血液色の暗室に蠢く詰襟は野暮ったい。文の現像作業に付き合って、にとりと椛は緑の丸パイプ椅子に座し、流しのスペースに身を投げだして普段どおりをやっていた。一方の文は黙々と作業をこなす。結局、あれから文の気分に向上のないことを察していたにとりだったが、胸中には不思議な安心感があった。「イギー・ポップだろ?」「高見沢ですよ」
文と椛は仲がいい。それがにとりのやや卑屈な自覚だった。文が本当にダメなときは、いつもにとりの知らないところで事態が解決していた。よって、普段どおりの椛こそが、にとりの安心を担ったといえるだろう。にとりは椛とたわいもない会話を交わす最中、緑の丸パイプ椅子から文の背中をちらちらと、何度も見た。癖の強い文の黒髪はもじゃもじゃとして、乱雑な暗室の暗さと類似しているように思えたし、黙々と、現像液に印画紙を浸らす友人の慣れた手つきには、どこか誇らしいような感じもした。「ああ、ザ・アルフィ」「ザじゃなくてジですよ」
文のみが解する暗室の特有の構造的複雑さや、暗室を満たす血液色の光の意味など知りもせず、にとりは雰囲気という蛇の腹に呑まれ続ける。普段非行などとは無縁な三人が唯一犯す校則違反といえば、暗室の私物化だった。にとりはそんな、暗室の妖しい雰囲気が好きで、こんなときにはいつも少しだけ気取ってみせた。今にしても、詰襟の第二ボタンは開け放たれている。「で、どんな感じ?」
「まあ……普通、ですかねぇ……」
そうして会話が程よく途切れだしたころ、にとりは文に仕上がりを尋ねてみた。暗室のビビッドな雰囲気がなんとなくたのしい今となっては、さほど興味のある尋ね方ではなかったかもしれない。しかしそんなにとりの普段通りに、文も普段通りを返した。文は頭を掻きながら曖昧に発音し、気恥ずかしそうに、現像を終えた写真の披露目を渋ってみせる。
「なんだよ、隠すことないだろ。隠されると気になるよ、なあ椛?」「ねえにとりさん?」
「いやあ、でも……」
となれば二人が茶化し始めるのは道理で、文はますます気まずそうにもじゃもじゃに手を入れた。そんな文を二人で笑っていると、そのとき不意に、暗室の扉が勢いよく開け放たれた。
「射命丸文!」
同時に怒号が響いた。「あちゃあ」真っ先に椛が口を動かせば、にとりはすかさず文を見やった。視線の先、文はまるでこの世の終わりが来たかのように顔をしかめて、とっさの動きで束ねた写真を後ろ手に隠してみせた。
(見計らったように来るよな。いっつも)
セーラー服の波動をキャッチするが早いか、にとりはすかさずボタンをしめた。怒声の主は扉を開けた勢いそのままで接近し、また同じように口を開く。「というか、あんたら!」
「校則違反よ、校則違反! 何回言ったらわかるわけ? 暗室はあんたらの遊び場じゃないって。いくら文が写真部だって、部長の許可は必要なのよ。つまり、私の許可がね!」
にとりと椛は適当なすみませんを発音して、パイプ椅子に座ったまま、所在なさげに身じろぐふりをした。二人は怒声の主をよく知っていた。無論、気まずそうに顔をしかめる文だってそれは同じだった。放っておけばすぐに矛先が文を向くことに関しては、二人より、文のほうがよくわかっていたかもしれない。
「だけどね、本当に悪いのはあんたよ。射命丸文! あんたこれだけ部活サボっといて暗室は使おうだなんて、ちょっと虫が良すぎるんじゃないの?」
写真部部長、姫海棠はたての聞き慣れた文句に、にとりと椛は顔を見合わせてひっそりと笑った。怒れるはたてと対峙した文はただただ気まずそうに相槌を打つマシーンへと成り下がる。高等部はじめの頃ならもうすこし穏やかだったはたての説教は、文の無断欠席が重なるにつれその激しさを倍加させていった。しかし結局のところ自分たちに矛先が向くことのないことを知っているにとりにとって、それは友人とその幼馴染の女子との面映い交友で、もう何度となく繰り返されてきた普段通りの催しだった。こんなときにはいつも、にとりは暗室のビビッドな照明が、妙に淡くなるのを感じていた。「だいたいね」はたては追い討ちをかけるように口を動かす。
「だいたいあんた、今度のコンテストはどうするのよ。去年からうだうだうだうだ、ようわからん写真ばっか撮ってるみたいだけど。やる気ないならやめたらいいのよ。それをずるずるずるずるいつまでも……なによ、その、後ろに隠した手は。またくだらないの撮ってきたんでしょ? ほら、見せなさいよ。いいから、はやく!」
渋る文の手から、強引に数枚が奪い取られる。椛が可笑しそうに「あーあー」と呟けば、にとりはつられて笑いそうになってしまう。奪い取った写真を眺めるはたての正面、文はしたたかにもじゃもじゃを掻いていた。
「石っころ、草、蟻、蟻、蟻、蟻……。はー。相変わらずってわけね」
「それは、ええと……」
文は居た堪れなさそうに相槌を打つ。ここで、にとりは異変に気づいた。いつもの文なら「ええと」のあと、無理矢理にでも言葉を紡ぐはずだった。しかし、今日の文はバツの悪そうに言葉を濁すのみでいる。文のこじつけに近い写真の解説と、そういった文の反論を的確に潰すはたての問答を見たかったにとりだったが、落胆よりも、友人に対する心配のほうが先に立った。
「こういうのをね、フィルムの無駄遣いっていうのよ。これなら初等部のころのあなたのほうがまだマシだったわ」
「そのぅ、えっと、アハハ……」
終いにははにかんでしまった文をみて、にとりは本当に心配になった。これはなにかおかしい。しかし、自分にとって友人の友人であるはたてを諌める言葉など持ち合わせていないにとりにできることなどそうあらず、はたての冷ややかな声の続くなか、にとりは椛に不安そうな視線を送るのみでいる。はたての詰問はいつまでも続いた。しばらくが経ち、にとりがおろおろするのにも飽きたころにようやく、はたては明確な決意を瞳に宿して、口を開いた。
「とにかくね、文。私決めたわ。あなたが今度のコンテストに参加しなかったら、私、あなたを退部させるから」
「そ、それは。ちょっと、そのぅ……」
相変わらず歯切れの悪い文にぴしゃりと「いいわね」を突きつけて、はたては去っていった。暗室の扉もぴしゃりと閉まれば、にとりには、突っ返された写真を持ってうながれる文のみが取り残されているように思えた。
「お、おい射命丸、射命丸文……」
しんとした雰囲気に、にとりは思わずフルネームを発音してしまう。しかし、かける言葉が思い浮かばず、にとりはまたしても目線で、椛に助け舟を求める。しかし、椛は曖昧に笑うのみで、文に言葉をかけることをしない。突然の退部勧告を受け呆然とする友人と、それをただ静観する友人のあいだで、にとりは揺れる。
(さ、さっきからなんだ。この、妙なふいんき……)
それでもにとりは再度、うなだれる友人に声を掛けるべく勇気を絞った。脳内想定した語句は「どうしたんだ」或いは「落ち込むなよ」だ。どちらともつかぬまま、にとりは口を開こうと努める。「……私」
「ひっ」
しかし、おもむろに開いた文の口に、にとりの口は中途半端に塞がれる。にとりが焦って椛を見やるも、椛は相変わらず、困ったような笑みを浮かべるのみでいた。
「私、帰ります。その、今日はちょっと、ダメそうなんで……それじゃあ!」
あ、という間に、文は暗室を飛び出してしまった。椛と二人、取り残されたにとりは暗室の赤い照明が妙に鮮明に感ぜられて、沈黙から逃げるように、気まずく口を切る。
「お、おい椛! なんで、なにも言ってくれなかったんだよう。文、走って行っちゃったじゃないか」
にとりの言葉に椛は腕を組み、顎を撫でてしばし考え込む素振りをみせた。椛が考えている間もにとりにとってはどうしたらいいかわからない妙な間であって、にとりはとにかく気まずかった。こうして話しているうちに、文を追いかけてやるべきだったのではないか。けれど、放っておいてやるのが正解ではないか。慌ただしい内心が表情に皺を寄せていた。そうこうして、ようやっと椛が口を開く。
「まあ、文さんなら大丈夫ですよ」
「えー……?」
にとりには椛がわからなかった。自分よりずっと文と深い友情で結ばれているにも関わらず動かない椛に、幾許かの薄情さを感じた。不意に、またしても勢いよく扉が開く。にとりはやはり驚いて小さく悲鳴を漏らしたが、椛は平然と、普段どおりのうっすらきょとんで扉の方をみやった。
「射命丸文!」
ループするかのように同じ名が叫ばれたが、声の主は別人だった。
「あれ? あなたたしか、一年の……」
「あ、どうも。先輩、射命丸文を探してるんですけど、いませんか。射命丸文は、ここに」
入室の際に放った威勢のよさとは打って変わって、胡散臭く頭部を掻く詰襟は鬼人正邪という、素行不良で名高い一年だった。「今日はもう帰っちゃったんですよ」「ええ? 帰った?」椛と正邪が文の所在についてあれこれと交わしている最中、にとりは冷や汗をかいて、下唇をしまった。にとりは自らのまわりを螺旋のように取り囲む時間を感じていた。にとりはそれを、自分の関さぬ間に着々と積み上がっていく友人と後輩の会話に、触れるほどの実感をもって確かめていた。
「じゃあ、そういうことでお願いしますね。いやあ、お手数おかけして……それじゃあ放課後に! よろしくっす!」
にとりが口を挟む間に二人の会話は済んで、正邪はさっさと暗室を去った。取り残されたにとりと椛のあいだに生まれた一瞬のしじまは、椛の開口によって打ち破られる。
「にとりさん。そういうことになったんで。放課後、お願いしますね」
しまった下唇のままに二、三細かく頷けば、にとりは伝言人と相成った。干渉の有無を問わず、心身を巻き込んで更新されてゆく時間を自覚するには、にとりはとうてい足りないでいた。