ワンダーラスト   作:kodai

8 / 16
8

 鍵山雛はかえる組。小さな裏庭の大きな里芋の葉から暗澹とした水滴が地面に滴る、そんな雨の日に、にとりはまた、緑色に関する新たな噂を耳にした。かえる組というのは、にとりが幼、初等部時代の九年間、その二年目に撤廃された組だった。授業中、イヤホンとカセットでもってもたらされるにとりの無音の世界には、窓の外の雨の音ばかりがいやに響いた。にとりは初等部時代のことを思い出していた。幼、初等部四年目の頃、にとりにはかえる組出身の友達がいた。二年目に撤廃されたかえる組の生徒たちは各々、少々の杜撰さをもって適当な組に編入させられたが、得てして、かえる組出身の生徒というものは、教室内では孤立しがちな存在だった。かっぱ組に編入された、件のにとりの友達にしてもその例外に漏れることはなかった。しかし、とにかくとしてにとりはそのかえる組出身の生徒と友達だった。レインコートに似た制服、黄色い帽子をよく覚えていた。今にしてみると名前すら思い出せないその生徒と友達だったということを、にとりは雨の打ち付けるしたたかさと同等の暗澹さでもって、イヤホンから流れるアイドル歌謡に噛み締めていた。ひとつ、どうしたって忘られない出来事があった。

 

 そのころのにとりにはなんと行きつけのタバコ屋があった。ラジカセから、アイドル歌謡ばかりを流しているタバコ屋だった。タバコ屋、とはいえ、幼いにとりがタバコに用のあるわけもない。ともすればにとりは駄菓子を求めて、件の駄菓子屋に足繁く通った。幼、初等部四年目といえば、子の親からすれば胃の痛む時期だ。それまでは親の選択した“組”のなかでぬくぬくとやってきた子供たちから、不意に“組”という線引がとりあげられ、一緒くたになってはしゃぎはじめるという、そんな時期だった。へび組の子らを警戒するからす組の親もいれば、おおいぬ組の子らを警戒するへび組の親もいた。しかしにとりといえば年相応の人見知りを発揮し、その他の組の子らを自ら遠ざけていたから、親からすれば安心なような、むしろ心配なようで、気が気でなかった。そのころ町で持ち上げられていたニュースといえば『彗星接近、伴う気温上昇に世界滅亡の危機』というもので、異様に暑い日の続く夏だった。にとりの親、職人気質で無口な父親はさておき、母親の方は本当に、毎日が気が気でなかった。にとりは内気なわりによく泥まみれになって帰ってきた。よく怪我をして帰ってきた。よく泣き、ともすれば他の生徒との砂場の砂粒を取り合うように小さな諍いも、その頃のにとりにはよくあったように思える。そんなある日、にとりは例の友達と、件のタバコ屋へ行った。子供の手の届かない位置にまでずらりと駄菓子が陳列されている店内にはやはりラジカセのアイドル歌謡が流れていたし、店主の顔を隠す新聞には『彗星接近』の文字が踊っていた。幼少期における駄菓子の魅力と、夏のもたらす相乗効果に関しては言及するまでもない。幼いにとりは短い足でもってぽやぽやと駄菓子を選んでいた。例の友達のことなぞ気にもとめずに、百円玉の物足りなさにのみ没頭していた。そんな折、店主が新聞の影からぬっと顔をだし、にとりにおずおずと手招きをした。にとりはまたぽやぽやと馴染みのカウンターまで近づいて、店主が口元に当てた手に、なにも考えずに耳を寄せた。店主はにとりにとって駄菓子の国からの手先だったし、店主が口元に当てた手も、母が父にないしょでおこづかいを上乗せしてくれるときの動作と同じだったから、耳を寄せることには何の疑問を抱くことはなかった。しかし、直後に店主の小声で言った「あんまり、かえる組の子とは遊んじゃいかんよ」が、にとりには疑問で仕方がなかった。それはにとりが幾度となく聞いてきた言葉だった。喧嘩をしたり、怪我をしたりして泣きながら家に帰り、家に着き親からの心配もほどほどに泣き止み、直前までのどしゃ降りをど忘れしたように気分が晴れ晴れとしてきたころに、にとりはその言葉をよく聞かされた。

 

「あんまり、かえる組の子とは遊んじゃいかんよ」

 

 にとりはその言葉をよく覚えていた。空を素通りしていった世界に破滅をもたらす彗星や、例の友達の面影すら失くした現在でさえも、母親がその言葉を口にするときのいやに後ろめたそうな表情を、克明に記憶していた。忘られるはずもなかった。にとりと例の友達は“課外”が始まってから疎遠になった。にとりと違い、かえる組から編入してきた件の生徒は職人の親を持つでもない、課外を免れるはずもなかった。にとりは自身が課外から“免れている”ことを自覚するたびに、例の友達のことを思い出した。レインコートに似た制服、黄色い帽子。現在、窓の外の雨。登校前、部屋を出る際に見た、小さな裏庭の、大きな里芋の葉から滴る暗澹とした、水のかたまり……。どれもが、にとりが突っ伏した腕から盗み見る鍵山雛の面影に類似していた。

 

(雛だ。鍵山雛。あいつが来ると、妙にいやな気持ちになる)

 

 へび組の親子を警戒するからす組の親もいれば、おおいぬ組の親子を警戒するへび組の親もいた。そんななかでいつだって、どんな親からも警戒されていたのが、かえる組の親子だった。そのころ、件のタバコ屋ではいわゆる万引きが横行していた。

(喧嘩や怪我も、万引きも……それから、鍵山雛も。……みんな、あの彗星みたいに、ただの早計だったら、いいのにな)

 

 思い浮かべるのはいつかの空、よく晴れた宙を素通りしていった彗星のことばかりだった。にとりはスイカを食べながら、例の友達とそれを眺めたような気がした。今となってはなにもさだかではないが、ただ、そんな夏の憧景はまるで文の撮る写真のようだと考え、にとりはひとつ鼻で笑って、そのまま、雨天の泥濘と似た微睡みに溶けていった。

 

 夕鳴きの屋台の音が聞こえて目を覚ますと、教室は閑散とした静寂に包まれていた。窓の直方が橙を教室に刻んでいる。濃い黒色で伸びた影は、静寂のなか粛々と机上で教科書を揃える鍵山雛のものだった。いつもなら二限もそこそこに帰ってしまう鍵山雛が、夕暮れの教室に影を伸ばしている。寝ぼけ眼のせいかにとりには、そんな異様な光景が極めて自然に思えた。

 しかし不可解なこともあった。

 

「ねえ。雛ってさ、ほんとにかえる組なの?」

「……どうして、そんなことを聞くの?」

 

 それは話し声だった。にとりにとって不可解なのは声の主だった。

 

「どうしてって。だって、みんな噂してる。気にならないの?」

 

 そんなことを聞くには軽すぎて、また、自信なさげなその声は、なにか聞き慣れた声のように思えた。席に座り教科書を整える雛と、雛の机に片手を付けて立つ何者かの影は、窓側から、ふたりの対極に位置するにとりの突っ伏した机の、腕の中にまで伸び、潜り込んだ。授業中ならずっと降っていた雨がやんでいたことがまた、狸寝入りをするにとりに応えた。にとりは突っ伏した腕のなかの影とおなじ暗さをもった瞳で、ふたりの方を盗み見る。

 

「ねえ、にとりちゃん。昔なら、よく遊んだわよね、わたしたち。にとりちゃんたらよく泥んこになって、喧嘩したり、怪我したり。すぐに泣いて帰っちゃったりして」

「……うん。忘れてないよ。……いやあ。なんだろ、なんていうか……」

 

 にとりはおどろいた。盗み見た視線の先、鍵山雛と話している自分の後ろ姿と、なにより、雛の放った“にとりちゃん”という呼称には、どうしたっておどろいてしまった。瞬間、胸中で二、三心臓が跳ねるのを感じた。しかし、次の瞬間にはこの光景が夢だとわかった。にとりは高鳴る心臓を突っ伏した腕になんとか落ち着かせ、自身と鍵山雛との、ふたりの対話に耳を澄ませた。

 

「……声、かけにくくて。その、ごめんね」

「いいわ。いつも気にしてくれてるの、わかってたもの」

 

「……ほんと? 怒ってない?」

「ほんとよ。怒るはずないわ。教室が一緒になってから、ずっとだもの」

 

「えへへ、よかった。……あ、じゃあさ。ええと、その……なにから聞けばいいと思う?」

「にとりちゃんの聞きたいことは、にとりちゃんの聞きたいことでしょう? わたしには、わからないわ」

 

「えっと、じゃあ、そのう……」

 

 今にもチャルメラが鳴ってしまいそうなの自身のやり方に、にとりは机の上でやきもきとした。聞きたいことはたくさんあった。漠然としたところで、あれからどうしていたのか。古いもので、タバコ屋のことについて。新しいもので、緑色の噂について。単刀直入にやってしまえ! そう思わなくはないにとりだったが、口をついたのはその実あまりにもな質問だった。

 

「……今日はなんで、こんな時間まで残ってるのさ? めずらしいじゃんか。いっつもならすぐ、帰っちゃうのに」

 

「居残って、勉強してたの。……だって勉強は、学校でするものでしょう?」

 

 家でやればいいのに、と口をつく前に雛が二の句でもってそれを塞いでくれてよかった、とにとりは思った。自分が言おうとしていたそれは、口にしたらすこし冷たすぎていたかもしれない。にとりは反省を交えて安堵した。しかし一方で、鍵山雛に感じていた一種神聖なオーラが確信に迫っていくのをにとりは感じた。それは“オーラ”という言葉のもつおかしなミステリアスさそのもので、にとりは何故だかわからないが、やおら焦燥に駆られた。彼女はこのまま、どこか遠くへ、自分の知らないところへ行ってしまうのではないか。それが、にとりのなかで鎌首をもたげる焦燥の正体であることに、気づかないままで口を切る。

 

「万引きなんて。雛がそんなこと、するはずないよね?」

 

 それは、にとりのみた夢だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。