遠くでチャルメラが鳴った。夕鳴きの屋台の音が聞こえて目を覚ますと、教室は閑散とした静寂に包まれていた。窓の直方が、橙を教室に刻んでいる。にとりは突っ伏した腕から上体を起こして伸びをして、もはや自分だけが残された教室のなか、いつのまにか床に落ちていたイヤホンのふたつを拾って、耳につけた。カセットはにとり自作のすぐれものだった。録音した音を操作いらずにループさせることができるその構造から、にとりはそれを『エンドレスカセットテープ』と呼称していた。しかしどうやら故障らしく、耳につけたイヤホンから音は流れて来なかった。塞がれた鼓膜に響く自身の欠伸は無音よりもずっとけたたましく、にとりの頭蓋に響いた。
(なんだよ“ちゃん”って。よくて“さん”か、せめて“くん”だろ)
自嘲気味にひとつ笑って、にとりは帰り支度を始めた。駆動しないプレーヤーのせいもあって、にとりは自身が着々と行う帰り支度に、いつも以上の味気なさを感じた。こんな日には文がいてくれたらよかった。文さえいれば少なくともつまらない時間は減った。にとりは一人で時間を潰す手段にさえ乏しかった。ともすれば、落ち込んだ友人を慰めに赴くことなど、できるはずもなかった。胸中に残った味気なさと昼間の雨の匂いを払うように、にとりはよれた詰め襟をすこしただして、教室の戸に手をかける。
(部屋に帰ったなら何も考えずにカセットとプレーヤーの修理をしよう。そうしたら、何も考えずに眠れるんだ。あー、毎日これが故障してくれたらいい。そうしたらわたしはまた、何も考えずに……)
戸についた、とりわけてちいさな直方の窓二つに横切る詰め襟の姿を見つけるが早いか、にとりは、あっ、と声をあげる。硬直した身体のまま、視線のみで戸に並ぶ窓から廊下を歩いていく友人の後ろ姿を追った。よくは見えなかったが、詰め襟はどうやら手元になにかを弄っているようだった。にとりの見た詰め襟がにとりの友人で間違いがないのなら、あの癖毛のもじゃもじゃは紛れもなく文で、文で間違いがないのなら、手元で弄っているのは紛れもなくカメラだろう。ともすれば方向からして、文が暗室に向かっているのは間違いがない。そこまでは瞬時に脳を働かせることのできたにとりだったが、身体を働かせられるかどうかは別の問題だった。なにより薄情にも、あれからにとりは文に会っていない。会おうと思ったとして、家に赴くことさえしなかった。にとりはどうしようもなく足を止めて悩んだ。
(いまさら文と会って、わたしはなにを話したらいいんだ! ああ、椛がいてくれたらよかった。そうすれば、そうすればわたしは……ああ、もう!)
今にも鳴ってしまいそうなチャルメラに半ば急き立てられるように戸を開け放つことができたのは結局数分後のことだったから、にとりは自身のどうしようもなさを憎みながらも、焦るようにして暗室まで急いだ。
橙色の廊下は不思議なまでに静かだった。普段なら課外を終えた数名とすれ違ってもよさそうな時間にも関わらず、にとりは暗室の前につくまで誰とすれ違うこともなく、ただひたすらに自身の足音のみを聞いた。渡り廊下の角を折れる際にみた暗室に入ってゆく文の詰め襟の黒は、近頃文のいない校舎を見慣れたせいか橙の廊下に妙に映え、にとりからすると、その黒はまるで青天の霹靂のような黒だった。にとりは暗室の戸にへばりつくように、またしてもじっと足を止めていたが、それは号砲に似た黒い落雷のみに心の竦んだわけではない。にとりはじっと、戸に耳をあてて“それ”を盗み聞いていた。
「呼びつけておいて、またそんな話ですか」
「そんな話? そんな話ってなによ! あんた、自分のことでしょ!」
暗室にははたてもいるらしかった。そもそも、どうやら昼休み、はたてが文の家まで出向いて、放課後に来るよう呼びつけたという話だった。にとりはこの期に及んで何もできない自分のどうしようもなさを、半ば肯定しながらやけっぱちに耳を澄ました。
「いいじゃないですか。どうせ部活……課外なんてやろうがやらまいが、私は結局からす組なんですから」
「なに? それで不貞腐れてサボってるってわけ? 自分の楽しいことがいずれつまらない仕事になるからって拗ねてるわけ? くだらないわ、そんなの!」
今日の文はどこか変だった。いつも通りの文なら、はたてに反抗などせずに、曖昧にはにかんでその場を凌ぐはずだった。友人の態度、伴う雲行きの怪しさに、にとりは思わず冷や汗をかく。しかし無慈悲にも、文はにとりの知らない沈着さをもって口を切る。
「はたてさんにとってはそうかもしれませんけどね」
「何が言いたいの? この際はっきり聞かせてもらおうじゃない」
「じゃあ、言わせてもらいますけど……いいですよね。はたてさんは。からす組出身でもないのに写真部の部長なんかやって、お遊びの趣味に打ち込めて」
「な、なによそれ。遊んでるつもりなんて――」
「――じゃあなんだって言うんですか!」
友人が不意にあげた大声に、にとりは思わずビクッと体を震わせた。しかし、友人の大声も震えていた。またしても、にとりの知らない声だった。急転する事態に椛の面影を浮かべることしかできなくなるにとりをよそに、文は言葉を続ける。
「こっちはねえ! 本気でやってるんですよ! 好きなんですよ、好きだったんですよ、写真が! でもそんなの、なんの役にも立たないでしょう! コンテストで入賞するような写真が良い写真ってんなら、私はくだらない、この町の望むような、そんなくだらない写真しか撮れなくなる! 意味ないじゃあないですか!」
「そ、そんなの! そんなの結局不貞腐れてるだけじゃない、自分の好きな写真で勝負したらいいでしょう!」
にとりは文の怒声を知らなかったし、はたての震える声も知らなかった。にとりにとって文はいつだってエキセントリックな旧友だったし、はたてはそんな旧友のエキセントリックさの舵を取るセーラー服に違いなかった。にとりの空想のなか、恋はいつだって淡い赤色をしていた。しかしその色は今まさに、恋なんて言葉とは無縁な、刃傷沙汰に近しい血液色に変貌を遂げようとしていた。にとりはどうしてもそれを止めたかったが、どうしたって体が動かない。例えば足の速さにしても、行動の早さにしても、感情の代謝のはやさにしたって、いつだって、文はにとりよりも素早かった。
「……うるさいなあ! 撮りたくたって、もう撮れないんですよ! へび組に、へび組に何がわかるって言うんですか。いいですよねえ、勉強の片手間に部長やって、賞取って、からす組でもないくせに! どうせ近い未来私にあれこれ命令する立場になるんでしょう? だったら、もう黙っててくださいよ!」
文の足音が聞こえても、にとりはすくんで動けなかった。そのまま戸は開け放たれ、にとりは裾を握るばかりで、勢いよく飛び出して来た文と目があってしまった。文は一瞬の戸惑いを見せたが、すぐに振り切って去っていった。取り残されたにとりは文の瞳に浮かぶ涙に、相変わらず、下唇に心を痛めつけていた。
遮光のカーテンが開け放たれた暗室は橙だった。すこし目のまわりを赤く腫らしたはたてはそれでも気丈夫に振る舞ってカーテンを開けてみせる。そのとき初めて、にとりは暗室特有の構造的複雑さを、すくなからずこれまでよりは正確に理解した。暗室の妖しい暗さがそのカーテンによってもたらされる暗さだと、にとりはそれまで知りもしないでいた。
「聞いてたんだ?」
「ご、ごめん……なさい」
妙な緊張に思わずにとりは敬語を吐く。にとりの敬語はとりわけてセーラー服、すなわち女子、ないしは、はたてと接した際に発露しやすい習性だった。そんなにとり特有の習性を知ってか知らずか、はたては可笑しそうに笑うから、にとりもつられてはにかんでしまう。暗室の窓から覗く橙の町は広く、すべてが穏やかに優しく動き続けている。夕鳴きの屋台なんかがその類型で、ともすれば、チャルメラは遠く響いた。「私ね」
「なにも、お遊びでやってるわけじゃないのよ。コンテストにしたって、入賞するための写真なんか、一枚も撮ったことがないって、自信を持って言えるわ」
高いサッシに両手をつけて、鈍い風に髪とセーラーをなびかせながらはたては言う。にとりは気まずそうにその後ろ姿を見るともなく見つめながら頷く。
「文はあんなふうに言うけど、私ね、この町が好きなの。この町も、この町で働いてる人も、みんな好き。だからそういう写真を撮るのよ」
夕鳴きの屋台のしつこさと云えばなく、にとりはそのメロディがなんとなく嫌いで、いつもイヤホンで耳を塞いでいた。しかし久々に耳にしたそれは、これ以上ないほど優しい気がしてならなかった。
「でも、文に言わせればそれが結局へび組なのよね。……ごめんね、にとり。こんな言いわけみたいな話聞かせて。だけど、見てよこの写真。ほら、面白い写真撮るのよ、あいつ。ほら、これとか。ピンぼけしてるけど、一体どこから撮ったのよ! って感じ」
机の上、疎らに重ねられた写真を広げながら、はたては話す。にとりには写真の面白さは解せなかったが、それでもどの写真からも文らしさを汲み取った。
「ねえにとり、文に会ったら謝っておいてちょうだい。悪かったって。文がダメになるのは本意じゃないもの。頑張って欲しいんだ、私。あいつに」
にとりの空想上、刃傷沙汰と化した暗室の血液色は、やおら夕鳴きに薄らいで、また例の色を取り戻そうとしていた。友人の詰め襟とはたてのセーラーの相関、その色こそが、にとりにとって淡い赤色で、仮にそれが早計であったとしても、にとりはふたりに“そう”であってほしかった。机の上に数枚の“気になる写真”をみつければ、早計は加速して組み上げられてゆく。聞けばその写真は昼休みにふんだくってきた文の家宝から現像されたもので間違いがないという。ともすれば、早計はますます加速した。
「ああ、この写真? さあ? いいんじゃない。気になるなら持ってったら?」
にとりははたてに礼をして、慌てて暗室を飛び出した。出るが早いか慰めの一つなかったことを思い出し、暗室に戻りはたてに紋切り型をいくつか投げかけては、また踵を返して走り出す。なにやら慌てた様子のにとりに、取り残されたはたてはあっけらかんと、苦く笑ってみせるのだった。にとりはなんとなく嫌いだったチャルメラを愛せるうちに、文の家まで辿り着かなくてはいけない気がして、それはどこか強迫的な観念であるはずなのに、不思議と悪い気はしなかった。久々に走れば心臓が悲鳴を上げて打ち付けたが、にとりはどこか清々しい気持ちに満たされていた。どこまでも雰囲気に流されっぱなしのソレについての自覚はあったが、そんなこと、もうどうだっていいような気がした。