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夕暮れ五時。錆びついた柱から黒煙が吐き出される。煙は紺色に溶ける。オレンジとダークブルーのグラデーションは、夕陽と可燃性有毒ガスによって織りなされていた。どこかでチャルメラが鳴りそうだった。海に囲まれたその町は、町と呼ぶには工場が多すぎた。グリッド線のように区分けされたそこかしこには朱と白の煙突が立ち並び、いずれも煙を吐いている。風通しの良さそうな数多の構造物は柵のような鉄の足場に囲まれて、風が纏わりついている。おざなりになったアスファルト、雑草の緑が色濃く靡いた。なにも変わらない日々。着実に過ぎ去っていく時間。油の匂い、夕景は優しかった。
彼女は口を開けて歩いていた。ぽかんとして、歩いていた。彼女にとって世界は無音だった。かわりに、鼓膜にはメロディが突き刺さって、空っぽになった頭の中から口腔へと、歌が零れ出る。疎らに張られた鉄線の下、彼女は歌を口ずさんだ。もはや誰にも忘れられた、古いアイドルの歌だった。
なにも変わらない日々。優しく過ぎ去っていく時間。彼女はあと数日で技師になる。
ワンダーラスト
一章~高等部二年、春。
校舎はのっぺりと白い。正門は中等部の生徒たちが黒い蟻になって群れ、裏門もさして変わらない、高等部の生徒たちが似たようにごった返していた。予鈴と同等のやかましさでモラトリアムの努めをかろうじて果たさんとする生徒たちは、都合六年間、同じ校舎の世話になる。校舎のある広大な敷地の離れには、彼らがかつて通っていた幼、小の校舎があった。幼小中高超一貫型の学園が、この町と彼らにとってのすべてだった。
校舎裏ともなれば、やかましい喧騒はかすかになる。日陰になったコンクリートの犬走りに、黒い学生服の二人が胡座をかいて、別の液体に満たされた赤い空き缶を啜っている。
早速ではあるが、このあたりから力を抜いて描写させていただく。語り部の品位というものに固執したところで、満足できる者はいやしない。語り部の正体についてもここで明かす。語り部はこの物語に登場する人物の誰でもない。赤の他人が努めている。えへへ、よろしくね。
さて、校舎裏でトルエンを啜っている不良生徒ふたりについてだが、ひとりは鬼人正邪、もうひとりを少名針妙丸と云う。わざわざ登校時間を守って学校に来ておきながら非行に走るのでは、律儀なのかなんなのかさっぱりわからない。ともかくとして、一年生の二人組だった。
正邪は赤い前髪をうっとおしそうにかきあげ、夏の近い季節の日差しを睥睨して、忌々しげに口を開いた。
「なあヒメ、知ってるか。赤蛮奇、あいつやっぱ、売ってんだってさ」ヒメ、という呼称に多少の苛立ちを感じながらも、針妙丸も口を切る。「なにがさ」
「体だよ。体」正邪はまた空き缶の縁を啜って、校舎の壁にもたれかかった。すでに黒い制服は埃っぽく汚れている。お構いなしだった。「どうでもいいだろ、そんな話し」
妙に鬱陶しそうな針妙丸の声に、正邪も似たような声色を返した。「まあな。でも、今日は緑色のセンパイも来てるらしいぜ」
「緑色ってあの、鍵山雛?」
「そう!」正邪は空き缶を敷地を囲む生け垣に放り投げて言う。「鍵山雛だ。淫売の、緑色。なぁ赤蛮奇は当然赤だろ。それで、やつは緑色。赤と緑は正反対の色だ。なあ?」「はあ」
至極面倒そうな針妙丸を尻目に、正邪は言葉を続けた。
「でも、この色はおんなじ色なんだよ」
「どういうことさ」
「つまり、赤と緑は性犯罪の色ってわけ!」
は行の二番目で笑う正邪の横で、針妙丸は深くため息を吐いた。「楽しそうだな、おまえ」針妙丸も諦めたように缶を投げた。
それは二人にとって、悪辣で、なにも変わらない日常に違いない。気付けば聞こえなくなった正門の喧騒の代わりに、どこかで雀が鳴いていた。正邪は、ひとつ舌打ちをしたかと思えば、今度は靴底でリズムをとって、口ずさむ。ラモーンズの一番有名な歌だった。針妙丸のため息に混ざって雀がなく。そして、それらすべてをかき消すように、始業の鐘が鳴り響いた。
河城にとりにとって世界は無音だった。さっきまで見ていたよくわからない夢も、授業が終わってはしゃぎだす同級生たちの声も、延々とループし続けてきたであろうアイドル歌謡にかき消されて、にとりはようやく一限の終わったことを悟る。幼稚園のころかっぱ組に属していた時点で将来の決定しているにとりにとって、継ぐ家業となんら関わりのない一般教養は虚しかった。にとりが外すまでもなく、イヤホンは友人の手によって取り上げられる。にとりは焦ってイヤホンを奪い返した。
「や、やめろよ。わたしがなに聴いてたって、おまえには関係、ないはずなのに」
にとりの友人、からす組出身の射命丸文はけらけらと笑った。「隠すから気になるんですよ。隠さなけりゃいいじゃないですか」
「あっ、わかった!」文の隣でもうひとりが笑う。おおいぬ組出身の、犬走椛だった。「にとりさん、すっごい恥ずかしいやつ聴いてるんでしょ」
「なんですか椛さん、恥ずかしいやつって」愉しげな文に椛は多少恥ずかしそうに、けれど冗談めかして口を開いた。「そりゃあ、その。えっちなやつとか」
詰襟、おずおずと首元を掴みながらそっぽを向く椛はむっつりとした男子生徒そのものだった。「え! 本当ですか!」などとにとりに詰め寄る文にしても、わなわなと口を開けて愕然とするにとりにしても、揃いの詰襟は、男子学生然と作用した。
学園の制服は二着あった。男子用の詰襟と、女子用のセーラーの二着。冬用夏用含めれば厳密には四着となる。この町における性別とはどうにも抽象的な概念であるから、どちらを着用するも個人の自由だった。しかし制服を買うのは生徒本人ではなく、当然金銭を保有する両親である。仮に幼少のころから親に男子用を着せられて育った子供がいたとすれば、その子供は対外的に男子になる。
「それにしても、よくありませんねえ」
授業中に居眠りとは感心しますね、の意で文が口を切る。椛も文の言葉に続ける。「そうですよ、よくないですよ」
「そっちこそ。将来なんの役にも立たないこと、よく真面目にやれるよな」
唇を尖らせたにとりの言葉に、二人はへらへらと笑ってみせた。それは、三人の中でもう幾度となく繰り返されてきたやり取りだった。かっぱ組は技師に、からす組はマスメディアに、おおいぬ組は治安維持、労働力に。もちろんすべてがこの町の中で完結する仕事だった。にとりぐらいのかっぱ組出身者は、概ね中等部に上がったあたりのタイミングで自身の将来について知る。大抵の職種は町の統制により一本化されているが、技師は違った。かっぱ組の将来は沿岸部の工場務めになるか、家業としての技師を継ぐかで、にとりは後者だった。にとりのソレが始まったのは、にとりが中等部に上がったころだ。何十年もの間独自に油にまみれてきた父親から聞かされた自身の将来は、結局のところ町の工場の下請けだった。
「どうせ、おまえらだってからす組で、結局のところ、おおいぬ組なのにさ」悲観の染み付いた普段どおりのにとりの口ぶりに、文も普段どおりに軽口を返す。
「だって、別に楽しくないわけじゃないじゃないですか。いろんなことを知るってのはいいもんですよ。ねえ椛?」
「ねえ文さん?」椛は文の賛同者然として言葉をかぶせる。旺盛な知的好奇心というのはからす組出身者としての習性だったし、統制側に近い“からす組”に付き従う賛同者というのも、やはりおおいぬ組出身者の類型だろう。椛は幼い頃からよく、文のバーターなどという誹りを受けるが、普段それを気に病むことはなかったし、文にしても、椛をそんなふうには思っていなかった。にとりもそれをわかってはいたが、どうしても、ちょっとした拍子、友人との楽しい会話のなかに、この町特有の関係性、その類型を重ねてしまうのだった。
にとりはため息を吐き、腕を机に投げ出してはそのまま突っ伏した。
「ちょっとー、寝ないでくださいよぅ。せっかく貴重な十分を友人との対話に割こうという私の気持ちを、無下にしないでくださいよぅ。……ねえ椛?」「ねえ文さん?」
(だいたい、楽観的すぎるんだよな。なにがそんなに楽しいってんだ)
染み付いた悲観主義を自覚しないでもないにとりだったが、今日はことにひどかった。
(雛だ。鍵山雛。あいつが来ると、妙にいやな気持ちになる)
机に突っ伏したまま、にとりは視線をちらりとやる。視線の先にはセーラー服を着た緑の髪。鍵山雛がいた。鍵山雛は誰と会話を交えることもなく、ひとり教科書の整理をしている。にとりの目には、鍵山雛のまわりになにか、特有のオーラがあるように見えた。それは、他を寄せ付けない、独特で、一種神聖なオーラだった。普段あまり学校に来ないものだから、他の生徒と同じように授業を受けていても、授業が終われば次の用意をする、物静かで真面目という生徒の類型に倣っていても、どうしても、周りから浮いているように見えた。それはもちろん、鍵山雛を取り巻く例の噂も、印象に深く作用した。
(あんな噂があって、よく学校に来られるよな)
鍵山雛の座る窓際には、不自然な空間的余裕があった。半ば彼女を取り囲むように、クラスメイトはそれぞれ二、三人のかたまりになって、なにやらひそひそとやっている。しかしそれは、彼女の例の噂ではなかった。どうやら同じ高等部の一年に、そうとう遊んでいる女子生徒がいるらしい。女子生徒は赤い髪。名を赤蛮奇といって、この町唯一の“おしろ”に入るところを、誰かが目撃したと云う。にとりは聞き耳を立てることによってそれを確かめた。しかしどちらにしたって違いはない。彼女
のまわりは、いつもそんな話ばかりだった。
「ちょっとー、寝ないでくださいってばー。休み時間終わっちゃうじゃないですか……おわーっ!」
文が突然悲鳴をあげる。突然の悲鳴に教室中のみなが三人の方を見る。胃が痛むほどの静寂をよそに、文は揚々と口を開く。
「そうですよ! 思い出しました、思い出しちゃった! 私ね、とうとう例のカメラを手に入れたんですよ! ね、ね、学校が終わったらついてきてくれますよね、試写に! ねえ、にとりさん!」
「えっ! 手に入れたんですか、ついに!」椛も興奮して文の肩肘を掴んで揺する。「私は行きますよ!」
「何言ってるんですか、椛がついてくるのはあたりまえ、問題はにとりさんですよ。ほら! どうなんですか、にとりさん!」
教室中に筒抜けな“友人との対話”に、にとりは泣きそうになった。にとりは顔をぐちゃぐちゃにしかめて、本当に嫌そうに、泣きそうな声で口を開いた。
「行くよぅ、行くからさぁ……!」
突然の悲鳴は文独自の習性だった。初等部時代、文はどんな大人からも「エキセントリックな子」と評されていた。賛同者然とした椛はともかく、にとりが文の奇癖に慣れることはなかった。教室の静寂はいつもにとりの胃袋をいじめた。にとりは都度、小さいころ親のブランデーをジュースと勘違いして思い切り呷ったときのことを思い出す。胃のキリキリする痛みは、思い出の中の痛みと酷似していた。奇癖を諌めるべくにとりが思い出を語ると、文はいつも逆噴射を起こす。
――なあ文。急に叫ぶのをやめてくれよ。胃が痛むんだ。間違って親の酒を飲んだ、あのときみたいに。
――やめてくださいよ! 私はお酒なんてもの、大嫌いなんですから!
いつだって論点はずれた。