「カラオケとかありゃいいのにな」夕暮れ五時。校舎裏の白壁には朱が差している。下校する生徒たちの声と、近くで鳴ったチャルメラが、正邪の退屈を気怠く刺激した。「カラオケったって、なに歌うつもりさ」
だらしなく壁によりかかったまま、正邪は腕を組み黙考する。正邪の黙考は不吉の予兆である。キャッチボールなど試みず、カラオケなぞ無いことにして、それで済ませておけばよかったと、針妙丸は後悔した。「おい!」「あー始まった」
「始まったじゃねえよ。終わってんだよ、終わってたんだ。それをわざわざ始めたのはお前だろ。いいか? まず、カラオケなんざこの町にゃ無いんだよ。それをお前、カラオケでなに歌うの? なんて質問したら、考えちまうだろうが。なに歌うかをさ! 時間かえせ!」
宣う正邪に針妙丸は辟易とした。仮に正邪が選曲に費やした数秒を返却されたところで、これまで通り無為に費やすのみだろう。「この町は異常だよ。向こうよりひでぇ。茶店もねー。カラオケもねー。終いにゃ公園すらもねー。ヒメおまえ、こんなとこで暮らしてっから背ぇ伸びねーんだよ」町と針妙丸に対する悪態は、もはや正邪が選曲に費やした時間を超過している。針妙丸は腹立たしくなって、思わずその口を開けてしまった。
「カラオケぐらいあるよ。お前が知らないだけで」
正邪が「あ?」と発音したのち生まれた静寂は、針妙丸にとって辛辣だった。針妙丸は腕を組む正邪に居た堪れなくなり、立ち上がった。すると、正邪が慌てて口を開く。
「あっヒメ! ま、待っておくれよう。悪かったよ、背のこと言ってさあ。悪かった、このとおり! だからさ、そのう。教えてくれないかなあ。その、カラオケの場所をさあ」
一変して袖に追い縋る正邪の腕は鬱陶しかった。針妙丸は苛立たしく正邪の腕を払い、言った。
「いい加減にしろよ! 昼からずっと“おしろ”がどうとかカラオケがどうとか。知っててやってんだろ! 私が嫌がるのを知っててさぁ!」
そうして、針妙丸は家路を辿った。校舎裏を去るときに聞いたイジケた正邪の声が妙にこびりつく家路だった。
(なにが“知らないから聞いてんじゃん”だ。知らないはずないだろ。ヒメなんて呼んでさ)
町は朱かった。またどこかで屋台の音が鳴る。針妙丸は玄関を見上げてはため息を吐き、扉を開け、それを潜った。「ただいま」
「ごちそうさまでした」
河城家に家訓らしきものはない。けれど夕飯だけは家族全員が揃わなければいけなかった。にとり自身特別それを守らなければならないというような意識は持っていなかったが、プロレスや歌謡曲の番組を見ながら食べる夕飯は、もはやあたりまえの日常といってもよかった。にとりは当たり前に、聞かれずとも自身の一日を両親に聞かせた。とりわけて槍玉に挙がるのはやはりエキセントリックな友人の奇癖についてだったが、にとりが初等部の頃から続く語り草なので、誰も過剰に取り上げることはない。一家の団らんは、アイドル歌謡や司会の声に疎らに溶けるのだった。
夕飯を摂り終えてぼんやりとテレビを眺めていたにとりだったが、テレビから或るアイドル歌謡のイントロが流れるとおもむろに立ち上がって食器を片した。その歌謡曲はにとりにとってお気に入りの曲だった。にとりは両親の前でお気に入りの曲が流れることがなんとなく気恥ずかしくて、いつも居た堪れなくなった。
(でもたぶん、バレてるんだろうな。きっと)
にとりは台所で食器を洗いながら、居間から微かに聞こえるメロディを鼻歌にした。台所の蛍光灯は不健康に青く、蛍光灯に垂れ下がる紐は黄色くヤニ汚れている。「へや戻るね」皿の水を切り終え、にとりが模様ガラスの戸から居間に顔だけを出してそう言うと、にとりの父親は猪口をテーブルに置いて、にとりを呼び止めた。
説教でもされるのかしらん。しかし心当たりもないので、にとりはおずおずと、時化た水玉模様のポッドの置かれたちゃぶ台に近づいた。
(小遣いなんて貰ってもなぁ。使い途ないし)
にとりの部屋は台所にある裏口を抜けて、小さな裏庭の奥に縮こまった、物置を改造したものだった。小さいながらもしっかりとした玄関があって、温かみのあるフローリングには、照明に照らされたカーペットの水色が優しくなっていた。にとりは自身の部屋でひとり、机の上、緑色のデスクマットにラジオを分解している。それが将来の役に立つかどうかはわからないが、にとりにとってそれは習慣で、職人の子供としての責務でもあった。バラバラにしては組み直し、慣れた手付きで眠るまで何度も繰り返す。それをしている時間、にとりはあれこれと考える。今日のことや未来のこと、また、過去のこと。とりわけてよく浮かぶのは友人の顔だった。
(椛はラジオ買いすぎだな。よくよく考えると、使わなくなったラジオってなんだよ)
にとりは続いて、エキセントリックな友人のことを考えた。昼間のように、文が不意に恥ずかしくなってしまうのはいつからだっただろう。いったいぜんたいどうして、そのようになってしまったのだろう。文はカメラが好きで、パーツや、写真雑誌をよく買っているようだった。文が嬉しそうに写真の話をするのを聞けば、にとりまで嬉しくなった。しかし一方、にとりが買うものといえば貯金箱程度なものだった。にとりはふと、幼少の頃に比べると随分おおきくなった陶器の豚を一瞥して、またすぐに机の上に向き直る。
(あいつ、なんで部活サボってんのかな。去年までは楽しそうにやってたのに)
思考は次第に暗く低いほうへと流れる。狭い町、大きな学校、変わっていく友人、近づいてくる将来。想像のなかで、にとりの友人たちはみんな笑えなくなっていく。通常この町の子供は中等部に入ったと同時に、部活としての課外活動を強いられる。からす組出身者なら写真部に。おおいぬ組出身者なら何らかの運動部に。例から外れるのは親自体が職人のかっぱ組出身者ぐらいだった。
(やろうがやらまいが、結局はおんなじだ。あんだけサボってた先輩方だって、今じゃ立派に町の勤めを果たしてる)
にとりのように課外に参加しないかっぱ組出身者は多いが、彼らの腕は結局のところ、町の工場の歯車となる。放課後しょぼくれた友人の背中を叩いたにとりの腕も、例外ではない。にとりはそのように毎日、この時間を用いて自身の過ごした一日をつまらないものに変えた。
(いらないよ、お金なんて!)
締めすぎたネジの異音に、部屋は静まり返る。にとりが手を止めて脱力のままに天井を仰ぐも、そこには見知った天井があるのみで、明かりの紐の周辺には疎らに、優しくゆったりと、埃が舞っていた。
小窓を開けてイヤホンをつける。にとりの鼓膜を優しく揺らすのは例の、お気に入りの曲だった。
「あなたにーあえてー、よかったねきっとーわたしー」
歌以外のボリュームがゼロになった無音の世界でも、夜空の月は穏やかに欠けていた。
朝。針妙丸はいつも蟻たちが黒く群れるよりも早く登校した。針妙丸は賑わう正門を見ると、どうしても居た堪れなくなる。身につまされるわけでも、せせら笑うわけでもなく、ただ居た堪れなくなってしまう。そもそも授業を受けるわけでもないのなら、登校ごとフケてしまえばいいのだが、針妙丸はいつだってそれをしなかった。皆が授業を受けている間の静かな校舎裏は、不思議とどこにいるよりも落ち着いた。いわばそれは針妙丸の生理であって、特にこれという理由もないものだった。針妙丸は今日も一番乗りで犬走りに腰を下ろして、白くのっぺりとした校舎にもたれかかる。薄い霧を徐々に浄化していく陽射しは見もので、針妙丸は和やかに息をつく。ともすれば針妙丸の口元に、程なくして微笑が浮かぶ。それは勤勉なる者達への皮肉と、自己憐憫の入り混じった、年齢よりもすこし子供じみた、偽悪的な愉悦だった。
「機嫌良さそうじゃねえか」似たような生理で動いている者もいる。それは鬼人正邪という名のはねっ返りで、正邪は昨日振り払われた左手を億面もなく針妙丸にかざした。「別に。いつもと変わんないね」「あっそ。ところでさ」
正邪は針妙丸の左方に胡座をかいて、拳に顎をつけた。片方の手のひらを自身の太腿の上に重ねられている。今にも自信満々で話し始めそうな正邪に、針妙丸は自然と眉を潜めた。
「射命丸、射命丸文だよ。あの先輩、中等部の頃は随分いろいろな呼び名が付いてたらしいじゃないか。覗き屋、子からす、探偵、悪魔、後家作り……とりわけて、昼ドラを見過ぎた親御さんには疎まれてたって話だ」
「盗撮魔、犯罪者って呼び名もあったよ」
針妙丸は相槌を打ちつつ、かつての友人のことを想った。足の悪い青髪の女子のことだった。その両親は射命丸文の奇癖により離婚の憂き目に遭っていた。針妙丸が腕を組みしみじみやっていると、正邪は勢いよく缶を投げ捨て立ち上がる。
「最近じゃずっとおとなしいって話だが、まあ、腐っても鯛だろ。なあヒメ」
「知るか」
興味なさげな針妙丸を一瞥し、正邪は校舎裏を去った。正邪の曲がった背と突っ込んだ両手の後ろ姿を、針妙丸はぼんやりと見送り、それから、思い出したように牛乳を飲んだ。
(腐ったら鯛じゃないね。死体ってんだ、死体……)
針妙丸は牛乳を一気に飲み干して、カラを力強く生け垣に放った。青い空の下、生け垣にはコーラや牛乳、アンパンやジャムパンの包装が散乱して、引っかかりまくっていて、針妙丸はまたしても、すべてがどうでもいいような心持ちになった。懐からもう一本を取り出して、蓋を押し込んだ。
よろしゅ