取り戻した笑顔
平和な日常を過ごす私、若葉ではあるのだが、大きなイベントが無いわけではない。嵐が来たり、客が来たりがそのイベントの内なのだが、今日はそれ以上に大きなこと。
「人工皮膚が完成した」
昼食の終わりに飛鳥医師が話す。三日月の顔の傷を消すために開発されていた人工皮膚がついに完成したというのだ。飛鳥医師と蝦尾女史が力を合わせて共同開発したそれは、あらゆる成分解析などもクリアして実際に移植するに値する完成度に達したそうだ。
それを聞いて一番驚いたのは、他ならぬ三日月である。目処が立ったと言われていつも楽しみにしていたものが、ようやく手に入る。
「すぐにでも施術に取り掛かることが出来る。少し時間はかかるが、蝦尾さんも簡易修復材を作ってくれるそうだから、今日中にはその傷を消すことが出来るだろう」
「本当ですか!?」
「ああ。ただし、出来上がったのが顔の分だけなんだ。他の部分はまた後日となってしまうが」
「それでいいです! すぐにお願いします!」
こんなに声を荒げる三日月も珍しい。さらにはそこに負の感情が一切乗っていないのは初めてかもしれない。それほどまでに嬉しいことなのだろう。
三日月の大きなコンプレックスの1つである顔の傷。これが無くなるだけで、三日月はより楽しく生きていくことが出来るだろう。他者と出会うことが極端に少ないこの環境ではあるものの、やはり顔についているという事実が心の平穏を失わせている。
それが無くなることが決まったのだから、私の前以外では表情の変化が乏しい三日月でも喜びを露わにするものだ。
「よかったわね三日月!」
「うむ、これは喜ばしいことじゃ」
みんなも三日月の顔の治療は大いに喜んでくれた。それが自分のことのように嬉しい。
「それもこれも蝦尾さんのおかげだ。本当にありがとう」
「いえいえ、こんなに喜んでもらえるのなら、うまくいって良かったと思います」
「蝦尾さんにも御礼をしなくちゃいけないな。瑞鶴の治療の時からずっと支えてくれているんだ。何か恩を返したい」
御礼と言われてピクリと動く蝦尾女史。この施設内で出来ることなんて高が知れているため、何か買ってもらうとか、そういうことくらいしか出来ることは無い。
少し考えた素振りをした後、あっと思いついたような表情を見せる。
「では、三日月ちゃんへの処置が終わった後、数日私に時間をください。飛鳥先生は少し仕事しすぎなので、たまには大きく休んでもいいと思います」
こんな時でも飛鳥医師のことを想った発言が出来るとは、と思ったものの、蝦尾女史はこのタイミングで勝負を仕掛けるつもりなのだと気付いた。ここにいるもの全員が勘付く。
戦いが終わってから着実に距離を詰めていっているのは誰の目にもわかっていた。だが、飛鳥医師があまりそういうことに慣れていないか、どうも一押しが足りていない。それを今回の機会で勝ち取ろうとしたようだった。
「ふむ……わかった。それで良ければ。僕の時間を蝦尾さんにあげよう。確かに休むことも必要だ」
「はい、それでお願いします」
あまり顔に出さないようにしているようだが、内心大喜びな蝦尾女史。匂いでそれがわかる私だけが理解している。
「そういえば……以前先生に貰った慰安施設の宿泊券があったな」
「そんなものがあるんですか?」
「ああ。賑わっているわけではないが、毎日誰かしらは利用していて、たまに団体が宿泊するくらいには使われているらしい。艦娘も使える温泉宿だそうだ。用が無いから存在自体忘れてしまっていた」
提督や艦娘のメンタルを回復するための慰安施設が、大本営の管理で存在しているらしい。大本営の発行したチケットさえ持っていれば、誰でも使える宿泊施設ということのようだ。
そのチケットを飛鳥医師は下呂大将から貰っているのだそうだ。だが、今までここから離れるような事がなかったので、宝の持ち腐れとなっていた。だが、いい機会なのでここで使うのもいいだろう。
「休息にはちょうど良いかもしれないが、僕がここを空けるのは」
「いや、空けてもいいから大将がくれたんだろ。行ってこいよ」
摩耶がシッシッと手を振り、飛鳥医師に慰安施設に行くことを勧める。そのチケットが何枚あるかは知らないが、今この時点でその話を出したのだから、1枚しか無いようなことも無いのだろう。
満場一致で行けの一言である。誰もが飛鳥医師が頑張っていることは認めているし、戦いの時にもあれだけの成果を出したのだから、休息という形で労われても誰も文句は言わない。
飛鳥医師がチケットの枚数を調べたところ、4枚あったらしい。これなら飛鳥医師と蝦尾女史の2人で慰安施設に向かうことも出来る。
「残り2枚は、若葉ちゃんと三日月ちゃんに使ってもらってはどうでしょうか。せっかくですし、新婚旅行をプレゼントするのも良いと思います」
「確かに。2人とも結婚してからも戦火の中だったから、その辺りは有耶無耶になっていたな」
人間の結婚というのは、それを祝って夫婦で旅に出るというのが慣習らしい。それに則るならば、私と三日月にも何処かに旅行に行く権利があるということになる。
この施設から出て遊びに行くというのは一度も考えたことが無かった。平穏で楽しい生活を、この施設でずっと過ごしていくものだとばかり思っていた。ひょんなことから、私達は未知の娯楽を知ることになりそうだ。
「三日月、
「……うん、若葉と一緒なら何処へでも行けるわ。それに、今から顔の傷は無くなるんだもの。変な目で見られることも無くなるはず……だよね」
今からすぐに顔の傷を消す処置が施され、それが終われば外面上では白髪以外に三日月が指を指されるようなことは無くなるはずだ。施設の外に出ることに抵抗があった三日月も、そうなれば少しは気が楽になるだろう。
それに、何かあったら私が三日月を守る。私の方が派手に外見が変わっているのだから、三日月よりも目立ってしまうことだろうし。私はもう何を言われても気にならないから大丈夫だ。
「飛鳥医師、
「ああ、任せてくれ。三日月、すぐに取り掛かるぞ」
「はい! よろしくお願いします!」
待ちに待った処置が施されるのだ。三日月は少し興奮気味だった。その処置には私も手伝わせてもらうとして、早く綺麗な顔になった三日月が見たいものである。
処置自体は飛鳥医師の腕もあり、夕方になる前には終わった。麻酔を打たれているとはいえ、顔の表面の皮膚を剥がして移植するという処置は見ていて気持ちのいいものでは無いのだが、処置が進むにつれて三日月の顔が綺麗に変わっていくのは、少し感動してしまう。
整形手術というものに属するのだが、瞬く間に違和感のない顔になっていったのは、見ていて惚れ惚れする手際だった。細かいところにまで気を配り、普通の者達が見れば髪の色が違うだけでぱっと見は普通の三日月だろう。目の色やら何やらはすぐにはわからないはず。
「人工皮膚の量産はこれで可能になった。三日月の場合は少し規模が大きいが、時間をかければ綺麗な肌に戻ることが出来るだろう」
「今は顔の部分だけですから、頭皮との境界線だけはどうしても出来てしまいますが、髪の毛で隠れる範囲ですし、これなら三日月ちゃんも喜んでくれると思います」
やり切ったという顔の飛鳥医師と蝦尾女史。
事実、三日月の顔は傷一つない綺麗な顔になっている。飛鳥医師の腕もさることながら、移植しながら修復材の代替品を使うことで、元々の肌との癒着を綺麗なものにしていたのもある。この修復材、三日月の細胞から作られた一点物なので、馴染まない理由が無い。
この調子で行けば、本当に全ての肌が移植された肌に替わる。綺麗な身体になる日も近いだろう。その第一歩が今始まったのだ。
「三日月、起きれるか?」
麻酔も切れたので、肩を揺すって起こしてやる。修復材を使っているのだから、当然ながら痛みなどなく、人工皮膚はすっかり馴染んでいるために顔を動かすことに支障もない。
「もう……終わったの?」
「ああ、鏡だ。自分の顔を見てみればいい」
ぼんやりと目を覚ましたところに手鏡を渡してやった。きっと驚くことだろう。
身体を起こして、ドキドキしながら自分の顔を確認した。いつもなら顔のど真ん中に走る大きな傷痕にどうしても目が行っていたが、今はそれが一切ない。私のような痣も無い、とても綺麗な顔。
鏡を見ながら自分の顔に震える手で触れた。いつもなら傷のせいで凸凹の出来てしまっていた鼻の上も目の下も、スベスベの肌になっている。
「傷……無くなってる……」
「ああ、綺麗な顔だ。傷があったなんてわからないくらいにな」
頬を撫でてやる。今まではそうした時点で私の手にも傷の感触があるところだが、勿論私にもスベスベな肌の感触が伝わってくる。繋ぎ目なんて何処にもない、本来こうであったであろう三日月の顔。
三日月は感極まって泣き出してしまったため、抱きしめて顔を胸に埋める。しゃくり上げるように震えながらも、匂いは歓喜に染まっていた。望んでいたものが手に入ったのだから無理も無い。
「ありがとう、ございます……これだけでも私……少し明るくなれそうです」
「いや、元はと言えば僕の治療が問題だったんだから、ここまでするのが僕の責任だ。本当にすまなかった。ここまで我慢してくれてありがとう」
これで三日月はいろいろと解放された。新婚旅行にも何の気兼ね無く向かうことも出来るし、人前に出ることに抵抗が無くなった。今までよりも笑顔を多く見せてくれるだろう。それだけでも嬉しいことだ。
まだ身体や腕、脚にも傷は残っているものの、しっかり隠せる場所なのだから痛くも痒くも無い。髪に関してはそこまで抵抗が無いようで、傷があるより全然マシと本人すら言う。
施術中でも何度か確認しているが、目を覚ました後にもう一度触診して大丈夫であることを確認。開発に大きく貢献した蝦尾女史も、人工皮膚の出来に大満足なようだ。
「何も無いことは保証します。痛くもならないですし、剥がれるなんて以ての外です。安心して顔を動かしてくれて構いませんからね」
「蝦尾さんも本当にありがとうございました。この御恩は一生忘れません」
「どういたしまして。女の子の顔のことですからね。綺麗になって良かったです。身体の方も順次治していきましょうね」
「はい!」
満面の笑みで応えた三日月。これを人前に出すことが出来るようになっただけでも嬉しい。
飛鳥医師と蝦尾女史は研究の成果が出せて、三日月は笑顔を取り戻し、私がそれを喜ぶ。全員が嬉しい施術であった。
処置が終わったことをみんなに知らせると、施設の者達総出で喜んでくれた。三日月は少し恥ずかしそうだったものの、顔を隠すことなくみんなに笑みを向け、それを見てまたみんなが喜ぶ。
施設にいる者には、三日月の笑顔を見るのがこれが初めてという者もいるだろう。それでまた歓声が上がる程だった。みんなが三日月のことをずっと心配していたことがよくわかる。
「慰安施設の件、先生に連絡しておく。僕らは足が無いから、迎えに来てもらう必要があるからな」
「面倒をかけないように4人同時でいいぞ。あちらで別行動させてくれればいい」
「新婚旅行に相乗りというのはあまり気乗りしないが」
だからと言って、この施設と慰安施設を2往復もしてもらうのは迷惑な気もする。あくまでも鎮守府所属ではないイレギュラーな存在な私達が利用するのだから、向こうの都合も加味しなくては。
「私も構いませんよ。若葉の言う通り、一緒に行ってあちらで別行動で大丈夫です。その方がお迎えにも迷惑がかかりませんよ。私は若葉と相部屋であれば他のことは正直何でもいいので」
「むぅ……2人がそう言うのならそれでいいが」
「
「大丈夫ですよ。新婚旅行について発案したのは私ですし、2人の言うことも一理あります。私達の都合で何往復もさせるのは抵抗がありますから」
夫婦水入らずというのは、その慰安施設で出来ればいい。別行動をしていれば自然とそうもなるだろう。
それに、そこで行なわれるのは蝦尾女史のある意味決戦。私達はなるべく邪魔をしたくない。私達の存在が枷にならないようにしたい。別行動ならそれも可能だ。
「わかった。ならそのように先生に伝えておく。準備だけはしておいてくれ」
「了解。こんな機会を与えてくれて感謝する」
「ありがとうございます。楽しませてもらいますね」
せっかくの新婚旅行なのだから、楽しい時間を過ごしたいと思う。みんなが用意してくれた機会を有意義に使わせてもらおう。
自他共に認める惚気たっぷりの夫婦である若葉と三日月の新婚旅行編、開幕。今までのシビアで死が隣り合わせの日常から一変した、幸せで楽しい時間に訪れたちょっとした事件をお楽しみください。