いろはすは捕まえたい!   作:スポポポーイ

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4.いろはすは捕まえられない!

 風呂には入れない。そもそも、服が脱げないので。

 歯は磨いた。慣れない左手で歯ブラシを使った彼女が何度かオェッとなったのが乙女としては問題っちゃ問題。

 風邪はひかせない。そのためにベッドは使わず、二人並ぶように布団を敷く。

 宿題はやった。なぜ俺が一年生の宿題をやらねばならんのだと愚痴る彼を気にしてはいけない。

 

 静寂と暗闇に包まれた彼女の部屋で、一色いろはと比企谷八幡は床に就く。

 

「……先輩。もう寝ちゃいました?」

「……」

 

 囁くような一色いろはの声。それに応える比企谷八幡の声は聞こえない。

 二人が布団に入ってから、どれほどの時間が経過したのだろうか。数分か、数十分か、あるいは──

 

「起きてるんですよね?」

「……寝てる」

 

 確信しているような彼女の呼びかけに、彼が億劫そうに応えた。

 

「本当に寝てる人は寝てるなんて言いませんよ?」

「……寝言だ」

 

 やる気のない嘘に見え隠れする少年の気遣いに、少女はふにゃりと相好を崩す。

 

「……なら、これからわたしが話すことも寝言です」

「……」

 

 まるで何かを思い出そうとするように、ゆっくりと瞳を閉じた一色いろはが静かに語り出す。

 

「始業式で挨拶のために壇上へ上がったときのことでした」

「……」

 

 布団の中で、彼女の右手がちょこんと彼の左手に触れる。

 

「挨拶の言葉を話しながら、わたしは目の前で座る全校生徒を見渡したんです」

「……」

 

 くすりと小さく笑い、少女は言葉を紡ぐ。

 

 

「雪乃先輩が居ました。なんだか授業参観で我が子をハラハラ見守る母親みたいな眼差しが、少しくすぐったかったです」

 

 

 穏やかで子守唄のような声だけが、部屋へと木霊する。

 

 

「結衣先輩が居ました。嬉しそうに微笑んでて、遠く離れてたのに、目が合ったら小さく手を振ってくれるんですよ」

 

 

 懐かしむように、偲ぶように、彼女は続けた。

 

 

「葉山先輩が居ました。優しい……けど、どこか寂しそうな顔で、わたしを見守ってくれていたのが印象的でした」

 

 

 朗々と、弾むように語る声音が天井に届いては、吸い込まれて消えてゆく。

 

 

「戸部先輩はわたしの挨拶に変な相槌を入れてきて三浦先輩に叩かれてますし、海老名先輩は周囲の男子たちを見比べながら不気味に笑ってましたね。他にも、戸塚先輩とか川崎先輩とか…これまで生徒会のイベントで関わった色々な人達がみんないて、それで──」

 

 

 ほんの僅か、一色いろはの声が震える。

 

 

 

「──そこに、先輩が居ました」

 

 

 

 少しおどけるような彼女の声。

 

 

「クラスごとに固まって座ってるはずなのに、なんで先輩の周りだけぽっかり穴が空いたみたいになってるんですか」

 

 

 少女は怒ったように眉根を寄せてみせる。

 

 

「わたしが一生懸命話してるのに、先輩はずっと下向いてますし。寝てるのかと思いましたよ」

 

 

 そんな表情とは裏腹に、その声音はひどく楽し気で、明るいものだった。

 

 

「そのくせ、わたしが少し言葉に詰まったら、心配そうに顔をあげてチラチラ見てくるんですから、先輩の方がよっぽどあざといじゃないですか」

 

 

 一色いろはの瞼に浮かぶ優しい世界。

 

 

「雪乃先輩が見てくれて、結衣先輩が笑ってくれて、先輩が傍にいてくれる」

 

 

 けれど、ゆっくりと開かれた瞳の先には──

 

 

「そのとき、ふと思ったんです。ああ、来年の今頃にはもう、先輩たちはここには居ないんだって……」

 

 

 空虚な暗闇を見据えて、一色いろは儚く笑う。

 

「ズルいじゃ…ないです……か」

 

 どこか責めるような彼女の声。

 

「責任…取ってくださいって……言ったじゃないですかぁ」

 

 まるで縋るような少女の言葉。

 

「イヤ…ですよぉ……」

 

 込み上げてくる想いが、情動が、目の端で溜まっては滴り落ちる。

 

「行かないで…っ……置いてか…ないで……くだ…さい…よぉ……」

 

 それが、ただの我がままであると分かっているのだろう。

 

「……だから、先輩」

 

 冗談を言おうとして、嗚咽が混じって、安心させたくて、無理矢理くしゃりと笑ってみせる。

 

「わたっ…しのために……留年して…ッ……くれません…か?」

 

 そう言って、一色いろはは泣き笑いのような顔で比企谷八幡へと懇願した。

 

 

 

*  *  *

 

 

 

 震えるような声で吐露された一色いろはの想い。

 だから、比企谷八幡はその気持ちを受け止めて、言葉を返す。

 

「……生憎と俺の頭脳はどこぞのガハマさんのように簡単に留年できる代物じゃあないんだ。比企谷八幡、好むと好まざるとに関わらず、それが理系以外なら割かし優秀な成績を収め、゙最後のぼっぢを名乗ることを許された──ただ一人の男の名だ」

「……どこの滅却師ですか、それ」

 

 真摯からは程遠い、まるで人を小馬鹿にしたかのようなふざけた返答。

 けれど、呆れたようなツッコミとは裏腹に、一色いろははどこか嬉しそうだった。

 それはきっと、彼が彼女の願いを汲んでくれたから。

 

 寝言には寝言を、冗談には冗談を、だから彼女は遠慮なく戯言を囁く。

 

「ねぇ、先輩。もし……わたしがもう少し早く産まれてたら、どうなってましたかね?」

 

 四月生まれの少女は夢想する。

 

「わたしがあと三週間くらい早く産まれてたら、先輩たちと同級生だったんですよねぇ」

 

 もしかしたらそれは、あり得ていたかもしれない、そんな世界。

 

「先輩と同じクラスだったら良いなあ……。先輩、理系苦手なんですよね? なら、わたしがフォローしてあげますから、文系の宿題とか手伝ってくださいよ」

 

 彼女が思い馳せる、少しだけ捻くれた優しい世界。

 

「一緒に遅刻して平塚先生に怒られて、文化祭は二人で実行委員をやったりして、体育祭で珍しく頑張る先輩を応援して、修学旅行では一緒に夜抜け出したりとかするんです」

 

 恐らくそれは、彼女の勝手な憧れや期待や願望の押し付けで、脆く儚い幻想の世界。

 

「そうだ、今度は先輩も一緒に生徒会やりましょうよ! きっと楽しいですよー?」

 

 一色いろはは、そんな世界を焦がれるように、そっと右手を伸ばす。

 シャラリと、僅かに手錠の鎖が擦れる音を響かせて、比企谷八幡の左手も追従する。

 

「それなら、きっと──」

 

 彼女の瞳に映るのは、手錠で繋がれた彼の左手。

 慈しむように、求めるように、取り縋るように、少女は微笑みその手を握ろうとして──

 

「それならきっと、俺と一色に接点なんて無かったよ」

 

 少年は、問答無用でそんな戯言を叩き潰す。

 

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