来栖提督と下呂大将が鎮守府へ帰投し、一時的にだが日常が戻ってきた。下呂大将の秘書艦である神風は施設に残り、人形となっている霰と昏睡状態にさせられている夕雲の治療が完了するまで下呂大将と連絡を取るという。昏睡している夕雲はともかくとして、目が覚めていても何もすることがない霰の監視をしてくれるとのことなので、私達の中から人手を割かなくて良くなった。
今は平和に見えるが、下呂大将が元凶の提督、家村を追い詰めるまでに、この施設が襲われる可能性はまだまだある。そのためにも、私達は訓練を続け、中立区が中立区として成立するための抑止力として成長していこうと思う。
午後からは全員分の艤装の整備に勤しむこととなった。摩耶と手分けをして、丁寧に磨き上げていく。私はなんだかんだこの地道な作業が一番好きかもしれない。
私が担当しているのは、嵐の中の戦闘で霰のリミッター解除を防ぐことが出来た三日月の艤装。私のものと同じように継ぎ接ぎに出来ているため、一筋縄ではいかないのだが、自分の物が整備出来ているおかげでこちらも失敗なく整備出来ている。
「三日月のも、なかなか汚れているな」
「羽黒と足柄の射撃訓練に、嵐の中の戦闘だったからな。そりゃあドロドロだろうよ。外っ面は洗い流せるけど、中はヤベェだろ」
「ああ。これは念入りにやらないとな」
話している摩耶は雷の艤装。こちらも三日月のものと同じようにドロドロである。これが終わり次第、曙の艤装を仕上げる。たった今から戦闘が始まる可能性だってある現状、全員が万全の状態でなくてはいけない。
一度戦いを経験したことで、その大事さを一層実感した。これが万全だったから、私達は夕雲に勝てたとも思える。
「三日月はよくやってくれた」
「ああ、少しは緩和されてきたみたいだな。戦闘中はずっとイライラしてたみたいだけどよ」
戦えたのならそれでいい。今後も頼りにしている。
「五三駆、頼むぜ」
「ああ、任せてくれ。この施設は絶対守りきる」
「あたしも全力でサポートするからよ」
摩耶も知らないうちに訓練を積んでいた辺り抜かり無い。この施設は、ここにいる全員で守るのだ。
夕方、艤装の整備は粗方完了。明日から戦闘訓練も出来るだろうという状況になった。いろいろと一安心。あまり訓練しすぎると、それはそれで整備が行き届かなくなるため、急ピッチな訓練は一旦終了。今後は程よく、確実に力を上げていくのが目的となる。
それを手伝ってくれるのが神風。鳳翔レベルの使い手であるために、確実に私達の力を上げてくれる第二の師となってくれそうだ。
摩耶と食堂に入ると、既に神風はそこにいた。この午後の間は飛鳥医師のサポートをしつつ、鎮守府に帰投した下呂大将と連絡を取っていたそうだ。まだ今日の今日であるため事態は進展していないが、進み出すことは確定しているため、まずは無事に帰投出来たことを喜ぶ。
「艤装の整備は終わった。明日からまた訓練が出来る」
「私が教えればいいのよね」
「ああ、頼む」
医務室での夕雲への攻撃を見てわかった。神風はスピードタイプ。つまり、私と同じ戦術の人だ。鳳翔も良かったが、より踏み込んだ訓練が出来そうである。
曙のようにまず鳳翔を模倣してみるとはいかず、全て我流になっている私的には、同じ方向性の者がいるだけでもありがたい。
食堂に人が集まり始めた。作業後、風呂に入って私と摩耶も食堂に入ったが、席がなんとギリギリ。中頃に食堂に入ってきた飛鳥医師も、今の事態に驚いていた。
「急に押しかけたようになってしまってごめんなさい。何か食糧を持ってきた方が良かったわよね」
「まだ大丈夫な方だ。心配しなくていい」
ここに鳳翔が加わることが確定しており、さらには治療完了した場合、霰や夕雲もここで食事をすることになる可能性もある。そうなったらついに食べる場所すらも無くなることになる。
「食費に関してはやっていけない事はないから気にしなくていい。むしろ心配なのは、施設の広さだ。これ以上増えないとは思うが、万が一のことを考えると施設自体を拡げた方がいい」
「じゃあ大改築?」
「先生が妖精の派遣を考えてくれているからな。少し考えておこう」
それに喜んだのは雷である。掃除の範囲が拡がるというのに、それでも今住む施設がより住みやすくなるというのは嬉しいようだ。ここに長く住むからこそ、そういう代わり映えも欲しいのかもしれない。
ここを改築するのなら、より鎮守府寄りになるかもしれない。だが、当然ここはそういう施設ではない。医療施設としての役割を前面に出しつつ、鎮守府としての性質も与えるようにするというか。
「やるにしても、最低限、霰と夕雲の治療が終わってからになるだろう」
「だよな。寝かせたまま改築は危ないしよ」
「それなら私もここから出て行った後になるから迷惑はかけないわ」
シロクロやセスも、成り行き上このまま居つくようなイメージになってきている。セスは三日月のアニマルセラピーのためという理由だったが、今や施設を守るために尽力してくれる唯一の空母。シロクロも戦艦主砲が見つかった時に何と言うかはわからないが、出て行くことを残念がる部分も見えている。
居座ったとしても誰も咎めない。もうここに居ついて長いし、シロクロに至っては飛鳥医師の治療も受けている継ぎ接ぎの仲間だ。
「まずは2人の治療だな」
「午後でどうだったよ。何か手がかり掴めそうなのか?」
「少しは、な。ただ、最悪の場合は頭の手術になりかねない」
洗脳とは当然、頭の中を弄る改造だ。第一改装の際に脳そのものに手を入れられている可能性が非常に高いと飛鳥医師は判断している。投薬などでどうにか出来るとは限らないため、それが最悪の場合。改装と同じように脳を弄るという荒技に出なくてはいけないとのこと。
「なるべく手術は控えたい。投薬で治療出来ればいいんだが」
「やっぱまずいのか。頭弄るってのは」
「当然だ。最悪の場合植物状態だぞ。そうで無くても、人格の変化だってあり得るし、後遺症だって段違いだ。正直蘇生よりもリスクが高い。それがあるから深海棲艦の脳は保存もしていないんだからな」
失敗したら死、成功しても場合によっては大きすぎる影響を与える可能性がある、深海棲艦の脳を移植するなんて以ての外だ。
あまりにリスクが高い手術になるのなら、いろいろと諦めなくてはいけない。そうなる前にどうにか手荒ではない手段を割り出さなくてはいけない。
「今はお腹を膨らませましょう! 今日は足柄さんから習ったカツカレーよ!」
「ああ、食事の時間にまで仕事のことを持ち込むのはやめておこう。今はこれで終わりにしよう。明日からまた頑張ろう」
まだ調査は始めたばかり。時間はそんなに無いかもしれないが、考える猶予はまだある。なるべく早くは当然だが、焦らず行動し、確実に助けるしか無い。
夜、風呂上がりに一旦霰の部屋へ。眠りについているのなら良し。ついていないのなら、眠るまで監視。
夕雲と違い、昏睡状態にもしておらず拘束すらしていないが、目を覚ましていたところでピクリとも動かないため、監視任務は安全であるという認識。霰を操る音声の発生源は今はいない。大丈夫だ。
「霰、眠っているか」
部屋は薄暗がり。夜となり部屋が暗くなっても、自分の手で電気をつけることは出来ない。それに、暗ければ眠るだろうという判断で、基本部屋は暗くしてある。
だが、霰は目を覚ましていた。この暗い部屋の中、何も映さない目を開けているだけ。自分から起き上がることも出来ないため、目を開けて横になっているのみである。
霰は食事が出来ないため、栄養の点滴のみ。これもまた、早期に決着をつけなくては衰弱の原因になりかねない。そういう意味でも、時間は限りがある。
「眠らないと身体に障るぞ」
当然無反応。目を開いたまま、天井を見つめ続ける。
「……相変わらず薬の匂いだな」
この部屋に漂う匂いは、霰の出す薬の匂い。敵鎮守府の艦娘はみんなこの匂いがする。夕雲といい、もういないが自沈した艦娘達といい。つまり、元凶の鎮守府全体が薬の匂いに包まれているか、もしくは、
後者の場合、洗脳などが投薬によって維持されていることになりかねない。維持が出来なくなるのなら、拘束してでもこの場に放置して、薬の成分が抜けるのを待ってもいい。いつになるかはわからないが。
「薬……薬か……」
この匂いの薬が何なのかがわかれば、治療法の発見にまた一歩近付けるかもしれない。それなら私でも協力出来るし、むしろ私しか協力出来ない。
それが敵が使っている未知なる薬だったとしても、そういうものがあるということがわかれば御の字だ。
「少なくとも……嗅いだことのない匂いだな……」
念のため、自分の腕の匂いも嗅いでおく。風呂に入ったばかりなので、石鹸の匂い。あとは染み付いた鉄と油と海の匂い。私もいろいろやっているなと実感する。
私も霰と同じ場所で生まれているが、薬の匂いは微塵も感じない。三日月や曙もそうだ。ということは、あの匂いは改装を受けたらまとわりつくということだろうか。
「飛鳥医師に話さないとな」
チラリと霰を見る。目を瞑り、安定した寝息を立てていた。
栄養剤の点滴には睡眠誘発剤も入っているらしく、しばらくしたら眠りにつくようにされているそうだ。今がそのタイミングだったのだろう。
霰が眠りについたことを確認し、部屋から出て飛鳥医師の下へ。飛鳥医師は私達が全員眠りについた後に就寝の準備をするため、おそらく今も処置室にいる。
思った通り、飛鳥医師は処置室にいた。夕雲は医務室で寝かされているため、1人で作業中。今日やった調査の結果とにらめっこしていたが、結果は芳しくないらしくしかめっ面。頭への手術回避の方法を探すのはかなり難しいと見える。
「どうした若葉」
「若葉が思いついたことを聞いてほしい」
霰の匂いについて話す。飛鳥医師の前でもちょくちょく薬の匂いがするとは言っていたが、正確に話すのはこれが初めてだ。私がこの嗅覚を手に入れたことで、気付くことが出来そうなこと。
「見当違いかもしれないが、何かあるかもしれない」
「確かに薬の匂いから何かしらわかるかもしれないな。少しだけだが、今ここにある分を嗅いでもらえるか。嗅ぐだけでおかしくなるような薬は無いからな」
飛鳥医師に言われ処置室内のものの匂いを調べるが、少なくとも、今の処置室に該当する匂いは無いように思えた。近しいものもないか。
多種多様な薬が混ざり合った結果の匂いだとは思う。それでも、今ここにあるもので同じものを作れるようには到底思えない。
「多分だが、今ここにある薬には無い。いろいろなものが調合されているような気がする」
「そうか。なら明日からは、若葉のお眼鏡に叶う薬を調合するところからだな」
私が霰を治療するキーパーソンになりつつある。何がどう調合されているかまでわかればいいのだが、今の私には
「その薬の匂い、何か特徴は無いか?」
「そうだな……若葉はそういうものには疎いからよくわからない。また明日、細かく嗅いでみていいだろうか」
「ああ、そうしてくれ。また君に頼ることになるな」
嗅覚で飛鳥医師を手助けするのはこれで2回目。1回目の自爆装置の匂いを探すときより、格段に難易度が高いものが来てしまった。
「前回もそうだが、若葉が居てくれてよかった。嗅覚がここまで有効とは」
「犬のようだ」
「それで人が救えているのなら、それは誇るべき技能だ。少なくとも僕が保証する。本当に助かっているよ」
ほんのりと笑みを浮かべた。飛鳥医師の笑みは意外とレア。それが引き出せただけでも、私はいい仕事が出来ているのだと思う。
「必ず霰を助けるさ。そうしたら夕雲も助けられるはずだ」
「ああ。頼んだ」
「僕は戦えないからな。この施設の防衛を任せるしかないんだ。それ以外のことは全て任せてくれ」
飛鳥医師が居なくては私達も生きていけないのだ。お互いの出来ることで助け合い、最善の道を選択していこう。
『楽しく生きる』ためには、全員の協力が必要不可欠だ。
飛鳥医師の敏腕助手として着実に歩み始めている若葉。嗅覚特化はとても役に立ちます。