Dear…【完結】   作:水音.

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第66話 Blooming for You ―君のために咲く花―

 南流魂街第七地区、春蘭(しゅんらん)

 瀞霊廷から程近い距離に位置するその集落は、豊かな自然と気候に恵まれた平穏な居住区である。現世から尸魂界へと転生した沙羅が生まれ落ちた場所であり、子供時代を過ごした唯一無二の故郷。

 

「春蘭の匂いだ──」

 

 丘陵を下って流れてきた暖かな風に懐かしさを感じて、沙羅は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

 閉じた瞼をゆっくりと開く。最後に帰郷してからもう四年は経つだろうか。沙羅がウルキオラと出逢うより更に前、藍染が謀反を起こす前の春に帰って以来だ。

 ふたりは元気にしているだろうか。

 

「沙羅ーっ!!」

 

 まさに今思い返していた声が響いて振り返ると、丘の向こうからふたつの影が駆けてくるのが見えた。

 

千歳(ちとせ)! 勇真(ゆうま)!」

 

 沙羅にとって兄妹も同然、大切な家族であるふたりの名を声高に叫んで大きく手を振る。それに更に大きく手を振り返した女性──千歳は、肩先でくるんとカールするくせっ毛を揺らしながら駆け寄る勢いそのままに沙羅に飛びついた。

 

「うわっぷ!」

「沙羅! 会いたかったぁ!!」

 

 後方にもんどり打って倒れそうなところを寸前で踏みとどまったのは日頃の鍛錬の賜物だろう。

 

「もうっ、帰ってくるならもっと早く教えてよね! さっき知らせが届いてビックリしたんだから!」

「ご、ごめん、急に決まった任務だったから」

「えっ任務⁉ 仕事なの? 休みじゃないの? せっかく帰ってきたんだから少しはゆっくりして行けるんでしょ?」

「あ、うん、今週いっぱいは」

「やったー! そうこなくっちゃね!」

「千歳ー。そろそろ離れてやんねえと沙羅の背筋(はいきん)がプルプル言ってんぞ」

 

 勇真の苦言に「えー」と唇を尖らせながらも渋々身を離す千歳。そして改めて沙羅と向き合うと、彼女は右頬に幼少期から変わらないえくぼを浮かべてくしゃりと笑った。

 

「おかえり、沙羅」

「ただいま」

 

 迷わず答えて沙羅もまた微笑む。

 何も変わらずにこうして迎え入れてくれる家族がいることが、嬉しい。血の繋がりはなくともふたりの存在は沙羅にとっては家族そのものだ。

 

「ホント久しぶりだな。なんか顔つきも変わったんじゃね?」

「え? そうかな?」

 

 首を傾げる沙羅を勇真はしげしげと見つめる。

 

「大人びたっつーか風格があるっつーか。まあそりゃそうか、今や護廷十三隊の隊長だもんなぁ。それが隊長羽織ってやつ? 貫禄あるよなー」

「隊長って言っても特別に編成された隊だし、十三番隊ではずっと副隊長のままだよ」

「十分すげーっつーの」

「……そうよ。副隊長になったときも隊長になったときも、あたしたちすっごく嬉しくて盛大にお祝いしようと思ってたのに。沙羅ったら手紙しか寄こさないんだから!」

 

 腰に手を当ててぷうっとむくれる千歳に沙羅は眉尻を下げる。

 

「ごめんごめん。私も帰りたかったんだけど、いろいろあったからさ……」

 

「本当に……いろいろ、あって」

 

 無意識に、そう繰り返していた。

 藍染の謀反。ウルキオラとの出逢い。ふたりで過ごした時間。藍染との決着。そして彼との、別れ。

 あれからいろんな──本当にいろんな出来事があった。けれどそれはとても文章に書き起こせるようなことではなくて。結果として故郷に送る手紙は簡潔な近況報告にとどまっていた。

 

 不意に目線を落とした沙羅の様子に、千歳も勇真もすぐに気づいた。その上でわざと明るい声を張り上げる。

 

「まあ立ち話もなんだし、とりあえずうちに帰って一息つこうぜ、な!」

「そうね。沙羅の好きな山菜もいっぱい採ってあるの! 今夜は腕によりをかけてあたしの山菜料理をご馳走するわ」

「食中毒だけは勘弁してくれよな」

「はあ⁉ 失礼ねえ!」

 

 腕まくりする千歳とそれに茶々を入れる勇真。四年ぶりとは思えないほどすっと馴染む空気が心地よくて、沙羅は笑顔で頷いた。

 

 *

 

 勇真と千歳の居宅に移動した沙羅は、ティーカップ片手にほうっと息をついていた。

 

「あー……美味しい」

「沙羅は昔からこのハーブティー好きよね」

「うん。これ飲むと春蘭に帰ってきたって感じがする」

 

 肩の力が抜けたようにテーブルに頬杖をついている沙羅を和んだ表情で見つめて、自身のティーカップにもハーブティーを注いだ千歳は勇真の隣に腰を下ろす。

 

「こうしてると昔に戻ったみたいだな」

 

 ぼそりと勇真が呟く。思い返している光景はきっと三人とも同じだろう。

 

「……懐かしいな。おばあちゃんと四人で過ごしてたときのこと」

 

 物心ついたときからずっと生活を共にしていた老婆の、しわくちゃの笑顔が沙羅の瞼の裏に甦る。

 血の繋がった祖母ではなくとも幼い沙羅たちにとっては母にも等しい存在だった。

 

「怒るとおっかなかったけどなー」

「それは勇真が馬鹿なことばっかりしてたからでしょ! あんなに優しいおばあちゃんを怒らせるなんて、ある意味尊敬するわ」

「そんなに悪いことはしてねえよ! ……多分」

 

 ふたりのやりとりにくすっと笑いながら、沙羅は再度ティーカップを口に運んだ。長い睫毛が伏し目がちに揺れるのを見ていた千歳はやんわりと口火を切る。

 

「沙羅。隊長の仕事……大変じゃない?」

「ん? ……うーん、楽ではないけど、やりがいはあるかな」

「ちゃんと休みは取れてるの? 無理してないならいいんだけど」

「それは大丈夫! 周りの仲間もフォローしてくれるし、休まないほうがガミガミ言われるから」

 

 特調隊の隊長に就任してからのこの三年、まともな休暇こそ取っていなかったものの、だからといって寝る間を惜しんで働いていたわけでもない。

 いや、正確には寝る間を惜しませてもらえなかった。沙羅が「そろそろ休もうかな」と思うよりも早く、心配性な上官や仲間たちが鬼の形相で早く帰れ早く休めと詰め寄ってくるのだから。

「うちの隊長こそ身体が弱いのに、自分のことは棚に上げて私には休め休めってそればっかりで」とささやかな不満を漏らす沙羅に、千歳は安堵の表情を浮かべた。

 

「沙羅はすごいね。子供の頃からの夢をちゃんと叶えたんだもの」

「え?」

「海燕さんみたいな死神になる! ってずっと言ってたでしょ」

 

 千歳の言葉にしばし固まった沙羅は、数秒置いてこくりと頷く。

 

「……うん。そう。それが夢だった」

 

 海燕先輩のような勇ましく誇り高い死神になって、大切な人を、大切なものを護る。

 それが死神としての沙羅の原点であり、絶えず掲げ続けてきた夢だった。その彼が志半ばにして倒れてからはなおのこと──

 

「……あたしね、海燕さんが亡くなったって聞いたとき、すごく怖かった。あんなに強い人が死んじゃうなんて、死神は、沙羅はどれだけ恐ろしい敵を相手にしてるんだろうって。そんな危険な目に遭うくらいなら、死神なんて辞めて戻ってくればいいのにって思ってた」

 

 一語一句、押し出すように紡いで千歳は沙羅を見据える。

 

「でも沙羅はちっとも諦めようとしなかったよね。一度も辞めたいなんて言わなかった。それで本当に海燕さんの跡を継いで副隊長になっちゃうんだもん!」

「席官になるのだってほんの一握りだって言われてんのにな。沙羅の根性には脱帽するぜ。ばあちゃんも喜んでるだろうな」

 

 口々に称賛するふたりの声を沙羅はどこか上の空で聞いていた。

 

 海燕のようになりたい。

 海燕に追いつきたい。

 死神を志したその日からずっと追い求め続けてきた理想を、意識することが少なくなったのはいつからだろう。

 

 肩を並べたとは思っていない。ただこの三年間、自分にできる限りのことはやってきたはずだという自負はある。

 積み重ねた時間は沙羅に確かな自信を芽生えさせていた。

 彼が目指す存在であることは変わらない。けれど今の私には、目指すべき未来がある。

 

「私の夢はまだ叶ってないの。もうひとつ大きな夢もできたしね」

 

 吹っ切れたように顔を上げた沙羅に、千歳は目を輝かせて詰め寄った。

 

「それが特別調査隊ってやつなの? じゃあじっくり聞かせてもらおうじゃないの。この四年間の話と、沙羅の新しい夢の話!」

「うん。でも帰ってきてからね。先に任務を片付けないと」

「あー、そういや仕事で来たんだっけか」

「ちょっと捜してる人がいるんだ。って言ってもどこにいるのかまだわからないんだけど」

 

 勇真に答えながら沙羅は懐から小型の電子機器を取り出す。技術開発局から借りたこの装置は、言わば霊圧感知モニターの機能縮小版。付近の霊圧反応を捉え画面上に映し出してくれるものだ。

 ここまでの道すがら、霊圧装置は春蘭の方角へ向けて一度だけ強い霊圧反応を捕捉していた。しかしその後は沈黙を続けており、いざ春蘭に辿り着いても何の反応も示さない。

 装置の故障とは考えにくい。となれば、その霊圧の持ち主が意図的に自身の霊圧を抑えていることになるが──それもまた信じがたいことなのだ。

 霊圧のコントロールにはかなりの集中力と感覚の機微を掴むセンスが必要とされる。沙羅のように鍛錬を積んだ死神であればまだしも、一般人が自らの霊圧を抑制するなど聞いた試しがない。そこに納得のいく答えを当てはめるとしたら──

 

(……虚ではない。一度だけ補足した霊圧も整の反応を示してた。そもそも虚だったらとっくに被害が出てるはず。護廷十三隊から除名された元死神、とか?)

 

 今のところ騒ぎが起きている様子もないし、悪意がある存在とは思えないが。いずれにしろ接触してみるしかない。

 

「どこにいるかわからないって、そんなもんどうやって捜すんだよ」

「ある程度近づけばわかると思う。春蘭の近くにいるのは間違いないし、散歩がてらぶらぶらしてみるよ」

 

 軽い調子で席を立った沙羅を「なあ」と引き止める勇真。

 

「どこかあてがあるわけじゃないんだろ? だったらちょっと俺に付き合えよ」

「え? いいけど……」

 

 訝しげに振り向いた沙羅にニッと含みのある笑みを浮かべて。

 

「沙羅に見せたい場所があるんだ」

「見せたい場所?」

「ま、着いてからのお楽しみってことで」

「それじゃあたしは夕飯の準備して待ってるわ。暗くなる前に帰ってきてよね?」

 

 半ば強引に連れ出された沙羅は、わけもわからぬまま勇真の後に付いていった。馴染みのある風景に囲まれつつも懐郷の余韻に浸る(いとま)もなく、川沿いの山道をぐんぐんと進んでいく勇真を追う。居住区からは離れていく一方で、途中行き先を尋ねるももったいぶった返答が返るだけだった。

 

「勇真! どこまで行くの?」

「ここだよ」

 

 若葉が生い茂る木々をかいくぐって雑木林を抜けるとようやく勇真は立ち止まった。そして彼が一歩身を引いた、その先に。

 

「わ……っ!」

 

 沙羅の視界は一瞬にして色づいた。

 眼前に広がったのは満開の桜の花。枝先いっぱいに薄桃色の花弁をまとった桜が、終わりが見えないほど遠くまで立ち並んでいる。

 

「昨日まで三分咲き程度だったんだけどな。今朝になって一斉に開花したんだ。そこへ沙羅が戻ってくるって知らせが届いたもんだから、こりゃ見せるっきゃねえと思って」

 

 圧巻としか言いようのない光景に言葉も忘れて見入る沙羅に、勇真は得意げに鼻の頭をこする。

 

「すごい……前はここに桜なんてなかったよね?」

「沙羅が死神になるためにここを出ていくとき、俺が言ったこと憶えてるか?」

 

 ──そうだ。沙羅の一番好きな花ってなんだ? 

 ──今度沙羅が戻ってきたときには、春蘭を桜でいっぱいにしといてやるよ。だから沙羅も強えー死神になって帰って来いよ? ──

 

 住み慣れた故郷をひとり旅立つ少女へ、幼き少年が送った精一杯のエール。

 

「あれからすぐに種を植えて育て始めたけど、土が合わなかったり動物に荒らされたりで増やすのに結構時間かかっちまったんだ」

「これ全部、勇真ひとりで?」

「まあな。どうせならすっげー数にして驚かせたかったんだよ。やっと約束を果たせた」

 

 悪戯が成功した子供のように屈託なく笑う勇真を、沙羅はただただ驚いて見つめていた。

 

「多分俺は、ずっとどっかでひっかかってたんだ。ばあちゃんが消えて、沙羅は二度とあんな思いをしないようにって死神になる道を選んで。それを見送ることしかできなかった。男の俺がばあちゃんも沙羅も千歳も護るべきだったのに、情けねえなって思ってさ。だからって俺に霊力の素養があるわけじゃねえし、死神になろうとしたところでなれっこねえんだけど」

 

 それは勇真が初めて吐露した劣等感だった。黙って耳を傾けていた沙羅は小さく首を振る。

 

「そんなことない。あの虚に襲われたときだって、真っ先に立ち向かったのは勇真だったじゃない」

「一撃で放り投げられたけどな」

「すごく勇敢だったよ。誰にでもできることじゃない」

 

 力強く言い切る沙羅にふっと頬を緩めて勇真は頭上の桜を仰ぐ。

 

「俺は死神にはなれねえけど、それなら何か自分にできることをしようって思ったんだ。俺が沙羅にしてやれるのなんてこれくらいしかないからな」

「……ありがとう。こんなにたくさんの桜、見たことないよ。本当に綺麗──」

 

 勇真に笑みを返して、沙羅もまた咲き誇る桜の花々を見上げた。

 

 今年に入ってから初めて見る桜。

 鮮やかなその色彩を瞳に映すだけで胸の奥底にこみあげるものがある。

 

「ここで『おまえのことは俺が護ってやるから心配すんな!』とか言えればカッコつくんだけどなー」

「何言ってるの。勇真には千歳を護るっていう大事な役目があるでしょ」

「あー……それはもちろん、そのつもりだけど。あいつのこともずっとこのままでいいのかって疑問に思うときがあんだよな」

 

 がりがりと頭をかく勇真を「このままって?」と振り返る沙羅。

 

「いやだから、これからも一緒にいるのはもちろんだし、俺は当然千歳を護っていくつもりでいるけど。その、ちゃんとした形でっていうか、けじめみたいなモンをつけることも必要なのかなって」

「それって──千歳にプロポーズするってこと⁉」

「いや、例えばの話だからな!」

「いいじゃない! 賛成! 千歳絶対喜ぶ!」

 

 らんらんと目を輝かせる沙羅に勇真は「でもさ」と声のトーンを落として。

 

「今までもずっと一緒に暮らしてきたわけだし、元々が家族みてーなもんだし、結婚したところでこれまでと何か変わるわけでもねえんだよな。一緒にいるのが当たり前っていうか」

「一緒にいるのが当たり前に思えるのは、それだけ千歳の存在が勇真の中で大きいってことでしょ? そんな相手が傍にいるってすごく幸せなことだよ」

「それは……そうだな」

「私たちは家族だけど、勇真の千歳に対する気持ちはそれだけじゃないよね? その想い、ちゃんと千歳に伝えてあげて」

「今更? って言われねえかな」

「言われない。絶対喜ぶよ」

 

 握りこぶしで断言する。勇真と千歳がいつの頃からか互いに家族以上の情愛を向けるようになったのは、沙羅の目から見ても明白だった。

 大好きなふたりが結ばれるなんてこんなに嬉しいことはない。とはいえそれはふたりの問題。自分が口を出すことでもないと長らく静観を保ってきたが。

 躊躇する勇真を前に沙羅はどうしても言わずにはいられなかった。

 

「ねえ勇真。幸せな時間って、あっという間に過ぎていくよね。一緒にいると楽しくて、満たされて。悩むことが少ない分、余計に時間の流れを早く感じる。そうしてそんな毎日が続いていくうちに、それが当たり前のように思えてくる。昨日も今日も幸せだった。だから明日もその次も幸せだよねって。明日何が起こるかなんて、誰にもわからないのに」

 

 沙羅の言葉はまるで自分自身に言い聞かせているかのように、風にさざめく桜の下で重く響く。

 薄桃色の花弁を映す瞳が物憂げに揺らめいて、大好きだと言っていた花を見てどうしてそんなに苦しそうな顔をするのだろうかと勇真は不思議に思う。

 

「考えたくないことだけど、いつかこの暮らしが終わりを迎えたとき、勇真は後悔しない? 千歳にちゃんと伝えておけば良かったって思わない? ……きっとね、どんなに想いを伝えていても、失ったときには後悔するの。もっとああしていれば良かった、あのときこうすれば良かったって、そればっかり浮かぶの。幸せであればあるほど、失ったときの喪失感もどうしようもなく大きい。それが置いていくほうでも、置いていかれるほうでも」

 

「……だから、伝えたいと思ったことは今伝えたほうがいい。あとから後悔するより、ずっといい」

 

 沙羅が何を想って──誰を想ってそれを口にしたのか勇真には知る由もなかった。桜の花に重ねて何を見つめていたのかも。

 けれどそこにこめられた想いは十分にくみ取れた。しばし目を伏せて風を浴びてから、勇真はふうっと息をつく。

 

「……おし。わかった。今夜千歳に言う」

「本当⁉」

「おう! 見とけよ俺の雄姿を!」

 

 不安をかき消すように大きく胸を張る勇真に沙羅は嬉しそうに頷く。

 大層喜ぶであろう千歳の笑顔を想像するとくすぐったいような心地になり、それと同時に微かな──ほんの微かな痛みがチクリと心臓を刺す。普段なら気づかない振りをしたであろうその痛みが今はなぜかとても大切なものに思えて、左胸を押さえようと手を伸ばしたところでちょうど懐にしまっていた霊圧感知装置がピピッと電子音を発した。

 

「! 霊圧反応──」

 

 取り出した画面には激しく点滅する白い光が表示されていた。そう遠い距離ではない。位置はちょうど前方。

 

「この先にいる……?」

 

 一面に続く桜並木を眺めてから再び画面に目を戻したときには既に反応は消えていた。

 

(まただ。故障なんかじゃない。私の接近に気づいて霊圧を消した? それともあえて霊圧を流してこっちの反応を窺ってる?)

 

 虚、あるいは虚化の兆候があれば反応は赤い光をまとうはずだが、先程表示されたのは綺麗な白い光だった。虚でないことは確かだろう。

 霊圧の強さは点滅の頻度で表される。激しい点滅はかなりの霊力の持ち主であることの証。

 得体の知れない強力な整──任地が春蘭であることを抜きにしても、自分が来て正解だったと沙羅は襟を正した。

 

「勇真。少しこの中歩いてきてもいい?」

「そりゃいいけど……大丈夫か?」

「これでも隊長ですけど?」

 

 桜の刺繍が施された隊長羽織を翻してそう言えば「それもそうだな」と勇真が笑った。

 

「じゃあ俺は先に戻ってるけど、夕飯までには帰って来いよ。千歳が首長くして待ってるからな」

 

 遠ざかる勇真に手を振って、踵を返した沙羅は桜並木の中へと踏み込んだ。

 

 *

 

 こうしてじっくり桜の花を見上げるのは随分久しぶりかもしれないと、木々の間を抜けながら沙羅はふと考えた。

 

 最後に現世のあの桜の木を見たのはいつだろうか。思えばこの三年は特調隊の活動に明け暮れてばかりで、時折現世に下りたとしてもそのほとんどが浦原に技術的な協力を乞うためだった。

 自覚こそなかったが、忙しさを理由にして意図的に避けていたのかもしれない。あの場所を。

 

 空座町の片隅。町外れの公園にそびえ立つ、一本の巨大な桜。

 沙羅にとっては他の何にも代えがたい思い出の地だが、だからこそ簡単には立ち寄れない場所でもあった。

 濃すぎるのだ。ウルキオラと過ごした時間のほとんどがあの桜に凝縮されていて、想いが溢れて動けなくなる。

 

 忘れようとしているのではない。ウルキオラとの思い出も、あの場所も。全てが沙羅の支えであり大切な宝物。

 けれど自分はどこかで恐れていたのかもしれない。

 過去を振り返っても何も変わらない。前に進むことでしか未来は得られない。だから立ち止まってはいけないのだと、そんな強迫観念に囚われてあの場に近づけずにいたのかもしれない。

 

「……やっぱり綺麗」

 

 勇真が育てた桜はまだ若木ばかりで、現世のあの桜にはほど遠い。だがその美しさには何の遜色もなかった。

 淡い薄桃色を散りばめる様は他のどんな光景よりも沙羅の魂を揺さぶる。たくさんの想いが湧き上がる。その中には、痛みも、切なさも、寂しさもあって。

 だけどそれだけじゃない。勇気をくれる。自信をくれる。その全てをひっくるめたものに名前をつけるとしたら、それは「愛しさ」に他ならない。

 

「立ち止まったって、いいんだよね」

 

 口に出して言ってみるとすとんと胸のつかえが落ちたような気がした。

 だってほら、こんなにもあの人への愛しさでいっぱいになる。痛いけど、寂しいけど、それも全部愛しく思える。

 

 こんなにも想っている人がいて。想ってくれた人がいて。

 大丈夫、もっとやれる。またここから歩き出そうって踏み出せる。自分の居場所を再確認できる。

 立ち止まるのは何も恐れることじゃない。

 

「ねえ、夢幻桜花」

『はい』

 

 腰に携えた愛刀に語りかけると彼女はすぐに呼応した。淡い光と共に現れた夢幻桜花は、周囲の桜と同化しそうな鮮やかな髪をなびかせて沙羅の言葉を待つ。

 

「そろそろあの桜も咲く頃かな」

『そうですね……空座町の春の訪れは春蘭よりもやや遅いはずです。今頃最初の一輪が花開く頃合いかもしれません』

 

 風が水面を撫でるような清らかな声色で答える夢幻桜花に、沙羅はネックレスの先で揺れる翡翠の宝石に触れて呟く。

 

「この任務が終わったら、見に行こうか」

 

 またひとつ何かを乗り越えたような面持ちで告げた主君に、夢幻桜花は静かに微笑んで「ええ」と頷いた。

 頭上を覆う桜が沙羅を包み込むように優しく揺れていた。

 

 

 ***

 




《Blooming for You…君のために咲く花》

 次話で完結です。最終話は桜の開花とともにお届けします。
 ここまでお付き合い下さったこと、心から感謝します。
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