「……ふふっ、義勇さんの髪はさらさらですね」
陽の光がよく当たる、中庭に面した縁側。
色とりどりの蝶が舞い遊ぶ蝶屋敷の一角で、胡蝶しのぶは愛おしそうに黒い髪を撫でて微笑んでいる。
周りに人の姿は無く、しのぶの側にも誰もいない。
背の半分で柄が変わる特徴的な羽織りを着て、綺麗な紐で束ねられた黒髪を、しのぶは
「いつもの髪は寝癖だったのでしょうか? まぁ、義勇さんが見た目に頓着するような方ではないのは知っていましたが」
恍惚に蕩けた瞳でしのぶは髪を撫で続ける。
返る言葉はないのに。
生き物の熱は感じないのに。
しのぶはとても幸せそうにしていて。
その光景を、カナヲはいつも遠くから眺めていた。
(しのぶ姉さん……)
人と鬼との最終決戦の後、蝶屋敷はしばらくの間は猫の手も借りたいほどに大忙しであった。
あの戦いで多くの者が亡くなったが、生き残った者も確かにいた。戦列に加わった隊士で無傷の者は存在せず、早期の治療が必要だったからだ。
その最前線で指揮を執るのが、蝶屋敷の主人であるしのぶであったのは当然の流れだろう。実績で及ぶ者が他には存在せず、鬼殺の柱であると同時に鬼殺隊の生命線であるしのぶを頼らないわけにはいかなかった。
例えそこにいつもの優しい笑顔がなくとも。
あの戦い以来、しのぶは笑わなくなった。否、笑顔の仮面を付けることが不可能となっていた。
喪失が大き過ぎたのだ。愛していた人を三度亡くして、しのぶの心は壊れてしまった。
これまでずっと側で仕えてきた少女たちはしのぶの変わりように驚き、事情を知って瞳を涙で濡らした。
励ますなんて、出来なかった。
思い出させる真似をしてしまえば、次の瞬間にはしのぶが泡沫のように消えてしまう情景が、少女たちの頭を離れなかったから。
自分たちに出来るのはいつも通りに、しのぶのことを支え続けるだけだと無力感に苛まれながらも懸命に働くしかなかった。
しのぶが一切休む気配を見せないのも心が痛んだ。他のことを考えまいとしているのか、しのぶは食事も睡眠も疎かに動き続けていた。
まるで自らの意思で死の旅路へと突き進むように。
少女たちの尽力もあってしのぶの休憩時間は捻出されていたが、当の本人はその時間で食事もしなければ眠ることもない。
優しい思い出に沈むのだ。
愛しい異性とのやり取りを想起して、もう存在しない人とお喋りする。
抜け殻となったしのぶが笑みを浮かべて、人間に戻れる唯一の時間。
邪魔なんて、出来るわけがなかった。
「カナヲ」
背後から名前を呼ばれて、カナヲは振り向く。
市松模様の羽織りを着た額に大きな痣がある少年と、麻の葉文様の着物に市松柄の帯を巻いた少女がそこに居た。
「炭治郎、禰豆子」
「しのぶさんは?」
「……水柱様と、お話ししてる」
「そうか……」
カナヲの言葉に遣る瀬無せを滲ませた兄妹──竈門炭治郎と竈門禰豆子は表情を曇らせた。
自分たちではどうにもならないと、打ちのめされるのはこれで何度目か。
炭治郎と禰豆子はしのぶとその想い人──冨岡義勇に大恩がある。
義勇がいなければ、禰豆子はもうこの世にはいなかった。
しのぶがいなければ、禰豆子は人間に戻れなかった。
一生掛かっても返し切れない恩だ。
鬼の始祖を討滅して、ようやく返せると思ったのに。
「私、何も言えてないです。話したいことはたくさんあるのに、ありがとうございますも……」
「禰豆子……」
涙ぐんで俯く禰豆子を炭治郎も泣きそうな顔で優しく撫でる。
人間に戻れて最後の戦いから戻ってきた炭治郎と抱き合った後、禰豆子はいの一番に会いたい人がいた。
「鬼になった私を一番最初に助けてくれた、黒髪を一つに結った男性は? 御礼を言いたいの!」
悪気は無かったのだ。本当に、感謝が伝えたかっただけで。
禰豆子の言葉に当て嵌まる特徴の男性がすぐに結び付いた炭治郎は、一瞬だけ硬直した後に、顔をくしゃくしゃに歪ませて滂沱の涙を流しながら崩れ落ちた。
理解してしまった。禰豆子は激しく後悔した。
鬼殺隊のみんなが、明日をも知れない戦場に身を投じ続けていると知っていたのに。
二人で大泣きして、ありがとうを天に告げるしかなかった。
そしてもう一人の大恩人には、二人の存在は否応無く義勇を思い出させるからと言葉を掛けることすら出来ていない。
「大丈夫だ、禰豆子。いつかきっと、しのぶさんにもありがとうが言えるさ!」
「そうだね。禰豆子の感謝を、しのぶ姉さんなら受け止めてくれるはずだよ」
「……はい! 私ぜったいに、御礼を言わないといけませんから!」
「だから今は精一杯しのぶさんを支えよう!」
『うん!』
……だが、この決意から一月もしない日に、しのぶは二度と覚めない眠りに就いた。
その日に誰もが思ったのだ。ひと段落ついたと。
慌ただしさが無くなったと同時に、しのぶは糸が切れた人形のようにパタリと倒れて、それきりだった。
しのぶを慕う多くの者が布団を囲むなか、カナヲは最期までしのぶの手を離さなかった。
『しのぶ様……っ!』
「……アオイ、なほ、きよ、すみ、みんな、今までありがとうね」
「そんな……っ!? 私たちの方がお世話になりっぱなしで、何も返せていないのに……こんな、こんなことって……っ!!」
「しのぶ姉さんっ!!」
「カナヲ……」
最期にしのぶは、最愛の家族へ微笑んだ。
「愛しているわ、私の可愛い妹……先に逝く姉さんを許して」
「っ!? 私もっ! 私もしのぶ姉さんを愛しています!!」
「……ありがとう」
人形から人間に戻った妹を見て、しのぶの表情が和らぐ。
天井を見上げるしのぶは、とても幸せそうにしていた。
──お父さん、お母さん、姉さん……義勇さん。今行くね。
そう呟いて、しのぶは永遠の眠りに就いた。
嘆きの叫びが蝶屋敷に響き渡る。
胡蝶しのぶはこうして、人生の幕を降ろしたのだった。
◆
月曜日が来ないで欲しい。
度々耳にしたことのある言葉だったが、共感したことは無かった。労働もしていない学生の身分なのだから健全な感覚だろう。友達と話すのも想い人と触れ合うのもきっかけは学校があってこそだ。月曜日はむしろ楽しみである。
だが、今ならその日常生活の始まりの日を厭う気持ちがよく理解出来た。
「……結局一睡もできなかった……」
どんよりとした雰囲気でカナヲは思わず呟いていた。
昨晩から明日が学校だと思うと不安で眠れなかったのだ。
不安の理由は言わずもがな、姉がどんな行動を起こすのかが気懸りだったから。
カナヲの姉である胡蝶しのぶが前世の記憶を思い出した。
ここまではいい。あの頃の精一杯の感謝を抱いていたカナヲとしては思い出して欲しくもあったが、その記憶が凄惨過ぎるために逆も然りといった状況で、天運に任せていた部分もある。
きっかけになったしのぶの想い人との再会は、しのぶの幸福を考えてカナヲも祝福するところであった。
話がこれで終わっていれば問題無かったのだ。
例え相手に前世の記憶が無くとも、しのぶならあの手この手で思い出させた上で幸せを手に入れるだろう。しのぶはそういう人間である。
式典の途中、相手の姿を見てしのぶが倒れた聞いた時からカナヲは応援する気満々であったのだ。本当に、何も不都合が無ければ。
しのぶの姉である胡蝶カナエもその想い人を慕っているらしい。
どうしてそうなった……!? とカナヲは頭を抱えてしまった。
寄りにもよってその展開はないだろう。一体何の恨みがあるというのか。姉妹で同じ男を取り合うなんて、どう考えても修羅場不可避である。
そして、しのぶの想いの丈を見誤っていたのが最大の失態。
過去から蘇った恋慕の情は、ただの思春期の恋愛感情で片付けていいものでは到底なかった。
言うなれば常軌を逸した愛情。
愛を知ったと同時に喪った百年越しの恋情は、病的なまでの狂愛となっていたのだ。
その想いがやっと成就すると思ったところで、自分のことは一切覚えていないのに実の姉とは下の名前で呼びあう仲を見せ付けられた。
「……お腹痛い」
かつて見たことの無い極黒の虚無の瞳を思い出して、カナヲはキリキリと痛む腹部を抑えて立ち上がった。
取れない疲れというものを久々に体感しつつ、身嗜みを整えるために姿見の前に座る。
映っていたのは、瞳をやや充血させた青白い自分の顔。
「ひどい顔……」
目の下には白磁の肌を汚す黒い隈まであって、今世では虐待されていた時代まで遡らなければ見た記憶のない顔であった。
流石にこれは家族に心配を掛けてしまうとパチパチと頰を叩いて、顔を洗うために部屋を出て洗面台へと向かう。
誰にも会わずに辿り着いた其処でカナヲはパシャパシャと顔に水を掛け、滴る雫を俯きながらぼぉーっと見てみるも、さっぱりしたところで気分は晴れないらしい。
(何か方法は無いの……?)
一晩考えても碌な結論が出なかったことをカナヲはもう一回思考してしまう。
(しのぶ姉さんとカナエ姉さんの仲が壊れないまま、二人共幸せになって、健全で、穏便に、この日本で合法的に二人が水柱様をゲット出来る方法は何か無いの!?)
カナヲはとても疲れていた。
始業式で剣道部副顧問と紹介されていた冨岡義勇先生が、朝登校したらフェンシング部と薬学研究部の副顧問になっていた。
加えて高等部・3年蓬組の胡蝶しのぶが風紀委員長になっていた。
(しのぶ姉さんの仕業だ……!?)
始業式があったのは日曜の昨日を挟んだ土曜日。
つまりたった二日で書き換えたのだ。
私利私欲の為には学園全体を巻き込む事も厭わない。
どうやら理性という歯止めを失ったしのぶは、権力を持たせてはいけない部類の人間筆頭だったらしい。
掲示板に張り出された紙ペラ一枚にどれだけの裏工作が働いたのか。想像すらしたくない現実にカナヲの胃壁が悲鳴を上げる。
「カナヲさん、どうかしたのですか?」
青い顔をしていたカナヲを見てか、誰かに声を掛けられる。
振り向くと其処には二人の男女の姿。
瞳に花を咲かせたような虹彩が印象的な現世では久しく見ない髪飾りで髪を後ろにまとめた可愛らしい少女と、睫毛が桜色の細身ながら頑強な肉体が一目で分かる青年。
「恋雪、狛治先輩」
キメツ学園のベストカップルと名高い二人──恋雪と狛治は、並んで心配そうにカナヲを見詰めていた。
「顔色が優れません。カナヲさん、体調を崩されているのでは?」
「ううん、大丈夫。心配かけてごめんね、恋雪」
同級生で中等部からの友人である恋雪に、カナヲは胃痛をぐっと抑えて微笑みを浮かべる。
強がっていることは容易に見て取れた恋雪だったが、心優しきカナヲが一度取り繕った仮面はそう易々と剥がせないのも知っていた。此処で問い詰めては逆に負担を上乗せしてしまうだろう。
仕方ないと諦めた恋雪は、先程までカナヲが見ていたのだろう掲示板へと視線をズラした。
「……新任の冨岡先生の顧問担当がもう変更に? あと胡蝶先輩が風紀委員長になっていますね……狛治さん、知っていましたか?」
「いえ、今初めて知りましたが……」
悩みの種はこれかと二人はすぐに結び付けるも、この人事にどのような思惑があるのかには流石に思い至れない。二人は
隠し切れない内圧にカナヲの身体は不調を訴えるも、カナヲはふんすと気合いを入れてとりあえず無視した。
「それで狛治先輩、何かご用があったのではないですか?」
「お察しの通りなのですが……」
普段から狛治は過保護とも思えるくらいに身体が強くない恋雪に寄り添っているのだが、学園では恋雪の同級生の友人を見かけた時点で離れるのが常だった。
そんな狛治がわざわざ恋雪と一緒にカナヲへ声を掛けたのなら、何かあると勘繰るのが自然である。
カナヲの推測は当たっていたようだが、狛治本人にはどうやら躊躇いがあるらしい。
紳士的な彼が言い淀むなんて、正直嫌な予感しかしない。
だが此処で聞かないのも後が怖い。
頼むから別件であってくれと願いながら、大丈夫ですと一言述べてカナヲは狛治を促した。
只でさえしんどそうなカナヲにこれ以上の心労を募らせるのは本意ではなかったが、後々波乱に繋がっても困ると狛治は口を開くことに。
「実は春休みに推薦の関係でキメツ大学に行ったのですが、その時学長から情報提供がありまして……」
「……鬼舞辻無惨からの情報提供ですか?」
「はい……」
ほら見たことか、とカナヲは目に見えてげんなりする。厄介ごとの匂いしかしない。
只の人間になりはしたものの、自分たちと同様にのうのうと生まれ変わっているあの野郎には文句が山程あり、喉までせり上がった罵詈雑言を飲み込んでカナヲは続きを求める。
狛治の表情が曇り、嫌悪感を剥き出しにして告げた。
「昨年度卒業したそうですが、上弦の弐を確認してるそうです」
「なっ!? 本当ですか!?」
「はい。どうやら
詳しく聞くと、色々と問題を起こしていたらしい。
カルト宗教にしか思えない団体の教主様として活動していたとか、本人の妙なカリスマによって被害が続出して悲惨だったとか、とある一人の女性に妙に付きまとい始めて最終的に一時停学を命じたなどなど。あのワカメヘアーの男はちゃんと学長として仕事していたようだ。
「就職先にこの学園を望んでいたようですが、うちの学園長と学長で手を組んで断固阻止したとか」
「お館様……!」
今世も心から慕える学園長に深く感謝して、カナヲの表情から気持ち分の剣呑さが溶ける。
しかし、その存在自体が消え失せたわけではないのだ。
狛治の忠告の裏を正しく読み取ったカナヲは再び、かなり露骨に消沈した。
「……今後は注意してみます」
「はい、そうして下さい。……、不躾かと思いますが、本当に大丈夫ですか? 恋雪さんの言う通りかなり顔色が悪いようですが……」
「……まだ大丈夫です」
あまりにも真剣な眼差しで心配されて、カナヲからはつい弱気が漏れてしまう。
その緩みを恋雪は見逃さなかった。
「カナヲさん。お力になれるかは分かりませんが、出来る限り協力いたします。悩みを吐き出すだけでも楽になるはずです。竈門さんには相談したのでしょう?」
「……ううん、実は炭治郎にもまだ言えてなくて」
その発言に狛治と恋雪は驚愕に目を見開いた。カップルを通り越してもはやただの夫婦と言われている二人に、まさか隠し事があるとは思っていなかったのだ。
カナヲが抱えている事情は余程特異な案件なのだろうと狛治と恋雪は察し、だからこそと恋雪は優しくカナヲの手を両手で包み込んだ。
「手もこんなに冷たいです。竈門さんにも言えないことを私たちに言えとは言いません。ですが、一人で溜め込んではカナヲさんが大変です」
「……ありがとう、恋雪。何かあったら、協力をお願いしてもいい?」
「はい、もちろんです!」
花が咲いたような可憐な笑みを浮かべる恋雪を見て、カナヲは精神的な疲労が僅かに和らいだ気がした。
仲睦まじい少女二人を見守り、これで要件が済んだので解散しようと思っていた狛治だったが、ふと今朝の出来事を思い出す。
「炭治郎といえば、今朝通学途中に寄ったのですが、炭治郎の家に胡蝶さんがいましたよ」
「……………………え?」
ゾワッ、と、カナヲの背筋に悪寒が爆走する。
上弦の弐など目ではない特大級の爆弾の話題に、知らずカナヲの喉が震え始めた。
「な、なんで……?」
「理由は流石に分かりませんでしたが、炭治郎と禰豆子さんに何か頼み事をしていたのかと」
微振動が止まらないカナヲは、ここに来てようやく己の失態に気付く。
……しまった、完全に油断していた。
少し考えればすぐに気が付いたはずのに、どうして見逃してしまったのか。
義勇が記憶を取り戻すきっかけとして、身近な知り合いで一番可能性があるのはあの兄妹だというのに。
慣れていたのだ、現世での関係性に。
しのぶにとって炭治郎は、妹の恋人だった。
他人よりは近しいが、自分から接触することは殆どない。炭治郎と何か話があるなら、必ずカナヲを間に挟む。
今まではそうだった。
だが、今は違う。
しのぶが前世の記憶を取り戻した今、その関係性は大きく変化した。
少なくとも、炭治郎たちにとっては。
しのぶは恋人の姉ではなく、前世からの大恩人になったのだ。
「つ、栗花落さん? 本当に大丈夫で──」
「──あっ、恋雪じゃない! おはよー!」
「梅さん、おはようございます!」
「……で、なんでアンタがいんの? さっさと三年の教室に行きなさいよ」
「……恋雪さん、やはり友達付き合いは考え直した方がいいかと」
「そんなこと言ってはダメですよ、狛治さん。梅さんは私の大事なお友達ですから」
「ふっふーん、言われてやんの! 女の友情に男が首突っ込んでじゃないわよ、この過保護マツゲ!」
「誰が過保護マツゲだ」
「……梅なぁ、おめぇなぁ。カバンくらい自分で持って欲しいんだがなぁ」
「あっ、お兄ちゃん! ありがとね」
「謝花先輩、おはようございます」
「おはようなぁ。いつも妹がわりぃなぁ。こんなんだが、友達でいてくれると俺も安心できるんだよなぁ」
「何言ってるのお兄ちゃん、私が恋雪の友達になってあげてんのよ?」
「……こんなんだが、友達でいてくれると俺も安心できるんだよなぁ」
「はい、梅さんは大切なお友達です」
「ちょっとお兄ちゃん!?」
焦燥がカナヲの全身を突き抜ける中、目の前で交わされる会話が耳に入らない。
だというのに、その名前だけは聞き逃さなかった。
「てかあれはなんだったんだろうなぁ? あのガキはあんなことする奴じゃないと思ってたんだが……」
「あのガキって、炭治郎のことか?」
「ああ、なんかさっき校門で見世物みたいなことしてたんだよなぁ」
「……っ!?」
「カナヲさんっ!?」
気付けばカナヲは恋雪の声を置き去りに駆け出していた。
下駄箱へ急ぎ、行儀悪くローファーの踵を潰したのをトントンとつま先を叩きながら疾走。
持ち前の俊足であっという間に辿り着いた校門で、カナヲは完全に思考停止した。
──???????????????????
脳の情報処理が追い付かない。
目が点となって、心底ぽかんとなった。
自分の頭か眼がおかしくなったかと笑いたかった。
だが現実とは非情なもので。
どれだけ目をこすっても目の前の光景は変わらない。
学園のジャージを着た義勇が珍しく表情を変えていて。
姉のしのぶが手を合わせて笑っていて。
炭治郎と禰豆子が懐かしい格好で寸劇を繰り広げていて。
再起動したのち、カナヲは声なき声で叫ぶ。
(──夫と義妹が校門前でコスプレしてるぅううううーーーーっっっ!!!???)
胃痛がさらに重くなったのは言うまでもなかった。
◆
「ありがとうございました、失礼いたします」
学園内にある重厚で荘厳な両開きの扉を閉めて、しのぶは無意識に悦が滲んだ微笑みを浮かべていた。
(お館様が学園長で本当に良かったです。説得もすらすらといきました)
元同僚の今日付けで美術教師となった彼なら「あれは説得じゃなくて脅迫」と言うだろうが、目的を達したしのぶにとってそんなのは茶飯事である。
なお、しのぶの異常な様子を見てこの後事情聴取として彼は学園長に呼び出されるのだがそれは別の話。
しのぶは月曜日からの想い人と寄り添える(半強制)学校生活を愛おしそうに思い描きつつ、次にやるべき作戦へ思考を走らせる。
(有象無象はともかく、姉さんだけは要注意です)
私の彼に色目を使っているだけでも沸々と赫怒が煮え滾るというのに、名前で呼び合う光景は思い出すだけで獄炎の如き嫉妬が心を真っ赤に焼き尽くす。
──許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない──
「ふーーー、ふぅぅぅ……っ!」
知らず顳顬に幾本の青筋が刻まれるも、鍛え抜かれた自制心でもってそれを押し殺す。
藤色の瞳には依然狂愛が淀んでいたが、感情の乱れで本懐を遂げられないのではあまりにも無様。
しのぶは無理やり冷やした頭で考えることを止めはしない。
(義勇さんが思い出してくれればいいんです。トリガーとなり得るのは……やはり炭治郎君たちですかね……っ)
自分ではなかったという事実を考えると、絶望感で泣いてしまいそうになる。
慕っている人の特別になれていないと有無を言わさず突き付けられたような、そんな悲痛。
それでも、挫けるなんて有り得ない。
しのぶはもう二度と何も失いたくない。
両親も、姉も。
異性として愛した人は絶対に。
例え姉だろうと義勇が目の前で誰かに盗られるなんて、しのぶには耐えられない。
そんな光景を見たら、しのぶは自死すら選びかねないから。
この狂気はもう、止められないのだ。
「こんばんは、炭治郎君と禰豆子さんはいらっしゃいますか?」
「あら、しのぶさん。いらっしゃいませ。少し待っててくれるかしら」
店番をしていた淑やかな笑みを浮かべる女性──竈門葵枝は快くしのぶを向かい入れ、子供たちの部屋がある二階へと声を掛ける。
珍しい来訪者の名前を聞いて、とある可能性に思い至ったのだろうか。ドタバタと慌てて駆け下りる複数の足音が鳴り響く。
「こら、家で走らないの! 全く、あなた達はもう高校生なんだから」
「ごめん、母さん!」
「ごめんなさい、お母さん!」
物凄く投げやりに思える全力の謝罪を口にして、現れたのは二人の兄妹──竈門炭治郎と竈門禰豆子。
変わらないけど確かに成長した二人の姿にしのぶはどこか懐かしさを覚え、あの頃と同じように柔らかく微笑んだ。
「炭治郎君、禰豆子さん。お久しぶりです、蝶屋敷以来ですね」
『──っ!?』
その一言で全てを察した。
炭治郎と禰豆子は嬉しそうな、それでいて泣きそうな、万感に満ちたくしゃくしゃな顔で笑う。
『お久しぶりです、しのぶさんっ!』
「はい。……少しお話ししたいことがありまして、お時間を頂けますか?」
「勿論です!」
「さぁ、あがってください! お兄ちゃん、私の部屋でいいよね?」
「あぁ! 禰豆子、先に行っててくれ。俺はお茶菓子を用意するから!」
ピューンと台所へ飛んでいく炭治郎を見送って、禰豆子に先導されたしのぶは階段を上って彼女の部屋へとお邪魔する。
女の子らしい可愛い部屋には幾つかのクッションがあったので、しのぶは一つを拝借して座り込む。
遅れてやって来た炭治郎はそれぞれに紅茶とお菓子を配膳。丸テーブルを囲んで三人が揃って。
刹那の沈黙を破り、切り出したのは禰豆子だった。
「しのぶさん、あの、記憶は……」
「はい、全部思い出しましたよ。私は鬼を殺せる毒を作った、ちょっと凄い元鬼殺隊蟲柱、胡蝶しのぶです」
しのぶのお茶目でありながら凛々しい名乗りを聞き、感極まって禰豆子は今度こそ涙を零す。
「ほ、本当なんですね……本当に……っ!?」
あぁ、やっと、やっと言える。
衝動が抑え切れなかった禰豆子は、次の瞬間にはしのぶに思いっきり抱き着いていた。
「禰豆子さん?」
「……ありがとうございますっ、ありがとうございます……ありがとうございますっ!! 鬼となった私を信じてくれて、兄と一緒にいさせてくれて! 人間に戻す薬を創っていただいてっ! ……ずっと、ずっと御礼が言いたかったんです……っ!」
言えなかったのだ。迷惑をかけた謝罪も、めいいっぱいの感謝の言葉も。
目の前の恩人は戦いの果てに己を擦り減らし過ぎて、壊れてしまった。
何も返せずに、逝ってしまった。
心にいつまでも残った痼りは、禰豆子が天寿を全うしても拭えなかった。
記憶を取り戻した今でも、結局言えずじまいで。
ふわりと、しのぶは禰豆子を包み込んだ。
「人である禰豆子さんは、こんなに可愛くて明るい良い子だったんですね。鬼だからと殺そうした私は、あなたが人に戻っていた最期の一月でも、それを知ろうともしませんでした。情けない姿ばかりお見せして、幻滅したでしょう?」
「そんなことありませんっ!! しのぶさんの痛みも悲しみも苦しみも、私には想像すら出来ませんでした……それでもしのぶさんは素敵な方で、凄い方で、だから、だから……っ!」
「……ありがとう、禰豆子さん」
言葉にし尽くせないのだろう感謝の想い。
何も成し遂げず、大切な妹を一人遺して先に去った哀れなあの時代の自分が、禰豆子の存在で救われたような気がする。
必死に生き抜いた証を、残せたのだと思えた。
──あぁ、良かった。
ぐじゅぐじゅに声を抑えて泣く兄妹を見て、しのぶは思う。
──この二人はきっと、私に協力してくれる。
どうか醜く利己的な私を許してほしい。
カナヲではダメなのだ。優しいあの娘は、対立し合うだろうしのぶとカナエ、どちらの味方にもなれきれないから。
二人が事情を知らないのは賭けだった。
家族の問題にカナヲは即断で二人を巻き込めないと踏んでいたが、軍配は自分に上がったようだ。
動き出すならこの数日中しかない。
しのぶは禰豆子をぎゅっと抱き締める。
その顔には、昏い微笑みが浮かんでいた。
「落ち着きましたか?」
「はいっ……すみません、ご迷惑ばかりで」
未だ目は真っ赤な炭治郎と禰豆子だったが、泣き腫らしてすっきりしたのだろう。晴れ晴れとした表情でしのぶに向き直っていた。
これでようやく本題へと入れる。
「それでしのぶさん、お話とは何ですか? 俺と禰豆子に協力できることなら何でもしますよ!」
「はい! 必ずお力になってみせます!」
「ありがとうございます。実はお願いがありまして……」
一呼吸溜めて、予め考えていた流れでしのぶは会話を構築する。
「義勇さんのことなのですが、お二人は……」
「はい……その点はカナヲから聞きました。義勇さんは覚えてないんですよね?」
「そうなんです……お二人は会いましたか?」
「いえ、それが……カナヲが止めに来たので会ってないんです」
シュンと落ち込む二人。その寂寥感はまるで迷子になった仔犬のようなもので。
炭治郎と禰豆子は今日の式典で義勇を見た時、とてつもない歓喜が胸の内より湧き上がっていた。一緒に並ぶ天元や杏寿郎の姿もあったために、早合点してしまったのだ。
これで義勇にも、あの時言えなかった感謝が伝えられると。
後ほど教室で揃ってカナヲに伝えられた真実に、酷く項垂れたものだ。
その様子に、しのぶは第一関門を突破したことを理解する。
「今更ですが、お二人は同学年なんですね」
「はい。あの頃はちゃんと一つ離れていたのですが、今は俺が四月生まれ、禰豆子が三月生まれの同級生です」
「お兄ちゃんの同期の方はみんな同学年なんですよ」
にこりと笑う禰豆子は愛らしく、その事実がとても嬉しいと物語っているようだ。
「因みになのですが、お二人は誰と会って思い出したのですか?」
ここまで当たり前のように話していたが、過去の光景を洗ってしのぶは二人が思い出していることを断定していた。今さっき聞いたところだ、炭治郎の同期とは既知の関係だと。
自身の推測を他人の経験で補うのは常套手段。
この前提条件さえ満たせれば、策を実行する価値が見出せる。
しのぶの疑問にやや照れ照れと恥ずかしがる二人だったが、思いの外簡単に口を割った。
「俺はカナヲでした」
「私は善逸さんです」
「まぁ! 炭治郎君はカナヲだと思っていましたが、禰豆子さんは善逸くんだったのですね」
ある程度当たりは付けていたが、しのぶは愉快そうに小首を傾げる。
「どんなご関係なのでしょうか? 私の中で皆さんは同期の子以外ではなかったのですが?」
「えーと、そのですね……」
カァーっと頰を紅く染める兄妹をニコニコと見守るしのぶ。
「一言で言うと、夫婦です」
「あら! あらあらあらあらまあまあまあまあ!」
絞り出すようにして告げられた言葉は、予想通りだった。
あとはもう一つの事例の裏さえ取れればいい。
「思い出した時は大変だったのでは? きっと一同に会したのでしょう?」
「はい。中等部で再会したのですが、俺、禰豆子、善逸、伊之助、玄弥、アオイさんが一斉にぶっ倒れまして……」
「おや? カナヲは倒れなかったのですか?」
「カナヲはしのぶさん達と出会った時点で思い出していたそうですよ」
──条件が揃った。
本人にとって思い出深ければ、きっかけとしては十分。必ずしも男女の関係で無くともよい。また恐らくにはなるが、近しい血縁者では思い出さない。
(二人なら可能性はありますね……)
義勇が命を懸けて護ろうとしたこの兄妹なら。
「やはりカナヲはそうだったのですね」
「……しのぶさんは、その、やっぱり、今日倒れたのって」
「はい。私は今朝の式典で、義勇さんを見て思い出しました」
息を飲む音が二つ鳴る。
二人は半ば確信を持ってはいたが、いざそう言われるとどう反応していいか戸惑う。
義勇が死してからのしのぶを知っているから尚の事。
炭治郎と禰豆子からしても、しのぶの最期は、彼女が歩んだ人生は、悲しみに彩られていた。傷だらけのまま飛び続けて、最期にはその鮮やかな翅をくしゃくしゃに丸めて死んでしまった蝶のように。
義勇はその終わりの引き金を引いてしまった人だ。
彼はきっと満足して逝ったのだろう。死に様を見届けたカナヲからは、立派な最期だと聞いた。
その結末が呪いとなってしのぶに重く残るなんて、予想すらしてなかっただろう。
「思い出したすぐ後、義勇さんに会いに行ったんですよ。……義勇さんは覚えてもいなくて、私を見ても思い出してもくれませんでしたが」
悲しみの感情が溢れ、しのぶは瞳を伏せて俯く。
その心中は炭治郎たちでは測り切れない。
下を向いたまま、しのぶは胸の前で儚げにぎゅっと手を握り込んだ。
「私は、義勇さんが好きです」
『!?』
炭治郎と禰豆子は硬直する。
正直に言ってしまえば、しのぶの義勇に対する気持ちは知っていた。前世でのしのぶの行動を見ていたのだ、幾ら鈍感な炭治郎でもそれぐらいは分かる。
ただここまではっきりと、しのぶが言葉にして自分たちに告げるとは思っていなかったのだ。
「もう二度と言葉を交わせないと思っていました。もう二度と会えないと思っていました。だけど、こうして奇跡が起こってくれました。私は……今度はずっと、義勇さんと一緒にいたいんです」
恥ずかしげ頰を染めて、然れどとても綺麗な微笑みを見て、炭治郎と禰豆子は自然と顔が紅潮する。
しのぶの顔があまりにも美麗で、つい見惚れてしまった。
「だけど、義勇さんは私のことを覚えていない。……私にはそれが耐えられないのです。あの頃の記憶は悲惨なものばかりです。きっと義勇さんもそうだったのでしょう。……それでも、私は思い出して欲しいんです。欲張りで、我儘で、自分勝手で、醜いこの気持ちが、抑えられないんですっ!」
しのぶは両手で自分の腕を抱え込む。隠していた狂愛が自制心の外へと脱して瞳に宿る。
一度は目の前で失った。
後悔も悲愴も愛情も、捌け口を用意出来ずしのぶの中で行き場を無くして、何も掴み取れずに終わった一度目。
二度目なんてあるはずが無かったのに、何の因果か奇跡が舞い降りた。
それなのに、しのぶの想いは届かない。
中途半端な奇跡は残酷な現実となって襲い掛かるのだと初めて知った。
狂気を孕んで暴れる強欲は全てを巻き込んでも止められないと語るような、痛ましい姿。
炭治郎と禰豆子は言葉にならない感情で胸が締め付けられる。
安易な同情なんて烏滸がましいと、そう思わずにはいられない悲哀。
鬼がいない平和な世界で、刀を握らずに普通の女の子としての日常を送れるのに、未だしのぶは幸せにはなれていない。
『──っ!!』
そんなのは耐えられない。
これまで己を顧みず頑張ってきたしのぶには、多大なる恩を受けたこの人には、誰よりも幸せになってほしい。
あの時とは違うのだ。今なら力になれるのだ。
しのぶの腕を握り潰そうとしてる彼女の手を、二人は優しく解いて両手で包む。
「しのぶさん、義勇さんの記憶を呼び起こしましょう」
「ですが……それは必ずしも義勇さんの幸せとは……」
「分かっています。俺たちも今まで、故意に誰かに働き掛けたことはありません。例え今、誰も喪っていなくても、あの時代は辛い思い出には違いないはずなので」
「でも、しのぶさんの為なら、私たちは心を鬼にできます。冨岡先生への罪悪感はありますが、それでも、私も、お兄ちゃんも……御礼が言いたいんです。恩を仇で返す真似になるのかもしれません。でも、今のこの気持ちも嘘ではないんです」
「……ありがとう。ありがとうございます、二人とも……」
手を取られたまま、表情が見られないようにしのぶは蹲る。
髪の毛で影となるその奥で、しのぶは
──計画通り
恋心の告白。
秘密の共有。
良心を凌駕する同情心の醸成。
秘めた欲望の誘引。
炭治郎と禰豆子はもう何でもしてくれるだろう。そうなるように仕向けたのだから。
これまでの言動全てに、嘘はない。
嘘さえ無ければ、匂いで感情まで看破する炭治郎であろうとしのぶなら造作も無く操れる。
面を上げて、しのぶは協力者たちを真摯に見詰めた。
「二人には、一芝居打ってほしいと思います」
◆
決戦の月曜日。
炭治郎と禰豆子は自らの格好と周りからの視線に早くも後悔に襲われていた。
(「お兄ちゃん! これかなり恥ずかしいよっ!?」)
(「予想できていたことだ! しのぶさんの為にも、俺たちが一肌脱がないといけないんだ!」)
小声で揺らぎそうになる決心を再度固める仲良し兄妹。怪訝を超えて不審者を見る目が多数あろうと、今更引くことは論外である。
キメツ学園の校門近くで潜む鬼殺隊の隊服を模した服に市松模様の羽織りを着た炭治郎と、麻の葉文様の着物に市松柄の帯を纏った禰豆子。
どうしてこんなことになったのか。
「シチュエーションも込みで思い出に訴えましょう」
先日の作戦会議で、しのぶはそう切り出した。
「シチュエーションですか?」
「はい。義勇さんは天然ドジっ子の超が付く鈍感さです。ただ再会するだけでは弱いかもしれません」
「なるほど、ファーストコンタクトが大事ということですね!」
「その通りです、禰豆子さん」
ふむふむと頷く禰豆子はまさかこんなことになるとは思っていなかった。
気付けばしのぶに丸め込まれて兄の隊服や自分の着物を類稀なる裁縫力で仕上げ、こうして装着するまでに至っていた。
「よし、時間も惜しい。行くぞ禰豆子!」
「ムー!」
竹の口枷を付けるともう喋れない。
ザッ、と校門の前に姿を現した二人。
目の前には学園のジャージを着て生徒の服装チェックをする義勇と、今日付けで風紀委員長になったしのぶの姿。
怪訝に眉をひそめる義勇に微笑みの仮面を付けたしのぶ。
義勇の様子に大きな変化はない。
やはりこれだけでは駄目なのだ。
「……っ!」
炭治郎は義勇に向かい一歩前へと踏み込んだ。
「禰豆子は人間で、俺の妹なんです! 鬼じゃないんですっ!!」
禰豆子は羞恥に負けて両手で顔を覆った。
だがしかし、即座に思い直して毅然とした態度を取り繕う。
兄がこんなに頑張っているのだ。妹であり長女の自分が目をそらすなどあってはならない。
「禰豆子は違うんだ! 禰豆子は人を食ったりしない! 俺が誰も傷つけさせない、きっと禰豆子を人間に戻す……絶対に治します!!」
嘘や腹芸が苦手な炭治郎だが、その言葉と態度は迫真である。義務感と思い出と感謝と羞恥を熱に、炭治郎は既に頭が茹っていた。
──例え義勇さんに恐ろしくドン引きされた目で見られようとも!
──しのぶさんが素で笑い始めていると思っていても!
──俺が挫けることは絶対にない!!
禰豆子は思う。
(あの頃の私「うー」と「ムー」しか言えなくて本当に良かったぁ……ごめんねお兄ちゃん!)
中々に非情であった。
「家族を殺した奴も見つけ出すから! 俺が全部ちゃんとするから、だから……」
炭治郎はそのまま膝を突いて両手を前へと下ろす。一般的に土下座といわれる態勢になり、義勇は更にギョッとする。
「やめてください……どうか妹を殺さないでください……お願いします」
人聞きの悪過ぎる言葉を残す炭治郎に、義勇はどうしたらいいのか分からないのだろう。次第におろおろとし始め、咄嗟に側にいるしのぶに助けを求める。
しのぶは口元で手を隠して小首を傾げるだけだった。
義勇に望んでいた変化は未だ見られない。
なら続行である。
伏せていた炭治郎の腕の下へ禰豆子がのそのそと潜り込む。
この時点で炭治郎はカナヲが側で見てることを嗅ぎ取っていた。
例え妻に見られていようとも、その妻が全力の心の声で「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて!」と訴えていようとも、炭治郎はもう止まれない。
上から禰豆子を守るような態勢を整えた後、炭治郎はキリッと顔を上げた。
「殺された人たちの無念を晴らすため、これ以上被害を出さないため……勿論俺は容赦なく鬼の頸に刃を振るいます。だけど鬼であることに苦しみ、自らの行いを悔いている者を踏みつけにはしない」
ちらっと視界に映ったカナヲが両手で顔を覆っているが気にしない。気にしないったら気にしない。炭治郎は義勇の双眸だけを見つめ続ける。
なおこの間、禰豆子は寝転び上を向いて目を瞑っているだけである。
「鬼は人間だったんだから。俺と同じ人間だったんだから。醜い化け物なんかじゃない、鬼は虚しい生き物だ……悲しい生き物なんです」
──さぁ、どうなる!?
前回はこの言葉を述べ再会した場面で、義勇は二年前に出会っていた炭治郎と禰豆子を思い出したはず。
ここまでやって無理なら炭治郎たちでは記憶のトリガーに成り得ない。
「っ!?」
転瞬、義勇は柳眉を歪めて片手で頭を抑えた。
『──っ!!』
事情を知る四人はビクリと反応を示す。
この兆候には覚えがある。まず間違いなく記憶が揺さぶられているだろう証左。
追い討ちを掛けるなら今しかない。
「──校門前でふざけてる子が居るって聞いたけど──義勇くんっ!? どうしたの、大丈夫!?」
「……ちっ!」
思い切り舌を打つしのぶにカナヲは総毛立つ。
悪ふざけの犯人であろう炭治郎と禰豆子を置いて、突如現れた胡蝶カナエは真っ先に義勇へ寄ろうとした。
「冨岡先生、大丈夫ですか?」
勿論それを許すしのぶではないので、優等生の仮面を被りなおしてカナエの道を当然のように塞ぐ。
「……あぁ、問題ない。少し立ち眩みしたようだ」
「まぁ、それは大変です。体調を崩されているのかもしれません。私と一緒に保健室に行きましょう?」
「ダメよしのぶ。この後朝礼でしょう? 姉さんが連れて行くから」
「姉さん……いえ胡蝶先生には、この場の処理をお願いします」
「えっ? それこそ風紀委員の仕事じゃないかしら、胡蝶さん?」
──嫌だ嫌だ怖い怖い帰りたいよぉ!
耳を塞いで現実逃避するカナヲを他所に、言葉の裏でナイフを突き刺し合うような女の争いが勃発。
騒動の中心から逸れたと感じ取った炭治郎と禰豆子は、これ幸いとカナヲの側へと駆け寄った。
「カナヲ、カナヲ!」
「炭治郎、禰豆子! 二人ともなんてことを……っ!」
「すまない、話は後で聞くから! 俺と禰豆子は急いで着替えてくる!」
「ごめんなさい、義姉さん!」
「あっ!? ちょっと、待って!」
カナヲの制止の声も虚しく、ピューンと駆けて二人は消える。
振り返って残ったのは、カナヲの目からは義勇を巡って火花を散らしているように見える美人姉妹のみ。
「──あっ、いたいた。義勇!」
そして、混沌は留まるところを逸したらしい。
「……あっ」
新たな声に逸早く反応したのは義勇であり、釣られて三姉妹の視線が移る。
見た覚えのない女性がいた。
義勇と同じ烏の濡れ羽色の黒髪を後ろで三つ編みにまとめた、蒼い瞳が美しい女性だ。年はカナエより上だろうが、その淑やかさと美麗さはキメツ学園保険医である珠世と通じるものがあった。
穏やかな微笑みを浮かべている女性は迷いなく義勇へと歩を進め、義勇もしのぶとカナエを置いて距離を詰めていく。
「はい、お弁当。もう、取りに来てって言ったじゃない」
「すまない。忘れていた」
「まったく、義勇は幾つになっても世話が焼けるんだから」
「ありがとう」
呆れつつも慈愛に満ちた表情をする女性に、義勇も珍しく仏頂面を解いて返答する。仲睦まじいその様子は、二人の関係が普通ではないことを明白にしていた。
弁当を作ってくれて、わざわざ職場に届けてくれる義勇と親しげな女性。
そう認識した途端、カナヲの顔は青白く変色し、ついと視線を姉二人に投げる。
見たことを物凄く後悔した。
冷め果て黒く淀んだの二対の瞳。決して初対面の人へ向けてはならない類いの、怨念染みたその異様。しのぶだけでなくカナエも同じなのは流石姉妹と言ったところか。カナヲは全然嬉しくない。
殺意と嫉妬を分かつ最後の一線の上を歩いていたしのぶは、終に跨いでしまったのではないか。そう思わずにはいられない恐慌がカナヲの裡で暴れ回る。
朗らかに雑談に興じている義勇と女性。
一人死にそうな思いをしているカナヲは、心の中で再び叫んだ。
(水柱様が全く見知らぬ女性と仲良くしてるぅうううううーーーっっっ!!?)
次回
第3話 絶対修羅場戦線ミズバシラ
つづく……?