ワンダーラスト   作:kodai

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夏だ!


3

 夏休みが始まった! 文のこさえた“椛の悪いところ・良いところリスト”はノート二冊を埋め、そのまま、三冊目に差し掛かろうとしている。夏休みの課題もさておいて机に向かう文の姿を、にとりは至極気まずそうにみつめていた。結局あれから、にとりは自身と椛との間に起きた軋轢を文に報告できずにいた。意気揚々と「任せておけ」と言った手前の不甲斐なさがあった。文の大嫌いな酒をかっくらっていたというあまりにもな事実もあった。性に対する理解の及ばぬ幼稚さもあった。にとりが文にそれを言い出せない理由はごまんとあり、夏休みが始まってからの一週間、にとりは真っ昼間、毎日こうして文の椛に対する愛憎を正座にて眺めていた。ひどく、足が痺れる日々だった。しかし、先に痺れを切らしたのはにとりではなく、文だった。

 

「にとりさぁん!!」「は、はいっ!」

 

「にとりさん、いい加減にしてくださいよ! 椛は、椛はいったいどうしたんですか! 私はいつまでこんなものを書き続ければいい? 勘弁してくださいよ!」

 

 文の情緒は椛の献身があって初めて保たれるものだった。十七歳になった現在であろうと、そこに変わりはない。文は椛がいなければどうしてもダメだった。それをわからないにとりではなかったが、しかし、こうも捲し立てられては責任逃れをしたくもなる。口をつくのは嘘っぽく照る太陽と似て、不誠実な言葉ばかりだった。

 

「で、でも、そんなに気になるなら、自分で確かめにいけばいいんじゃないか。そ、そもそも文、おまえはわたしよりずっと、椛と仲がいい。おまえが行って、確かめる。それが、自然ってやつじゃあないのか……?」

 

 正論ではあるが、やはり些か不誠実かつ、無意味な言葉だった。

 

「にとりさぁん!!」「は、はいっ!」

 

「にとりさん、窓の外、遠くから聞こえてくるでしょう? フェンスに囲まれた、広いグラウンドにて連載されているスポ根、いちに! さんし! の声が! なにが言いたいかわかりますか? 椛ですよ、椛の声が混ざってない! 私は、私の夏は椛の夏なんです。部活を終えた椛がそのまま私の家のインターホンを押し、その時すでに身支度を終えた私は玄関を出て、椛と一緒に帰途を辿る! その最中、私は撮った数枚を椛に見せつけてはよいしょをいただく! それは椛が帰宅し、部屋の橙になるまで続くんです! それが、私の夏なんですよ! ああ、蝉は、蝉はもう鳴いている! 鳴いてしまっているというのに!!」

 

「う、ううぅ……」

 

 文の語勢に思わず涙目になるにとりだった。

 

(じゃ、じゃあなおさら、自分でやってくれよ。もういやだ、わたしは!)

 

 気付けばにとりは、それをそのまま口に出してしまっていた。文は「う、うぐーっ!」と、声を上げる。にとりによって突かれた箇所は紛れもなく、文にとっての痛いところだった。あんまりに喚くものだから、隣室からドン、と壁を叩かれた。文の自室の隣には、文の父親の、作業部屋があったのだ。人の子にはおぞましい親の鉄槌はそのままふたりを部屋から追い出した。いそいそと外に出て、晴天のもと文はにとりに口を切る。

 

「にとりさんの言うことはもっともです。だけどね、私は怖いんです。だって、椛はいつでもうっすらきょとんとして、笑ってるんだか笑っていないんだかの表情で、私のそばにいたんです。その椛があろうことか不登校とくれば、私はそれが、どうしても恐ろしい」

 

「でも、わたしには無理だよ。椛は相当キちゃってるんだ。わたしには、わたしにはどうしたって難しいよ、無理なんだよぅ」

 

 文は不確かに歩き出す。方角からして、言わずもがな、にとりには文の目的地が察せた。蝉は白々しく鳴いて、路傍の空き缶を蹴り飛ばしつつ、文は野暮ったく言った。

 

「……もう、観念しますよ。私が行かなきゃいけないって、わかっちゃいたんですけどね。ただ、にとりさん、ひとつお願いがあるんです。いえ、お願いというより、もっと重要な……」

 

「わかったよ、ついて行ってやる。ついて行ってやるからさ、そんでもって、上手いことやってくれ。おまえはきっと、そういうの得意だろ? ただね、今の椛をみたら、おまえはきっと激昂するに違いないから。どうか冷静さを欠かないでくれよ、後生だから」

 

 ええ、ええ。と繰り返し、文は観念した様子で瞳を煌々とぎらつかせた。その瞳はやはり嘘っぽく照る太陽と似て、自棄っぱちの形相を呈していた。文の家から椛の家へ向かう道中は、広い学園のフェンスに沿わざるを得なかった。フェンスの向こうでは文の言う通りのスポ根が連載されていて、おおいぬ組出身者は「いちに! さんし!」でもって、将来町の歯車を担うべく部活動に勤しんでいる。延々と続くフェンス沿いを折れたとて、またしばらくフェンス沿いが続く。グラウンドは校舎に隠れるが、代わりにフェンスの網目に飽和する生け垣と、その向こう、校舎の白い外壁の下、犬走りでなにやら画策をする二人組が目についた。もちろん例の素行不良の二人組だった。文は急いだ歩調のままに二人組を一瞥しては、おざなりな感慨を述べた。

 

「なにか、剣呑な風情のある光景ですね。平和そうでなによりですよ、こっちの気も知らないで!」

 

 二人組の画策は手仕事に似て地味極まりない光景ではあったが、にとりには文の吐いた剣呑のその字があまりにも正鵠に近いことがわかった。二人組はただひたすらに、ロケット花火の火薬をいじくり回し、威力の強化に執心している様子だった。

 

(これはちょっとした事件になるぞ。やつら、退学になるやもしらん)

 

 しかし文の歩調に合わせればにとりに与えられる思考の余裕は目減りした。にとりは短い背丈でもって、文の長い足、早い歩調に必死になって足並みを揃える。そんなにとりと文に気がついた二人組はフェンスの向こうから呑気に手などを振って「どうも、センパイじゃないですか」系の言葉を送った。文は気にもとめず進んでいくから、にとりは目配せと申し訳程度の会釈でもって二人組をあしらい、文の背中を追った。

 

「にとりさん。ここまで着いてきてもらってなんなんですが、ちょっと、ここで待っててもらえませんか。やっぱり、私は一人で行こうと思うんです。だって椛は、私の親友なんですから」

 

「……帰っちゃダメ?」

 

「にとりさん、そんな薄情を言わないでくださいよ。にとりさんだって、私の親友なんです。絶対に帰らないでください。私を待っていてください!」

 

 そう言って、文はチャイムも押さずに椛の家、木造二階建ての戸を開け放って、勢いのままに階段を登っていった。椛の家周辺は土地柄、どうしたっておおいぬ組の邸宅が多く、おおいぬ組の邸宅は得てして木造二階建て、すなわち壁が薄かった。文の階段を登る音も、椛の部屋の擦りガラスの戸を開け放つ音にしたって、軒先に棒立ちをするにとりに筒抜けだった。にとりは下唇を噛み締め腕を組んでは冷や汗をかいていた。今にも、怒声やそれらに類する大きな物音、或いは大音声が響いてきてしまう予感で、気が気でなかった。

 

 ――も、椛! 犬走椛! あなたはなんてものをやっているのか!

 

 軒先に棒立ちをするにとりの上方、二階から響いた大音声と、伴って響く小気味の良いパアンというその音は、紛れもなく文の起こした暴挙だった。

 

(あ、文のやつ! 椛に平手を張りやがった。ああ、わたしは、わたしは止めに入るべきだろうか!)

 

 百面相の如き逡巡の刹那、二階から、椛の悲痛な「だ、だって!」がこだまする。かと思えば即座に文が叫んだ。

 

 ――にとりさん、聞こえてるかとは思いますが、じっとしていてください! これはもう、私と椛だけの問題ですから!

 

 にとりは下唇を噛み締め、腕を組み、冷や汗をかいていた。にとりのまわりを取り囲むのは、やはり例の感覚だった。自身のまわりを螺旋のように取り囲む時間、無力感と似た、無慈悲な時間の進行。蝉の音がけたたましい。しばしのあいだ、二階からは口論に似たやり取りが響いたが、一寸するとふたりは落ち着きをもって話し合いを始めたようで、にとりの鼓膜には蝉の声だけが張り付いた。アブラゼミの鳴き声は次第にゲシュタルト崩壊を起こし、文字に起こすには憚られる自殺教唆とも取れるその二字を繰り返し聞かされているような気がしてくるにとりだった。その時間は形容するなら灼熱、業火、地獄、それらに類するそれに違いなかった。にとりのかく冷や汗が冷めることはなく、ともすれば、それは日暮れまで続いた。繰り返しにはなるが、地獄のような待機時間だった。

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