Dear…【完結】   作:水音.

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第65話 The Third Spring ―三度巡る季節―

 殺到していた入隊申請が落ち着き、当面の役割分担も固まった頃には、特別調査隊の正式な隊舎が瀞霊廷の奥地に完成した。

 本拠地を移し終えたところで浦原が立案・設計した常時開通型の黒腔を隊舎内に展開する。恒常的に虚圏と行き来できる環境が整うと、沙羅はすぐさま虚圏への調査遠征を開始した。

 

 藍染亡きあと、当然ながら虚圏は大きな変化に見舞われていた。

 主の支配から解放されたことにより自由を求めて旅立つ者もいたが、大半は行くあても目的もなく、今後を決めあぐねている者も含めると虚夜宮には未だ多くの破面がとどまっていた。玉座の間を中心とした一帯は更地となっているものの、それ以外の大部分については居住するには十分な空間であり、それなりの設備も整っていることが大きな要因だろう。

 

 沙羅が二月(ふたつき)ぶりに虚夜宮に姿を現したその日、出くわした破面の大半は尻尾を巻いて逃げ出した。

 調査への同行はあまり破面たちを刺激しないようにごく少数にとどめたものの、沙羅は絶対的な力を有していたあの藍染を倒した死神である。下級の破面たちにしてみれば恐怖の対象でしかない。

 

「お願い! 少しでいいから話を──」

「うわあああああ死神だッ! お、俺は何もしちゃいないぞ──!」

「待っ……」

 

 そんな破面に対して「敵意はない、どうか話を聞いてほしい」と懸命に声をかけて回るも、反応はなしのつぶて。何度目かの空振りに落胆しつつ、しかし沙羅にはひとつ気づいたことがあった。

 

「また逃げられちゃったわねぇ」

「うん……でも思ったよりも荒れてないみたい。良かった」

 

 隣で嘆息する乱菊に頷きを返しながら沙羅は周囲を見渡す。

 王が消え、統率体制も崩壊したことで無法地帯と化しているかと思ったが、どうやらそれほどでもないらしい。この機に乗じて新たな王に成り代わろうと目論む者が現れたり、縄張り争いが勃発しても不思議はないのだが。

 

「言われてみればそうね。もっと殺伐としてるかと思ったわ」

「──しっ!」

 

 急に声を潜めて沙羅は人差し指を口にあてる。

 前方から複数の霊圧を感知した。それもかなりの濃度だ。けれどどこか憶えのある──

 

「随分な手練れのようね……まさか十刃の残党──って沙羅⁉」

 

 突如駆け出した沙羅に乱菊は声を抑えるのも忘れて叫んだ。

 ぐんぐんと速度を上げて回廊を走る。そして突き当りを曲がったところで霊圧の主と鉢合わせた。

 

「……おまえッ⁉」

「グリムジョー!!」

 

 空を映したような水浅葱の瞳が大きく見開かれる。ものすごい勢いで近づいてくる霊圧に身構えていたグリムジョーは、沙羅の姿を目に留めるなり驚愕の表情を浮かべた。

 

「会えて良かった! 無事だったのね」

「……おまえこそ生きてたのかよ」

 

 嬉しそうに声を弾ませる沙羅を、グリムジョーも彼のお馴染みの従属官たちも驚きを隠せない様子でまじまじと見つめる。

 

「もう一度ちゃんと伝えたいと思ってたの。あのときは本当にありがとう」

「礼なんかいるか。俺はずっとムカついてたんだ、崩玉の破壊もてめえらふたりで勝手に決めて勝手にいなくなりやがって!」

「グリムジョーかなりへこんでたもんな~」

「るっせえ!!」

 

 すかさず茶々を入れたディ・ロイに容赦ない鉄拳を飛ばし、眉間に皺を寄せるグリムジョー。しかし沙羅が「ごめんなさい」と素直に謝ると苛立ちの矛先を失ったのか短く舌打ちした。

 

「にしても、あの爆発の中心にいて生き延びるなんざつくづく悪運が強いな。ウルキオラの奴はどうした」

「……うん……」

 

 沙羅は曖昧に笑ってから、次第にその表情に影を落とす。それを無言で見据えたグリムジョーは急に歩き出すと近くの岩場にどかっと腰を下ろした。

 

「……説明しろ」

 

 長い腕を組んでじっと沙羅の反応を待つ。

 話を聞いてくれる、ただそれだけで救われたような気持ちになって沙羅はとつとつと話し出した。ウルキオラの最後の決断とその末路を。

 

 *

 

「あの野郎……ふざけやがって。俺にふたつも借りがあんのは気分悪りぃとか言っときながら、結局借り逃げしてんじゃねーか」

 

 グリムジョーの握りしめた拳に青筋が浮かび上がる。静かな怒りが宿るそれを力任せに岩場に叩きつけようとして、けれど踏みとどまった。

 そんなことをしたところで気は晴れない。それどころか、泣きそうな瞳で全てを話し終えた目の前の死神の女が、ますます顔を曇らせては面倒だと思ったから。

 

「で? おまえは今更何しに来た? 藍染も崩玉も倒したんならもうここに用はねえだろ」

「用ならあるよ。それはね──こほん! 虚圏特別調査隊の隊長として、破面に和平の申し入れに来ました!」

 

 改まった咳ばらいをして胸を張った沙羅にグリムジョー始め従属官たちは「は?」と目を瞬いた。

 

「虚圏とくべつ……なんだって?」

「虚圏特別調査隊! 通称特調隊ね。虚圏の調査を一任された新設部隊なんだけど、その隊長が私なの」

「へーっ隊長かよ! すげえじゃん!」

「この短期間で出世したものだな」

「でしょ?」

 

 素直に称賛するディ・ロイとシャウロンに、沙羅は真新しい白が際立つ隊長羽織を誇らしげに翻す。と、そこに息を切らす乱菊が現れた。

 

「沙羅っ! もう、いきなりいなくならないでよ! 通路が入り組んでて迷ったじゃないの!」

「あっごめん、知ってる霊圧だったからつい──」

 

 悪びれない様子で手を合わせてから、沙羅は乱菊にグリムジョーらを紹介した。そして改めて特別調査隊について説明する。

 

「まだ始動したばかりだけど、これから定期的にこっちに来て破面と交流を持ったり、虚圏の調査をしたいと思ってるの」

「……聞こえのいいこと言ってるが要は虚圏を制圧しに来たってことだろ」

「違う。破面を支配しようなんて思ってない。ただもっとあなたたちのことを知って、私たちのことも知ってもらいたい。相手を知りもしないで理解なんてできっこないでしょ? まずは歩み寄ることから始めたいの。そうして問題があればひとつずつ改善していって、ゆくゆくは友好関係を築きたいと思ってる」

「はっ。随分と調子がいいな」

 

 鼻で笑い飛ばしても向き合う沙羅の瞳は揺らがなかった。まっすぐに自分を見つめる濃紫色の双眸にしばし見入ってから、グリムジョーは低い声色で問いかける。

 

「それは死神全体の総意なのか?」

「総意……ではないかな。反対してる人も快く思ってない人もたくさんいると思う。ずっと敵だと思っていた相手を急に受け入れろなんて言われても難しいよね。死神にとっても、破面にとっても」

 

 噛み締めるように告げて、沙羅はドンと拳を胸に当てた。

 

「だからまずは私たちが証明する! 死神と破面でもちゃんと通じ合えるんだってこと! そうすれば少しずつ理解も広まると思うから。そうしていつか、争うことなくお互いを尊重できるようになったらいいよね」

「尊重だぁ? んなもん不可能だろ」

「不可能?」

 

 呆れまじりに漏らした声に耳ざとく反応した沙羅が次に言うであろう台詞をグリムジョーは直感的に予測した。

 

「やってみないとわからないじゃない」

 

 案の定頭に浮かんだ通りの言葉を告げて勝気に笑った沙羅に、グリムジョーは今度こそ呆れた顔で肩をすくめた。

 

「馬鹿には何言っても無駄だな」

「あ、また馬鹿って言った! そうやって言うほうが馬鹿なんですー」

「へーへー」

 

 しかしながらその口角には笑みが浮かんでいた。

 

 *

 

「グリムジョー様!」

 

 その場でしばし話し込んでいると唐突に回廊の奥からグリムジョーを呼ぶ声が響いた。遠目で見たところ下級の破面のようだ。

 

「お忙しいところすみません。少しご相談が……ひっ、死神⁉」

 

 言いながら駆け寄ってきた破面の男は、沙羅の姿を目に留めるなり小さく悲鳴を上げて硬直した。

 

「あ、私は──」

「気にすんな、こいつは大丈夫だ。何があった」

「は、はい。実は地下区で小競り合いが起きていて……」

 

 横目でちらちらと沙羅を窺いつつも、グリムジョーに促されるまま話し出す。

 

「理由は」

「それが、居住区域の境界をはみ出したとかなんとか……」

「だぁーくっだらねえ。てめえらでどうにかできねえのか?」

「それが……その、向こうには十刃落ち(プリバロン・エスパーダ)の方もいて、我々だけではどうにも……」

 

 しどろもどろに告げる男にはーっと肩を落とすと、グリムジョーは従属官に向けてかったるそうに手を上げた。

 

「エドラド、イールフォルト、行ってやれ」

「おう、任せろ!」

「やれやれ。頭の悪い輩が多くて苦労するな」

 

 毒づきながらもグリムジョーが慣れた様子で従属官たちに指示を出すのを、沙羅は傍らでぽかんと見つめていた。

 

「グリムジョー、もしかして……」

「あァ?」

「虚夜宮に残った破面をまとめてくれてたの?」

 

 先程よぎった疑問の答えが見えた気がして身を乗り出す。藍染という絶対的支配者を失っても無法地帯と化すことなく一定の治安を保っていたのは、第6十刃であったグリムジョーがこうして争いの種を潰してくれていたからではないかと。

 

「別にそういうわけじゃねえよ。バラガンをぶちのめしたら急に掌返してひっついてくる奴が増えただけだ」

「バラガンって……第2十刃(セグンダ・エスパーダ)の?」

「あのじじい、藍染が消えた途端に新たな王は自分だとか抜かしやがって。俺らのことも配下にしてやるだの調子に乗って言ってきやがったから、返り討ちにしてやったんだよ」

 

 事もなげに言い捨てるグリムジョーに沙羅は目を瞠った。破壊能力を示す十刃の階級は第2十刃のほうが数段上。そんな相手に勝負を挑んでいたとは。

 

「……正直あのときは死んだと思ったぞ」

「結果的にはじじいを追い出せたんだからいいだろうが」

 

 普段に輪をかけて神妙なシャウロンの語り口から察するに、よほどの死闘が繰り広げられたのだろう。

 

「そんな無茶するなんて、何かあったの?」

「……別に。気に入らなかったからぶちのめしただけだ」

 

 沙羅の問いに一瞬黙り込んでグリムジョーはふいと顔を逸らした。

 取り立てて言うほどのことでもない。ただ許せなかったのだ。

 ウルキオラと沙羅が全身全霊を注いで藍染を倒すのをグリムジョーはすぐ傍で見ていた。それでようやく全ての破面が支配から解き放たれたというのに、今度は第2十刃であるバラガンが好機とばかりに立ち上がり、藍染に代わり力と恐怖で虚夜宮を統治すると言い放った。

 ならばあのふたりは何のために命を懸けたのかと、無性に腹が立ったのだ。決して老害の年寄りを新たな王として迎え入れるためなどではない。

 

 グリムジョーの耳に甦るのはあのとき沙羅が放った鬼道を介して聞いたウルキオラの言葉。

 

『全ての破面たちよ。俺たちを支配していた王は消えた。もう誰に戦いを強いられることもない』

 

『自由を手にするのは簡単だ。自らの意思で動けばいい』

 

 そうだ。あいつに言われるまでもねえ。

 俺は俺が思うがままに動いた、ただそれだけだ。

 

「誰も殺しちゃいねえんだから文句ねえだろ。じじいも口では散々偉そうなこと言ってたわりに、やられそうになったら従属官に抱えられて尻尾巻いて逃げ出したからな」

「……途中まで劣勢だったのは我々のほうだがな。第1十刃の介入があったのが大きかった。彼が現れなかったら戦況を覆すのは難しかったろう」

「えっ! スタークさんが?」

 

 シャウロンの台詞に沙羅は身を乗り出す。

 

「ああ。なんの気まぐれか知らねえが、じじいとやり合ってる最中にスタークが割り込んできたんだよ」

「正確には第1十刃とその従属官のやかましい小娘、がな。どうやら仲裁に入るつもりだったようだが」

「バラガンの話を聞いたら結果的には俺ら側についたってわけだ」

「そうだったの……」

 

 第1十刃のスタークには、虚夜宮で遭遇した際に見逃してもらった恩がある。彼もまた落ち着いて話し合えばきっとわかり合える相手だと沙羅は確信を持っていた。

 

「ありがとう。グリムジョーたちのおかげで残った破面も争うことなく暮らせてるんだね」

「くだらねえ小競り合いは毎日のように起きてるけどな」

「それでさっきみたいに頼られてるんでしょ? グリムジョーって意外と面倒見いいんだ」

「うっせえよ」

「ふふ、照れてる」

「うぜえッ!」

 

 眉間に皺を寄せるグリムジョーとそれに吹き出す沙羅を、乱菊は呆気に取られて見つめていた。

 破面とも対話はできると言い切る沙羅の主張を疑っていたわけではない。けれどまさかここまで打ち解けていたとは、想像を遥かに超えていた。

 自覚こそなかったが自分もまた先入観にとらわれていたのかもしれない。破面は自分たちとは全く別の存在だと。

 まるで仲間と談笑しているときのように屈託なく笑う沙羅を見て、歩み寄るとはこういうことなんだ、と気づかされた。

 

 その後もグリムジョーととりとめのない応酬を続けていた沙羅だったが、懐でピピピッと電子音が鳴り響くと残念そうに眉尻を下げた。

 

「あ……そろそろ時間だ、戻らないと。グリムジョー、明日も来るからまた話聞かせてくれる? 今の虚夜宮の状況とかいろいろ教えてほしいの」

「あァ? なんで俺が」

「いきなり死神が出入りするようになったら破面たちも驚くだろうし、まずはこっちのことをよく把握してから動こうと思って。ねっお願い! 明日も同じ時間にここに来るから! 約束ね!」

「おい! 待っ──!」

 

 そうまくし立てるや否や、乱菊を連れて風のように去っていった沙羅にグリムジョーは口を開けたまま立ち尽くす。

 

「なんっって勝手な女だよ!!」

「また忙しくなりそうだな」

 

 青筋を浮かべるグリムジョーの傍らでひっそりと笑みを零すシャウロンであった。

 

 

 **

 

 それからの日々を一体どうやって過ごしていたのか、沙羅は正直あまり憶えていない。

 十三番隊で副隊長の務めを果たす傍ら、空き時間や休日には必ず特調隊の隊舎へ出向き足しげく虚圏へと通った。

 うだるような残暑がやがて涼やかな秋風に代わり、瀞霊廷の周囲を彩る紅葉が見頃を迎える頃には、虚夜宮で沙羅の姿を見かけても驚く破面はいなくなった。

 打ちつける雨の日も、吹きすさぶ吹雪の日も、疲れた表情ひとつ見せずに虚圏へと向かうその姿は特調隊の活動に批判的だった隊士たちの心境にも変化をもたらした。

 

『私たちは変われます。きっと変えてみせます』

 

 そんな彼女の言葉を体現するかのように。

 

 その日できることをその日のうちに。当たり前のようでいて難しい制約を自らに課して沙羅はがむしゃらに任務に取り組んだ。

 振り返ることなく無我夢中で歩んだその足跡には、気づけばいくつもの月日が積み重なっていた。

 

 時計の針が回り続けるように。

 陽がまた昇り沈むように。

 足早に四季は流れ、過ぎてゆく。

 

 そうして、頬を撫でる風の中に新緑の香りが混じり出した頃──

 

 季節はあれから三度目の春を迎えていた。

 

 

 

 **

 

「沙羅! 沙羅いるー⁉」

 

 甲高い呼び声を上げて乱菊が飛び込んだのは、歴史ある瀞霊廷の中ではまだ新しい虚圏特別調査隊の隊舎。

 今や百人を超える隊士が在籍している特調隊は自隊での本業が優先という前提がある上、就業に関して一切の強制はない。にも関わらず隊舎には常に多くの隊士が駐留していた。

 

「お疲れ様です松本さん。隊長なら阿散井さんと朽木さんと視察に行ってますよ」

「また虚圏~⁉ 一昨日行ったばっかりじゃない!」

「夕方の例会までまだ時間があるからと……」

「んもう、こんなに掴まらない隊長なんて他にいないわよ。あの幽霊隊長め!」

 

 苦笑いする当直の隊士にぼやきながら、乱菊は伝令神機を取り出した。

 

 *

 

「──っくしゅん!!」

「風邪か?」

「ううん。別にどこも悪くないんだけど」

 

 突然身体を震わせた沙羅は覗き込んでくるルキアに首を振る。

 

「気をつけろよー季節の変わり目は風邪ひきやすいって言うしな」

「恋次にはその心配はなさそうだがな」

「おい、俺が馬鹿だって言いてえのか?」

「おおっおまえにしては鋭いな!」

 

 感心するルキアに「んの野郎……」と眉を吊り上げる恋次。

 三人は特調隊の隊舎の黒腔から虚夜宮に降り立っていた。

 

「ふたりとも付き合わせちゃってごめんね」

「問題ない、手は多いに越したことないだろう」

「ありがとう。グリムジョーの話だと北西区域に新しい破面のグループが住み着き始めたんだって。それで元々いた破面たちと居住区の割り振りでもめてるみたいで」

「その仲裁に入ればよいのだな?」

「うん。元からいる破面のリーダーは話がわかる人だから、できれば話し合いで収めたい」

 

 沙羅が神妙な面持ちで告げるとルキアは「よし!」と襟を正した。

 

「任せろ! 私がきっちり話をつけてくる。沙羅は約束があるんだろう? そちらに向かうといい」

「大丈夫?」

「案ずるな、万一の備えに恋次も連れて行くしな。ただし恋次、くれぐれも口を挟むなよ。おまえは口が悪いし愛想もないしそもそも人相が悪いからな。相手に無駄な警戒心を与えかねない」

「てめーに愛想云々言われたかねえよ! とっとと行くぞ!」

 

 ふたりが無遠慮に言い合うのはいつものことなので沙羅は黙って見送る。信頼しているからこそ余計な言葉もかけない。

 そうして姿が見えなくなると肩にかけていた大きな布袋を抱え直して別の方向へと踏み出した。

 

 *

 

「あーっ! やっぱり沙羅だ!」

 

 ルキア・恋次と別れて間もなく、虚夜宮の一角を進む沙羅の耳にけたたましい声が響いた。こちらに向かって全力で駆けてくる小柄な少女を沙羅は笑顔で迎える。

 

「リリネット、よく気づいたね」

「へへ、霊圧でそうかなって思ったんだ! ん? なんかいい匂い?」

 

 鼻をひくひくさせたリリネットはぱっと顔を輝かせる。

 

「もしかして本当に作ってきてくれたの⁉ 『かどーしょこら』!」

「ガトーショコラ、ね。前に約束したでしょ? どうぞ召し上がれ」

 

 沙羅が布袋から取り出した包みを開くと、途端にカカオの甘い香りが広がった。かぶりつくようにそのうちの一切れを口に運んだリリネットの表情がみるみる緩んでいく。

 

「おいしーっ! 前にもらった『まふぃん』も美味かったけど、あたしこっちも好き!」

「気に入ってもらえて良かった」

「こんなに美味いもの作れるなんて、沙羅すごい! あたしこれさえあればもう他にご飯いらないや!」

「こーら」

 

 夢中でガトーショコラを頬張るリリネットを諫めていると、今度は長い影が近づいていた。

 

「おぉ、まじで来てたのか」

「スタークさん。こんにちは」

「ほらね! あたしの言った通りだったろ!」

「こういうときだけ無駄に鼻が利くんだな……」

「無駄ってゆーな!」

 

 沙羅が虚夜宮に出入りするようになった当初は敵意剥き出しだったはずのリリネットが、今やこの懐きよう。

 やや思い込みが激しいところもあるが、気に入った相手には臆面もなく好意をぶつけられる。幼さゆえのその純朴さがスタークには少しばかり羨ましくもある。

 

「悪いな。忙しいのにこいつのために手を焼かせて」

「全然。好きでやってることだし、こうして食べてもらえるのは嬉しいから。スタークさんも良かったらどうぞ」

 

 誰がスタークなんかに、と包みを抱え込むリリネットから軽々とガトーショコラをひとつ奪取して、スタークは「こりゃ美味いわ」と絶賛した。

 

「これ、うちの奴らにももらっていっていいか?」

「もちろん! そのつもりで作ってきたし、まだまだたくさんあるから。みんな変わりはない?」

「ああ。毎日騒がしいけどな」

 

 スタークとリリネットが暮らすかつての第1十刃の宮は、いまや多くの破面の生活拠点となっていた。仕えていた十刃がいなくなったり居住区が破壊されたがために行き場がなくなった破面たちを、スタークが自らの宮に迎え入れたのだ。

 別に従属官にしたわけではない。けれど恩義を感じて慕ってくる彼らを、スタークははっきり「仲間」と認識していた。

 

「賑やかで楽しそう」

「まあ退屈はしないな」

 

 満更でもない様子のスタークに沙羅はふふっと笑みを漏らす。かつて対峙したとき「仲間が欲しかったんだよっ!」と泣きそうな顔で叫んだ少女が、今では多くの仲間に囲まれて日々を過ごしていることが、嬉しい。

 その後しばらく他愛もない話で笑って、沙羅は渋るリリネットと次の約束を交わしてふたりと別れた。

 

 続いて向かったのは第6十刃の宮の跡地。

 ここはここでまた多くの破面が住み着いているのだが、主の気性が反映されているのか皆心なしか柄が悪い。とはいえその心根は曲がっていないことも沙羅は知っている。

 先々で見かける破面に躊躇なく歩み寄っては声をかけ、時には談笑さえ交わしながら進んでいくと、やがて目的の人物の元に辿り着いた。

 

「グリムジョー! 見つけた」

「なんだおまえ。また来たのかよ」

「何よその言い草は。はい、いっぱい作ったからお裾分け!」

 

 ようやく見つけたこの一帯の主は今日もお決まりの従属官らとたむろしていた。

 もうひとつ用意してあったガトーショコラの包みを差し出すと、従属官たちがわっと取り囲む。

 

「沙羅の作る菓子は美味いんだよなぁ! ほら、グリムジョーももらえよ」

「いらねーよ。んな甘ったるいもん食えるか」

「可愛くねえなぁ」

「ねー。スタークさんも美味しいって言ってくれたのに」

 

 ディ・ロイと顔を見合わせて唇を尖らせる沙羅。その隣でガトーショコラを味わうイールフォルトが満足げに頷く。

 

「うん、これは美味いな。前回とはまた違った深いコクのある味わいだ。おいナキーム、食べすぎだぞ」

「だってうめぇんだもんよ~!」

 

 舞い上がる従属官たちを一瞥してちっと舌打ちすると、グリムジョーは沙羅を見下ろした。

 

「つーか前から思ってたけどよ、俺のことは呼び捨てにするくせになんでスタークはさん付けなんだよ」

「え? 言われてみれば……なんでだろう。スタークさんて落ち着きがあって大人っぽいからかな?」

「グリムジョーは落ち着きねえしガキっぽいもんなぁ! ははは!」

 

 豪快に笑い飛ばすエドラドにこめかみを震わせたものの、面白がっているのは明白なのでグリムジョーは無視を決め込んだ。

 

「そういや北西区域の小競り合いだけどよ」

「あ、それなら今ルキアと恋次が行ってる。うまくまとめてきてくれると思う」

 

 さらりと言ってのける沙羅にグリムジョーは目を瞬く。

 北西区域で勃発した居住区問題を伝えたのは一昨日のこと。たった二日でそれに対応してくるとは、伊達に隊長やってるわけじゃねえか。と決して口に出さないながらも感心する。

 多忙な身の上でこうして差し入れを持ってきたり雑談をしに来ることについては、感心を通り越して馬鹿だと思ってはいるが。

 

「ところでみんなの反応はどう? 今月から隊士の派遣頻度を増やしたけど反発の声が上がったりしてない?」

「……今んところそこまではねえな。確かに死神をしょっちゅう見かけるようにはなったが──ディ・ロイの奴なんか死神の女見かける度に運命の相手だとか言って追っかけ回してるぜ」

 

 ディ・ロイが若手の女性隊士に懸命に語りかける光景がありありと浮かんで沙羅は吹き出した。

 

「いいんじゃない? そのうち本当に運命の相手に巡り会えるかもしれないし」

「笑い事じゃねえよ。それをいちいちとっつかまえるこっちの身にもなってみろ」

「ごめんごめん」

 

 口では謝るもののいつまでもくすくすと笑っている沙羅を、グリムジョーは横目で見遣って低い声で呟く。

 

「人のことよりおまえはどうなんだよ」

「え? どうって?」

 

 ちらりと盗み見た沙羅の首の下では、見慣れた翡翠の宝石が揺れている。

 本人に直接聞いたことこそないが、その翡翠の色合いが誰を象徴するものなのかは言わずとも知れた。

 

「あれからもうじき三年経つ。いつまであいつを待ち続けるんだって聞いてんだよ」

 

 全く予想もしていなかった問いかけに沙羅は目を丸くした。

 

「いつまで、か……。そんなの考えたこともなかった」

 

 しばし目線を宙に彷徨わせるものの、答えという答えが出ず曖昧に笑って肩をすくめる。

 

「うーん、どうしよう。前は百年かかったわけだし、とりあえず百年過ぎたら考えようかな」

「百ッ……! ……本当にあいつが戻ってくると思ってんのか?」

「さあ?」

「おまえな……」

「確かなことなんて誰にもわからないでしょ。だから信じるの」

 

 呆れ果てるグリムジョーに沙羅は子供のように笑った。

 

「別に黙って待ってるつもりはないし。やりたいこともやるべきこともまだまだたくさんあるもの。全部やろうとしたら百年くらいあっという間に過ぎちゃいそうじゃない?」

「おめーはどこのババアだよ」

「ババ……失礼ね! 立ち止まってても何かが変わるわけじゃないし、とにかくできることから進めようって思ってるだけ。そうすればいつかその道の先で、もう一度あの人にも逢えるかもしれないって思うから──」

 

 遠くを見つめるような眼差しで前を向く沙羅は、澄み渡る青空のような清々しい表情を浮かべていた。

 

「…………」

「どうしたの? 急に黙っちゃって」

「……別に。馬鹿な女だと思っただけだ」

 

 顔を逸らしたグリムジョーの皮肉がどこかもの哀しそうに聞こえて、沙羅は喉まで出かかった反論を飲み込んだ。

 彼は彼なりに気遣ってくれているのだろう。そう感じたところでブブブ……と懐が震えていることに気づく。死覇装の内ポケットから伝令神機を取り出すと、沙羅は液晶に表示された通信内容を読み取った。

 

「ただちに帰還せよ──何かあったんだ。ごめん、もう戻らないと!」

 

 一瞬で荷物をまとめて踵を返す。

 

「じゃあねグリムジョー、また来週来るから。今度は甘くないもの作ってくるね!」

「いらねえっつってんだろ」

「今度こそ美味しいって言わせてみせる! 約束ねー!」

 

 一方的な取り決めであろうと沙羅は交わした約束を決して違えない。それはこの三年の間で十分すぎるほどに立証された。

 

「……めげない奴」

 

 遠ざかっていく羽織の背面に刺繍された桜の紋様に目を細めて、グリムジョーは背を向けた。

 

 

 *

 

 隊舎に戻ると般若のように目を吊り上げた乱菊が仁王立ちして待っていた。

 

「おーーーそーーーいっ!! 何回帰還信号送ったと思ってんのよ!」

「ごめん! 音量切れてて気づかなくて」

 

 帰りの道すがらよくよく確認すると伝令神機には十数件の受信履歴が残っていた。

 手を合わせて平謝りする沙羅に乱菊は全く、と肩を下ろす。こってり絞られるかと思っていたがもう怒っているわけではなさそうだ。

 

「何かあったの?」

「浮竹隊長からの呼び出しよ。急ぎで任せたい任務があるんですって」

「隊長が? わかった、ありがとう!」

 

 すぐさま隊舎を飛び出していく沙羅の後ろ姿を、乱菊は優しい眼差しで見送った。

 

 

「隊長! ただいま戻りました!」

「ああ、急に呼び出して悪かったな。虚圏へ行っていたのか?」

「はい。遅くなってすみません」

 

 隊首室に駆け込むなり頭を下げる沙羅に浮竹は「かまわんさ」と笑いかける。

 

「火急の要件ではないんだが、どうしてもおまえに任せたい任務があってな」

「はい」

 

 隊長直々に副隊長へ任ずるとなれば、その任務内容は必然的に重要度が高い案件であろうことが窺える。緊張した面持ちで沙羅は浮竹の言葉を待った。

 

「実は南流魂街のうちの管轄内に強力な霊圧反応が出たんだ」

「虚ですか⁉」

「いや虚じゃない。(ぷらす)だ」

「整? 今後虚化の恐れがあるということですか?」

「それもない。今のところ反応は白のままで安定している」

「……えっと。……じゃあ通常の勧誘ですか?」

「ああ」

 

 何食わぬ顔で頷く浮竹に沙羅は面食らった。

 流魂街に整の強い霊圧反応が出現するのはさほど珍しいことではない。

 尸魂界には現世での生を終えた魂魄が日々絶えず流れ着き、その大半は流魂街へと送られ次の転生までの時間をそこで過ごすことになる。その中にはしばしば霊力の素養を持つ者もおり、技術開発局に備え付けられた霊圧感知モニターがそれに反応するのだ。

 ここでいう『勧誘』とは彼らに死神となる意思があるか打診すること──いわゆるスカウト、なのだが。

 

「腑に落ちないといった顔だな」

「あ、いえ! そんなことは」

 

 否定しつつも沙羅は内心首をもたげていた。通常のスカウト業務に上位席官、まして副隊長が赴くことはまずない。対象が整であることから戦闘に発展する危険性は低く、大抵は若手の隊士や新人に任せられる案件だ。

 それを浮竹自ら副官を呼び出してまで課す意図とは──

 考え込む沙羅に浮竹は耐えきれなくなったようにぶはっと吹き出した。

 

「え……隊長?」

「いや、スマンスマン。実際おまえの手を借りるようなことじゃないんだが──たまにはのんびり里帰りでもしたいかと思ってな」

「里帰り?」

 

 柔らかな笑みを浮かべて浮竹が続ける。

 

「霊圧反応を捉えたのは南流魂街の第七地区だ」

「──春蘭(しゅんらん)⁉」

 

 故郷の名を口にした沙羅はぱあっと顔を輝かせた。

 流魂街に導かれた沙羅が生を受けた場所。血の繋がりはなくとも、大切な家族たちと過ごしたかけがえのない思い出の地。

 

「まあそういうことだ。おまえが適任だと思ったんだが、どうだ、引き受けてくれるか?」

「もちろんです! 行かせてください!」

 

 息まいて声を上げると浮竹は快く頷いた。

 

「任せたぞ。ついでに二、三日ゆっくりしてくるといい。明日の朝にでも発てるか?」

「あ……すみません、明日は特調隊の会議があって」

「ああ、それなら問題ない」

「え?」

「松本に言ったらすぐに特調隊の予定を組み直してくれたよ。おまえには今週いっぱい休暇を取ってもらうよう調整済みだそうだ」

「……!」

 

 先程仁王立ちして待ち構えていた乱菊の瞳が、やけに楽しそうだった理由を今になって知る。

 久しく里帰りなどしていない沙羅にとっては最高のサプライズだ。それが目の前に座っている上官や親友による粋な計らいであることは疑う余地もなくて。

 胸が詰まって顔を上げた沙羅を浮竹の穏やかな微笑みが包み込んだ。

 

「あくまで任務だからな? とはいえ勧誘が済んだらあとは休暇だ。存分に羽根を伸ばしておいで」

「──はい!」

 

 まるでとびきりの贈り物を前にした子供のようにこぼれんばかりの笑みを浮かべて、沙羅は力いっぱい頷いた。

 

 

 頬をすり抜ける風は微かな温もりを帯び、季節の変遷を伝えている。

 芽吹く新緑。色づく蕾。若木から飛び立つ小鳥が奏でる軽やかなさえずり。

 春の気配をそこかしこに感じながら、沙羅は久方ぶりの帰郷に心躍らせる。

 

 開花のときまで、あと僅か──

 

 

 

 ***

 




《The Third Spring…三度(みたび)巡る季節》

時は流れ、そしてまた花が咲く。


あれよあれよという間にもう年末。完結は来年に持ち越しとなりました。
残り2話、どうぞお付き合いください。
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