とかいって!
放課後、まだ陽の高い町のなか、町では珍しい洋食店にはテラス席があった。ガーデンパラソルの下、少名針妙丸はサンドイッチに齧り付く。サンドイッチはベトナム式で、切れ込みの入ったフランスパンには香草やらなにやらが挟み込まれている。針妙丸から少し離れた席には、怪しげなサングラスの二人組があった。二人組は一番安いたまごサンドをちびちびとやりながら、針妙丸の食事をちらちらと見張っている。
「買い食いにしては豪勢すぎやしないか。だいいち、こんな店、わたしは今日まで知らなかった」
「お金持ちの子なんですかね。案外、へび組だったりして……」
河城にとり、射命丸文の二人に間違いなかった。椛がどれだけ大丈夫と言ったって、にとりは文が心配だった。教室のみなが部活動の支度を始めるか早いか、にとりは文の家に向かった。なにより伝言の義務があったから、にとりはとりわけて臆することなく友人の家の戸を叩けた。泣き腫らしてでもいるかと推察していたにとりだったが、チャイムを鳴らして出てきた寝癖と低血圧な表情を見れば、不安はたちまちどこかへ消えた。
「課外サボって買い食いなんてするかな、へび組が。それも制服のまんま」
「さぁ……。ただ、常連であることは間違いないですよ。あんな陽当たりのいい席に堂々と座っちゃって……」
言われて、隅のじめじめとしたこの席が妙に落ち着くことに気付いたにとりだった。ともかくとして、詰襟のままに訪ねてきたにとりの話を聞くが早いか、文はにとりを着替えさせた。そのとき文が引き出しから取り出したサングラスに、にとりはひどく見覚えがあって、それはどうやら中等部のころの記憶だった。そのころ、文には様々な呼び名がついていた。覗き屋、子からす、後家作り。様々な呼称を一緒くたに象徴していたのが、そのサングラスだった。にとりはそのときに初めて、スペアの存在を確かめた。
「にしても。結局あれだろ? あの、針妙丸とやらをつければ解決する話なら、自分でつけりゃいいのにさ。どうしてこんな、回りくどいことするのかな」
「どうでしょうね。まあ、友情ってやつじゃないですか。気恥ずかしいとか」
にとりはたまごサンドを啄ばみながら首を傾げる。小道具然とずり落ちるサングラスは紛れもなく文の私物で、サイズの合わない、少し大き目の服にしたって文が用意したものである。部屋でにとり伝いに正邪の〝頼みごと〟を聞いた文は即座に針妙丸に目星をつけた。そうして用意されたのが詰襟の代わりやサングラスといった所謂変装セットなのだが、尾行イコールサングラスという安直さに面食らう前に、にとりは友人の普段どおりと、ドラマ式の追跡劇に、安心と昂揚のそれぞれを覚えたのだった。テラス席のなか、しきりにシャッター音が響く。ウェイトレスや他の客はみな文の手元に視線を注いだが、被写体本人は能天気にベトナム式に齧り付いては、口の端のソースを上機嫌に舐めとっていた。
(友情ってんならなおさら、自分で確かめるべきなんじゃないか?)
正邪の話はひどかった。
針妙丸はわたしの知らない〝おしろ〟を知ってる。赤と緑は同じ色。針妙丸は赤色の方と仲がいい。針妙丸はカラオケを知ってる。終いには、きっとサ店だって、公園だって知っている。等々、正邪は今起こっている噂と、自身の感覚と疑念を織り交ぜて主体のない話を延々とした。にとりは文に説明する際になって、依頼人の話に主体のないことにようやく気がつき、そのときの説明にはひどく骨を折った。ともかくとして、文を頼りたいという主張のみが正邪の明確な意向であった。聞いてすぐに腰を上げるからす組らしい文のフットワークはにとりの尊敬に値したが、にとりには、やはり正邪の思惑がわからなかった。にとりの大脳皮質後頭葉在中視覚野にぼんやりと犬走椛のうっすらきょとんが浮かんだころ、今度は全く別の人物のイメージにその表情はかき消されてしまった。テラス席から覗く路面を、下校中の生徒数名が泳いでいく。
「それにしたってはたてだよ。ひどいよな、部長だからって。退部させる権限なんて、ほんとにもってんのか? だいいち幼馴染だってのにさ。ありゃ言い過ぎだよ。なあ文?」
「へび組ですからね、彼女。そんなもんじゃないですか」
文はまた片手間にシャッターを切った。たまごサンドを掴んだ左手は口元に運ばれて、目線はレンズと真逆の方向を眺めている。あからさまにそっぽを向く文の視線を追えば、にとりは路傍の小鳥に気がついた。それはハクセキレイという市街にも海辺にもよくいる鳥で、白黒の小さな体でしきりに跳ね回って、いたずらに綺麗な声で鳴いた。ときおり意味ありげに羽をばたつかせては、自身がいつでも飛び立てることを誇示していた。にとりは文の、はたてに対する思う以上に辛辣な物言いにたじろいだ。文はそっぽを向き続けるから、にとりは居た堪れずにサンドイッチの片側などを捲って、食感を演出すべく申し訳程度に敷かれていたきゅうりの色に安心なぞを見出していた。にとりはどちらかと言えば気弱だが、調子に乗りやすいタイプで、また、挫かれた出鼻を修復できない性質でもあった。
「……私ね、空を撮りたいんですよ。構造物なんて一切映さずに、空だけを撮りたいんです」
「え、えーと。それは、そのう……」
緩い風が吹いてガーデンパラソルが揺れる。同時に数羽のハクセキレイが飛び立てば、にとりはたまごサンドをおずおずと閉じた。文は飛び立ったハクセキレイの数羽を見ることもなく、気だるげなシャッターを下ろしてにとりに向き直った。
「にとりさん、私気にしてませんからね。はたてに言われたことなんて。だから、気を使ってくれなくてもいいんです。ああ! ほら、彼動きましたよ。追いましょう!」
「う、うん……」
勇んであげた手で持ってウエイトレスを呼びつける文に、にとりは憂慮と屈託の入り混じった表情でもって追従する。能天気な針妙丸といえば両手でもって太ももに軽くリズムを取りながら、にとりと文には解さない、どこがで聴いたような洋楽を口ずさんでは街路を縫った。
街路というのは如何なるときにでも、人々の心を格子状の網の中に絡め取る。格子状の網は即ち下町の風情で、要するに日常だ。文は日常の中に針妙丸の死角に潜み、にとりは日常の中に文の背後を追っていた。ともすれば針妙丸の延々と続く電撃バップの前奏も、日常の中にあるのだろう。針妙丸のご機嫌な口遊みを聞き飽きた頃、文は不意に足を止める。にとりといえば文の背中ばかりを見ていたので、針妙丸の動向に気が行かなかった。にとりが考えることといえば針妙丸の発する英語の歌詞の意味ばかりで、ともすれば文の懊悩に付随する自身の得もいわれぬ不安感ですら、日常の感に溶け始めていた頃だった。
「にとりさん! あ、あれって……!」
小声で呼びかけられたにとりはハッとして、アスベストのブロック塀の角から、文の指差す先に視線をやった。狭い町、日常的な街路に聳えるは厳かな城だった。にとりの視線の先、そこには〝おしろ〟が聳えていた。
『ホテルニュー輝針城』
大きな看板に歪な、ともすれば淫猥に歪んだ蛍光灯でその文字は縁取られる。
(噂にゃ聞いてたけど、こんな、露骨な、あまりにも露骨な……!)
それは、この町で唯一のラブホテルだった。調子の良い学生なら興味本位で一度は見物に来るものだったが、興味はあるものの、そういったものに対して随分に奥手な二人なら、露骨すぎるホテルの外観に、同等の驚愕を共有できたことだろう。にとりは愕然とすることに終始するほかなかったが、しかし文は違った。文は本来の目的である針妙丸の尾行についてをしっかりと念頭に置き、その若く鋭い眼差しで針妙丸を捉えていた。
「にとりさん! まずいですよ、あれ! 私、止めてきます!」
驚いてばかりのにとりはようやっと針妙丸の姿をホテルの門前に捉えた。針妙丸はなにやら、同級生だろうか、赤髪の、奇抜な色彩の洋服を身に纏った少女と馴れ馴れしく笑いあっていた。今にもそのまま、城門を潜ってしまいそうな雰囲気だ。関わりのないにとりが胸中抱く焦燥は模糊とした校則、不純異性交遊の六字で、慌てて飛び出ていった文が発したそれも、その六字に違いなかった。
「ちょ、ちょっと! 不純異性交遊!」
呼びかけられた針妙丸と少女の二人は、焦り飛び出して来た文と、文に遅れておずおずと現れたにとりに、不可解であると言わんばかりのきょとん顔を向けるのだった。