ワンダーラスト   作:kodai

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 空ののっぺりとした白が橙になる頃、にとりは幾ばくの平静を取り戻していた。走り疲れた頃、自分を慰める落としどころとして導き出した結論は、今日聴いていたのがラモーンズで本当によかった、というやや消極的なものだったが、痛ましいシャツの胸元“NO FUTURE”を撫でおろして、それ以上はもう考えないことにしたらしい。それからというもの、にとりは白昼を呑気一徹に堪能して、いよいよ夕方まで歩きおおせていたのである。

 

(気持ちのいいもんだ。なんだか、心が軽い感じがして)

 

 雑然たる町並みはにとりの抱えるあらゆるしがらみを絡めとっていた。文と椛のふたり、正邪と針妙丸のふたり、にとりにとってはそのどちらも路傍に転がる空き缶と同じ、どうでもいいことのように思えた。緩い風がにとりの頬を滑っていく。にとりは揺れる髪を軽やかに感じた。不意に耳元の騒音を思い出す。町はもう、あれからずっと忘れるほどに繰り返されたパンクロックが不釣り合いな夕景で、にとりは自然とイヤホンを外した。風のなか、静寂があった。それは束の間の静寂で、きっと風が止むまで続く一瞬の安らぎに違いなかった。にとりは安堵する。どうにも、風は永遠に吹き続けるような感じがした。緩く、緩く、いつまでも。そんなことを思えばすぐにシャツの“NO FUTURE”を陳腐に感じて、にとりはよくわからないままにはにかんだ。

 

(帰ろう、帰っていつもの曲を聴くんだ。そうしたら、じきに夕食の時間になって……それからいつも通りにテレビが流れて、夜がきて……)

 

 にとりはイヤホンをカセットにぐるぐると巻いて、ポケットにねじ込んだ。そうして踏んだ一歩目はどこか尊厳めいた感じがして、にとりの口を開かせる。「さよなーらさえー……」こぼれるのはいつもと同じ歌謡曲で、やはり風は止むことなく、にとりの頬を撫で続ける。あまり行かない駄菓子屋、馴染みのスーパー、つまらない路地の数々。路地を抜ければ懐かしい公園通りに差し掛かる。風が止んだのはそのときだった。驚いて足を止めたにとりの視線の先、一学期に教室を騒がせたかの緑色が在った。

 

(ひ、ひな! 鍵山雛がいる……)

 

 公園通り、並木道のなか鍵山雛は数名の子供たちと共にゴミを拾いをしているらしい。いわゆるゴミばさみと大きなゴミ袋を携え、袋の中には落ちた木の枝や丸まったチラシや、また別のゴミを内包した白いビニールなどがあった。ゴミばさみで今しがた剥がし終えたガムを支障なくゴミ袋に放って、雛はにとりに軽く会釈をして口を開いた。

 

「どうも。河城くん……でよかったかしら?」

 

 ボランティアだろうか。声をかけられたにとりの頭にまず浮かんだのはその言葉だった。

 

「いや、ええと。……どうも、鍵山さん」

 

 しかし雛が子供たちと行うそれが町に対する無料の、無償の奉仕だったとして、はたまたなにかそういったアルバイトだったとして、自身にはかかわりのないことをすぐにわかって、にとりは極力平静を装って挨拶を返した。内心ではいつか見聞きした噂や夢がにとりの心を慌てさせていた。雛の噂話にひとまずの終止符を打ったのが自分であるという浅ましい自負もあった。にとりはその場を離れるに離れられず、足を止めなんとはなしに口を動かす。「これは、そのう。なに、やってんの? ボランティア?」雛は可笑しそうにくすりと笑って、にとりの目をみて、聞き返した。「どう見える?」にとりは思わず目をそらす。馬鹿なことを聞いた。そう思った。「まあ、ボランティアだろうけどさ」雛はゴミばさみを持ったままの手で口元を隠してまた似たように笑った。にとりはどうも、蝉の声や夢中になってゴミを拾う子供たちの姿が不調和な気がした。なにと不調和なのかはにとり自身わからなかったが、とにかく腕を組んで窺うように眉をひそめた。

 

「なんだろ。なんていうか、ええと。いつまでやるのさ、それは」

 

「あと三十分くらいね。河城くんもやる?」

 

 なんだかわからないまま、にとりは頷いた。よく見ればあちこちにゴミが落ちている。余っていたゴミばさみでそれらをせっせと拾い集めている最中、にとりが考えるのはそれとは関係のないことばかりだった。家に帰ったらお風呂に入ろう、今日の夕飯はなんだろう、夕飯のあとはなんのテレビをみよう。とりとめもなく考えながら体を動かせば、辺りはすぐに暗くなっていた。

 

「はい、道具返すよ。ありがとね、混ぜてもらって」

 

 こちらこそ、の声に、にとりはにべもなく終わる雛の一日を感じた。雛はきっと、この暗い夕方を子供たちと歩いて、家に着けば同じように夕食を食べて過ごすのだろう。それはただの想像だったが、にとりはその想像に確かな実感をもって触れた。気付くと風が吹いていた。昼のそれよりずっと緩い、はたと忘れてしまいそうに緩い風だった。すこしだけ涼しい。子供たちは膨れたゴミ袋をどうして持ちたがっている。「ねえ、毎日やってんの。こういうの」雛は結び終えたゴミ袋のそれぞれを二、三人にひと袋ずつ持たせているようだった。「ええ、夏休みの間なら毎日」ふうん。と、こぼれる自身の声を、にとりはどこか他人事のように聞いていた。不思議なイメージがにとりを支配していた。黒いだけの空間に、突如としてうっすらと光る白い柱が浮かび上がってきたような錯覚を覚えていた。カア、とカラスが鳴いて、にとりは我に返る。ぼんやりと済ませた別れの挨拶に軽く手を振って、雛はもうどこかへ帰ろうとしていた。

 

「あの! ……あのさ、明日もやるなら、その。わたしも来ていいかな。たぶん明日もひまなんだ、わたし」

 

 雛は可笑しそうにくすりと笑って、もちろんと返した。

 

 帰り道、にとりは覚束ない足取りで歩いた。頭のなかは空想ともつかぬ空想でいっぱいで、自宅を通り過ぎたことに気が付いたのはすっかり夜になったころだった。ハッと冷静になって来た道を引き返す。しかし歩いているうちににとりはやはり考え込んでしまう。腕を組み、片手を顎にあて、むむむとうなりながらとぼとぼとした。路傍、ゴミ箱のふたの上で猫が寝ている。

 

(これはなにかがちがうぞ。文と椛のふたり。正邪と針妙丸のふたり……それらとは明確に、なにかがちがう!)

 

 とぼとぼと同時にぶつぶつとするにとりを、猫が片目で見送った。かくしてにとりの夏が始まるのだが、にとりはなんの自覚もなかった。胸に躍る“NO FUTURE”も、いつか見た夢も忘れるほどに、にとりの帰途は無自覚で、どこかでずっと、秋刀魚が焼ける匂いがした。

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