ぎゆしの   作:サイレン

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※読む前の注意
・本誌のネタバレを含みます
・原作とは異なる展開があります
・現パロを含みます
・とあるキャラがヤンデレ化します。キャラ崩壊が嫌いな方ご注意を










ヤンデレぎゆしの
第1話 終わりの始まり


 パキ、パキンッと、氷が砕ける音が鳴り響く。

 

「冨岡さんっ、しっかりしてください冨岡さんっ!!」

 

 人と鬼と、一千年もの間続いた争いの、最後の決戦。

 そう表して相違無い鬼殺隊と鬼舞辻無惨の総力戦は、予期せぬ形で突如幕を開けた。

 

 上下左右が狂った血鬼術の空間に殆どの鬼殺隊士が放り込まれ、何百と蔓延る鬼共との熾烈な戦い。弱い鬼でも下弦の鬼程の力はあり、鬼殺隊の面々は各所で多くの者が散っていく。

 そして何より、最後まで残った上弦の月の、上から数えた最強の三体。

 彼らの強さは強大で、一対一では例え柱であろうと勝ち目が無い。百年以上も君臨し続けたその埒外さ。

 

 上弦の弐──童磨を討つのに、一人の犠牲が出た。

 一人で留まったのはその者が仲間を庇い続け、致命傷を一身に引き受けたからだ。鬼殺隊全体で見れば大金星と言っても過言では無いその成果。

 

 そんな思考に巫山戯るなと、胡蝶しのぶは叫んだ。

 

「すぐに治療を! 死なせません、死なせませんよ絶対に! カナヲ、伊之助君! 手伝ってください!」

 

 一緒に死闘を潜り抜けた嘴平伊之助と栗花落カナヲを呼んで、しのぶは必死の形相で倒れた冨岡義勇を抱きかかえた。

 ボロボロとなった姉の形見の羽織りを脱ぐ。切り刻んで多くの布として、患部に的確に巻き付ける。力の限り、少しでも義勇から溢れる命の雫を減らす為に。

 

 ──止まれ、止まれ、止まれ、止まれ!

 

 荒れ狂う心を押し付けてしのぶは手を動かし続けるも、願いとは裏腹に辺りは刻一刻と紅に染まってゆく。白かった羽織りはその面影をとうに無くし、ポタポタと血液が滴る程に酷い有り様。

 駆け寄ったカナヲと伊之助は側で義勇の状態を確認して、思わず手が止まった。

 

 悟ってしまったのだ、変えられぬ結末を。

 どう足掻いても救えない、自分たちの無力さを。

 

 一番良く理解していたのは義勇本人で。

 彼は優しい手付きでしのぶの手を取った。

 

「胡蝶」

「喋らないで下さい! 常中が解けてます、冨岡さん!」

「もうやめろ。俺は助からない」

「そんなことはありません!! そんな、そんなことは……っ!」

「お前にも判っているだろう……しのぶ?」

 

 名前を呼ばれても、しのぶは駄々を捏ねる幼児のように嫌々と首を振るだけ。握られた手を剥がそうとしのぶはもう片方の手を動かすも、こんな状態である義勇の握力にすら勝てなかった。

 

 なんと惨めな非力さか。

 頸も斬れず、唯一の長所である医術も死にゆく人を救えない。

 この戦いでも、しのぶは役に立ったと終ぞ思えない。

 

 この空間に落とされた時、しのぶは義勇と行動を共にしていた。

 柱が二人揃っていたのは幸運であった。並大抵の相手なら瞬殺可能な力量を備えているのに加え、普段から一緒に任務を遂行することが多かった義勇としのぶの連携は柱稽古が無くとも完成されていたから。

 

 それでも、上弦の弐には及ばなかった。

 結論から言えばこの一言に尽きる。

 

 義勇が斬り込み、しのぶが隙を見て毒を打ち込み、行動不能となった鬼に義勇が留めを刺す。

 上弦の弐に対しても有効であったこの戦術は早々に詰めのあと一歩まで戦況を運んだが、敵の血鬼術の強大さはこれまで相対した鬼とは一線を画していたのだ。

 

 攻撃範囲が広く、鬼殺の要である呼吸を潰す氷の血鬼術。

 

 気付いた時には、義勇の肺が壊されていた。

 その程度で倒れる義勇では無かったが、戦闘が長引くに連れてとある事実が頭を過ぎる。

 

 手が足りない。あと誰か一人、頸を斬れる者がいれば。

 自分を犠牲に血路を拓く決死の覚悟が義勇にはあった。だがそれでは敵を殺せない。鬼の頸を断てないしのぶでは、上弦の鬼は殺せない。

 

 一方でしのぶも戦闘開始からずっと機を伺っていた。

 自分を犠牲に活路を生み出すことが可能だとしのぶは知っていたから。髪の毛一本から血の一滴に至るまで藤の毒で満ちたこの身体を差し出せば、義勇なら確実に鬼の頸を断ってくれると確信していた。

 

 死の覚悟の仕方が異なっていたから、戦況が動いた時に即座に動けたのは義勇だった。

 部屋に通じる戸からカナヲが。

 天井を切り裂いて降り立った伊之助が。

 

 二人の参戦を機に電光石火で状況が動いた。しのぶが止める間も無く。

 敵の血鬼術の尽くを痣を発現させた義勇が特攻で切り拓いた。氷の吹雪も、降り注ぐ氷柱も、扇から放たれる一閃も、巨大な氷像も、上弦の弐へ至る全ての障害を。

 千載一遇の好機にしのぶが頸に毒を打ち込み、カナヲと伊之助の二人が渾身の三振りで切断。

 

 死闘の幕が降りたと同時に義勇はその場で崩折れ、もう二度と自力で立つことはない。

 

「……師範」

 

 か細い声でカナヲがしのぶを呼ぶ。

 義勇と目が合い、その遺志を汲み取ったカナヲは何度も呼び掛ける。

 

「師範」

「カナヲ! 何か布を! あと火を焚いて下さい! 最悪傷口を焼いてでも」

「師範……」

「ぼーっとしてないで早く──」

「──しのぶ姉さん!!」

 

 初めて聞くカナヲの怒声。

 罪を咎められた罪人のようにビクッと震えたしのぶは、姉と呼んでくれたカナヲを見る。

 瞳に涙を溜めて、唇を噛み締めていたカナヲは、残酷な現実を重苦しく吐き出すしかなかった。

 

「水柱様の、最期のお言葉です」

「────」

 

 時が止まったかのような、鈍重な静寂が訪れる。

 判っていた。こんな場面はもう何度も立ち会ってきた。

 

 遺言を聞き取る最後の役目も。

 

 助からない誰かを看取る時、いつものしのぶならそうしていた。

 なのにどうしてか、その者が義勇となったこの時、平常心なんて保てなくて。

 凡ゆる感情がしのぶの顔から抜け落ちるのをカナヲは初めて見て、遂に涙が溢れ出す。隣に立っていた伊之助も滂沱の涙を零していた。

 

「栗花落……」

「……はい」

 

 沈黙の帳を開けたのは義勇で、優しげな声音にその場の全員が思う。

 ……ああ、これは、本当に遺言になってしまうのだな。

 

「しのぶと……炭治郎を頼む。あと、炭治郎には、最後まで見届けられずにすまないと、伝えてくれ」

「……はい……っ!」

 

 拳を強く握り締めて、カナヲはその想いを受け取った。

 

「嘴平……」

「……おう」

「強くなったな、見違えた。……あとを頼む」

「おう……っ!」

 

 伊之助にとって義勇は初めて出会った格上の相手で、そんな義勇に認められた事が嬉しくて、何も出来ない自分が悔しくて、流れる涙は止まらない。

 相変わらずの言葉少なさに、次の瞬間には何事も無く義勇が動く姿を幻視してしまう。

 儚い幻想だと、分かっていても。

 

「しのぶ」

「……はい。何ですか、冨岡さん」

「ずっと、言いたかったことがある」

「……おや、それは初耳ですね」

 

 俯いたままのしのぶの顔を見詰めて、義勇の顔は能面のままだった。

 

「姉の笑顔を貼り付けるのはやめろ」

「っ!? ……あ、貴方って人は、こんな時に……っ!」

「久しぶりに、お前の笑った顔が見たい」

「っっっ!?」

 

 しのぶの言葉が喉の奥で詰まる。

 つい飛び出してしまう素の自分。

 そうだ。昔の自分は、姉を喪う前の自分は、もっと直情的な激情家だった。

 感情に振り回されがちで、今のように嫋やかに笑う事なんて一度も無くて。

 

 義勇を前にすると、少しだけその頃が思い出せて。

 

 だから自分は義勇にちょっかいを掛けていたのだなと、不意にそう自覚した。

 

「……全く、こんな時になんて事を言うんですかね。この天然ドジっ子さんは」

「……そうだな」

「柱とあろうものが情けない。昔から無茶ばかりして、少しは私と姉さんの苦労を分かってください」

「世話を掛けた」

「……仕方がないですから、お休みになるまで私が手を握ってあげますよ、義勇さん」

 

 ニッと、涙と悲しみを押し殺して、普段とは異なる懐かしい勝ち気なしのぶの笑顔が花開く。

 本当のしのぶが蘇ってくれて、義勇の口元が淡く綻んだ。

 

「……ありがとう」

 

 最期に良いものが見れた。満足だった。

 もう二度と目の前で家族や仲間を死なせない。

 己の魂に刻んだ誓いは守れた。初めて柱として誇りを持てた気がする。

 

 もう、限界だった。

 

 ──蔦子姉さん、錆兎。今行くよ。

 

 それが、最期で。

 ふっ、と。

 義勇の身体から、大事な何かが抜け落ちた。

 

「義勇さん……?」

 

 名前を呼んでも、返るものは何もない。

 仏頂面な沈黙も、対応に困っている反応も、況してや言葉なんて、何一つ返らない。

 呼吸は絶えて、鼓動は止まって、灯火が消えて。

 

 たった今、義勇が死んだ。

 

「…………嫌だ」

 

 頭が理解を拒否する。

 両親が殺された時、姉が惨殺された時。

 同等の感情が心に荒れ狂う。

 

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!?」

 

 しのぶは泣きながら義勇の手を握り締めて叫び続けた。

 

「義勇さん!? 目を開けて、目を開けて下さい義勇さんっ!? どうして、どうして私をおいていくんですかっ!? みんな……どうしてっ!?」

 

 どうして私をおいて、逝ってしまうの?

 私だけを残して。

 

 ──私が愛した、誰も彼も。

 

「……あっ」

 

 呆然と、しのぶの口から声を漏れる。

 気付いてしまった。

 自分の想いに、抱いていた恋情に。

 

 家族以外の、異性として初めて慕っていた人。

 

 彼が死んだ、その時に。

 

「……あ゛ぁああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!?」

 

 喉が張り裂ける慟哭が木霊する。絶望の嘆きは止む事が無く、歪なこの空間に響き渡って収まらない。

 パキンッと割れたのは、氷ではなくて。

 

 家族の二度の死でひび割れ壊れて、怒りと憎しみを糸に繋ぎ合わせたしのぶの心。

 継ぎ接ぎだらけで保っていたその心が、義勇の死で完全に砕け散った。

 

「しのぶ姉さんっ!!」

 

 このままじゃいけないと、カナヲはしのぶを包み込む。

 過去の自分のようになっては駄目だ。何も考えられず、何も判断出来ない。人として大事な全てを喪った只の人形に変わり果てる前に、その手を掴んであげなければ。

 ぎゅっと固く抱き締めて、泣き叫ぶしのぶに寄り添い続けた。

 

 どれだけの間そうしていたのか。

 その嘆きはやがて小さくなり、止んでいった。

 枯れた喉が声を出せなくなったからだ。

 音が消えた空間で、しのぶの中に残ったもの。

 

 憎悪、赫怒、殺意、悲痛、愛情。

 

 ただ一つ残った人としての理性を保つ感情()を糧に、しのぶは上を向く。

 その顔からは、笑顔の仮面が消えていた。

 

「義勇さん……」

 

 物言わぬ骸となった義勇の、ボロボロとなった羽織りを丁寧に脱がして手に取る。血で汚れたそれは所々赤く染まっているが、なんとか着物の形を整えていた。

 義勇の身体を地上へ持ち帰ることは出来ない。戻る方法も分からないし、最終目標である鬼の始祖を滅ぼすのにおいて、荷物にしかならないから。

 それでもしのぶは、形あるものを身に付けたかった。

 義勇が生きていた、その証を。

 

「そんなにあるなら、少しくらいいいですよね?」

 

 背の半分で模様が異なる羽織りを着たしのぶは日輪刀を手に取って、義勇の一つ結んだ髪束を切り取る。

 自身の羽織りの残骸で無理やり腰に括り付けた後、しのぶは最後に義勇の手を取った。

 

「必ず殺します。今日で終わらせます。だから、見守っていて下さい」

 

 瞑目して、祈りを捧げて、しのぶは義勇の両手を横たわった彼の胸の上に置いた。

 立ち上がったしのぶは、振り返ることを我慢してこの部屋を出る扉へと進む。

 その左頬には、蝶を模した痣が発現していた。

 

「カナヲ、伊之助君。いきますよ」

「はいっ!」

「おうっ!」

 

 部屋を飛び出して、三人は悪鬼をこの世に解き放った元凶の元へと向かっていく。

 三人のその様子を、一羽の烏だけが見届けていた。

 

『カァアアーーッ‼︎ 死亡‼︎ 冨岡義勇死亡‼︎ 上弦ノ弐ト相討チ‼︎ 義勇‼︎ シノブ‼︎ カナヲ‼︎ 伊之助‼︎ 四名ニヨリ‼︎ 上弦ノ弐撃破‼︎ 撃破ァアア‼︎』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、時は流れて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『行ってきます』

 

 少女たちの声に、行ってらっしゃいと両親の声が返る。

 通学路を進む制服に身を包んだ姉妹二人。

 同じ蝶を模した髪飾りを付けた彼女たちは、楽しげに話しながら歩いていた。

 

「今日からカナヲも高校生ね。どう、楽しみ?」

「はい。またしのぶ姉さんと一緒に登校できて嬉しいです」

「私も嬉しいわ」

 

 胡蝶しのぶと栗花落カナヲ。

 事情があって名字が異なるが、二人は中高一貫キメツ学園でも人気を誇る美人姉妹であった。

 

 道行く人の視線を集めているのを華麗に無視して、二人は雑談に花を咲かせる。

 

「カナヲは運動系の部活動は何かやらないの? バスケとかならカナヲ得意でしょ?」

「あはは。実はまだ決めてないんです。あっ、でも薬学研究部には入部します」

「部長として歓迎しましょう」

 

 学園に近付くに連れて知り合いの姿が多く見受けられる。

 人気者なしのぶとカナヲに挨拶をする生徒は多く、二人はどんな相手にも朗らかなに対応していく。

 

「それにしても……」

 

 挨拶の波が途切れたその合間に、しのぶは今朝の出来事を思い出して顎に手を寄せた。

 

「姉さんは結局どこに就職したのか……聴いても教えてくれないし」

「今朝も慌ただしく出勤してました」

「全く、姉さんにはもう少し落ち着きを持ってほしいのに」

 

 少しだけ頰を膨らませるしのぶ。

 どんなに聴いても「えへへー、内緒よー」としか言ってくれない姉の態度を思い出して、今更ながら腹が立ってきたのだ。

 その後もしばらくしのぶの小言を収まらなかったが、そんな感情豊かなしのぶを見てカナヲは心から安心する。

 

(しのぶ姉さんにはやっぱり記憶がないんだ……)

 

 カナヲには前世の記憶があった。

 鬼と呼ばれる人間の天敵である存在を滅殺していた、鬼狩りの頃の記憶が。

 はっきり言って、凄絶な記憶だ。残酷に彩られ、悲劇に満ちていた前世の記憶。

 

 しのぶのそれはその中でも極まっていただろう。

 両親を殺され、姉を惨殺され、共に戦った同胞を喪った。

 三度も大事な人を亡くしたしのぶは、死ぬ瞬間まで無理をし続けていたのだ。

 

(多分、きっかけになるのは水柱様……)

 

 存在しているだろう彼と会えば、しのぶはきっと記憶を取り戻してしまう。その確信がカナヲにはあった。

 カナヲが前世を思い出したのも大事な人たちと再会した時だからだ。

 親から虐待を受けて養護施設にいたカナヲを、しのぶの両親が引き取った時。幼いしのぶともう一人の姉を見て、頭を鉄槌で弾かれたような衝撃に襲われた。

 意識を失って次に起きた時には、鮮明に前世の記憶を思い出していたのだ。

 

 つまり、きっかけさえあれば思い出してしまう。

 しのぶが両親や姉を見て思い出さないのであれば、あとはもう彼しかいない。

 

 恐らく、慕っていたのだろう。

 彼を喪った後のしのぶは、殆ど抜け殻となってしまった。

 形見である羽織りと切り取った髪束を肌身離さず、最終決戦を終えて事後処理を完遂した直後、やり残した事はないと追うように息を引き取ったのだから。

 

(あんな凄惨な出来事は思い出して欲しくないけど、しのぶ姉さんの想いが成就してほしいって気持ちも嘘じゃない)

 

 心の内でうんうんと唸るカナヲであるが、自分に出来ることは驚く程に少ない。そもそも、その彼に出会わなければ何も進展しないのだ。

 

 ただ、予感はしていた。

 カナヲの代が高校生になったこの瞬間に、止まっていた時間が急速に動き出すような、そんな予感が。

 

 カナヲは願う。

 最愛の姉の、限りない幸せを。

 成し遂げられなかった人としての、女性としてを幸福を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 昔から、何か大事なことを忘れている、そんな気がしてた。

 両親と言葉を交わす度に、姉と触れ合う度に。

 記憶の奥底に眠る、自分を形作ったのだろう大事な思い出が刺激された。

 一番揺らいだのは妹が出来た時だったろうか。

 血の繋がりはないのに、けれど掛け替えない家族だと、出逢った瞬間にそう思っていたのだ。

 

 その日から、しのぶは頻繁に夢を見るようになった。

 起きた瞬間には霞の向こうに消えてしまう夢特有の感覚を何度も体験した。

 内容は鮮明に思い出せないのにどうしてか深く残る、夢の欠片。

 

 この現象の正体が分からないまま結局高校最後の年にまでなってしまったが、答えは唐突に訪れた。

 

 

 

 キメツ学園は入学式と始業式を同日に行う。

 膨大な人数が入ってもなお余裕のある大きな体育館で、しのぶは粛々と式の進行を見守る。

 新入生の入場、新入生と在校生の代表が行う挨拶、校歌斉唱に学園長の挨拶。

 言ってしまえばいつも通りの、何一つおかしなことはない式典。

 

「最後に、この四月から新たにキメツ学園の先生となる方々を紹介するね」

 

 挨拶の後、進行役に回すことなくそのまま学園長がそう言い、舞台袖へと合図を送る。

 指示に従い、入ってきた数人の大人たち。

 

「……えっ?」

 

 見た瞬間に、しのぶの時が止まった。

 見知った顔がいて驚いたのもある。今朝慌ただしく家を出て行った姉が先頭で出てきたのだから。

 

 だがそうではない。

 驚愕だけでは説明の付かない、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃。

 しのぶが見詰める先は姉ではない。

 

 しのぶ以外にも、過剰な反応を示した者は少なからずいた。

 ある者は大きく瞳を見開き。

 ある者は口元に手を寄せて。

 しのぶだけは、鈍痛を堪えるように頭を抑える。

 

『胡蝶』

 

 懐かしい声が聞こえる。

 

『俺は嫌われてない』

 

 思い出せなくてもずっと胸を焦がしていた、彼の声。

 遥か昔に見た幾つもの光景が、ザザッとブレながら映像として脳内に蘇る。

 

『……ありがとう』

 

 痛みはどんどんと強くなってゆき、駆け巡る記憶の渦は唸りを上げてしのぶへと襲い掛かる。

 堪え難い激痛の中で、しのぶの視線はとある男性を捉えて離さない。

 方々に跳ねた癖のある、一つに結った漆黒の髪。

 彫刻のようにすっと整った目鼻立ち。

 白磁の肌に映える海の底のように深く綺麗な蒼い瞳。

 

『しのぶ』

 

 次の瞬間、しのぶの意識は闇に溶けた。

 誰かが自分の名前を呼んだ、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を開けて映ったのは、見慣れぬ白い天井だった。

 

「ここは……保健室?」

「お目覚めになりましたか、胡蝶さん」

 

 どうして自分が此処で寝ているのか、という思考をする前に掛けられた声にしのぶは反応する。

 目の前にいた女性を見て、ポロっと漏れた。

 

「珠世さん……?」

「……やはりそうですか」

 

 その呼称で全てを察したキメツ学園の保険医である珠世は、一先ずその答えを余所に柔らかな表情を浮かべた。

 

「式典の途中で倒れたのを覚えていますか?」

「倒れた? 私が、ですか?」

「ええ。阿鼻叫喚でしたよ」

 

 男女問わず人気を博すしのぶが倒れたのだ。その混乱は推して知るべしというもの。

 皆に迷惑を掛けてしまったのだなと申し訳ない気持ちになると同時に、一体何があったのかを思い出そうとして。

 

「しのぶっ!!」

「しのぶ姉さんっ!!」

 

 派手に音を立てて開かれた扉にびくりと身体が跳ねた。

 

「姉さん、カナヲ……」

「しのぶ大丈夫なの!? 急に倒れるなんて、体調が良く無かったのなら言ってくれないと!」

「しのぶ姉さん、大丈夫ですか!?」

「わ、私は大丈夫だけど……」

 

 勢い良く迫る家族に簡単に返答するも、その背後で般若の微笑みを刻む女傑を見てしのぶは身震いする。

 

「栗花落さん、胡蝶先生?」

『ッ!?』

 

 ビクンッ! と身体を硬直させる二人。

 ギギギと壊れ掛けのロボットのように振り向いた姉妹は、其処に鬼を見た。

 

「保健室の扉をあんな荒々しく開けるなんて、他の患者がいたらどうするのですか!?」

『すみませんっ!!』

 

 鋭い叱責に即座に謝罪する。

 垂直に折られた腰と、ふるふると震える二つの脳天を見て、珠世は仕方がないといった様子で溜め息を吐いた。

 

「胡蝶さんが心配なのは分かりますが、もう少し落ち着いて行動してください」

『はい、申し訳ありませんでした……』

 

 しゅん、と凹む二人を苦笑いして見守っていたしのぶは、ふと今更ながらに違和感を覚えた。

 

「ん? なんで姉さんが此処にいるの?」

「それは私が新任の教師だからよー! サプラーイズ!」

 

 転瞬、急に元気になった実の姉──胡蝶カナエはしのぶにからりと笑う。

 いつもなら呆れて物も言えないと溜め息を吐く場面なのだが、しのぶは刹那、完全に止まった。

 

 カナエが言った、新任の教師。

 そうだ、式典で見た最後の光景はそれだった。

 視界が黒く染まって途絶えた、その前に。

 しのぶは一目で釘付けになったのだ。

 思い出したから。

 ずっと焦がれていたから。

 記憶の奔流の中、確かに見た、あの人の姿に。

 

「っっっ!!!」

「えっ!? ちょ、しのぶ!」

 

 気付けばしのぶは掛け布団を思い切り払って駆け出していた。

 背後から聞こえるカナエの声も無視して、しのぶは一心不乱に走っていく。普段なら廊下を走るなんてはしたない真似をするわけないのに、今は脚を止めることなんて出来なかった。

 

(思い出した……思い出した思い出した思い出した!)

 

 疾走する間にも掘り起こされていく記憶の数々。

 端的に言って、凄惨なものばかりだ。両親も、姉も、弟子も、同僚も、みんな死んでしまった酷い過去。

 己も常に傷付きながら、精神も身体も凡ゆるものを擦り減らしながら前へと突き進んでいた。姉の仇を討つことだけを胸に邁進し、その身体を鬼殺の毒で満たして、結局何も出来ず、愛していたと知った唯一の人を犠牲に生き延びて。

 

 そんな悲痛な記憶なのに。

 それでも、しのぶの心を埋め尽くしたのは歓喜だけだった。

 

 だって今は、みんなが生きている。

 鬼なんて理不尽な生物も存在しない。

 

 何よりも、あの人が生きているのだ。

 

(義勇さん……!)

 

 恋心の自覚と同時に、一生叶う事が無くなった共に生きる未来。

 あの時代の自分は女の幸せなど求めていなかったが、失って初めて思い知ったのだ。全身を引き裂くような痛みを。死んでしまいたいと思う絶望を。

 喪失してからも、いや、その後の方が募る想いは増大していった。思い出を指折り数える瞬間だけが、抜け殻となったしのぶが人間に戻れる時間だった。

 

 しのぶはもう、とっくに狂っていたのだ。

 

(ああ、やっと、やっと、やっと……っ!)

 

 視界の先に職員室が見えた。

 しのぶは一度止まって、乱れた髪と身嗜みを常備していた手鏡で整える。少しでも異性に良く見られたいなんて、体感した事の無い可愛げのある緊張が妙に心地良い。

 胸の高鳴りは止まない。あの程度の距離走っただけではあり得ないほどに鳴る心臓の鼓動がうるさい。身を焦がすような熱が内側から滾って、しのぶは目を閉じ胸に手を寄せて大きく息を吐き出した。

 

(感情の制御ができないのは未熟者、未熟者です。落ち着きなさい、落ち着いて……)

 

 自らに言い聞かせて、ゆっくりと瞳を開ける。

 ガララッ、と扉が開く音がした。

 

「いやー、知り合い多くて派手にビビるな!」

「うむ! 見覚えのある者が多いな!」

「……そうなのか?」

「あぁーっ……まぁ気にすんなよ、冨岡!」

 

 出てきた三人の男性教師にしのぶの平常心が吹き飛んだ。

 知っている、全員覚えている。

 本当にお前教師なのかと疑う派手な宝石が装飾された額当てをしている偉丈夫と。

 揺らめく炎のような髪が目を惹く強い眼光を放つ男と。

 

「──義勇さん!」

 

 気付けば、しのぶはその名を口にしていた。

 名を呼ばれた彼と、一緒にいた二人が一斉に顔を向ける。

 変わらない。あの頃とまるで変わらない。

 胡蝶しのぶが慕っていた、その人が。

 

 冨岡義勇が目の前にいた。

 

 しのぶは瞳が涙で濡れそうになる。制御なんて不可能な喜色が全身を彩り、ドクンドクンと血の巡りが早くなって熱くなる。

 固まっていた三人を置き去りに、しのぶは後ろで手を組みながら距離を詰めた。

 

「おや、久し振りの再会だというのに、返事も無いんですか? 全く、そんなだから義勇さんは……」

 

 にやけそうになる口元を抑えて近付くしのぶ。

 その頃になってやっと再起動した三人だったが、反応が二分された。

 派手な偉丈夫と炎のような男はしまったと言わんばかりに片手で頭を抱え、残り一人は小さく首を傾げて。

 黒髪を一つに結った蒼い瞳の教師──冨岡義勇が口を開いた。

 

「……誰だ、お前は?」

「……えっ?」

 

 誰何されたしのぶは、想定外の事態に静止する。義勇から発せられた言葉の意味が理解出来ず、無防備にも思考停止してしまった。

 

「すまん、胡蝶妹」

 

 ちょいちょいと手招きされて、しのぶは呆然と義勇から少し離れるように移動する。

 頭をがりがりとかく偉丈夫はどーすっかなーっとしのぶを見下ろして、諦めたように言葉を紡いだ。

 

「お前、記憶持ちでいいんだよな?」

「……はい。お久しぶりです、宇髄さん」

「式典で倒れたって聞いたが、まさか……」

「……その通りです」

「あぁーーー……マジかぁ〜……」

 

 隠された内容を推察するのは容易で、心底困ったという態度の偉丈夫──宇髄天元は、冷や汗なんて垂らして苦笑いした。

 同僚との会話でようやく脳が働き始めたしのぶは、とある可能性を確信した上で天元に問う。

 

「宇髄さん。もしかして義勇さんは……」

「あぁ、彼奴は思い出してねぇ」

「っ!?」

「煉獄はこっち側だがな」

 

 突如離れた二人を訝しむ義勇をわははと笑って誤魔化す炎髪の元同僚──煉獄杏寿郎。

 元気なその様子をしのぶは嬉しく思うも、数秒もしないうちその感慨は消え失せて義勇しか目に入らなくなる。

 

 なんで、どうして……。

 

 私は貴方を覚えているのに。

 頭がおかしくなるくらいに想っているのに。

 狂おしいほどに愛してしまったのに。

 

「しのぶ! 急に走り出してどうしたのっ……って、あれ?」

 

 混沌としたこの状況で現れたのは、保健室から廊下を走らずに、ただし競歩のような必死さで移動してきたカナエだった。

 

 うわこれ最悪の展開だぞ……と、天元は一人冷や汗を流していた。

 

「煉獄くん、宇髄くん、義勇くん。どうしたの? 何かあったの?」

 

 何処か不穏な雰囲気を察したのだろうカナエは小首を傾げて問い掛けるも、即座に返答できる者が居なかった。

 義勇はそもそも何も分かっていない。

 しのぶは黒くて暗い焔が点り始めていて正常な思考が不可能となっている。

 杏寿郎には記憶はあったが、途中で離脱した為にしのぶの気持ちを正確に把握出来ていない。

 カナエは義勇と同じで覚えてないし、この後爆弾を投下することが目に見えていた。

 

 天元だけが状況の全てを把握していた。

 

 俺こんな役目マジで嫌なんだけど! と内心嘆きつつも、既に崖っぷちに追い込まれて逃げられないと悟って天元は口を開ける。

 

「いや、別になんもおかしなことは──」

「カナエ」

 

 こういう時、義勇は絶対に裏切らない。主に悪い意味でだが。

 お前マジで喋らないでと天元の蟀谷に青筋が刻まれるが、動くのは名前を呼ばれたカナエの方が早かった。

 

「ん? どうしたの、義勇くん」

「其奴はお前の妹なのか?」

「しのぶのこと? そうよ、私の可愛い妹!」

 

 にへらーっと笑ってしのぶを紹介して、とことことカナエは義勇に近付いた。

 

「俺はお前の妹と会ったことがあっただろうか?」

「しのぶと? 私が知る限りないけど、なんで?」

「さっき名前で」

「ごほんっ! まぁまぁいいではないか! 先程倒れたと聞いたが、大丈夫そうで安心したぞ!」

「……そうだな、大事なくて良かった」

「えぇ。義勇くん、煉獄くん、心配してくれてありがとう」

 

 カナエは微笑んで二人に感謝を述べて、自然な足取りで義勇の隣に寄り添う。

 いつもの慣れで杏寿郎は一歩引くが、その行為が今だけは最悪の動きに天元には見えた。

 

「宇髄さん」

 

 地獄の底から響くような、怨念と虚無に塗れたその声音に天元は総毛立つ。

 無視するなんて到底出来ず、天元は何故か姿勢を正してしまった。

 

「義勇さんと姉は、仲が良いのですか?」

「あー、うん、まぁそうとも言えるな」

「関係は?」

「まだ彼氏彼女ってわけでは」

「まだ?」

「あーー、うーーーん……姉の方がな、まぁ色々あって気があるのかなーって、そんな感じじゃねぇのかなぁーと思わなかったりするんだが……」

「そうですか」

 

 ──やだやだマジ此奴怖過ぎるんだけど!?

 

 疑問を投げ掛けるしのぶは淡々としていたが、その藤色の瞳には明かな狂気を孕んでいた。

 しのぶがカナエに向ける眼は間違っても愛おしく大切な家族に向けるものではない。

 あの頃の眼、悪鬼を見る眼よりなお恐ろしい極黒。

 

「カナエ姉さん、しのぶ姉さん……っ!?」

 

 遅れてやって来たカナヲは場に揃う一同に瞠目して、しのぶが纏う異様な気配と義勇と仲良さげにしているカナエを見て時が止まる。

 刹那の間にその優れ過ぎている眼で一人一人を観察し、働いてはいけない女の勘も作動してカナヲは顔面蒼白となった。

 

「……えっ、嘘? まさか、そんな……」

 

 口元に手を寄せてカナヲは震え上がる。

 考え得る中でも最悪も最悪。どうしてこんなことにと、この不可思議な現象を初めて呪う。

 自分だけではどうしようもない状況に、カナヲは天元に縋り付いた。

 

「音柱様、音柱様っ!!」

「いや、……これはムリだろ」

「そんなこと言わないで下さい!!」

 

 ざわざわと騒ぐ外野の音。

 それらの一切がしのぶの耳には入らない。

 

 黒くてドロドロとした感情が際限無く湧き上がる。肉も骨も五臓六腑の全ても煮え滾って溶けるような、怒りとも憎悪とも違う感情の奔流。

 これは愛だ。一人の異性に向けるどうしようもなく大きくて重い愛。

 しのぶは喜ぶべきだろう。こんなに好きになれる存在がこの世に存在していたことに。

 この想いを成就させるためにしのぶは思い出したのだ。これはきっとこれまで頑張ってきたしのぶへのご褒美に違いない。

 

 だというのに、太々しくもそれを邪魔する者がいる。

 

 許せない、許さない。私の彼を淫らにも誘惑して誑かそうなんて。それが例え実の姉だとしても許されざる行為だ。今この瞬間にも色目を使っていることに、腑が焼き切れそうな嫉妬が燃え上がる。

 僅かに残った理性がしのぶを留めているものの、気を抜けば今にも叫び出しそうな激情が暴れ回っていた。

 裡で爆裂する熱を思考力に変えて、鬼殺の毒を生み出した聡明な頭脳を高速で回転させる。一刻も早く義勇を悪の手から救い出す方法を導き出す。

 

 そうだ、思い出してもらえばいいんだ。

 そうすれば義勇は必ず自分の手を取ってくれる。

 口下手なその言葉で愛を囁いてくれる筈だ。

 

 前世を思い出すのに必要なのは、恐らくあの頃の人々との再会。態度からしてカナヲや天元たちも思い出しているのだろう。あとは芋蔓式に全員を集めてしまえばいい。そうすれば義勇にだって何かしらの変化が生まれるはず。

 

 方針は決まった。

 もう一分一秒も無駄に出来ない。

 しのぶの意志は一つの未来に向かっていた。

 

 

 

 ──絶対に、渡さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




こういうのが好きなんです……



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