蝉が鳴く。額に手のひらをつけて、しばし歩く。気がつけば潮の匂いの濃い海沿いに来ていた。緩やかなカーブに沿った堤防の下、遊泳用の砂浜があった。水平線は遣る瀬無い。地面は赤茶のブロックに舗装されて、ところどころ、観光地でもないくせにヤシの木が街路樹の役割を担っていた。寄せては返す波の音を聞いていると、にとりはだんだんと冷静さを取り戻した。その冷静さは、言い換えると“春以来のネガティブ思考”ともいえよう。自身の行動は軽率過ぎたのではないか。文になんと報告したものか。けれどそもそも、十七歳になった文にしたって、いまだ十六歳の椛にしたって、自分にしたって、みんなすこし情緒がぐらつきすぎではないのか。自責の念と責任逃れがぐるぐると脳内を回った。
「くのっ! くのっ! 資本主義者めっ! 社会主義者めっ! ど田舎めっ!」
そんな折、奇っ怪な言葉を吐きながらヤシの木をげしげしと蹴りつける後輩をみつけた。それは鬼人正邪という素行不良で有名な下級生で、正邪は春以来、にとりに妙に懐いた。妙に、町で出くわすようになった。にとりは正邪の“相手”をするのが苦手だったが、正邪自身を嫌ってはいなかった。それは不思議な共感で、にとりは正邪とどこか繋がっているような気がした。もっとも、それは正邪のよく吐く「わたしたち、似た者同士じゃあないですか」という胡散臭い台詞によってもたらされる共感だった。相変わらずの流されやすさを自覚しないにとりではなかったが、不思議と悪い気はしなかった。にとりはげしげしとヤシの木を蹴り続ける後輩の前で足を止め、とりあえずでもって口を開く。
「やい跳ねっ返り。ヤシの木いじめてたのしいか? 大変なんだぞ、こっちは」
「放っといてくださいよぅ。こっちはこれで、忙しいんですから……観光地でもないくせに! くのっ! くのっ!」
依然ヤシの木を蹴り続ける下級生に、にとりはひとつため息を吐いた。にとりの着る、薄手のシャツには汗が滲んだ。正邪の額にも汗が滲んでいた。蝉の鳴き声がけたたましい。下級生の着る詰め襟の黒は夏にそぐわぬ重厚さでもって、にとりに妙な既視感を与えた。
「……暑くないのか? この時期に、そんなもん着て」
「わかってないなぁ、センパイ! 修行、修行。人生の修行ってやつですよ。わたしは如何なる時においても詰め襟を着用し、そしてこの、憎きヤシを蹴りつける。……くのっ! くのっ!」
いつもどおりに滅裂な後輩に「平和そうでなによりだよ」を吐き捨て、一瞥くれて、にとりはその場をあとにした。後輩の奇行を眺めていれば懊悩は遠ざかったかもしれないが、にとりには後輩の着る詰め襟の黒がいやにあつ苦しくてたまらなかった。暑さでやられてしまいそうな額に、にとりはまた片方の手のひらを重ねる。
(待てよ、あいつに相談してみるってのはどうだろう……いや、やめだ)
振り向けばヤシの木相手に下段蹴りを繰り出し続ける後輩とその背景、砂浜の向こう遣る瀬無い水平線があったので、にとりはどうしようもなく、街路に絡め取られることを選んだ。
海沿いの住居とサ店の小路に折れ、そのまま紆余曲折トボトボと歩く。アスベストのブロック塀に囲まれた、狭く陰鬱な路地を歩く。有象無象、木造住居の庭に見事な一本松などをみつけながら、にとりは歩いた。しかし、どれだけ陰鬱な路地を歩けど蝉は鳴き、季節は夏に違いなかった。にとりは軽薄にも、セーラーを着た椛を浮かべては、自身の胸中に湧き上がる不可思議なときめきに眉を潜めた。「あれ? センパイだ」「うわ」
「うわ、て。ひどいなあ。私に声をかけられるのがそんなに嫌かな。センパイ、薄情だよ」
にとりの眼前、大きめのビニール袋を片手に提げて足を止めるのは、またしてもにとりの後輩だった。それは少名針妙丸という素行不良で有名な下級生で、針妙丸は春以来、にとりに妙に絡んだ。妙に、町で出くわすようになった。にとりは針妙丸の相手をするのも嫌だったし、そもそも針妙丸自身を嫌っていた。主な原因は針妙丸の口調にあった。正邪ですら使える申し訳程度の敬語を、針妙丸は使わなかった。慇懃無礼とでもいおうか、針妙丸の口調や態度には、自分のすべてを見透かされているような気のするいやらしさがあった。何よりにとりにとって怪訝なのはビニール袋からはみ出した大量の火薬だった。
「え、えげつない量のロケット花火だけども」
「あ、これ? あいつに頼まれたんだよ、買ってこいって。そうだセンパイ、あいつみなかった? まだヤシの木蹴ってりゃいいんだけど」
にとりは意外だった。先輩に敬語を使う気配すらみせない後輩が、同級生のいうことを素直に聞き入れるとは思えなかった。自身と同等の背丈を持った後輩には、自分にはない狡猾さがあるような気がしてならないにとりだった。とすれば必然、後輩の抱える火薬に黒い腹づもりのあることを察した。いくら正邪と友人をやっているとはいえ、相当の利害の一致がなければ針妙丸が動くはずもない。にとりはおずおずと口を開いた。
「さ、さっき向こうでみたよ、うん。ヤシの木蹴ってた」
「あーそれならよかった。ありがとね、センパイ。それじゃ」
「ちょ、ちょっと」
「え?」
「その、ソレは、どんな悪戯に使うおつもりか」
「妙な敬語だなぁ。えっと、これはね。センパイに話してもいいのかな」
にとりは額にあてた手のまま、どうでもよさげに腕を組み逡巡をする針妙丸の開口を待った。
「……まあいいや。あいつがね、言うんだよ。気に入らない奴等がいるから、この町のロケット花火を買い占めろって」
「へ、へえ。それで?」
「いや、私もね。標的がわからなんだから、最初は嫌だったんだけど。聞けばどうやら私にも得のある話だから、まあ、乗ったってわけ」
「ふ、ふうん。そっか、まあ、いいんじゃないか。すまない、なんだか邪魔をしたね。……それじゃ!」
雑談もほどほどに、にとりはそんな計画が自身とは全く関係のないものだと悟りその場を去った。なにより針妙丸と相対するのがなんとなく嫌だった。家に置き忘れたカセットとプレーヤーを思えばにとりの眉間にはますますシワが寄った。蝉が鳴き、口元にすら苦々しくシワが寄った。路地を抜けとりわけて広い大通りに出れば眩い白日がにとりを照らす。そこかしこで蝉が鳴き、不意に、にとりは我に返った。
(わ、わたしは椛に、なんてことをしてしまった!)
自責の念と責任逃れのいたちごっこは唐突に終焉を迎えた。白日のもとにさらされて初めて、にとりは事の重大さを悟ったのだった。夏休みは間近に迫り、今すぐにでも、始まってしまいそうだった。
四月から六月にかけて書いたストックが切れようとしている
俺はもうダメかも知れない
おーえんしてくれたら、よろこんじゃうかもなー!