ね、本当に大切だと思ってるなら少しはこっちの気持ちも考えたらどうなのよ! 何の相談もなしにひとりで決めて突っ走って、そんなのただの自己満足でしかないわよバカ!!」

 

 静寂に包まれていたはずの夜の公園に、乱菊の「バカ!」が幾重にも木霊する。

 それを目の前で聞いていた沙羅は、そっと手を伸ばして今度こそ乱菊の頬に触れた。そこに流れる涙の筋を拭い取って。

 

「……うん。そうだね」

 

 月光を反射する乱菊の濡れた瞳を見ていたら、枯れ尽きたと思っていた涙が再びこみ上げた。

 

「本当……男ってバカだね」

 

 共に歩みたかった。

 どこまでもついていきたかった。

 あの人さえいてくれるなら、行き先なんてどこでも良かったのに。

 

 そこまで考えてふと虚夜宮での一場面が甦った。

 

 第4の宮で、ウルキオラと再会を果たしたあのとき。ふたりで逃げ出す選択肢もあったはずだ。

 自分がそう望めば、ウルキオラはきっとそれに応えてくれたはず。けれどそれを選ばなかったのは他でもない、沙羅自身だ。

 

 藍染惣右介を倒して全ての破面を戒めから解き放つ。

 崩玉を破壊して全ての戦いを終わらせる。

 全て沙羅自身が望んで、選んだ結果で。

 結局最後には何よりも大切なものを失ってしまった。

 

「残されるのって、こんなにつらいんだね……」

 

「命懸けで護ってくれても……もう逢えないんじゃ、意味ないのにね……っ」

 

 どこで選択を間違えたのだろう。

 どうすべきだったのだろう。

 

 藍染という脅威が去り歓喜に沸く瀞霊廷とは対照的に、沙羅の胸には悔恨の念ばかりが広がる。

 

 ウルキオラと共に逃げ出せばよかったのか。

 崩玉の宿主になればよかったのか。

 もしもあのときに戻れたら──

 そんな意味のない自問自答を繰り返すたびに、変えようのない現実が突き刺さる。

 

 沙羅がこんなにも想い焦がれ、心の底から愛した彼には

 もう二度と逢えないのだと。

 

 

 さわさわと桜の葉を躍らせていた風が止む。舞い降りた静寂の中、乱菊が静かに話し出した。

 

「あたしもね、彼に頼まれてたことがあるのよ」

「……え?」

 

 顔を上げた沙羅の首元で、翡翠の輝きを宿したネックレスが揺れる。

 それと全く同じ色をした瞳の青年が、あの日乱菊に託した最後の言葉──

 

『言われなくたって。護ってみせるわよ』

『ああ。任せた』

 

 乱菊に抱きかかえられた沙羅を名残惜しげに見つめて、彼はこう切り出したのだ。

 

『もうひとつ、頼みたいことがある』

『なに?』

『もしもの話だ。自力で封印を解くとは考えにくいが、万が一沙羅が俺の記憶を取り戻すようなことがあったら──』

 

 瞬間、沙羅の耳にはっきりとその声が響いた。

 

 

「そのときは伝えてほしい。いつか必ず迎えに行くから、それまで泣かずに待っていろと──」

 

 

 ザァッ……

 

 一陣のつむじ風が吹き抜け、桜の根元からてっぺんに向かって登っていく。

 沙羅を包み込んだそれはこの時期にしては風変わりな、春の訪れを告げるような優しい温もりを帯びた風だった。

 

 耳に残る低い声は確かにウルキオラのもので。無論目を凝らしたところでそこに姿が見えるわけではない。けれど。

 

「迎えに……?」

 

 世界が開けたようだった。

 

 どうしてどこにもいないなんて思ったのだろう。

 どうしてもう逢えないなんて思ったりしたのだろう。

 人間のときに死に別れたふたりが、姿を変えて百年後に再び出逢えたように。いつかの未来でまた出逢えるかもしれないのに。

 今この瞬間だって、彼の魂はどこかを彷徨いながら沙羅を捜しているかもしれないのに。

 

「泣かずに待ってろ、か……」

 

 ウルキオラは崩玉と共に消えた。だけど、もう二度と逢えないなんて誰が決めたのか。

 ふたりの魂が強く惹かれ合っているのなら、私たちはきっとまた──

 

「本当に……勝手なんだから──」

 

 そう言って桜の頂上を見上げた沙羅の目にもう涙はなかった。

 

「沙羅……」

「ありがと。目が覚めたよ」

 

 振り返った沙羅は晴れ晴れとした表情で。

 随分と久しぶりに沙羅の笑顔を見たような気がして、乱菊はつられて笑って、そして泣いた。

 

 *

 

「記憶が戻ったこと、みんなにはあたしから話しておこうか?」

 

 しばらく取り留めのない会話を交わしたあと、乱菊が口にした一言に沙羅は薄く微笑んで首を横に振った。

 

「ううん、大丈夫。自分で言うよ」

「けど、彼のこと──」

「ちゃんと自分の口から伝えたいの。私が見てきたもの、私が感じたこと。ウルキオラのことも全部」

 

 輝きを取り戻した瞳で夜空を見上げる沙羅に、乱菊はそれ以上口を挟むことはしなかった。

 

「まずは隊長に話しに行く。落ち込んでる暇なんてないよ、やるべきことは山ほどあるんだから」

「──そうね。こーんないい女をほったらかしたこと、後悔させてやらなきゃ!」

「……え? 乱菊のやることってそっち?」

「あったりまえでしょ! あたしらクラスの女がフリーでいて男がほっとくわけがないじゃない。バカなカッコつけ共がいない間にとびっきりいい男を見つけて、ぎゃふんと言わせてやるのよ!」

「ぎゃふんて……」

「あたしたちに唯一欠点があるとすれば、副隊長っていうご立派すぎる肩書なのよねぇ。隊長クラスでないと格が違いすぎて迂闊に近づけないってのが難点だけど──ま、いいふるいにはなるでしょ。自分より弱い男なんて願い下げだしね」

 

 別の方向に闘志を燃やす乱菊に呆気に取られていた沙羅だったが、それもまた自分を想っての振る舞いだと知っていた。

 

「……そうだね。いつかまた逢ったときに、情けない泣き顔なんて見せたくない。やれるだけのことをやって、驚かせてやらないとね」

 

 ぐっと夢幻桜花を握りしめると鞘の部分が熱を帯びて呼応したのが伝わった。

 

 そう。私はひとりじゃない。

 一緒に泣いてくれる親友がいる。支えてくれる友がいる。信頼の置ける仲間がいる。

 傍らには、いつも共に立ち向かってくれる愛刀がいる。

 

 あなたがいなくなっても、私はひとりじゃないから。

 護りたい人がいるから。護りたい場所があるから。護りたい想いが、あるから。

 

 だから今は、前を向いて歩き出す。

 例え向かうその先にあなたの姿が見えなくても

 いつか必ず、迎えに来てくれるんでしょう? 

 

 目を伏せると穏やかな表情のウルキオラが瞼の裏に浮かび上がった。

 

 何もかも憶えている。

 その声も、その温もりも、眼差しも、微笑みも、全て。

 何ひとつ霞むことなく、この身が、この心が、憶えている。

 

 だから

 

 だから私は、あなたの記憶を抱いて生きていく。

 

 いつかあなたと再び巡り会えるその日まで、ずっと──

 

 

 ***

 




《Memories…君の記憶》

 いつだって、この胸に溢れている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。