「ワタシハ……ナニモカモヲユルサナイ」
空母棲姫が回した手が、加賀の背中を貫いていた。
加賀の呼びかけにより負の感情が薄れつつあり、空母隊に属していた加賀の相棒、赤城の記憶を取り戻したかのように見えたが、加賀との抱擁中に突如負の感情が膨れ上がり、今に至る。
鋭利な爪が背中から体内に食い込んだことで肺を傷付けられたか、加賀の口から血が垂れ始めた。位置的に心臓に傷はついていなそうではあるが、肺をやられたということは最終的に呼吸に問題が出かねない。
本来は心臓を狙ったのだろうが、未だ監視役として加賀の肩に乗ったままだった浮き輪が、その攻撃を若干ズラしてくれたようだ。そのおかげで致命傷を回避することは出来ている。
「加賀!?」
「来なくていい!」
だが、早く治療しなくては命に関わるのは間違いない。すぐに引き剥がそうとしたが、加賀に制止され動けなくなってしまった。
こんな目に遭っていても、加賀は空母棲姫の中にある赤城を信じて抱擁をやめなかった。私達の助けを断り、空母棲姫に思いを伝え続ける。
「……貴女の……貴女達の憎しみはわかるわ……私もあの場で息絶えていたら……同じようになっていたことでしょうから……ゲホッ!」
咳き込んだことで軽く血を吐いてしまい、抱き締めている空母棲姫の肩に飛び散った。顔にも僅かにかかり、不機嫌そうに顔を顰める。
「ハナレロ……!」
「赤城さん……貴女はそうあってはいけない人でしょう……!」
背中に突き刺さる爪を抉り、痛みで引き剥がそうとしたが、加賀は全く動く気配がない。空母棲姫の手も、浮き輪が必要以上に押さえ付けているため、加賀へのダメージが若干ながら軽減されている。
「全てに憎しみを向けてどうするの……!」
加賀自身も空母棲姫の腕を掴んだ。もう持っていた弓も投げ捨てていた。
肺に穴が空いているというのに、艤装半壊とはいえフルスペックの姫級を、腕力だけで絞めあげている。浮き輪の手伝いもあり、背中に突き刺さった爪を抜いた。
引き抜いた瞬間、力んでいたこともあり激しく血が流れる。このままでは出血多量で危険。
「貴女らしくないわよ……貴女はそんな人じゃない……!」
まだ数日しか付き合いが無いものの、あんな形相の加賀を見るのは初めてだった。本来の戦い方では無い。相当無理をしているのは誰が見ても明らかだった。痛みを堪え、苦痛に歪むが、それ以上に心が痛そうであった。
「ッア……オマエガワタシノナニヲシッテイル……! オマエハイッタイナンナンダ……!?」
先程名前を呼んだにもかかわらず、再び記憶の混濁。そもそも空母棲姫が持っている記憶自体が赤城の記憶かは定かでは無いが、一度でも加賀の名を呼んだのだから、あの空母棲姫が赤城の
怨念の持ち主の記憶を持ち合わせている姫というのはおそらく前例の無いもの。特殊な海域で生まれてしまった
「思い出して……貴女は……一航戦、赤城よ!」
「シラナイ! ワタシハ、ワタシハ……ナンダ。ワタシハイッタイ」
加賀の必死の訴えに、空母棲姫も混乱してきている。怒りと憎しみに塗り潰された感情が、加賀からの本人には訳の分からない言葉により思考が乱されている。
「ワタシハ、ワタシハ……アアアアア!」
腕を掴む手を振り払い、手甲に包まれた腕で加賀の顔面を殴り付ける。素手で殴るより当然痛々しいことになっており、加賀はその一撃で鼻血を噴き出すことになった。鼻の骨も折れているかもしれない。
その衝撃で加賀が引き剥がされてしまったが、仰反るだけで間合いは詰めたままだ。加賀の形相は、痛みに耐えるものから、怒りを含むものへと変わっていく。
「っぐ……この……分からず屋!」
お返しと言わんばかりに空母棲姫の顔面を殴った。同時に背中から血がジワリと流れ出すがお構いなしに胸倉を掴み、さらに殴る。背中の血は、浮き輪がなんとか止血しようと奮闘していた。
「コノ……!」
「目を覚ましなさい! 一航戦赤城!」
すぐに胸倉を掴んでいた腕を払い、空母棲姫からの反撃。逆に加賀の胸倉を掴み、手甲に包まれた拳で殴る。加賀はそれを止めるために即座に腕を振り払い、また殴り合いに興じた。もうただの喧嘩だった。
素の状態でもあまり感情を外に出そうとしない加賀が、感情を際限なく表に出しての大喧嘩を興じている。既に死と隣り合わせの状況だというのに、空母として戦うよりも激しく、空母とは思えないほど強引に。
慣れないことをしているせいで、殴れば殴るほど加賀の身体は傷だらけになっていく。空母棲姫もこんな戦いなんて想定していないはずなので、ボロボロになっていく。
「お、おい、止めなくて大丈夫かよ」
「邪魔出来ませんよこんなの……」
朝霜ですら心配そうに見守る状態。だが、来るなと言われてしまったせいで足が前に進まない。まず間違いなく止めなくてはいけない状況なのに、私達は一歩も前に出ることが出来ず、加賀と空母棲姫の喧嘩の結末を見ているしかなかった。
加賀の言うことなんて無視して空母棲姫を叩くべきなのだろう。加賀の身体も早急に治療しなければ。なのに、誰も動けない。
「なんで加賀は……
これがあるから私は動けなかった。加賀はあれだけの形相で喧嘩をしているというのに、負の感情の匂いが何処にもないのだ。
今まではあの五航戦への怒りと憎しみが少しだけでも感じられたが、今はそれすらも感じられない。純粋に、空母棲姫との大喧嘩を
それに引っ張られているのか、空母棲姫からもまた負の感情が薄れつつあった。殴り合いの喧嘩をしているというのに。
「そんなに聞き分けのない人じゃないでしょうに!」
「シルカ! オマエハナンナンダ!」
「そんなの決まっているでしょう!」
空母棲姫の拳を紙一重で躱し、渾身の一撃を顔面に叩き込んだ。
「私は貴女の相棒よ……」
その一撃で力を使い果たしたのか、加賀も前のめりで倒れてしまった。血の流しすぎだ。
「……赤城さん……もういいでしょう……いや、赤城さんだけじゃないわね……他の空母隊の子の憎しみも……一身に背負って歪んでしまったのね……」
空母棲姫に縋り付くように身体を支える。さっきまでなら殴っていただろう空母棲姫が、最後の一撃を受けて茫然としていた。
加賀の気持ちの入った拳が、空母棲姫の頭を揺さぶっていた。何かが
「カガ……サン……」
「赤城さん……一緒に……生きましょう」
衝撃と加賀の強い思いにより、再び空母棲姫に記憶が蘇ったようだった。加賀を見て、その存在を理解している。
「ワタシハ……アナタノ……アイボウ……」
「そうよ……貴女は……私の……」
縋り付く加賀が、力尽きたように崩れ落ちた。
もう何処もかしこも酷い有様だった。鼻血を何度も噴き、結んでいた髪もほつれ、服もボロボロ。腕はボロボロどころかズタズタ。そして、空母棲姫に貫かれた背中は、浮き輪が必死に止血したおかげで最低限の応急処置はされていた。いつそれがダメになってもおかしくはないのだが、やってくれたことは感謝。
「……ドコニツレテイケバ」
その加賀を抱き上げ、一番近かった私に聞いてきた。
「ついてきてくれ。医者がいる」
「……」
無言で私達についてきてくれた。まだ感情の整理がついていないようだったが、今は攻撃の意思は無くなっていた。
加賀の治療はすぐに執り行われた。血塗れになるほどの大喧嘩ではあったが、最も重傷であった背中の抉られた傷と折れた鼻の骨には高速修復材を使用。それでも手術は必要であり、肺の中に溜まってしまった血だけは抜いた。
加賀は昼前には目を覚ますことになった。身体は全身包帯で巻かれていたが、要所は修復材を使い、それ以外も正確な治療を施されたおかげで、数日もあれば完治というところに。私達駆逐艦よりもやはり頑丈である。
しかし、目が覚めた加賀に待っていたのは、飛鳥医師からの説教だった。
「この馬鹿! 救うために自分が死んだら意味が無いだろうが! 説得は実力行使という意味じゃないんだぞ!」
結果的に命は助かり、空母棲姫から攻撃の意思は無くなったものの、それで加賀が命を落としては意味がない。
「ごめんなさい。カッとなりました」
「反省しろ! まったく、治療が行き届いたからよかったものを……」
「ところで赤城さんは」
反省しているようには全く見えないが、空母棲姫のことも気になるだろう。あれだけの激戦を繰り広げた相棒の行方を早く確認したいようだ。
「うちの確認組が調べた。空母棲姫、入ってきてくれて構わないぞ」
加賀が寝かされている医務室に、空母棲姫が入ってきた。
両腕に装備された手甲や、脚に装備された脚部艤装は一時的に解除し、ボロボロになった服も洗濯中。今は加賀と同じ検査着姿である。怪我自体は加賀よりも軽く、今でこそ包帯を巻いているが明日には取れるとのこと。
「加賀さん……」
「声も同じなのね……」
声の方は検査の時にシロの調整でこちら側へ寄せてもらっている。それにより、より赤城に近いものになっているらしい。
「細かいことは今は省くが、君との大喧嘩で負の感情が晴れたそうだ。いつ取り戻してもおかしくない危険な状態ではあるが、今は君とまともに話せるくらいには落ち着いている」
私の嗅覚による見解では、負の感情は最初より大分薄れたと思う。検査中も大人しくしていてくれた。シロも私と同じ見解。あくまでも
姉の見解では、もののけとして数体の深海棲艦が取り憑いているとのこと。それが一度撤退して捕食した仲間達であることは間違いない。怒りと憎しみをその身体に全て集めてしまったのは疑いようのない事実である。
そのもののけは、戦闘中は怒り狂っていたらしい。だが、今では空母棲姫と同様に鎮静化しているそうだ。加賀の思いが通じたと見てもいいだろう。
「詳細はこちらでも調べるが、少なくとも空母棲姫も監視下に置かせてもらう」
2体目の浮き輪が空母棲姫の肩に乗っていた。今はアニマルセラピーが必要なものもいないため、3体のうちの2体が監視業務に当たっていても問題ないようだ。2体の浮き輪が顔を合わせると、サムズアップで挨拶していた。
「今でこそ赤城の人格を取り戻しているけど、またおかしくなってもおかしくないの。こんな例外的な深海棲艦はいないと聞いているわ」
戦闘中とは打って変わって穏やかな性格の空母棲姫。本来なら有り得ない、どんな深海棲艦にも起こり得ない奇跡が起きている。
「そうなったときは、加賀さん、貴女の手で私を沈めてね」
「……出来るわけないでしょう」
「でも一度私の胸を射抜いたわよね。それにちょっと楽しそうに人のこと殴ってきたんですから。そんな加賀さんなら出来るわ」
「あ、あれは……赤城さんと本気の喧嘩なんてしてなかったから……気分が昂揚していただけで……」
動揺する加賀に対し、朗らかな笑みを浮かべた空母棲姫。
戦闘中に加賀が言っていた意味がわかった気がする。赤城はあんな憎しみに潰されて力の限りの破壊を尽くすような性格ではない。温厚で、少し茶目っ気がある、優しいお姉さん。あの時は何人分もの怒りと恨みを取り込み、自らの憎しみも加わり、それに理性を焼き尽くされ暴走していたようなものだ。
「貴女の言葉にちゃんと返答していませんでした。私は貴女と一緒に生きます。また相棒として、一緒に歩いてもいいかしら」
「……ええ、ええ! 赤城さん……一緒に……歩きましょう」
今度は空母棲姫からの抱擁。それをされて、加賀は人目も憚らずに泣き出してしまった。今まで押し隠していた感情が爆発したようにワンワン泣いてしまっている。空母棲姫はただただそれを受け入れ、穏やかな笑みで背中を撫でるだけだった。
「今は2人とも休んでくれ。身体の傷に障る。それと空母棲姫」
「赤城と呼んでいただいて結構です。少なくとも今はその人格と記憶がありますので」
姿形は違っても、それはもう赤城ということになった。空母棲姫という呼称は敵への呼称だ。今の空母棲姫=赤城は、もう敵じゃない。そのように呼ぶのは間違っている。シグと同じだ。
「赤城、さっきも言ったが、君はしばらく監視下に置かせてもらう。そろそろ大本営の遣いも来るだろうし、説明がしたい」
「わかりました。私の今までやってきたことは、何も変わりませんから。しばらくお世話になります」
こうして、空母棲姫との戦いは最良の結果に終わった。再びあの場所から深海棲艦が生まれるかは定かではないが、その怨念を赤城が一身に受けたというのなら、しばらくは生まれることはないだろう。
例外中の例外、赤城参戦。