ワンダーラスト   作:kodai

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 肩で息をしながらドアを叩けば、にとりは家の二階からの物音を聞いた。この町ではとりわけて珍しい鉄製のドアを叩く音も、文が二階から降りてくるときの物音にしたって、にとりにはひどく聞き馴染みのある音に違いなかった。一寸の間が空いてドアがゆっくりと開く。その僅かな隙間から訝しげに顔を覗かせる文の目のまわりは、はたてと同様すこし赤く腫れ上がっていたが、にとりは訝しげな文の表情に隠れた照れ隠しの健気さを見つけ、やおら安堵した。

 

「心配したよ。カメラ捨てちゃったりするんじゃないかって」

 

「しませんよ、そんなこと。いやあ、恥ずかしいところをお見せして……」

 

 缶ビールに飽和したゴミ袋だらけの玄関を抜け、ふたりは階段を上がって部屋に座った。文の部屋に入るのは久しぶりのことだった。初等部半ばまでは椛含めよく三人で遊び散らしたものだったか、いつしか文は「私の家は、ちょっと」と来訪を拒むようになった。にとりはその原因をなんとなく察していたから、以来気を使ってばかりいた。文の父親が町の許可も取らずに発刊していた新聞にはアカという枕詞がついていた。出回らなくなった今でさえも文が父親について言及することはなかったが、友人である以上、にとりは文の酒嫌いの由縁を解さずにはいられなかった。文の部屋にはたたまれた布団一式と、勉強机、床や壁に乱雑に配置された雑誌の切り抜きのみがあった。文は友人の居るときは勉強机の椅子に座ることをしなかった。今にしたって、フローリングで曖昧に足を組み、項垂れて、気恥ずかしげにもじゃもじゃ頭を掻いている。それはにとりに初等部時代の記憶を思い起こさせるには十分な仕草だったし、数多にある雑誌の切り抜きのなかに例の白昼を流れゆく彗星を見つけたから、俄然懐かしいような気分になった。夕鳴きの音が途切れた夕間暮れが窓の直方から差し込むので、ふたりのあいだの沈黙は妙に優しかった。

 

「写真、やめないんだろ?」

 

「やめませんよ。……やめられるはず、ないじゃないですか」

 

 文の俯き加減に眉をひそめて、諦観を含ませながら言う。その諦観にふたつの意味があることはにとりもわかっていた。どうしたらいいかわからなくとも、文はそれを人に尋ねることをしない。けれど、にとりは暗室で現像作業をこなす文をみるのが好きだった。奇行の目立つ友人が寡黙に、たんたんとこなしていく後ろ姿が妙に誇らしかった。

 

「……ねえ、文。これはわたしの思いつきで、きっと早まった考えなんだけどね」

 

 明確にはされていないが、組にはたしかに序列があった。上から、へび組、からす組、かっぱ組、おおいぬ組。例外的な最下層にかえる組がある。かっぱ組とおおいぬ組はほとんど同列ではあるが、にとりはおおいぬ組である椛が“らしい”運動能力を発揮するたびに、文に感じるのと同じうらやましさ、誇らしさがあった。かっぱ組である自分はともかく、友人にはすこやかであってほしい。それがにとりの奥底に根ざす、多少卑屈な願望だった。にとりは詰め襟の胸ポケットから数枚の写真を取り出し、文に手渡した。

 

「それでさ、記事を書いたらいいんじゃないかな。それを学校中、至るところに貼り出すんだ。そうしたら、おまえの撮った写真は、すくなくとも無意味じゃないよ。無意義なんかじゃ、絶対なくなる」

 

「あー……。……いいかもしれませんね、それ」

 

 その提案がその場しのぎで、今後の指針を決定するには至らない悪あがき程度なものであることを自覚していたが、にとりはそれでも、文の有する代謝のはやさに賭けた。にとりの思い描いた通り、文は妥協混じりの笑顔ではにかんだ。写真のなかには、ふたりで歌ったあの日に撮ったであろう写真の数枚があった。あの日、文のやたらと長い“トイレ”のあいだ、にとりは一人で熱唱していたわけだが、その際に感じた気恥ずかしさを克明に記憶していた。

 

「一人で歌うってのはやっぱり、なんとも滑稽なもんだね。趣味悪いよ、おまえ」

「いやあ。あはは……」

 

 にとりは文の眺める数枚のうち、そのひとつを指して言った。文はまたもじゃもじゃを掻きながら曖昧に笑う。写真には、マイクを握りしめ、目を瞑って熱唱する赤髪の下級生の姿があった。背景、瀟洒のすぎる家具調度品は、その場所が明確に“おしろ”であることを示していた。にとりの記憶がたしかなら、おしろの扉はいずれも鉄製で、窓なぞついてはいなかった。ともすれば、文はこっそりと扉を開け、その僅かな隙間から熱唱する下級生を盗撮したことになる。扉が開いたことにも気付かずに陶酔しきった表情でマイクを握る下級生は滑稽で、奇抜なファッションも相乗して、可笑しかった。

 

「……ところでさ、その写真のなかに、あの日撮ったやつじゃないのもあるだろ? ええと、それはさ、いつ撮ったものなのか、気になったり、気にならなかったり……」

 

「あっ、それは! そのう……」

 

 にとりの言う「あの日撮ったやつじゃないの」はまた一枚の写真を指していた。写真には在る人物の後ろ姿が写っていて、長く陰鬱な緑髪は、鍵山雛のものに違いなかった。背景には城門があった。鍵山雛がおしろに入っていくのをみた、という噂は、紛れもない事実だった。

 

「こ、この期に及んで恥ずかしがること、ないだろ。ほら、どうせやるならさ、そいつ。雛、鍵山雛も救ってやろうよ。な? だからさ、教えてくれよ。それ、いつ撮ったのさ」

 

 にとりは友人を慰める最中に自身の純然たる興味を紛れ込ませることを恥じたが、どうしても聞かずにはいられなかった。文は写真を床に叩きつけるが早いか両手でもじゃもじゃをもじゃもじゃとする。それは激しい照れ隠しだった。「……笑わないでくださいよ?」「う、うん」

 

「……私ね、学校に行くふりをして、通ってたんです。あそこに。……ああ! 一人カラオケ、一人カラオケですよ! おわーっ、凄まじく恥ずかしい!」

 

 両手で顔を覆って天を仰ぐ文独特のエキセントリックな仕草と言葉選びに、にとりは思わず苦笑した。「あーっ! 笑わないって言ったのに!」文は顔を覆ったままにとりを糾弾する。「ごめんごめん」にとりが苦笑を交えて謝罪すると、羞恥の渦中にいる文もいたたまれずに、くっくっと笑った。ひとしきり笑い声を乾かせば、にとりはおずおずと、文に尋ねた。

 

「……どう? やれそうか?」

 

「はい。……やれます。……やりますよ、私!」

 

 その後、にとりは文とともに記事の原案を作成した。といっても、やり慣れているのはやはり文で、文の頭の回転のはやさに起因する独り言に似た提案に賛同するばかりでいた。それでも、にとりにとってその時間はなにか誇らしい、尊厳めいた感情を帯びたものに思えた。空の朱に紺が混ざった頃、にとりは帰宅し、自身のせいですこし遅れた夕食に謝って、それからはいつも通りにブラウン管を眺めながらの団らんに終始した。団らんのなか、もちろんにとりは文のことを話した。過剰に取り上げられることもなかったが、にとりはやはり、どこか誇らしい気持ちでいた。カセットとプレーヤーの修理にしたって、文の書く記事が愉しみなような、緊張するような、面映い心持ちで成し遂げた。修理を終えたカセットから流れるアイドル歌謡はまた不誠実にも意味を変えて、窓から覗く裏庭や夜空の星々を飾った。

 

 

 

 眩い陽射しは登校時刻。黒い蟻たちの営みをよそに、不良生徒ふたりはそれぞれの朝食にありついている。正邪のアンパンにつく歯型は楕円。針妙丸のトマトサンドにつく歯型は少名流作法に則って均一だった。正邪はコーラのフチを啜って、針妙丸は牛乳のストローを噛み潰し吸った。

 

「おいヒメ。掲示板のアレみたかよ? な? わたしの言う通りだったろ。鯛ってやつはな、どうしたって、腐っても鯛なんだよ」

 

「どうだか。あんなもんに意味なんてないよ。この町なら賞を取らなけりゃさ。……そうだな、予言してやるよ。……五位、五位だな。射命丸センパイは五位になる」

 

 日々は穏やかに流れゆく。掲示板から体育倉庫まで、隅々に貼られた新聞は教員から即刻“アカ”の誹りを受けた。しかし反響といえばそこそこのものがあり、一、二年生の間を跋扈していた噂話には終止符が打たれ、誰もが赤と緑に関しては押し黙った。記事の見出しはこうだ。

 

『町のおしろにカラオケ有り! アイツもコイツも歌に夢中!』

 

 新聞には三枚の写真が掲載されていた。一枚は例の熱唱する赤髪。一枚は一人熱唱するにとり。一枚は城門を潜らんとする鍵山雛の後ろ姿。記事は詳細をみれば根拠に欠けるこじつけばかりが綴られていたが、前述の通り、一定の効果があった。しかし、疑念を捨てきれない者もいる。

 

「けどよ、赤色とセンパイ方に関しちゃ歌っているのは確かだが、緑色は不確かなままだよな。怪しいもんだ、ただ単に後ろ姿だけじゃ判断しかねる。こういうのをアカ新聞と……あっ! アカ新聞で赤色の容疑が晴れたってのは、はは! こりゃ傑作だな!」

 

「せーじゃ、お前はつくづくくだらないやつだよ。……お前と緑のセンパイに面識があるって、私は知ってんだぞ」

 

 正邪は針妙丸を無視して、笑いながら靴底でリズムをとり始める。次第に『Hey ho, let's go』と漏れ出す正邪の声に、針妙丸は仕方なく調子を合わせた。ふたりの声は正門から響く薄っすらとした喧騒のなか、青い空の下、曖昧に溶けていった。

 

 

 

 噂も十六歳も長くは続かない。そんなものである。文はそれから以前よりかは地に足がついた。……かと思えばそうでもない。例の信号機上の空についてだが、結局文は諦めなかった。文が出席を再開したことによって、にとりは椛と文との三人組の平穏な日常を取り戻したが、伴って、文の奇行だって帰ってきた。十七歳を迎えた文はその日の放課後にふたりを拉致して撮影を開始した。ロケーションは例の信号機、被写体は空。しかし文が同じ鉄を踏むことはなかった。文は脚立を使うことにより、様々なリスクを回避してみせたのだ。にとりと椛は案外重たい脚立を運ぶのに骨を折った。しかし、そうしてやっとの思いで撮った空はそれほど良いものではなく、文はそれきり、あの空に固執するのをやめた。翌月のコンテストでは入賞を果たしたが、結果は五位。最優秀賞に輝いたのは姫海棠はたての写真だった。しかしそれでも、文がときたま指で作った逆さまのL字を空にかざし、片目で睥睨するのを見つければ、にとりの心は都度凪いだ。

 

 噂も十六歳も長くは続かない。そんなものである。

 

 




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