中立区である施設の近海に、深海棲艦が現れてしまった。それは難なく撃退することに成功したが、その深海棲艦が、今までここに襲撃
また、この戦いの前に発生した雷の異常。意思も理性もない深海棲艦の声が聞こえるという事態に、むしろそちらの方が心配だった。禁断症状が発生した夕雲達のように目の焦点が定まらず、耳を塞いで蹲る雷の姿は、見ていて痛々しかった。
「戦闘終了。……セスの言葉も届かなかったため、被害を大きくしないように……撃破した」
その深海棲艦の死骸は、工廠に運び込んだ。私や曙よりも大きいものの、これは駆逐艦。セスの爆撃により頭頂部が破壊され、完全に息絶えている。私達がこの命を奪った。
「……始まりの深海棲艦、駆逐イ級か」
工廠で待っていた飛鳥医師が悲しそうに呟く。雷は医務室で眠っており、摩耶が側についてくれているらしい。今はもう声は聞こえないようだが、深海棲艦の恨みと憎しみを直接耳にしてしまったせいで、精神的に不安定になってしまっているようだ。
どういう形で聞こえたかはわからないが、怨嗟の声が気持ちいいはずもなく、私達といるときも本当に辛そうだった。恐怖により我を忘れていそうなほどに錯乱していた。
「雷は何であんなことに……」
「普通じゃなかったわよ。あのポジティブを絵に描いたみたいな雷があんな風になるなんて」
コンビを組んでいる曙も困り顔である。
「飛鳥医師、1つ聞きたい」
「何だ?」
「雷は
素直な疑問をぶつける。深海の眼を移植されたからそういうものが見えるようになったら三日月と摩耶や、一時的な失明をしたことで嗅覚が異常発達した私とは違う。あれは、最初からそれが出来るような感じだった。今までこの中立区にいたからこそ、不要だったし確認も出来なかった雷の特異性。
後天性の私達とは違う、先天性の力だった場合、雷の生まれ方に何かあるとしか思えない。しかし、雷自身はその記憶を全て失っている。
何かあるのなら、飛鳥医師しかわからないことだ。
「雷は知っての通り、浜辺に漂着しているところを見つけて、僕が保護した、初めての艦娘だ。怪我の具合も君達が知っている通りだ。それ以上のものはない。身体の調査もしたが、頭の上から足の先まで、完全に駆逐艦雷で間違いは無いんだ」
「なら、何で深海棲艦の声が聞こえるだなんて」
「記憶が無いことに何か理由があるんだろう。これまでは思い出しても辛いだけだろうと詮索を避けていたが……」
私達のような辛い環境からこちらに来たのなら、思い出したくないような記憶な可能性だってある。忘れておけるのなら忘れておいた方がいい。それすらもわからないのなら、触れないことが一番だろう。思い出して余計に壊れでもしたら目も当てられない。
「若葉みたいに、アンタが治療に使った深海棲艦のパーツの影響ってのはないわけ?」
「無いとは言えない。改装によって何かが活性化した可能性だってある。当然検査はもう一度するさ。幸い、今は設備が揃っているからな」
正直、今の雷は本当にどうなっているかわからない状態。腹の中のレ級の内臓が引き起こした力なのか、雷が持って生まれた能力なのか。少なくとも私達ではどうにも出来ないところにある問題だ。
「雷は少し休んでもらう。その間に、先生や来栖に連絡しておく。これは緊急事態だ」
雷のことも心配だが、中立区に深海棲艦が現れたという事実も大きな問題である。
艦娘も深海棲艦も現れないのだから中立区なのであり、今回の深海棲艦の発生によって中立区という概念が取り払われてしまった。
「事と次第によっては、ここでも鎮守府のような活動が必要になるかもしれない。今はこの程度で済んでいるが、悪化する可能性もあるからな。僕としては……抵抗があるが」
「……ああ」
事態は急激に悪い方向へと進んでいく。それに私達は、ただただ巻き込まれるしかなかった。指を咥えて見ていることしか出来ないのが悔しい。
緊急事態ということで、すぐに来栖提督が駆けつけてくれた。下呂大将は家村関連で忙しく、来栖提督なら現状まだ動ける方だからである。下呂大将にも当然連絡は行っているため、逐一指示を受けながらの行動が余儀無くされている。
「ここに深海棲艦が出たッつーのはマジか」
「証拠だ」
飛鳥医師が指差す方には、私達が撃破した駆逐イ級の死骸。嵐もここ最近は来ていないので、漂着するようなこともない。これは信じるしかない状況。
そのため、来栖提督には海域調査をお願いすることになった。こうなった理由があの海にあるのではないかということで、潜水艦娘に潜ってもらうことにしている。施設の側ということで、シロクロも手伝うらしい。
その間に、来栖提督は施設の者に事情聴取をする。飛鳥医師と、第一発見者として私がそれに応じることになった。話せることは限られているが、やらないよりはマシということで。
「大将じゃねェが、俺の予想聞いてもらえるか」
「ああ」
「今までここで沈んじまった奴らの恨みが、許容量を超えたんじゃねェかと思うんだが」
近海に沈んでいた艦娘は、ここ最近の襲撃以前から沈んでいたものまで合わせると、もう30人を超えている。その内の3人は、自爆により死体すら木っ端微塵になってしまった潜水艦娘である。
潜水艦娘以外は死体を引き揚げてもらっているが、潜水艦娘はなんだかんだ引き揚げ作業が出来ず、死体も放置状態。果たして死体と言える状態かはわからないものの、供養することすら出来ない。
そうして、積もり積もった怨念が、このタイミングでついにこの海の許容量を超えてしまった。飽和状態でさらに恨みが蓄積された結果、その恨みが深海棲艦として形を持ったのではないかと来栖提督は話す。
「深海棲艦の発生の法則はまだ解明されていないが、怨念の蓄積がそれを引き起こす仮説はいろいろな研究者が立てているな」
「俺もその線だと思ってんだ。ここはクソッタレな戦闘ばかりだったからな」
雷が最後に言った言葉を改めて思い出す。この駆逐イ級は、何故死ななくてはいけないのかと言う声と共に現れたものだ。ここに眠る人形達の怨念の集合体ではないかと、私だって思っている。
そのことを来栖提督に話すと、納得したような表情に。
「雷は深海棲艦の声が聞こえたんだな?」
「おそらく」
「……なら信じておく。物的証拠は無ェけど、雷がそう言ったというのが充分な証拠だ」
今までの行いの良さであろう。雷は冗談でそんなこという者では無いし、嘘で今眠っているようなことにはならない。むしろ、それが嘘だったとしたら、体臭が少し変化するために私がすぐにわかる。
「なら、ここの無念を晴らしてやれば、また中立区に戻るかもしれねェ。気休めかもしれねェけど、そう思っていた方が楽だろ」
「……確かにな」
「なら、今やってることを確実に終わらせてやるぜェ。家村のクソッタレのせいで、中立区すら潰されてるってなっちまったら、胸糞悪いじゃ済まねェよ」
またこの場を中立区に戻す手段があるのなら、そうしたい。一度汚染されたものを綺麗にするのは難しいことはわかるが、出来ることなら何もかも無かったことにしたい。
雷の聞いた声から鑑みると、この近海に飽和した怨念は、おおよそ家村への恨み。何故自分がこんな目に遭わなければいけないのかという疑問から発生した怒り、恨み、憎しみ。それを晴らせば、この海からは多少なり怨念は消えるだろう。また深海棲艦が発生する可能性はあるが、今よりは確実にマシになる。
「で、だ。この近海でも深海棲艦が出ちまったんだ。せめて自衛の手段くらい持っておいてくれ。大将にも許可は貰って、ちゃんと
「……そうなるのか」
「俺らだって限界がある。今回みたいにな。それに、ここにゃ戦える艦娘もいる。俺が言ってんのは必要最低限の装備なんだ。お前らが死んだら一番意味が無ェ」
今のままで何度も深海棲艦が現れたら、最終的にはジリ貧になるだろう。ただでさえ入渠ドックがない、中立区であるがための施設だ。怪我をしたら治るにも時間がかかる。それに加え、ここで治療を受けているものだっているのだ。
自衛の手段はなるべく強めておきたいというのが来栖提督の考え。海域調査の結果、今後はもうこんなことが起こらないと確定するまでは、施設を守るための必要最低限の力は用意しておきたい。
もう現れないかもしれないし、毎日のように現れるかもしれない。ならば、後者を心配して万全の態勢でいることが得策だろう。
「抵抗があるのはわかってる。そいつらの恨みには
鎮守府のトップを務めるだけある。敵に事情があったとしても、話し合うことが出来ずにただ襲われるだけならば、それはもう討伐しか無い。
飛鳥医師はこれまででもなかなか見せたことのない辛そうな表情を見せる。救える命は全て救うと言っていても、こうなってしまっては命を奪うしかない。来栖提督が言う通り、私達が死んでは意味が無いのだ。
「……わかった。ギリギリまで説得は試みる。それでもダメそうなら……討伐する。だが、僕はただの医者だ。そういうことが出来る立場にいない。提督ですら無いんだからな」
「わかってらい。お前がそういうこと出来ねェことくらいよォ。だから、基本は俺らに任せろ。緊急時は頼むってことだ」
警備隊は毎日来ているのだ。今回はたまたま隙間時間だっただけ。それでも、今回のようなことがあったら私達で施設を守らなくてはいけない。
飛鳥医師は仕方なく了承した。流石にこんなことをホイホイ笑顔で選択出来るわけがない。考えた末の苦肉の策だ。
「若葉、お前らにも苦労をかけるかもしれねェ」
「構わない。若葉達は艦娘だ。本来の仕事に戻っただけだ」
「頼もしいねェ」
苦笑された。こうやって強がりを言っておかないと、私も結構キツイ。
本来の私達の仕事は深海棲艦と戦うこと。それをやっていくだけだ。私は元々、この世界の平和に貢献すると意気込んでいた艦娘の1人なのだから。
来栖提督は海域調査に戻った。私達は眠っている雷の下へ。
「穏やかなもんだぜ。いつも通りって感じだ」
側にいた摩耶がそう言う通り、眠っている雷はいつも通りの寝顔。先程までの錯乱は何処にもなく、穏やかな表情で寝息を立てている。普段の前向きな雷に戻ってくれたようだった。
「起きたら何事もありませんでしたってのが理想だな」
「……ああ」
「辛気臭い顔すんなよな。あの雷だぜ? 大丈夫だ。きっといい方向に行く」
そうだ。私達が信じなくてどうする。それに、私達が支えていけばいい。
大丈夫、きっといい方向に行く。雷がずっとそう言ってきた通り、ポジティブにならなくてどうする。他ならぬ雷のことなのだから、きっと大丈夫だ。
「目を覚ましたら検査をする。念のため全員やった方がいいだろう」
「だな。改装したことで何か起きたってのなら、早めに知ったおかねぇと」
摩耶も納得。私のように外見に現れていないとはいえ、三日月以外は改装済み。摩耶に至っては第二改装まで終えている。目に見えないところで何かしらの変化があってもおかしくは無い。
「……すまない。僕がこんな治療をしたばっかりに」
今回の件で、飛鳥医師も相当参っている。自分の施した治療が、まさかこんな形で牙を剥いてくるなんてと、頭を抱えている。
「泣き言言うんじゃねぇよ。センセらしくも無ぇ」
「だが……」
「何度も言ってんだろ。アタシらは命繋いでもらったことに感謝してんだ。こうしてもらわなきゃ、浜辺でのたれ死んでるんだからな。だからよ、アンタが折れないでくれ」
命を繋ぐためにやってくれた治療だ。私達は感謝こそすれ、恨みは1つも持っていない。それは何度でも口に出して伝えている。こうなったって、私は受け入れているのだから。
飛鳥医師の治療が100%正しいとは言えないだろう。だが、命を繋ぐための最善の方法としてこの治療を選択したことは、実際にそれを受けた私達には間違っていないと保証できる。
「疲れてるならアンタも休めよ。ベッドは空いてるしな」
「……寝るなら自分の部屋に行くさ。悪いな摩耶、僕も大分キテる」
「わかってんならシャキッとしろよ」
ニカッと笑って肩を叩く。雷のポジティブさもそうだが、摩耶の明るさも今を支えてくれる1つの頼れる柱だ。
嫌な状況に向かっているのがわかる。だが、大丈夫だ。きっと、きっといい方向に行く。
タイトル詐欺になりつつありますが、ここからは中立を取り戻す話になっていきます。元に戻るかはさておき。