第59話『Happiness』で崩玉とともに消滅したウルキオラが、最終話でのあの桜の木に辿りつくまでの話です。
瞼を押し開けると白い世界が広がっていた。
境界のひとつもなく自らの存在さえも曖昧なその世界で、彼──ウルキオラは漠然と理解した。ああそうか、自分は死んだのだと。
そう納得しかけてすぐに違和感を抱いた。
『死』と呼ばれるものを経験したのはこれが初めてではない、はずだ。
かつて彼が見た死後の世界──それは黒く淀んだ海の底に引きずりこまれるかのごとく、闇と恐怖と絶望にまみれた場所。
しかし今ウルキオラをとりまいているのは光と温もりに満ちたあたたかな空間だった。さながら地獄と天国とでも言うべきか。共通項などなにひとつない対照的な世界。
ふっと足元が揺らぎ、そこでようやく宙に浮かんでいることに気づいた。下からいくつもの光が彼の横を通りすぎて天へと昇っていく。
そこは昇れば昇るほどあたたかく優しい心地にさせた。
誰しもが理解していた。その先にあるのは安らぎだと。
まるで重力が逆に働いているかのように、力を抜けば身体はふわりと浮かびあがる。
自分も流れに身を任せようか──そう思いながらもウルキオラはなぜかその場を動けずにいた。
いくつの光を見送った頃だろう。
「行かないの?」
不意に響いた声に振り返ると、同じく宙に浮いた状態で光に包まれた少年がこちらを見上げていた。
「ほら、みんなどんどん上にあがってるよ。キミは行かないの?」
少女とも思えるような軽やかな声色で、少年は小首をかしげる。その後ろをひとつ、またひとつと光が追いこしていく。
「……この先に何がある?」
「何って、幸福でしょ」
「幸福?」
「なんの苦痛も苦悩もなく安息を享受できる場所だよ」
問いかけると少年は何食わぬ顔で返した。なるほど確かにそう形容されるに相応しい場所なのかもしれない。
けれど。
「向こうは?」
足元を指して再び問うと少年は中性的に整った顔立ちを曇らせた。
「そっちは寒いよ。生身の魂じゃとても抜けられない」
「……」
やや思案してからウルキオラがぐ、と腹に力をこめるとわずかに身体が下降した。下へは行けないというわけではないようだ。
「行くの?」
戸惑いの声が追いすがる。
「キミも疲れたでしょう。もう休んでもいいんだよ?」
純粋に自分の身を案じてくれているのだとわかる目だった。
ウルキオラは表情を和らげて静かに首を振る。
「この先に俺の求めるものはないんだ」
あたたかくて、満ち足りていて、平穏に包まれた安息の世界。だがそこには決定的に欠けているものがひとつある。
彼にとって何よりも、誰よりも大切な存在が。
「そう……やっぱりキミは、そっちを選ぶんだ」
急激な浮遊感に襲われた次の瞬間には、足の裏に土の感触が伝わった。文字通り地に足がついた感覚。
「ここは……」
「地上まで降りたんだよ。ね、寒いでしょ」
わざとらしく腕をさする少年に言われて地面に立っていることに気づく。どうやら少年がここまでおろしてくれたらしい。
吐き出した息は白く、先程までとの気温の違いを実感する。
「ボクにできるのはここまで。あとはキミ自身の意志で辿りつくしかないよ。楽な道じゃないけど──諦めないで進みつづければ、きっと見つかるよ。それがキミの願いなんでしょう?」
「ああ……恩に着る」
「お礼を言うのはボクのほうだよ」
俯き加減に少年は告げた。
「今までいろんな願いを叶えてきたけれど、誰かの幸福は別の誰かの不幸でもあった。ボクがよかれと思って叶えた願いのせいで、多くの魂が傷つき苦しんできたんだ。最後くらい、誰かを幸せにするためだけの願いを叶えたかったのさ」
「……おまえは──」
「あの子のおかげでボクはやっと解放された。キミの願いが叶えば、あの子も幸せになれるよね」
少年の胸の中枢には薄桃色に光る石が輝いている。
ひとの想いをくみとり力に変えることでその願いを叶えてきた奇跡の宝石。
「じゃあ、ボクはもう行くよ。ずいぶんと長いこと起きてたから……もう眠くてたまらないんだ」
ふわぁと大きなあくびをこぼした少年の身体が浮かびあがり、空へと昇っていく。
その姿が見えなくなるまで見届けてからウルキオラは静かに一歩踏みだした。
白くもやがかる視界は濃霧かそれとも幻覚か。身を切るような冷たい風だけがこれは現実なのだと訴えていて。
歩きつづけるにつれ世界は次第に様相を変えていった。空から音もなく白雪が舞い落ちる。指先がかじかんで徐々に感覚が薄れていく。
一体どれだけ進んだのだろうか。
平原は氷の大地と化し、淡雪は猛烈な吹雪へと変わっていた。
青白く震える唇から外気を取りこむと肺の中が凍てつきぴりぴりと軋みをあげた。足は鉛のように重く、大地を踏みしめるそのたびに深く沈みこみそうになる。
それでもウルキオラは歩みをとめなかった。
求めるものは、この世界を抜けたその先にしかないのだと、知っていた。
*
「──い。おいッ!」
いつの間に意識を手放していたのだろうか。耳元で響いた低い声にウルキオラは弾かれたように覚醒した。先程の少年の声では、ない。
「こんなとこで寝てんじゃねえよ。死んじまうぞ」
見覚えのない顔だった。黒い袴に身を包んだ精悍な男が呆れた様子でこちらを覗きこんでいる。
男は雪に埋もれかけていたウルキオラの腕を掴むとよっと引きあげた。こんな吹雪の中にありながら、男の手ははっきりとわかる温もりを宿している。
「……悪い」
男の手を借りて立ちあがったウルキオラは少しふらつきながら謝罪する。
情けない。決して立ち止まるまいと思っていたのに行き倒れるとは。
「ま、身ひとつでこん中をつっきろうってんだからな。ぶっ倒れても無理はねえ」
容赦なく吹きつける風雪に顔をしかめて男は天を仰ぐ。
しかし無造作にはねるその黒髪には不思議と雪がついていない。強風にあおられても髪の一房さえ揺れることもない。
「……それは」
まじまじと男を観察していたウルキオラは左肩に括られた金色の腕章に目をとめた。そこに描かれていたのは──待雪草。
「ん? ああ、この副官証な。元は俺がつけてたんだぜ。今やすっかりあいつのモンになってるけどな」
太陽にも似た笑顔でニカッと歯を見せる。それでウルキオラは男が誰であるかを察した。
「あいつに逢いにいくんだろ?」
「ああ……」
「まだ先は長いぞ。またぶっ倒れるんじゃねえか?」
「それでも行く」
「覚悟はできてるみてえだな。ま、止めるつもりはねえよ」
ガリガリと頭をかいた男は遠い過去を懐かしむように目を細める。
「あいつのこと、あんま泣かせんなよ」
「……いや。俺の前では好きに泣かせてやりたい。あいつは人前ではろくに泣けないから」
「ははっ、言うじゃねえか! まー確かに頑固な奴だもんなぁ。俺が言えた義理じゃねえけど……支えてやってくれ」
それに深く頷くと男は満足げに笑い、前方に向かってすっと腕を伸ばした。
「春の桜を目指しな。そうすりゃきっと逢える」
彼が指さした方向に目を凝らすと、雪しか見えなかったはずの景色の先にぼんやりと薄桃色の光が揺れていた。
男に礼を言おうと向き直る。と、今度は見知らぬ女性がその背後に立っていた。
「こらっ海燕!」
「痛ってェ!!」
鈍い音が響いて男が頭を抱えてうずくまる。
「姿が見えないと思ったら、こんなところでなに油売ってるのよ!」
「都てめえ! 殴るこたねえだろ!? 道案内してただけだっつーの!」
「道案内?」
男の肩ごしに顔を出した女性がまじまじとこちらを見つめる。男と同じ黒い袴姿のその女性は、ウルキオラと目が合うと合点がいったように顔を綻ばせた。
「なるほどね。まったく、あの子のこととなるとすぐ目の色変えるんだから」
「うっせー」
照れたようにそっぽを向いた男に代わって歩みよってきた女性は、朗らかに微笑んだ。
「ごめんなさいね。はい、これあげる。あの子のところへ向かうんでしょう?」
それは一輪の待雪草だった。
「知ってる? この花にはこんな言い伝えがあるのよ。遠い昔、禁忌を破って楽園を追われた一組の男女がいた。雪降る冬の世界へと追いだされ、絶望と寒さで嘆き哀しむふたりの前に、天使が現れこう告げる。『寒い冬のあとには、必ず暖かい春がやってくる』ふたりを慰めた天使が雪に手を触れると、溶けた雪のしずくが待雪草になった──」
詩の一編を読みあげるように告げた女性は、愛おしむように待雪草を見つめる。
「私たちにとってこの花は希望の象徴なの。迷ったときはこれを頼りに進むといいわ」
「希望……」
差しだされるまま受け取ったその花は、決して華美ではないものの、光が閉ざされた雪の世界でなお懸命に咲きつづけるしなやかな美しさがあった。
「それじゃ私たちは行くわね。ほら、海燕」
「わーってるよ。あ、おまえさ。俺らに会ったことは黙ってろよ? まあどうせ着いた頃には憶えちゃいねえだろうけど」
こちらに向き直った男にウルキオラは言い淀む。
「……だがあいつはきっと──」
「いいんだよ。もう俺のあとを追っかけ回してたガキじゃねえんだ。過去は過去のままでいい」
「もう、カッコつけなんだから」
「いいだろカッコつけたって!?」
「でも、そうね。あの子はもう自分の足でしっかりと歩いてる。私たちよりもずっと先の未来へ」
「そーゆーこった。じゃあな、もう倒れんなよ」
光に包まれたふたりの足が大地を離れる。彼らもまた、空の住人なのだと知った。
「────のこと、頼んだぜ」
名前の部分は聞き取れなかった。けれどそれがとても愛しい名前であると感じて、ウルキオラは和らいだ表情で頷いた。
*
あれからどれくらい歩きつづけただろう。
何日、何ヶ月、何年──時間の感覚はもとよりない。
遠くに霞む薄桃色の光に果たして本当に近づいているのか。歩けど歩けどその距離は縮まらない。何度も見失いかけては、そのたびに手元の一輪の待雪草が道筋を示してくれた。
そう。この手の中に、希望がある。
諦めるものか。必ず迎えに行くと、そう誓ったんだ。
拳に力をこめたところでいつの間にか指先の感覚が戻っていることに気がついた。もはや寒さも感じないほど鈍っているのかとばかり思っていたが、そうではない。
視界をさえぎるほどだった吹雪も気づけばやんでいて、雲の切れ間から射しこむ陽光が大地を白く染めあげた雪を溶かそうとしていた。
雪解けのその先に、新しい季節が待っている。羽が生えたように軽くなった脚で力強く地面を踏みしめる。
何度も。何度も。小さな一歩を繰り返す。
やがてウルキオラを真新しい新緑の香りが包みこんだ。
待ち焦がれた季節。開花を導く日差し。あぜ道の隣を流れる小川の水をすくい、乾いた喉に流しこむ。
と、顔をあげたウルキオラの目に、枝先いっぱいに蕾をまとった桜の木が映りこんだ。それも一本ではない。山道の奥へ導くように無数の桜が何本も何本も、左右一直線に続いている。
その間をゆったりとした足取りで進んでいくと、つきあたりには一際大きな桜の木が長い幹を天へと伸ばして佇んでいた。
根元から見上げても頂上は見えない。まるであの思い出の桜のように。
無意識のうちに枝に足をかけ、太い幹を伝い登っていた。そうして一番上まで来たところで手近な枝に腰かけ、背をもたれる。
頂上から見える景色はやはりあの思い出の場所とは異なっていた。緑に包まれたのどかな農村の風景が広がっている。
ひゅう、と吸いこんだ風の心地よさに目を細めると、これまで絶えず光り輝いていた待雪草が役目を終えたかのように枯れ果てた。
「……ありがとう」
誰にともなく感謝を述べて、ふと疑問を抱く。
自分をここまで導いてくれたのは誰だったか。あの花を託してくれたのは──
記憶を呼び覚まそうとした途端に強烈な眠気に襲われた。長旅の疲れが出たのか、春の柔らかな風に誘われたのか。
抗いようもなく瞼を下ろしたウルキオラの手から待雪草がするりと抜け落ち、風に溶けて消える。
あいつに土産話として持ち帰るつもりでいたのに。
希望の花を携えた、世話焼きなふたりの、死神の話を──
それはひとときの夢のように、眠りに落ちたウルキオラの中でぼんやりと薄れていった。
花の匂いに導かれて意識が浮上した。
うっすらと開いた視界に鮮やかな色が映しだされる。首を巡らすと淡い薄桃色の色彩が辺り一面を染めぬいていた。
つい先程までまだ小さな蕾だったはずなのに、今や満開に咲き誇っている。自分はそんなにも長く眠っていたのだろうか。
「──……」
しばし桜の美しさに見入って、その花に重なった彼女の名を紡ごうとしたが、うまく声が出なかった。
「……どこ、だ……?」
俺はここにいる。
あの頃からずっと。今も変わらずおまえを想っている。
おまえは──どこにいる?
ぐ、と神経を研ぎ澄まして気配を探るも反応はない。けれど不思議と自信があった。
どこにいようと必ず見つけだしてみせる。この桜の花がきっと俺たちを巡りあわせてくれる。
風が吹くたびに花びらが舞いあがり、そのひとつひとつに彼女と過ごした情景が浮かんだ。
混濁していた記憶が一本の道筋に沿ってつなぎあわさっていく。
『ウルキオラ』
『変わってるのはお互い様でしょ』
『呼んだ? 今私の名前呼んだの!?』
『じゃあこの桜が満開になったらお花見しよう? 約束ね』
『もっと知りたい……ウルキオラのこと』
『敵だから悪だなんて決めつけたくないだけ』
『紫苑なんでしょ……?』
『もうひとりにさせない……全部私が一緒に受け止める! だからもうひとりで苦しまないで……!』
『どうして私たちは別々に生まれちゃったのかな……』
『愛してる……ウルキオラ──』
『いい加減に……目、覚ましてよ……バカキオラ……!』
『平気、大した怪我じゃないよ』
『ウルキオラ、私の声を聞いて! 流されちゃ駄目!』
『逢いたかったから来た……それ以外に理由なんてない!』
『もうどこにも行かないでね』
『じゃあ──最後の夜に言おうとしたことは?』
『私だけ逃げるわけにはいかない』
『ウルキオラが傍にいてくれるから、私は強くなれるの』
『藍染惣右介を──止める』
『 卍 解 ! ! 』
『運命、なんて……そんなもの……』
『応えて……崩玉!』
『崩玉にも意思がある……私たちと同じように、願う心がある』
『必要なのは力じゃない。相手を知ろうとする想いさえあれば、分かり合うことはできます』
『私たちはただお互いのことを知らなすぎただけ。それならこれから、知っていけばいい』
『大丈夫。ウルキオラと一緒なら、怖くない』
『私は……もうどんなことがあってもウルキオラから離れないって決めた。ずっと一緒にいるって約束したじゃない!』
『ウルキオラを忘れるなんて、そんなのもう、私じゃないよ……っ!』
『お願い……私も一緒に……』
ああ……そうだ。
こんなにもたくさんの想いを、俺は。
ずっとこの心の中で護ってきたんだ。
あいつの笑顔も、涙も、温もりも、声もすべて。
すべてがここに眠っている。
手をあてた左胸の下にはもう空虚な穴はない。ただ彼女の思い出で埋めつくされていて。
愛おしさに瞳を細めたそのときだった。
記憶に刻まれた通りの声が響いたのは。
「貴方は、憶えて、いますか……?」
吸い寄せられるように眼下を見つめると、薄茶色の長い髪が風に揺れていた。
そう、その柔らかな髪の香りも、希望を宿した濃紫の瞳の輝きも。
憶えているさ──何もかも。
「…………忘れたことなど、ない」
呆然と見開かれた双眸がこちらを見ている。
目線が、交わる。
ようやく見つけた。
「沙羅」
世界は薄桃色に色づいた。
***
《希望の導き手》
これにてDear…の更新は最後になります。
続編については更新の目途がついたら活動報告でお知らせする予定です。(最終話のあとがき参照)
最後までお付き合いくださりありがとうございました!
2022.4.3 水音