沙羅が乱菊と共に穿界門をくぐり抜けると瀞霊廷は夜の
乱菊と別れたその足で向かった先は自室ではなく、十三番隊の隊舎を抜けて更に奥──長い廊下を渡った先に粛然と佇む木造りの房室。
雨乾堂と呼ばれるその場所は、病弱な身にも関わらず度々無理を押して隊舎に顔を出そうとする浮竹に、ここならばいつでも隊舎に駆けつけられるからという名分を立てて身体を休めてもらおうと建造された彼専用の寝所である。戸の隙間からわずかな灯りが漏れているのを目に留めた沙羅は、小さく息を吸い込んでから控えめにノックした。
「……隊長。起きていらっしゃいますか?」
ものの数秒もしないうちに開いた戸の先には驚いた表情の浮竹が立っていた。
「沙羅? 何かあったのか」
「遅くにすみません。どうしてもお話ししたいことがあって……少し時間をいただけませんか」
「それは構わないが……とりあえず中に入れ、立ち話で済むような話じゃないんだろう?」
わけも聞かずに快諾した浮竹は沙羅を招き入れると茶の間へと通した。あるいは既に察していたのかもしれない。
「あの、お構いなく……」
「いいから飲め。落ち着くぞ」
慣れた手つきでお茶の用意をする浮竹に慌てて腰を上げるも、すぐに湯呑みが差し出され沙羅は黙って座るほかなかった。
勧められるまま茶托の上に置かれた湯呑みに手を伸ばす。口をつけるとほどよい熱さと渋みが広がり、じんわりと身体が温まるのがわかった。夏の気候とはいえ、長時間夜風にあたっていたせいか自分でも気づかないうちに身体が冷えていたらしい。
「美味しい……」
無意識に呟くと、途端に「そうだろう⁉ この茶葉はな、北流魂街36区の奥地にある農場でしか栽培できない特別な品種で──」と饒舌に話し出す浮竹がおかしくて、沙羅はくすりと笑みを漏らした。茶葉が上等なのは間違いないのだろうが、美味しいと感じたのはきっと浮竹の優しさが溶け込んでいるからだ。
そんな考えを巡らせながら話していると、いつの間にか緊張がほぐれ、普段と変わらずに談笑している自分がいて。そう導いてくれた上官に感謝の念を抱きながら沙羅は意を決して切り出した。
「記憶が戻りました」
向かう合う浮竹はじっと沙羅の双眸を見つめる。
「……全て思い出したのか?」
「はい。ウルキオラのことも全て」
はっきりその名を口にすると、浮竹は一度目を伏せた。
「そうか。……つらかったな」
聞くべきことは山ほどあるだろうに、何を尋ねるよりもまず真っ先に自分のことを案じてくれる。浮竹十四郎とはそういう人だ。
きっとこの人は、沙羅が自ら口を開かない限り何も問いただそうとはしないだろう。それが隊長としての職責に反していたとしても。
「隊長……聞いてもらえますか? 長くなってしまうかもしれないんですけど」
だからこそ、決意を固めた。包み隠さず全てを話そうと。
深く頷いた浮竹に沙羅は静かに語り始めた。
*
「百年、か……」
浮竹の呟きが雨乾堂を包む静寂の中に溶ける。沙羅が全てを語り終えたとき、空はうっすらと白みがかっていた。
「俺には彼の気持ちもわかるような気がするよ」
新しく淹れ直したお茶を沙羅の前に置いて、自らも湯呑みを口に運ぶ。
「愛する女性を護りたいと願うのはごく自然なことだ。戦いの中に身を置く男ならなおのこと。まして彼は、人間の頃に一度おまえを看取っている。その無念を今度こそ晴らしたかったんだろう」
二度もおまえを死なせたくはない……ウルキオラが苦しげに漏らした声が沙羅の耳に甦った。
「沙羅には生きてほしい、でも苦しませたくはない、だから記憶を消した。それが正しいとは思わない。だが、その根底にある願いはひとつだ。……彼はおまえの幸せを何より願っていたんだろうな」
理解はしているつもりだったが浮竹に面と向かって言われることで改めて思い知った。自分がどれほど愛され、護られていたのか。
「……はい」
目頭が熱くなりそうになるのを沙羅は拳を強く握りしめてこらえる。
『いつか必ず迎えに行くから、それまで泣かずに待っていろ』
涙はもう十分に流した。
振り返ってもそこにウルキオラはいない。ならば進むしかない。
自らの命を賭して未来を繋いでくれたウルキオラに、私ができること──
「これから総隊長に報告に上がります。私もやれるだけのことをやりたいんです」
迷いのない眼差しで立ち上がった沙羅を、障子の隙間から射し込む朝焼けの光が優しく照らした。左肩に括られた副官証に朝日が反射してきらりと瞬く。
この子はこんなにも逞しかっただろうか。
小柄な体躯に在りし日の元副隊長の姿を重ね合わせ、浮竹は思う。
『こいつは背負って立とうと思って立てるほど軽いモンじゃないすよ。半端な覚悟で身につければすぐに押し潰されちまう。この重みに耐えられるのは、自分が護るべきものの重みを知ってる奴だけだと俺は思うんです』
ふと浮かび上がったのは遠い昔に海燕が言っていた台詞だ。
その当時、海燕はまだ新人隊士だった沙羅に早々に目をかけ、自身の後継者だとまで言い切っていた。
沙羅は俺を超える死神になりますよ、と嬉しそうに語っていた海燕。今の沙羅の姿を見たらそれ見たことかと胸を張るだろう。
(おまえの言った通りだったな、海燕──)
眩しそうに目を細めた浮竹は「俺も行こう」と腰を上げた。
**
沙羅と連れ立って一番隊の隊舎を訪れた浮竹は、見張りの隊士に「火急の要件がある」として総隊長・山本元柳斎重國への接見を求めた。まだ日も昇りきらない時刻ではあったが、既に朝の鍛錬を始めていた元柳斎はすぐにそれに応じふたりを隊首室へと招いた。
「元柳斎先生、おはようございます。鍛錬中に申し訳ありません」
「構わぬ。おぬしのことじゃ、相応の事情があるんじゃろう」
流れ落ちる汗を手拭いで拭いながら座布団に腰を下ろす元柳斎。
浮竹に視線を送った沙羅は、彼の頷きを合図に自ら話し出した。
失っていた記憶が戻ったこと。
心を通わせた破面がいたこと。
それが第4十刃、ウルキオラ・シファーであること。
虚圏への潜入は彼を救い出すためだったこと。
そして虚圏で起きたことの、全て。
突拍子もない信じがたい話だったろう。けれど元柳斎は一度として遮ることなく、沙羅の話に黙って耳を傾けていた。真剣な面持ちで語る沙羅とそれを見守る浮竹の様相から、ふざけているわけではないと確信したのだろう。
「ふむ。状況は理解した」
全てを聞き届けた元柳斎は長い顎鬚を撫でながら頷いた。あまりにすんなりと受け入れられて沙羅は拍子抜けする。
敵である破面と通じていたのだ、内通者と見なされても仕方ない。弾劾されることも覚悟の上で伝えたのだが、元柳斎の口から放たれたのは意外な一言だった。
「して、おぬしは何を望む?」
「えっ……?」
「この事実を公にすれば、尸魂界は大いに揺れるじゃろう。我ら死神のそもそもの根幹を揺るがしかねない問題じゃ」
薄く開いた瞳に沙羅を捉えて元柳斎は続ける。
「おぬしが藍染を倒したことにより、護廷十三隊の隊士たちは皆勝利の喜びに湧き立っておる。この勢いに乗じて虚夜宮の破面共を攻め滅ぼし、虚圏を完全制圧すべきだとの声も挙がるほどじゃ。だがその肝心の藍染討伐が、死神と破面が手を取り合って戦った故の結果となると話は大きく変わってくる」
「……っ」
「破面は我らの宿敵であり、魂の安寧を脅かす存在。滅すべき相手と手を組んだなどと知れれば、上層部も黙ってはおらんじゃろう」
「破面は虚とは違います! 彼らには理性があって、対話もできます!」
「仮初めの理性を振りかざしても、所詮は血に飢えた獣よ。いつまた牙を剥くとも限らぬ」
淡々と吐き捨てる元柳斎に沙羅は唇を噛み締めた。
「死神がそう思い込んでいたから……彼らも戦う以外の術を持たなかったのかもしれません」
「……なんじゃと?」
「最初から敵だと決めつけて戦いを強いていたのは、私たちのほうなんじゃないですか? 刀を抜く前に言葉を交わしていれば歩み寄ることだってできたかもしれないのに!」
思わず語気を強めたところではっと我に返る。肩に浮竹の手が置かれていた。
「……すみません」
「謝ることはない。それがおまえの感じたことなんだろう?」
なだめるようにそう言うと浮竹は元柳斎へと視線を移した。
「先生。俺は沙羅に賛同します。我々はもっと破面のことを知るべきです」
「おぬしまでそんな絵空事を言うか、十四郎。儂らが護廷を率いるようになってから今日までの間に、どれだけの破面と刃を交えてきたか忘れたとは言うまい」
「だからこそです。ひとりとして同じ死神がいないように、破面もまた個々に異なる存在。しかし我々はそれを一括りにして、対話を試みることすらせずに彼らを断罪してきた」
「奴らは虚から転じた悪しき霊体じゃ。存在そのものが善良な魂魄を脅かす。そこに問答の余地などない」
応酬が続くにつれ元柳斎が纏う霊圧が色濃くなっていく。息苦しさすら覚える張りつめた空気の中、それでも毅然とした佇まいで元柳斎に意見をぶつけられるのは浮竹だからこそだろう。
「ならば先生は、このまま黙して真実を隠匿せよと仰るのですか」
挑むように元柳斎を見据えて浮竹は続けた。
「ウルキオラ・シファーは、第4十刃でありながら沙羅と心を通わせ、藍染に背いた。先の虚夜宮の戦いでも彼が最後まで沙羅を護り抜いたことは松本の報告からも疑いようがありません。血に飢えた獣が、自らの命を賭して誰かを護ろうとするでしょうか」
浮竹がウルキオラと対面したのは、現世に沙羅を救出しに向かった際の一度きり。
あのときの彼は藍染の手によって自我を奪われ理性を失った状態で、なるほど確かに「血に飢えた獣」という形容がぴたりとあてはまる。けれどそれがウルキオラの本質ではないことを浮竹は乱菊を通して聞いていた。
彼が沙羅の前世の恋人であること。
ふたりが百年の時を経て再会し、死神と破面という隔たりを超えて再び結ばれたこと。
思えば沙羅の副隊長への着任を後押ししたのも彼だったのだろう。「沙羅ってば最近急に綺麗になったのよねぇ」と清音がぼやいているのを聞いて、娘の成長を見守る父親のような複雑な心境になったことを憶えている。
そんな大切な相手に心身ともに傷つけられ、沙羅はどれほど打ちのめされたろう。救護詰所の寝台で布団にくるまって人知れず涙を流しているのを知っていた。
だから沙羅が辞表を置いて姿を消したと知ったときも、胸の奥底に湧き上がったのは怒りでも失望でもない、己に対する不甲斐なさだった。副官が苦しんでいることを知りながら、何もしてやることができなかった自身への。
すぐにでも沙羅を連れ戻すべく虚圏へ突入しようとするルキアや清音たちに制止をかけたものの、本心では自分が真っ先に飛び出したかった。けれど隊長としてのもうひとりの自分がそれを許さなかった。
こんなときでも冷静に俯瞰して物事を運ぼうとする自分に嫌気が差しつつも、それが隊長の責務なのだと言い聞かせて。
その後元柳斎に直談判して、結果的に虚圏の偵察という名目でルキアたちを潜入させることはできた。
だが浮竹自身は最後まで隊舎で待つことしかできなかったのだ。
だから記憶を取り戻した沙羅が立ち上がった今、自分にしてやれることは全力で成し遂げようと心に決めていた。
「彼がいなければ藍染を倒すことも、崩玉を破壊することも叶わなかった。いや、彼だけではありません。沙羅はウルキオラ以外にも複数の破面と関わり助力を得ている。破面との対話は成り立つと実証済みです」
沙羅にはいつでも笑っていてほしい。そう願うのは浮竹とて同じ。
立ち上がったその先に、この子の希望があるのなら。
「確かに破面は知性にしろ戦闘力にしろ、虚よりずっと厄介で危険な存在です。我々は破面を危険視するあまり、いかに排除するかということしか考えてこなかった。大義なき殺戮に誇りなどない。……獣はどちらなのでしょうか」
元より温和な浮竹が師である元柳斎に対してかつてこれほど盾突いたことがあるだろうか。沙羅は固唾を飲んでその横顔を見つめる。
「俺たちは受け止めるべきです。心を持つ破面がいること。その結果が今であること。そうしなければこの戦いは何度でも繰り返され、いつまで経っても終止符が打たれることはありません!」
朝焼け射し込む隊首室に浮竹の鋭い声音が木霊し、それに驚いたのか庭園の松の枝先に止まっていた小鳥が勢いよく飛び立った。
それを遠目に見つめながら、元柳斎はふっと吐息を漏らす。
「まだまだ尻の青い小童とばかり思っていたが……儂の知らぬ間に大きく成長していたようじゃの」
「子供とはそういうものです」
「はっ、言いおるわい。まさかおまえからそんな言葉を投げかけられようとは」
「俺もつい最近感じたんですよ。娘のように思っていた子が、いつの間にか成長して自分の手から離れていくのを」
そう言って元柳斎と向き合う浮竹はどこか寂しそうな、それでいてとても誇らしげな顔をしていた。
「そうか……。親のあずかり知らぬ間に育つのが子──そういうものかもしれんのう……」
誰に向けるでもなくぼやいた元柳斎の声が、明け方の涼やかな空気に溶けて消える。
反応に窮した沙羅が隣を振り仰ぐと、浮竹が「もう大丈夫だ」と告げるように微笑んで、頷いた。その瞬間に肩の力が抜ける。安堵が、広がる。
「──草薙副隊長」
「はい!」
「良い目をしておるな。ならば今一度問おう」
しゃんと背筋を伸ばした沙羅と向き合い、再度元柳斎は問いかけた。
「おぬしの望みはなんじゃ?」
沙羅は深く目を瞑り、胸元に手を当てる。
指先に翡翠の石のひやりとした感触が伝わるのを感じて、意識を研ぎ澄ますように力強く瞼を押し開けた。
「私は──」
**
その日の午後、一番隊隊舎の会談場には護廷十三隊各隊の隊長が集結していた。
事の重大性を鑑みてのことであろうが、多忙を極める隊長に対して当日の隊首会招集というのは異例の発令であり、にも関わらず全隊長がそれに応じたこともまた此度の異質さを物語っていた。
隊長たちも各々疑問に思っていたのだろう。就任後間もない年若い副隊長が、一体どのようにしてあの藍染を打ち倒したのかと。
当事者としてその場に居合わせた沙羅は、元柳斎の口から一連の出来事がつまびらかにされたのち、各隊長からの詰問の矢面に立つこととなった。
破面と通じていたことへの糾弾や副隊長としての自覚の欠如を非難する声が上がると、浮竹が間に入ろうとするのを遮りそれらを受け止めた。どんな追及にも怯むことなく真摯に言葉を紡いだ。ただの一度も目を逸らさずに。
各々の意見が飛び交い、隊首会は深夜にまで及んだ。
護廷十三隊の全隊士に向けて緊急全体集会の通達が発令されたのは、その翌週のことであった──
**
「皆の者、よくぞ集まってくれた」
瀞霊廷の中枢部にそびえ立つ双殛の丘。その最上部にしつらえた壇上に立った元柳斎は、眼下に集った護廷隊士たちへ向けて粛々と語りかけた。
隊長・副隊長を先頭に各隊の所属隊士が放射状にずらりと並ぶ様は壮観で、壇上から見渡しても最後尾が確認できないほど。
通常、護廷十三隊内で共有する連絡事項は総隊長が隊首会を開いて隊長に伝え、その後各隊長が自隊の隊士に伝達するという流れが一般的であり、総勢三千名を超える全隊士が一堂に会するというのは極めて稀である。更に今回の招集は、上位席官どころか副隊長ですらその内容を一切知らされていないことから、よほど重大な発表があるに違いないと隊士たちは息を詰めて元柳斎の次の言葉を待っていた。
「今日皆を招集したのは、他でもない。過日通達した藍染惣右介の消滅及び虚夜宮の崩壊について、重要な事実を告示するためである」
浮竹と共に十三番隊の列の先頭に立つ沙羅の元に隊士の視線が集まるが、沙羅は毅然とした表情で元柳斎を見上げたまま。
「藍染を倒しその目論見を打ち砕いたのは、極秘任務により虚圏に潜入していた十三番隊・草薙沙羅副隊長の働きによるものであることは既知の通り。しかしもうひとつ、皆に伝えるべき真実がある。草薙副隊長は独力で藍染打倒を成し得たのではない。そこには彼女と志を共にする複数の破面の存在があったのじゃ。これよりその破面の名を発表する」
ざわめき立つ隊士たちに向けて元柳斎は淡々と告げた。
「まずは
「十刃が──⁉」
「そんなことありえるのか……?」
「そのほかにもグリムジョーの従属官たちや、
まさか十刃の名が出るとは思いも寄らなかったのか、隊士のどよめきが一層広がる。その様子を遠巻きに眺めていた元柳斎は一呼吸置いてから声音を落として先を続けた。
「また破面ではないが、此度の藍染討伐を語るにあたってもう一名特筆すべき人物がおる」
「その者の名は──元三番隊隊長・市丸ギン」
ざわっ、と三番隊の面々を中心に大きな動揺が生じる。
「知っての通り、市丸は藍染と共に反逆を企てた大罪人である。かの者の背信が三番隊を始めとする隊士たちにどれほどの恐怖と絶望を与えたかは筆舌に尽くしがたい。……しかしながらその真意は、崩玉を破壊し藍染の計画を阻むことにあった。彼は最後に草薙副隊長を救うと、藍染と共に消滅したそうじゃ」
歓声とも悲鳴とも取れない声が方々で上がる中、一際驚愕していたのは十番隊の列の先頭に立っていた乱菊だった。
ギンのことは沙羅から伝え聞いてはいたが、それはあくまで内々の話であって公にはされていなかった。されていないと思っていた。なぜならギンは──
「市丸に関しては藍染や東仙同様、謀反が露見した即日に隊長の職位を剥奪しておる。同時に死神の資格そのものを無効とし、護廷十三隊からの除名処分を下した」
そう、ギンはもはや死神ですらないのだから。
「じゃが今回の報告を受け、その措置を見直すこととした」
「……!」
「隊長でありながら隊士を裏切り、独断で出奔した罪は大きい。よって隊長職位の剥奪処分は適当。とはいえ、身を呈して藍染を消滅させ、崩玉の破壊を可能とした功績もまた看過できぬ。隊首会での協議の結果、市丸ギンの除名処分は撤回し、護廷十三隊への在籍を認めることとなった」
乱菊は声を失って呆然と立ち尽くしていた。
今、総隊長はなんと言った?
元柳斎の言葉を頭の中で反芻し、確かめる。
「草薙に感謝するんだな」
「……隊長」
隣で響いた声に顔を向けると、腕組みした日番谷が伏し目がちに呟いた。
「市丸の処遇については隊首会でもだいぶ揉めたんだ。いくら本意でなかったとはいえ、奴の行動は明確な背信行為。不問にすることはできねえ。除名処分が妥当だろうってな」
「じゃあなんで……」
「草薙が必死に取り合ったんだよ。もしも市丸が戻ってきたら、ここに奴の居場所があるようにしたいって言ってな。もちろん隊長の中には反対する者もいたが、草薙も頑として引かなかった。市丸の協力がなければ自分が藍染と一緒に消滅していて、崩玉は破壊できなかったとしつこいぐらいに言い張ってたぜ。あんなに頑固な奴だとは思わなかったな」
話を聞くうちにみるみる大粒の涙が浮かび上がって、乱菊は両手で顔を覆う。そこから目を逸らすように前を向いた日番谷はそれ以上何も言うことはなかった。
「……どこまでお人好しなのよ……っ」
たとえ罪人として多くの死神に憎まれても、自分だけはギンを想い続けようと決めた。
仕方のないことだと思っていた。彼はそれだけの罪を犯したのだから。けれど沙羅はギンの名誉まで守ろうとした。
きっと本人は「いらんわそんなもん」と一蹴するだろう。
誰になんと言われようと構わない。自分の道を迷いなく突き進む。そういう男だから。
でも。でもね、ギン。
あんたには帰る場所があるのよ。
ここにあんたの、居場所があるのよ──……
「……ありがとう」
指の隙間から零れ落ちた涙をそっと拭って、乱菊は親友に心からの感謝を捧げた。
「そして最後に、此度の藍染打倒に最も尽力した破面──」
ギンの処遇に沸き立っていた隊士たちは、再び元柳斎が声を発したことで静まり返る。
「第4十刃、ウルキオラ・シファー」
護廷十三隊全ての隊士の前で高らかに紡がれたその名を、沙羅は拳を握りしめて聞いていた。
*
「これまでの報告の中では、ウルキオラ・シファーは特に藍染に忠義深く、また藍染からの信頼も厚い十刃として危険視されていた。藍染の命を受けて我々に実害を与えた過去もある。じゃが、草薙副隊長と交流を重ねることで彼に変化が生じた。ウルキオラは虚無を司る十刃とされていたが、その内には我らと寸分違わぬ心があったそうじゃ」
沙羅の記憶を彩るウルキオラが、次々と浮かんではまた消える。
何度もすれ違い、引き裂かれ、挫けそうになりながら、それでも諦めきれずに立ち上がった。歯を食いしばって進み続けてきた。ふたり歩んだその先に、願う未来があるはずと信じて。
「彼は草薙副隊長と志を共にし、死神と破面の共存を願い最期まで戦い抜いた。平穏をもたらすため、そして想い人を護るため、己が身を賭して刀を振るう。その生き様は我ら死神と何ら変わりないものであろう」
破面も、死神も、人間も、みんな同じだ。私たちはいつだって必死に生きてきた。
あるときは我が身を護るため。
あるときは愛する人を護るため。
またあるときは志を護るために。
「にわかには信じがたい話じゃろう。なれど彼らの力添えがあったからこそ、今日日の平穏が訪れたことはまごうことなき事実。我々は彼らに対する認識を改めなければならん」
喧騒静まらぬ隊士の一群に向けて、元柳斎は重く響く声色で語り続ける。
「死神と虚は千年以上の長きに亘り戦い続けてきた。
幾千とも知れぬ虚や破面との戦闘で負ったであろう傷跡が、元柳斎の身体には深く刻まれている。決して相いれることのなかった死神と虚の対立の象徴。
「じゃが破面にも心が存在し、対話を図れるということを草薙副隊長が身をもって証明してくれた。無論全ての破面に心があるなどとのたまうつもりはない。魂を害する存在を滅するのは我ら死神の宿命じゃ。とはいえ逼迫した状況下でもない限り、刀を抜くのは対話を試みてからでも遅くはない。心ある者に向けて分別なく刃を振るってしまえば、それはもはや虚の所業と変わらんからの──」
とうとうとした語り口とは対照的に、元柳斎が紡いだのは今後の死神の在り方そのものを揺るがす言葉で。眼下に整列する全ての護廷隊士を見回しながら息を吸い込んだ元柳斎は、次の瞬間右手に握る杖の先で自身の足元を一突きした。
「変革の時はきた! 古きしがらみを解き放ち、新たな時代を切り開く時じゃ!」
地面を深く抉った杖を中心に大地を震わせるほどの揺れが走る。それは元柳斎の声に連動するかのようにたちまち隊士の足元を駆け巡った。
「何事も新たな取り組みとは前例がなく苦難は避けられぬもの。強い志を掲げる指導者が必要となろう。護廷十三隊の総隊長の名の下、ここにその先導を務める者を指名する。──十三番隊副隊長、草薙沙羅」
「はい!」
威厳に満ちた声にすぐさま呼応した沙羅は、瞬歩で丘の上へ向かうと元柳斎の足元に跪いた。
「本日これをもって十三番隊副隊長、草薙沙羅を虚圏特別調査隊の隊長に任ずる。任務内容は虚圏内部の調査及び破面への接触。破面に対しては、こちらの安全面に細心の注意を払った上で、より建設的な関係の構築を図ることを目的とする」
「はい。謹んでお受けいたします」
「なお、十三番隊副隊長の席位も兼任とし、これまで通り浮竹隊長を補佐し隊を取りまとめるものとする。……決して楽な立場ではないぞ。志半ばで投げ出すことも認めん。覚悟は良いか?」
「はい!」
濃紫色の双眸に一際強い輝きを宿して答えた沙羅に、元柳斎は軽く頷くと背後に控えていた副官の雀部から包みを受け取り中から羽織を取り出した。
沙羅の肩にふわりとかけられた真新しいその羽織は、羽裏が薄桃色に染められており、通常であれば隊の数字が刻まれているはずの背中部分には桜の刺繍が施してあった。
「おぬしの羽織じゃ。草薙隊長」
慣れない呼び名に戸惑いながらこわごわと袖を通す。
羽根のように軽い。けれど鉛よりも重い。それが隊長の重み。
「では隊士へ向けて新隊長より挨拶をもらおうか」
優しく背中を押され沙羅は壇上に立った。
視界いっぱいに映る護廷隊士たちの反応は様々だ。突然の新隊長任命に対する驚き。前向きに受け止める者もいれば、否定的に捉える者も当然いる。
季節はとうに夏を迎えているが、肌寒さを感じたのは双殛の丘を吹き抜ける涼やかな風のせいなのか、この身に纏った重責のためか。ともすれば風に持っていかれそうな羽織の袖を強く握りしめて、沙羅はすっと背筋を伸ばした。
「……破面は、敵。ずっとそう思っていました」
「でも彼と──ウルキオラと初めて逢ったとき、私たちが交わしたのは刀ではなく、言葉でした」
穏やかな、けれど芯の通った声で語り始めた沙羅を、隊士たちはしんと静まり返って見つめる。
「相手が破面でも、対話は成り立つ。彼は何度も私の話に耳を傾け、ときには助言さえくれました。からかったり、呆れたり、笑ったり──まるで隊舎で仲間と談笑しているような、そんな気安さで話せる相手でした。そうして私は知ったんです。破面にも心があるということを」
初めて笑顔を見たとき。
初めて名前を呼んでくれたとき。
ひとつひとつのウルキオラの表情が、鮮明に甦る。
「距離が近づくにつれ、葛藤が芽生えました。いくら心を重ねても、身を置く立場は変わらない。彼は十刃の中でも藍染惣右介から特に厚い信頼を寄せられていて、直に死神討伐の命を受けることも少なからずありました。そして私もまた、魂の安寧のためと銘打って破面を排除しなければならなかった──」
仮面を剥がそうとしたとき。
虚の本能に飲み込まれ、私を斬ったと知ったとき。
もがき苦しむウルキオラの表情もまた、鮮明に甦る。
「空虚に開いた穴の内側に潜む虚の本能を、誰より憎んでいたのは彼自身でした。無為な殺戮に心を痛め、己を呪い、責め続けていた。ウルキオラだけじゃない。一体どれだけの破面が望みもしない殺戮を強いられてきたのか……」
声が詰まりそうになるのを懸命に堪えた。
彼らの想いを伝えること。届けること。それが今の自分がなすべきことだと思うから。
沙羅に注がれる隊士の眼差しには、様々な感情が見え隠れしている。
破面への偏見、恐怖、憎悪。刷り込みにも似たその感情は昨日今日培われたものではない。
千年もの長きに渡り続く争いの中で蓄積されてきた、怒りと悲しみの塊。
裏を返せば、死神も、破面も、自らの身に覚えのない確執を理由として相手方を敵視しているとも言える。そして両者の間に唯一の共通認識が生まれるのだ。
死神と破面は決して相容れることはない、自分たちの繁栄は敵を排除してこそ成り立つのだと。
この連鎖を食い止めるには、どちらか一方ではなく、双方が和解に向けて行動を起こすしかない。
そんなのは詭弁だ、不可能だと嘲笑う声も当然上がるだろう。だからこそ、どれだけ非難されても決して折れない志を抱く先導者が必要なのだ。そうでなければ変革など未来永劫成し得ない。
絶えず双殛の丘を流れていた風が止んだ気がした。
隊士たちのざわめきも風鳴りも消えた壇上で、沙羅はつい先日元柳斎に投げかけられた言葉を思い出す。
『おぬしの望みはなんじゃ?』
そしてそれに返した自分の言葉を。
『私は──』
ゆっくりと口を開き、あのときよりも更に強くまっすぐな声色を響かせた。
「私は、死神と破面の関係を変えたいんです。互いを憎み合う敵対者じゃなく、互いを認め合える同志へと、一から築き上げていきたい。もう誰も、望まぬ闘いを強いられて苦しむことのないように」
元柳斎へ放った台詞と同じ言葉を、三千人の隊士に向けて声高に紡ぐ。
「すぐに受け入れてもらえるとは思っていません。破面への怒りも、恐怖も、憎しみも──容易く消え去るものではないでしょう。それは彼らにとっても同じこと。死神と破面は長い年月を経て確執を深めてきました。だから今度はそれ以上に長い年月をかけて、信頼を築いていくしかないんです」
沙羅に注がれる三千の視線の中には、決して好意的ではないものも少なからず含まれている。
死神であれば当然植え付けられているであろう固定観念を払拭するのは難しい。大切な仲間や家族を破面に奪われた者もいるだろう。
だからといって諦めるわけにはいかない。試してすらいないのに、最初から無理だなんて決めつけたくない。
ウルキオラが護ってくれた命で──今度は私が、彼の願いを護りたい。
「一年経っても何も変わらないかもしれません。十年経ってもまだ進まないかもしれません。でも、百年後には何かが変わるかもしれない」
いつの日か、死神と破面が手を取り合って笑い合える未来が、きっと訪れる。
「私たちは変われます。きっと変えてみせます。今はわかってもらえなくてもいい。どうか見ていてください。死神と破面の関係が変わっていくそのさまを」
凛とした眼差しで言い放った沙羅を緩やかな風が包み込んだ。
隊長羽織が舞い上がり、背面に刺繍された桜の紋様がさながら本物の花弁のように宙を踊る。威風堂々としたその佇まいは小柄であるはずの沙羅を何倍にも大きく見せ、各隊の隊長すらもその姿に釘付けになった。
一体どれほどの間そうしていたのか──
静寂を破ったのは浮竹が両手を大きく打ち鳴らした音だった。
パン! パン! パン!
誇らしげな表情で沙羅を見上げ、力強い拍手を送る浮竹。それに追随するようにルキアや清音、仙太郎ら十三番隊の隊士からもパチパチと音が上がる。
間を置かずに日番谷や乱菊をはじめ各隊の隊長格も手を鳴らし、まばらだった拍手は瞬く間に広がり双殛の丘をのみ込んだ。地鳴りのような喝采が沙羅の鼓膜を震わせる。
ねえ、ウルキオラ、聴こえてる?
これだけの数の人が見守ってくれている。
たくさんの仲間が、私の背中を押してくれる。
この期待に応えたい。
そして私たちが願ってやなまかった未来を──
祈りを込めて空を仰げば、それに応じるかのように雲間から一筋の光が射し込んだ。
胸元で光る翡翠のネックレスを一際輝かせる陽光を眩しそうに見上げて、沙羅は大きく息を吸い込む。
これはただの始まりに過ぎない。
けれど尸魂界と虚圏という決して交わることのなかったふたつの世界は、今この瞬間から、確かに変わろうとしていた。
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《Changing World…そして世界は動き出す》
ここから始まる、新しい世界。