姫級の命令ならばどんなことでも聞くことが判明した霰。そのおかげで、シロクロが操作して擬似的に日常を送らせることが出来るようになった。やろうと思えば、これで大概のことは出来る。とはいえ、近くに姫級がいることが前提だが。
翌朝、ランニングを終わらせ施設に戻ると、早速飛鳥医師からお呼び出しがかかる。昨日目一杯考えに考えた結果、もう一度、この私、若葉の嗅覚が必要になったらしい。
「僕の言うところの匂いを嗅いでほしい」
「前とは違うな。場所が重要なのか」
「ああ。予想が正しければ、治療が出来る可能性がある。出来れば高速修復材があると助かるが」
僅か1日で治療の目処を立ててきた。流石である。
処置室にはシロクロにお願いして、仰向けに寝かされた霰がいた。これが治療に繋がると聞いて、2人も率先して協力してくれている。
飛鳥医師に指示されたのは腰の辺りや胸の中央。今までは漂う匂いを嗅ぐイメージだったが、今回は本当に微かな匂いを嗅ぎ取りたいらしく、肌に鼻をベタ付け。故に霰は全裸である。
「今はいつもの薬の匂いだな。昨日嗅ぎ分けた通り、5つの匂いが混ざり合ってる」
「その中でも、深海棲艦の体液の匂いが一番強いところを探してもらえるか。僕の予想では、さっき言った2箇所の近くなんだ」
深海棲艦の体液の匂いは、5つの中でも特に薄い。それが一番濃いところと言われても、おそらくそれは誤差範囲であろう。だが、その誤差が重要。
まずは腰。どれだけ鼻を近付けたところで、匂いが変わったようには思えない。濃度を見るのは初めてのことなので、今までで一番集中して嗅いでいる。多分絵面はものすごく悪い。
「……ここはあまり変わらない」
「次、胸を頼む。中央部分に沿ってだ」
場所もかなり重要のようで、飛鳥医師から指を差された場所を隈なく嗅ぐ。外ではなく中を嗅ぐように。
知っている匂いしかしない。私が嗅ぎ当てた、栄養剤2つ、鎮痛剤、麻薬、そして深海棲艦の体液の匂い。麻薬の甘い匂いが鬱陶しいが、なるべく奥深くを探していく。
「ん?」
「どうした」
飛鳥医師が指差した場所より少し上。霰の胸の匂いに違和感を覚えた。ほんの少しだけ、深海棲艦の体液の匂いが強いような場所があった。
そこは、体内の爆弾を摘出する際に、火薬が仕込まれていたために傷を付けた場所の上。その時にはこんな匂いが感じられなかった。火薬の匂いが強すぎて、他の匂いをかき消していた上に、ここまで微妙な匂いだと判断も付かなかった。
「ここ、少し匂いが強い。誤差程度だが」
「そこか……。前回の開腹手術では見えなかったところだ」
確かに、腹を開いたときの傷は腹と胸の下辺りに傷をつけたが、今回は胸の上の方。鎖骨に近い辺り。内臓に触れるためにはそこまで開く必要がないため、確認すらしていなかった。
「これは大変だぞ」
「どういうことだ」
「まだ僕の想定ではあるんだが、体内で造られる血液そのものに問題があるように改造されている。おそらく第一改装の際に完全に弄られてるんだ」
艦娘だからこその滅茶苦茶な改造手術。
私には難しくてよくわからなかったが、腰と胸の骨というのは身体を回る血液を他より多く作っているらしく、そこに何らかの処置を加えられたことで血液に異常をきたし、さらにその血液が身体中に回ることで霰は今の状態にされているという。
「胸部レントゲンでも異常には見えなかったことを考えると、状況は胸を開いて見てみるしか無いな……」
「……先生……胸の何処……?」
飛鳥医師が頭を悩ませていると、シロが一歩前に。自分どころか、他人の声帯すら弄ったシロなら、もしかしたら何か出来るかもしれない。
「ここだ。おそらくこの骨」
「ああ、そこが一番匂いが強い」
「これ……ね……」
シロが霰の胸に触れ、目を瞑りながら皮膚越しに骨を撫でる。久しぶりに見る、シロの特異な行動。これで何か出来るとは限らないが、何かしらの効果があるかもしれない。私も飛鳥医師は固唾を飲んで見守る。
「……骨の中に……何か入ってる。同胞の……何かと……それ以外にも」
「それが問題を起こしているというわけか」
「多分。それだけ抜くことは……ちょっと難しい」
これにより原因確定。シロのお手柄にクロも大喜びである。
想定通りだったことを受け、飛鳥医師には答えが見えたようだった。今までの難しい顔が一転、考えていたことが繋がっていったことにより綻んでいく。
「そうなると、胸骨そのものを交換するしかないな。骨髄は腸骨から移植して……問題は汚染された血液か。修復材でもここまで馴染むと厳しそうだな……。骨髄にまで侵食しないとは思うが、術後に透析が出来れば……!」
言っていることはよくわからないが、とにかく治療に繋がる何かを見つけたようだ。だが、それだけでは足りないようで、綻んだ表情がまた険しく。
と、ここで電話が入った。まだ朝食も始まっていない早朝なのに誰が。と思ったが、ここの連絡先を知っている者は数が限られている。そうなると、大体は私でも知っている人間。
「……先生、どうしたんですこんな朝早くに」
電話の相手は下呂大将のようだ。話していく内に、だんだんと飛鳥医師の表情がまた綻んでいく。息荒く返事をし、小さくガッツポーズまでしているように見えた。
「ありがとうございます! お待ちしています!」
こんなに喜んでいる飛鳥医師を見るのは初めてかもしれない。今の言葉からして、またここに来るように聞こえたが、それにしても喜び方が普通ではない。
「先生が透析装置を持ってきてくれる! それまでに手術を終わらせるぞ!」
あまりに高価で手が出せなかったという機材を、下呂大将がここに運んできてくれるらしい。今からここへ輸送するということで、早くても数時間かかる。その間に手術を終えて、下呂大将を迎え入れたい。
突然の展開に、施設は慌ただしく動き出した。手術において私達が手伝えることはほとんど無いが、出来る限りはサポートしていこう。
あまりにも急なことだったため、本日は訓練も中止。飛鳥医師は処置室に篭り、霰への処置を続けている。
聞いている話では、今回の処置は胸の骨、胸骨の移植。私の脚に埋め込まれたチ級の骨とは訳が違い、中に入る骨髄を霰の腰の骨から確保することまでするらしい。
人間で同じことをするのなら段階を踏んでいかなくてはいけないが、艦娘は頑丈であるという今までの経験から即断。いざという時は、鳳翔の持ってきてくれている薬湯も使っていく構え。
そしてその処置が始まって数時間、終了を今か今かと待っているところに、下呂大将到着。今回は機材の搬入というのもあるが、絶対に攻撃されるわけにはいかないということで、なんと
辺鄙な場所ではあるが、元々は鎮守府であった施設なわけだし、無人島や人工島でもない地続きの場所だ。周りにあまりにも何もないので気にも留めなかったが、普通に道くらいはある。軍事施設の括りであるため、この道を通ることができるのは関係者だけではあるが。
「3日ぶりですね」
「大将、待ってたわ!」
いつ装置が来てもいいように、雷が艤装を装備して待っていた。大型なものの場合は艤装の力も必要だろう。そして案の定、それなりに大きな装置であった。それを運ぶために、車も大型のトラック。
「昨日神風から連絡を貰ってピンと来ました。確実にこれが必要だと思い、大急ぎで手配しましたよ。借用なので3日しかここに置くことは出来ませんが、必要なものは全て用意してあります。飛鳥は処置中ですか?」
「ええ、今は霰の処置中。大分時間は経ってるから、そろそろ終わるかも」
話しながらも機材を施設内に運び込む。
と、ここでトラックから見知らぬ艦娘がやってきた。トラックを運転していたのだろうが、どう見ても身体のサイズに合っていない。見た目は子供だ。
「ああ、紹介が遅れましたね。私の陸での相棒です」
「三式潜航輸送艇、まるゆです!」
ビシッと敬礼してきた子供、まるゆ。ここではそんな感じは見えないが、これでも潜水艦らしい。それでも艦娘であるが故に、車両の運転は可能なのだそうだ。
そもそもまるゆは私達と違う生まれ方をしているそうで、少し性質が違うとのこと。故に、こういうことで下呂大将の役に立っている。
「近況報告も兼ねています。3日でこちらも準備が整ってきましたからね」
下呂大将が施設に入ると同時に、処置室から飛鳥医師が出てきた。ピッタリのタイミングで処置が完了したようだ。今回はしっかり血は落としたようで、それなりに綺麗な見た目だったが、相変わらず処置室の中は見れたものでは無さそうである。
「ちょうどいいタイミングだったようですね」
「先生、本当にありがとうございます。機材の方は」
「こっちよ!」
雷がすでに処置室に運び込もうとしていたが、中を見て嫌そうな顔をする。予想通りの惨状らしい。
「先生……さすがにここに入れるのはダメよ。医務室に運ぶわね」
「ああ、すまない。部屋の掃除は後からする。今は透析を優先させてくれ」
「わかったわ」
透析装置は医務室へ。手術が完了した霰も、適切な処置をされた後に医務室に運ばれ、すぐに透析が開始した。これが完了すれば、霰の血液は浄化され、深海棲艦の体液に汚染された血液は無くなるはず。
そもそも血液を汚染し続けていた骨も、今回の手術で失われた。移植された深海棲艦の骨も洗浄済みで、余計な体液は分泌しないようになっているとのこと。これで霰の身体は綺麗になる。
「身体が綺麗になったところで、何処まで治るかがわからないのが難しいところだ」
「でも、前より悪くなることは無いんでしょ?」
「ああ。摘出した胸骨を調べる必要はあるが、大丈夫なはずだ」
透析はここから4〜5時間かかるとのこと。本来なら定期的にやらなくてはいけないらしいが、ひとまず1回で様子見するらしい。
「飛鳥、私からの餞別です」
と言いながら下呂大将の指示でまるゆが差し出したのは、緑色の液体が入った小瓶。嗅いだことがあるような無いような匂い。
「い、いいんですか? これ、高速修復材ですよね?」
「使用する過程で出た残り物ですから。廃棄品ですよ」
なるほど、嗅いだことがあるような感じは、以前に来栖提督が曙のために持ってきた高速修復材のジュースに近い匂いを感じたからだ。あれが本来の高速修復材。
これさえあれば霰の傷はすぐに治る。少なくとも、今は胸を開いた傷があるはずだし、飲ませて骨の接合を強固にしてもいい。どうとでも使い道はある。
「ありがとうございます。透析が終わった後に使わせていただきます。でも、よく装置が欲しいとわかりましたね」
「少し考えればわかることですよ。血液のことを強調されましたから。私には医療知識はありませんが、血液が汚染されている可能性を考えると、君はこの装置を使いたがるだろうと推測したわけです」
「相変わらずですね。本当にありがたいです」
下呂大将が先んじて準備を始めていたから、このタイミングですぐに手術をすることが出来た。前回の家村を元凶と確定させた時もそうだが、手際の良さが尋常ではない。仕事が早い上に的確。これが大将の実力ということか。
「君も相変わらずですね。期待通りに僅か数日で治療法を見出してくれました」
「今回は若葉とシロのおかげですよ。予測したのは僕ですが、確定させたのは2人です」
「いい仲間に恵まれましたね。ここで軟禁されることになった時は少し心配しましたが、ここまで人が増えるとは思ってませんでしたよ」
ここ数ヶ月で一気に増えた。私が起点になって、それ以降は全員家村絡みの被害者だ。シロクロやセスですら、夕雲含む敵鎮守府の部隊に追い回されている経験がある。
「僕もですよ。雷と摩耶は本当に偶然ですからね」
「君の人徳が呼び寄せたんです。誇っていいですよ」
「……そう……ですね。仲間達がいなければ、霰は助けられないと思います。まだこれで終わりとは限りませんが、これからも精進します」
こういう会話を聞いていると、師弟関係というのがよくわかった。飛鳥医師が下呂大将に頭が上がらないというのもあるが、お互いに信頼し合っていることが伝わってくる。
縦にも横にもいい繋がりを持っている飛鳥医師は恵まれているだろう。私達も、この人に拾われて良かったと心の底から思った。
「ですがね、私も少し早まったかなと思ってしまいました」
ここで少し悲しそうな顔をする下呂大将。霰の治療を早めてくれたのは下呂大将だが、それが良くなかったかもしれないと言い出す。
「もしこれで深海棲艦の体液の影響が無くなったとしましょう。霰は通常の思考を取り戻し、艦娘として復帰出来ます。ですが、薬物依存の禁断症状が起こりかねませんよ」
「……確かに。ですが、薬物既存は治療出来るようなものでもありません。僕らがついていてあげるしか手段が」
「そうなんですがね。ある程度薬を抜いた後に治療するべきだったかもしれないなと」
ここも難しい問題だろう。薬物依存のことを考えて処置を先送りにして、さらに取り返しのつかないことになっても困る。だが、禁断症状は相当辛いと聞く。どちらにしろ地獄だ。
なら、意思のある状態で私達がついていてあげることが出来た方がマシではないかと思う。ずっと寝かされるかシロクロに操作されているしかないのは可哀想。治る見込みがあるのなら治してあげたい。エゴかもしれないが。
「何かあれば私に連絡なさい。この装置を確保したのは私ですから、治療を急がせたのも私です。責任は私にもありますから」
「もしもの時はお願いします。霰は僕達が支えますから」
霰の治療に光明が見えたのは確かだ。これで上手くいったら、次は同じ処置を夕雲に施す。あれほどのことをされたとしても、夕雲だって被害者だ。ここは命あるもの全てを助ける医療施設。夕雲も例外ではない。
さらに先に進める。事態は刻一刻と進む。
胸骨と腸骨には造血幹細胞が他の骨よりも多くあり、2つ合わせて身体を流れる血液の8割ほどを造っているのだとか。霰のような子供だと造血幹細胞は全身にあるらしいんですが、艦娘ですから、既にそういうところは大人の身体だと考えていただけると幸いです。