霰と夕雲をおかしくしている原因が、私、若葉の嗅覚で判明した。2人を洗脳し、鎮守府の奴隷に仕立て上げていたのは、体内に入れられた深海棲艦の体液や麻薬などの5種類。深海棲艦の体液の効果を麻薬や栄養剤などで拡張し、幸福感や依存性により洗脳していた。
そこまでわかれば後は飛鳥医師の仕事。治療法を編み出し、2人に施すことで、元の鞘に収まる。その治療法というのが難題なのだが。
「麻薬の依存性を抜くのは難しいし、深海棲艦の体液の影響なんてどうしたものか……。逆位相をぶつけるにしても、そもそも頭にまで達している時点で……くそ、どうする」
夕食の最中もブツブツ言いながら悩んでいる。同じ場にいる全員が心配してしまうほど。
霰と夕雲の身体がどうなっているかは、既に下呂大将には神風経由で連絡済み。その神風に話す際に全員に聞いてもらっている。深海棲艦の体液が混入したことでおかしくなったと聞いたら、みんな腑に落ちたようだった。
特にシロ。霰と夕雲から
「霰は下級の深海棲艦になっちまってるってことだよな」
「状況的には」
「なら、夕雲以外の姫の言う事も聞くんじゃね?」
夕食後、摩耶の提案。そういえば、霰がここに運び込まれてから、一度も他の姫級から命令を受けていない。
幸い、この施設には姫級の深海棲艦が3人もいる。夕雲、もしくは敵鎮守府に属する第二改装を終えた艦娘にのみ反応するようになっているのならお手上げ。そうでなく、シロクロやセスの命令にも反応するなら、治療が少しだけ楽になる。寝たままではなく、ある程度行動させることが出来るようになるからだ。
「やってみる価値はある」
「なら私やるー。アラレに何か命令すればいいんだよね」
「簡単なことにしてくれ。立てとか歩けとかでいい」
クロがまずやってみることに。流石にどうなるか気になるため、みんなで霰の眠る部屋に。
暗い部屋の中、霰は目を開いていた。だが当然うんともすんとも言わない状態。ピクリともしないため、本当に生きているのか不安になるレベル。
「アラレ、起きてー」
クロが霰に声をかける。私が声をかけた時は何の反応もしなかったが、果たして。
「アラレー、起きて起きてー」
何度か呼びかけると、なんと霰が起き上がり、クロの方を見ている。暗がりで光のない瞳でこちらを見ていたので、少し怖い。
「わ、言うこと聞いてくれたよ!」
「……アラレ……こっちに来て……」
今度はシロが呼びかける。すると、言われた通りにベッドから降りてシロの側へと歩いてきた。流石姫級。これだけ施設に馴染んでいても、本質だけは変わらず、霰はそこをしっかり認識している。
今の霰は完全にシロクロの操り人形。言われた通りに動くだけ。自我も意思も感じない。とはいえ、全く動かないよりは出来ることが増える。差しあたっては、日常的な生活。
「戦うことが出来るんだから、ご飯を食べることくらいは出来るわよね」
「確かに。栄養剤だけでは逆に身体に悪いな」
「なら、明日の朝からちゃんと用意するわ。シロ、クロ、アラレのことお願いしていいかしら」
「任せて!」
セスはエコの面倒があるため、霰の
シロクロに特殊な仕事が割り当てられるのは初めてのことなので、2人とも、特にクロの方はやる気満々である。私達には絶対に出来ない大役のため、塩梅は全て任せるしかない。
「なるべく早く治療法を探し当てる。2人とも、霰のことを頼んだ」
「はーい!」
「悪いようには……しないから……」
シロも楽しそうで何より。この施設に協力出来ているということで気分がいいようだ。
翌日からは本格的に治療法探しを開始した。とにかく今までに前例のない症例。深海棲艦の四肢を移植された私達にも出なかった問題。四肢の処理が完璧だったが故に悲劇は起きなかったが、他人事ではない。
「シロとクロには治療の手伝いをしてもらいたい。いいか?」
「いいよ……私達じゃないと……アラレは動かないからね……」
「何でもやるよー!」
嗅覚が必要無くなったため、私はお役御免。代わりに、霰を動かすことが出来るシロとクロが飛鳥医師の助手として活動する。おかげで私は戦闘訓練に専念することが出来るようになる。
霰のことは心配だが、私がどうにか出来ることはもう何も無い。あとは全て任せよう。
「アラレ、ご飯を食べて」
クロが言うと、霰は機械のように目の前に置かれたご飯を食べ出す。味もわかっていないように、ただただ黙々と。こんなに美味しい雷の朝食を勿体無い。必ず美味しいと言わせてやる。
「私達の言うことばっかり聞いてるのはつまんないからね。せんせー、早く治してあげてね」
「勿論だ。やれることは全てやるさ」
私もそれなりに長く住ませてもらっているが、ここにはレントゲンを撮ることが出来るくらいで、それ以上に大規模な医療装置は置かれていない。私達は入らせてももらえない地下は、全て倉庫。保管している深海棲艦のパーツが、完全な状態で所狭しと並べられているような状態だと言うし。
ここまで来ると大事。普通の治療ではどうにもならないのは、素人の私でもすぐにわかる。腕が無いだとか全身火傷だとかとは全く違うし、死者の蘇生とも違うのだろう。臓器を取り替えるだけとは話が変わる。全身が蝕まれていると言っても過言では無い。
「透析が出来ればな……」
「トーセキって?」
「身体の中の血を、綺麗に掃除することだ。少なくとも、何かいい影響が出ると思ってるんだが、出来ないものは仕方がない」
確かに、麻薬の成分は血液検査でわかったことだし、血液は身体全体に流れるものだ。当然脳にだって流れているのだから、思考を侵すそれに対して、何らかの影響が与えられるかもしれない。
だが、装置がとんでもない値段らしく、とても手が出せるものではないのだとか。レントゲン撮影のX線撮影装置があるだけでも充分過ぎるようだが、透析装置は頻度が違う。優先すべきものではなかった。
「まずは思いつく限りをやってみよう。手を止めている暇はないな」
「根を詰めないようによ。何かあったら頼ってよね?」
「ああ、君達にも頼らせてもらう」
雷が念を押すが、これは無理をしそう。霰のことを早く助けたいからこそ無理をしてしまうのは仕方のないことだが、それで身体を壊してしまったら元も子もない。
治療が出来るのは飛鳥医師だけなのだ。飛鳥医師が倒れてしまったら詰みということを自覚してもらわねば。
本日の訓練も終了。まだ攻撃を当てることは出来なかったものの、確実に力が付いていることを自覚できた。今までは一方的にやられるだけだったが、今日はついに神風に回避行動を取らせることに成功。動体視力が成長している。
「すごいわね若葉、鳳翔さんが目を付けるだけあるわ」
「そうか……そいつはありがたい……」
神風に褒められると、一層自分に力がついてきたと自覚出来る。
とはいえ、息も絶え絶えなのは昨日と変わらない。消耗しきって立ち上がれないのは毎度のことである。持久力も最初のことを考えれば成長しているのだが、神風相手だとそれどころではなくなる。
「お疲れ様ー」
浜辺でクロが手を振っていた。シロもその後ろにおり、さらにはその後ろには検査着姿の霰が付かず離れずの距離を保っている。散歩に付き合ってとでも命令したのだろうか。
「あら、霰を外に連れ出したのね。大丈夫なの?」
「部屋の中にずっといてもつまんないでしょ。それならさ、外を散歩した方が何か変わるかもって思って」
「……先生が……頭を抱えて動かなくなったし……」
なるほど、後者が直接の理由だ。治療法に悩みに悩んで何も出来なくなってしまったのだろう。邪魔しないように外に出てきたわけだ。
霰は2人の後ろでただ立ち尽くし、感情の無い表情で虚空を眺めるのみ。ここにいるのも言われたからであり、肯定も否定も無い。
「アラレ、散歩は楽しい?」
クロのこの問い掛けには無反応。命令では無いからか、そもそも意味がわかっていないのか。返答が無いからか、クロは少し寂しそう。
「……本当に……下っ端達みたい」
「下っ端というのは下級の深海棲艦のことですか?」
「……うん。勝手に動かないエコみたいな……すごく従順なペット……みたいな」
姫級の深海棲艦から言わせれば、下級の深海棲艦は全てペットくらいの考えになるようである。自我も無く、理性もなく、姫級がいないときだけ好き勝手にやる獣。私達から言わせてみれば侵略者かもしれないが、シロクロの管轄下に置かれれば、何の悪さもしない愛玩動物になるらしい。そもそも管轄下に置くこと自体が稀のようだが。
「ワカバ、アラレに何か変わったとこ無い? 時間が経ってるから、匂いが変わってないかなってせんせーが言ってたよ」
確かに、元いた鎮守府から離してここで保護しているのだから、薬漬けの状態からは脱却している。最後に嗅いだのは昨日の夕方で、今は大体1日経っているので、ほんの少しくらい薄れていてもいいかもしれない。
息を整えて、霰の匂いを改めて嗅ぐ。何がどの匂いかは覚えているので、出来ればあの甘い匂いが薄まっていてほしいところ。
「……何も変わっていない」
「薄まっても?」
「いない。そのままだ」
たった1日で何か変わるとは限らないか。身体の内部の話だから、風呂に入っても変わらないだろうし、完全に染み付いてこれがもう霰の匂いとなってしまっているかもしれない。
こればっかりは様子見しかないだろう。それよりも前に飛鳥医師が治療法を見つけてくれれば話は別だが、匂いは時間が解決という可能性だってある。
「今はそこまでにして、施設に戻りましょう。若葉さんも曙さんも、訓練終わりで疲れているでしょう」
「そうよ。もうクッタクタね」
「若葉も疲れた。風呂に入りたい」
ここでやっていても何も変わりそうにないため、一度施設に戻っていつも通りに片付けることにする。
霰とはなるべく関わり合いを持つようにして、変化が促せるかどうかは調べていきたいところ。今までとは違う刺激を与えれば、少しだけでもいい方向に進むかもしれない。
夕食の時間になっても飛鳥医師は処置室から出てこなかった。完全に行き詰まっているようである。根を詰めるなと言ったのに、案の定根を詰めているようである。
こういうことは今までにも何度かあったらしく、そのたびに雷が無理矢理夕食を食べさせているそうだ。今回もその流れになりそうと雷が溜息をつく。
「飛鳥医師でも難しいことはあるんだな」
「そりゃあそうだろ。センセだって人間だぜ?」
飛鳥医師は恐ろしいほどの才能は持っているが、神でもなければ悪魔でもない、人間だ。見ただけ聞いただけで治療法が思い付くとは限らない。特に今回は、一切前例のない症例。さらには元々専門外である深海棲艦絡みの内容である。こうなっても仕方ない。
「クロが意識戻れって言ったら治ったりしてな」
「とっくにやったけどダメだったよ」
「やったのかよ」
迷走しているのがわかる。
「専門外のことですから、私にも見当がつきませんね」
「見た目は普通なんだけどねぇ」
クロの命令で黙々と夕食を食べる霰を眺めている鳳翔と神風。本来は外部のものだが、今は施設に住む仲間ということで打開策を考えてくれている。流石に誰もが分野が違うのでお手上げ状態。
「私達はこの施設を防衛することに専念しましょう。彩雲は見ませんでしたが、またあちらもタイミングを見計らっているでしょうね」
「うちの司令官がどうにかするまでは、ここは自衛しか無いものね。そのための私達なんだから」
下呂大将も、この2日で次々と手を打っているらしい。家村の鎮守府への査察を大本営に掛け合い、また、所属している艦娘から麻薬が摘出された事実も伝え、確実に終わらせる手段を準備中。大本営も飛鳥医師のことを知るものばかりなため、話も通しやすいのだとか。
私達の手で決着をつけることは難しいとは思うが、鎮守府同士の抗争のようになったら是非とも力を貸したいところである。
「……私達は……まだ良い方……なんでしょうか」
三日月がボソリと呟く。
私達継ぎ接ぎの者は、死にかけたが故に霰のような人形にも夕雲のような奴隷にもならずに済んでいる。外見を犠牲に、中身をぐちゃぐちゃにされずに済んだと思えば良い方なのかもしれない。
「ここが無かったら死んでたんだ。どっちもどっちだろう」
「……そう、ですね。運は良かったのはどちらも同じですよね」
霰も夕雲も運が良かった。本来なら死んでいたであろう状況がいくつもある。それを乗り越えることが出来たのだから、まだ生きているのだから私達と同じだ。
「まぁ、言ってても仕方ねぇ。センセに任せるしか無ぇんだ」
「そうよね、うん。とりあえずご飯を運んで無理矢理食べさせるわ。根を詰めるなって言ったのにもう!」
などと言いながら、嫌そうな顔はしていない雷。こうなることを予想してか、運びやすく食べやすいものを事前に用意していた辺り、この中でも一番付き合いが長いことがわかる。
今日は何も進展しなかったが、みんなが力を合わせて最善の方向へと向かおうとしている。私もその一員として、誠心誠意頑張っていきたい。
操り人形の霰。シロもクロも悪意が無いからいいものの、扱う者によっては敵にも味方にもなる、ある意味危険な存在。早く治療しなくちゃいけませんね。