来栖提督の鎮守府に滞在して2日目。夕雲の処置は終わり、あとは施設の復旧を待つのみとなった。当初の予定では修復完了は明日の見込み。あの施設を2日ほどで直してしまう職人妖精の手腕が本当に恐ろしい。この鎮守府に滞在するのは今日明日の2日間。3日の朝から施設に戻るつもりだ。
処置が終わり、痛みを求めるようになってしまった夕雲は、まだ人前に出せる状態では無かった。霰のように誰かしらをずっと側に置いて回復に努めることも考えられたが、近くにいる者に暴行されることを求める姿を見ていると、とてもでは無いが誰かを近付けるわけにはいかない。
「若葉さん、夕雲を殴りに来てくれたのですか?」
「そんなわけあるか。様子を見に来たんだ」
演習の前に私、若葉は、夕雲が拘束されている飛鳥医師の部屋を訪ねた。こうなってしまっている一因として、私が引っ叩いてしまったことがあるため、責任を感じている部分があったからである。
部屋には飛鳥医師はおらず、夕雲が1人寝かされているだけ。誰もいないわけにはいかないので、飛鳥医師も少し席を外しているだけだろう。
「具合はどうだ」
「すこぶるいいですよ。いくら殴られてもいいほど」
調子がいいのは嫌というほどわかった。
「痛みが、償うための痛みが欲しいんです。もっと、もっともっともっともっともっともっと痛みが!」
「しつこいぞ。若葉はもうお前を殴らない。調子がいいならそれでいい。若葉はこれから演習なんだ。また後から来る」
この状態の夕雲と話していると、頭がおかしくなりそうだった。それに、よくわからない
私は逃げるように部屋から出た。背中に夕雲の声がぶつけられ続けたが、それを無視して。
部屋から出た直後、前に立っていたセスにぶつかりそうになった。
「すまない」
「こっちこそごめん。こんなにすぐ出てくると思わなかった」
いつも隣に付き従わせているエコは、今は霰のところにいるらしい。たった1人でこんなところにいるとは珍しい。
「どうした?」
「……ちょっと考え事。ユウグモのことで」
話している間も、セスは部屋の中に耳を傾けているようだった。私も少しだけ中を聴いてみると、先程のまま独り言が聞こえるだけ。禁断症状も発生しているようで、幻覚と幻聴に対して痛みを求め続けていた。
セスはこの独り言に何か思うところがあるらしい。部屋を眺めながら難しい顔をしていた。部屋を睨みつけるように眼光が鋭い。
「ワカバ、演習はいいの?」
「ああ、行ってくる」
セスの表情は気になったが、時間もあまり無い。セスはここで知りたいことがあるようなので、飛鳥医師と共に夕雲を任せることにした。
セスも夕雲に追われてエコに怪我を負わされた恨みはある。だが、夕雲に罪が無いことも理解してくれている。問題を起こすことは無いはずだ。それに、飛鳥医師も一緒にいるのだから心配は要らない。
午前の演習終了。今回も第二四駆逐隊に相手をしてもらう。相変わらず勝率は少し悪いが、昨日から始めた三日月とのコンビは回数をこなす毎に良くなっている。同じ深海棲艦のパーツが使われているからかもしれない。
「大分息があってきたな」
「はい……足を引っ張らなくてよかったです」
「いや、若葉こそ三日月の足を引っ張っていないか心配だ」
風呂も入り一段落。そのままの流れで夕雲のいる部屋へ。後からまた行くと言ったのもあるが、単純に心配でもある。禁断症状のたびにセスに痛みを求めているのだろうか。飛鳥医師にも何かを頼んでいるのだろうか。
部屋に入ると、ジッとただ夕雲を眺めているセスがいた。夕雲は夕雲でブツブツとまだ痛みを求める独り言を呟いている。飛鳥医師もどうしたものかと悩んでいる状態。
「演習、終わったのか」
「午前の分は今。昼ご飯の後に再開だ」
飛鳥医師に説明した後、夕雲の側に。私の姿を視認した途端、独り言は私に向けての言葉になる。
「若葉さん、来てくれたということは、痛みを」
「やらん。お前本当に懲りないな」
何も変わっていない。悪化しているわけでもないが、一切良くもなっていない。いや、
と、ここでセスが立ち上がった。朝イチに部屋の前で出会ってからいままで、ただただここで夕雲を観察していたというセスだが、ここでようやく答えが出たらしい。
少し、嫌な匂いがした。キナ臭いとかそういうのではなく、純粋な
「ユウグモ」
「……はい、なんでしょう」
おもむろに夕雲の拘束を外す。それはまずいと思ったが、飛鳥医師に静止された。飛鳥医師はセスの思惑を知っているようだ。何がしたいかわからない私には、一体何をしでかすのかが不安で仕方ない。
「私に何か言うことはないか?」
「……貴女が痛みを与えてくれるのですか? 罪を償うための痛みを……」
拘束を全て外し終わった途端、セスが夕雲の胸倉を掴み、そのまま壁に叩きつけた。あまりにも突然のことで、夕雲も気が動転している。当然痛みもあるが、求めていた痛みとは違うのか、反応できずに混乱している。
「ここで半日、ずっと聞いてたけどさ……ふざけてんの?」
「な、何を」
先程よりも鋭い目で睨みつける。夕雲は壁に押し付けられており、脚が浮いているほど。服と艤装が一体化しているが故に、夕雲を片手で軽々と持ち上げられる。ギリギリと絞められ、息もしづらそう。
「なんだっけ、痛みが償いになるんだっけ? それもいいよ別に。だけどさ、本当に自分に罪があると思うなら、まず謝ってくれない? 私だって追われて、エコの片脚捥がれてんの。シロとクロなんて死にかけてるんだ。なのに、一度も謝ってないよな」
顔面のスレスレ、壁を殴る。
夕雲はこれまで、自分の罪を償うために痛みを延々と求め続けてきた。それも無いときは殺してくれた縋ってきている。だが、セスの言う通り、
「私は昨日、霰とずっと接してきた。エコが癒しになるって聞いてたからね。その時の霰、禁断症状が出るたびにずっと謝ってた。シロとクロが慰めても、幻覚に向かってずっとだよ。でもさ、夕雲は何もしないよね」
夕雲は何も答えない。睨み付けるセスの目を見つめ、黙って話を聞いている。
「償いたいなら、死ぬとか痛みとかよりも先に、まず謝れよ。ほら、幻覚も死ねって言ってくるんでしょ。まずその人達に謝れよ。殺してしまってごめんなさいって、何でそれが言えないんだ」
「……」
「死と痛みに逃げてるんだ。相手に一方的にやらせれば償えると思ってるだけだ。お前の気持ちはそれだけじゃ伝わらない。だけど、言ってくれればわかる。今のお前、私には反省しているように到底見えない」
霰と違って、夕雲は姫級の体液を入れられている。意思無き人形ではなく、人形を統べる傲慢な姫として活動していたのだ。自分に不利益になりそうなことを、無意識に除外している可能性もある。主人に対してどう振る舞っていたのかは知らないが、少なくとも今まで殺してきた相手に対して、謝罪の言葉は思い浮かばないような生活をしてきているはず。
考えることが出来るようにされてしまったが故に、完全に染み付いてしまった姫級の思考回路。それを払拭しない限り、夕雲に更生の道はないのかもしれない。
セスはそれを矯正しようとしている。私達では気付けなかった、姫級の思考を知っているから見出した、少し強引な方法。
「ユウグモ、ほら、言え」
「……なさい」
「もっとハッキリ言え!」
もう見た目は恐喝だ。脚が浮くほどに壁に叩きつけられ、謝罪を強制する姿は、いやでもセスが深海棲艦の姫級であることを思い出させる。
私達は何度も夕雲に罪はないと言い続けてきたが、セスだけはあえてそれを罪として認めさせる方向で変えていこうとしていた。一歩間違えばより悪化しかねない諸刃の剣。だが、先程した嫌な匂いは無くなっていた。いい方向に向かいそうな雰囲気を感じ取った。
他人が苦手なセスがここまで躍起になってくれているのは、少し嬉しい。ただでさえ、自分の居場所を追われた一因だ。近寄ることもないと思っていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「何に対して償いたいのさ。漠然と償うとしか言わなかったら、ただ言わされてるだけになるよ」
「……夕雲は……夕雲は……」
セスのこの行動により、夕雲の秘めていた気持ちが溢れ出る。死と痛みだけを求めていた今までとは違う、治療され、壊れながらも持っている
「夕雲は……何も知らない生まれたばかりの仲間を……何も文句を言わない人形にされてしまった仲間を……捨て駒に、捨て駒にして、何人も、殺してしまいました……何人も何人も何人も何人も何人も何人も何人も何人も何人も何人も」
禁断症状も重なった。焦点がぶれ、セスに視点が定まらなくなり、周りにいるであろう死者の幻覚に翻弄され始める。
「ごめんなさい、貴女は夕雲が撃ってしまった子、作戦中に反旗を翻したことで処分を命じられた子、ごめんなさい、貴女は海域攻略で捨て駒にされた子、死ぬのがわかっていても無視した子、ごめんなさい、ごめんなさい、貴女は、貴女は……」
幻覚の1人ずつに謝罪を始めた。目の前にいるセスはもう見えてもいなかった。前までのように、死を求めることも、痛みを求めることもない。
夕雲は今まで自分の手で死んでしまった仲間達のことをしっかりと覚えているようだった。それ故に、この幻覚と幻聴はより強く夕雲を苛ませる要因になっている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、夕雲が貴女達を、ごめんなさい、許してくれなんて言えません、ごめんなさい、でも、謝りたい、謝らせて、謝らせてください。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
泣きじゃくりながら謝罪を叫び続ける。そういえば、夕雲は死と痛みを求めた時ですら涙を流さなかった。薄ら笑いすら浮かべていた。
それが今はこれだ。今まで壊れて表に出ていなかった感情が、セスの言葉が、そして謝罪の言葉がキッカケになり、爆発的に溢れ出てきていた。
「ユウグモ、これだけ言わせてこう言うのもアレだけど……貴女のせいじゃないよ。手にかけたのはユウグモかもしれないけど、それをやらせたのは別にいるんだから。夕雲は嫌でも逆らえない状態だったんだから」
「護衛棲水姫さん……」
「セスでいい。ここではそう呼ばれてる」
掴んでいた胸倉を離し、今度は抱きしめた。幻覚が見えなくなるように胸に顔を押し当て、後頭部を摩るように頭を撫でる。まるで、子を慈しむ母のようだった。
エコという
「セスさん……ごめんなさい……戦いたくないという貴女を追い回してしまって……ごめんなさい、艤装を破壊してしまって、ごめんなさい、ごめんなさい」
「過ぎたことだから気にしないで」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
かなり強引、かつ、大きな賭けのような方法ではあったが、夕雲の心構えはセスのおかげで変化し始めた。罪の意識はまだまだ大きいが、少なくとも死と痛みを求めることは少なくなるだろう。ここから罪の意識をゆっくりと癒していければいい。
これで夕雲の禁断症状が無くなるわけではないことはわかっている。だが、少しくらいは緩和されるかもしれない。心持ちが変われば、幻覚も少しは変わるかもしれない。
「医者の僕が諦めかけていた。誰よりも諦めちゃいけないのにだ」
「……ああ」
「深海棲艦の方が、余程相手の心がわかっているな。僕はカウンセラーではないが、今回の件で特に実感したよ。シロクロとセスがいなければ、霰はあそこまで回復しなかったし、夕雲もまだ痛みを求め続けていただろう」
飛鳥医師が安堵の息をついた。薬のない病をどう治せばいいかと考え、行き詰まり、頭を抱えていたところにこれ。早期解決を目指していたところに、思わぬ援軍だったようだ。
「皆には感謝してもしきれないな……」
「……若葉もだ。夕雲を突っぱねるしか出来なかったのは悔しい」
もう少しやり方があったと思う。少なくとも、私が引っ叩いたことは悪手だ。今考えれば後悔しかない。
ほんの少し、ほんの少しだけ、夕雲は前進出来たのだと思う。これは喜ぶべきことだろう。
夕雲にも僅かに光が見えてきました。