新学期を迎えた、ある日の奉仕部。
そこに彼女は現れた。
「せ~んぱい」
ニコリとあざとく。ふわりと笑う。
総武高校の現生徒会長である一色いろは。
声をかけられたのは比企谷八幡。読んでいたラノベから視線を上げ、彼女の顔を確認してまた読書に戻る。
隣に座っている由比ヶ浜結衣が苦笑して、その横に座っていたはずの雪ノ下雪乃はいそいそと紅茶の準備を始めていた。
それは、昨年から続く日常。奉仕部と一人の有り触れた光景。
「ねぇ、先輩。ちょっと、これ見てくださいよー」
紅茶を一飲みして落ち着いたらしい一色いろは。
彼女が鞄から取り出したのは鈍い輝きを放つ金属。それはテレビドラマなどで誰もが知っているが、実物を見る機会はあまり無いもの。
「は?」
突然、目の前に突き付けられたソレに比企谷八幡は困惑しているようだった。
だからだろうか、彼女の言うがままに行動してしまったのは……。
「先輩。ちょっと左手出してください」
「あ? あぁ……え?」
戸惑いがちに差し出された比企谷八幡の左手首に、それはカシャリと音を立てて装着された。
黒い光沢を放つ円形の拘束具。チキチキと小さな音を鳴らして、一色いろはの手によってどんどんと拘束の輪が狭まっていく。
「つーかまーえたっ!」
そうして、無邪気な子供のような笑みを浮かべて、一色いろはは比企谷八幡へと手錠をかけたのだった。
* * *
自らの手にはめられた手錠を茫然と見つめる比企谷八幡。
ニコニコと弾けるような笑顔で手錠を握る一色いろは。
愕然とその光景を見ているだけの由比ヶ浜結衣。
紅茶を啜った態勢のままピクリとも動かない雪ノ下雪乃。
まるで時間が止まってしまったかの様な奉仕部の部室。
そんな中で、唯一、その場の主導権を握っている彼女だけが自由だった。
「え~い!」
一色いろはが、そんな気の抜けたような掛け声とともに持っていた手錠を自らの右手へと装着する。
茫然と、愕然と、唖然とした表情でその光景を見守る三人。
「わたしも捕まっちゃいましたねー」
何がしたいのか。何が楽しいのか。
彼女は満面の笑みで自身と彼を繋ぐ鎖を愛おしそうに一撫でし、告げる。
「さて……実はこの手錠、鍵がないんですよねー」
そう言って、一色いろは天真爛漫に笑うのだった。
* * *
一色いろは曰く、その手錠は生徒会室の備品を整理しているときに発見したとのことだった。
彼女は悩んだ。使ってみたい。けれど、鍵がない。
そうだ。奉仕部に行こう!
「いや待て。おかしいだろ。何でそこで京都行こうみたいなノリで奉仕部来るんだよ」
比企谷八幡のツッコミはスルーされた。
「ほら、先輩が目の前にいるじゃないですか。そしたら、こう……捕まえなきゃって思うじゃないですかー?」
「……確かに」
「おい、なぜそこで同意した雪ノ下」
「何かしら犯罪予備谷ぐん。……失礼。噛んだわ」
「違う……わざとだ。いや、本当に違う。そういうボケいらないから。とりあえず、人を犯罪者扱いしないで。まだ何もやってないから!」
「まだってことは、この先なにかやる自覚はあるんだ、ヒッキー」
「何このアウェイ感。俺の人権が乏し過ぎる」
比企谷八幡の人権はスルーされた。
「それで一色さん。比企谷くんを拘束したのは問題ないとして、なぜ自分に繋げてしまったのかしら。少し危機意識が低すぎるわよ」
「それは……」
「それは?」
「……なんとなく?」
「……」
「……」
「私は貝になりたい」
可愛らしく小首を傾げる一色いろはと、それを胡乱気に見つめる雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣。
比企谷八幡は遠い目をして現実逃避を始めた。
「……とりあえず、この手錠をどうにかしましょうか」
「どうにかって……どうするの、ゆきのん?」
頭痛を堪えるようにこめかみに手を添える雪ノ下雪乃。
そんな雪ノ下雪乃を気遣うように由比ヶ浜結衣が寄り添う。
「一番簡単なのは、工具か何かで手錠を繋いでいる鎖を切断することだけれど……」
「これ、結構本格的な感じなんで、ハサミとか工作室にあるような工具じゃ無理そうですけど?」
「そこまで分かっていて、どうして自分に手錠をかけたのかしら……」
「あ、そうだ。平塚先生にお願いするのは?」
「平塚先生に?」
名案が浮かんだとばかりに手を叩く由比ヶ浜結衣。
悪意の欠片もなく、彼女は言葉を続ける。
「平塚先生なら鎖くらい素手で引き千切れそうじゃない?」
その言葉に奉仕部の部室が再び静まり返った。
皆、想像してしまったのだろう。嬉々として飴細工のように鋼鉄製の鎖を素手で引き千切る彼女の姿を……。
気が付けば、現実逃避していたはずの比企谷八幡からすすり泣く様な声が聞こえる。
知らず、誰かが言った。この案は止めとこう、と。
「……まぁ、というのは冗談で、生徒会室に鍵あるんですけどね」
さすがにこのお通夜のような空気に耐えかねたのか、一色いろはが自白する。
冷たい眼差しをぶつける雪ノ下雪乃。
困惑したような視線を送る由比ヶ浜結衣。
誰か早く先生を貰ってあげてと嘆く比企谷八幡。
「そういう訳で! 先輩はわたしと一緒に生徒会室に行きましょう! ついでに仕事も手伝ってください!!」
「は? 嫌だ。働きたくないでござr……ちょ、待っ!? いたいいたいいたいぃぃぃ」
逃げるが勝ちとばかりに立ち上がり、一色いろはは自身と比企谷八幡の鞄を手に持つと颯爽と駆け出した。
彼女に引きずられるように比企谷八幡もそれに続く。
奉仕部には、唖然とした様子で固まる二人の部員だけが残された。
* * *
生徒会室に着いて早々、比企谷八幡は口を開く。
「それで、今度はどんな厄介事だよ」
「先輩?」
「ここまで手の込んだことしたんだ。あいつ等に言えないような困り事なんだろ?」
「……」
比企谷八幡が見透かすように一色いろはを睥睨する。
ただ、それでも一色いろはは笑みを絶やさない。
ニコニコと、スキップなんてしちゃったりして、ズンズンと生徒会室の中を進んでいく。
そこには他の生徒会メンバーもいない。二人きりの生徒会室。
カチャカチャと、金属同士が擦れ合うような音だけが木霊する。
「えーと、確かここに……」
比企谷八幡の指摘をまるっと無視して、一色いろはは生徒会長席の引き出しを片手で漁る。
利き手でないからか、若干やり辛そうに動かしていた左手がピタリと止まった。
「……はい! これが手錠の鍵ですよ、先輩」
「お、おう」
比企谷八幡は反射的に目の前へと翳された鍵へ手を伸ばす。
だがそれは、すぐに彼女の手の中へと消えてしまう。
「……なんだよ。仕事なら手伝ってやるから、さっさとこの手錠を外せって」
「イヤです」
まさかの拒否。即答だった。言葉を挟む余地もない。
困惑する比企谷八幡を尻目に、一色いろはは生徒会室の窓の側まで歩き出す。
予め開けておいたのだろうか。彼女の向かう先。開け放たれた窓の眼下には既に散ってしまった桜並木が寂し気に佇んでいるのが見てとれる。
引っ張られたことでつんのめる様に姿勢を崩した比企谷八幡の手を取り、彼女はもう一度微笑み告げた。
「絶対にイヤです」
そう言って、彼女は窓から鍵を投げ捨てたのだった。