ぎゆしの   作:サイレン

3 / 4


前回のあらすじ


【挿絵表示】








第3話 絶対修羅場戦線ミズバシラ

 

 

 しんしんと、空気が冷えている。

 上を見上げれば空模様は灰色に汚れていて、幾分もしないうちに雨が降り出しそうだ。

 まるで自らの心境が現実に反映されているような光景に、その場に足を踏み入れた男は虚しげに笑った。

 

「よぉ、みんな。酒持って来たぜ」

 

 鬼殺隊士の墓石が立ち並ぶその一帯は薄く靄が掛かっていた。

 重くのし掛かるような雰囲気は来訪者に厳粛な姿勢を求めているのだろうが、知った事ではないと隻眼隻腕の偉丈夫は酒瓶を掲げる。

 男──宇髄天元は一つ一つ同僚の墓石に景気良く酒を浴びせ、追従する見目麗しい女性三人は次々と酒瓶を用意しては片付けていく。

 

「思えば、お前たちと飲んだのは本当に数えるほどしかねぇよなぁ」

 

 勿体ないことをしたと空笑いを浮かべる天元は、滔々と言葉を紡いでいく。

 

「鬼のいない世界はまぁそれなりに暮らしやすいぜ。なんつったって深夜にまで働く必要がねぇからな」

 

 元忍の自分が誰よりも規則正しい生活を送っていると聞いたら、きっと彼等は笑ってくれるだろうに。

 

 天元の側に、かつての同僚はもう一人もいない。

 三人は大願を成就させる前に散り、最終決戦で宿敵を討ち滅ぼした五人も短い余生を使い果たしてしまった。

 共に刀を手に取って戦ってきた同僚は、誰も彼もが天へと旅立ってしまった。

 

「たくよぉ、なんでお前らが俺より先に逝くんだよ……」

 

 誰よりも平和を、鬼のいない世界を望んだお前たちが。

 言われるがままに人を殺してきた暗い過去を持つ自分だけを残して。

 

 滲む寂寥を天元は即座に発散させる。

 想いは同じだったから。例え鬼のいない世界に辿り着いた時に、側に誰かがいなくても恨みっこ無しだと。

 むしろその誰かの分まで生を歩んでいくことこそが、彼等が最も喜ぶことなのだと。

 

「……仕方ねぇ。仕方ねぇから、お前等の分もしっかり生き抜いて、派手派手な大往生してやるさ」

 

 天元本来の勝気な笑みが蘇り、天への土産と残った酒を盛大にぶち撒ける。

 感慨を置いて天元は背を向けた。振り向けば愛すべき三人の嫁が柔らかに微笑んでいる。

 

 そうだ、これからは家族と一緒に暮らしていくのだ。

 日の当たる場所で、ずっと、一緒に。

 

 ──だけど、もし。

 ──もしも来世というものがあって、其処でまた巡り合えたとしたら。

 

「お前ら、派手に幸せにしてやるからな!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 だがこれは違う。

 こんな修羅場は知らん。

 

「放せ竈門嫁ぇええッ!! 家族の問題は家族だけで派手に解決しやがれ!」

「嫌です!! 絶対に道連れにします!!」

 

 いつまでも帰ってこない同僚を呼び戻そうと校門前までのこのこと足を運んだのが運の尽き。

 悍しい鬼気を発散させる胡蝶姉妹と、遠目に義勇の隣に女性の姿があることを確認した天元は刹那に反転したが、何があっても逃さんと高速移動した胡蝶家三女のカナヲにしがみ付かれる羽目になった。

 

(冨岡お前ホントマジ巫山戯んなよなッ!!)

 

 とんだ貧乏籤を引かされた気分の天元は渦中にある同僚を心の中で一発ぶん殴る。当然この程度晴れる怒りではないが、やらずにはいられなかった。

 心根は善良で優しいが無愛想で口下手で言葉足らずな顔だけは良い同僚が、こんなベクトルのトラブルメーカーだとは。片鱗はあったとはいえ、よりにも寄って社会人になってすぐとは予想外過ぎる。

 

 全身全霊で縋り付くカナヲの顔面を押すのを止めて、天元は諦めの境地にて足を留めた。

 

「……状況は?」

「音柱様っ!」

 

 パァッと花が咲いたような笑みを浮かべるカナヲ。死なば諸共の精神で天元を修羅場へと引き摺り込んだ張本人とは思えない晴れ渡った笑顔である。

 地獄への同伴者が出来たことが嬉しいカナヲはそれでも何故か拘束を解かず、万力の腕力をもって天元をその場に縫い留めて口を開く。

 

「水柱様にお弁当を届けに見知らぬ若い女性がやって来ました」

「刃傷沙汰だろそれ……」

 

 選択肢を誤ればまごうことなき流血案件に天元の眼が死ぬ。カナヲの眼と胃と精神は既に死んでいる。

 天元の無意識下でのこの場から離れたいとする力が増していくが、逃走など許さんとばかりにカナヲの両腕がギリギリと身体を締め付けてくる。

 

 やだこの姉妹本当にやだと天元は空を見上げてみて。

 

「あら? もしかして宇髄くんかしら?」

「……は?」

 

 思わぬ方向から話し掛けられ素っ頓狂な声が漏れるも──次の瞬間、惨憺たる重圧が天元に伸し掛かった。

 

「ひっ!?」

 

 少女のような囁きの悲鳴は己の口から溢れたのか。信じられない失態に、然れど羞恥に思う暇もない。

 この場において天元に自由など認められていないと神から宣告されたかのような圧迫感。頰に流れる冷や汗は、前世で上弦の鬼と対峙した時以来の緊張の証だろうか。

 

 チラリと視線を走らせれば、胡蝶三姉妹の昏く淀んだ三対の瞳が天元へと突き刺さっていた。

 目は口ほどに物を言うという言葉を心から理解した天元は、脳内で声なき声を再生する。

 

 ──あの女が誰だか知ってるの?

 

 

【挿絵表示】

 

 

 拒否権など与えられていない天元はごくりと唾を飲み込み、恐る恐る声を掛けてきた義勇の隣にいる女性へと焦点を合わせてみる。

 

 微かに見覚えのあるその姿に、天元は訝しげに口を開いた。

 

「……ん? もしかして蔦子さんか?」

「やっぱり宇髄くんね、久しぶりだわ」

 

 ふわりと微笑む女性を見て異様な雰囲気が形成されるも、神に与えられし平穏な状況打破の糸口を見出した天元の行動は早かった。

 

「んだよホント蔦子さんかよホントもうそういうのはホント早く言えよな冨岡っ!!」

「……何の話だ?」

 

 音速に勝る挙動でカナヲの拘束を抜け出て義勇の肩を乱暴に組む天元は割とガチでキレているのだが、愛に狂った女二人を放って置く方が怖いと遊びを抜きに本題へと移る。

 

「ほら、冨岡。ちゃんと紹介しとけ、な?」

「……誰に何を?」

「此処にいるメンバーに蔦子さんのことをだよっ……」

 

 何とか笑顔を保ちつつ顳顬に青筋を浮かべる天元。

 未だに何がなんだか分かっていない義勇ではあったが、流石に空気を読んだのだろうか。さっ、と軽く女性へと手を向ける。

 

「姉だ」

 

 三文字、まさかの三文字の紹介。

 然れどその単語は、場の熱を一時的に冷やすには十分以上であった。

 

「義勇の姉の蔦子と申します。いつも弟がお世話になっております」

 

 雑な紹介にも慣れた様子の女性──蔦子は、天元含めた初対面の女性三人へと丁寧に頭を下げる。

 思わぬ展開にぽかんとしていたカナヲであったが、冷静になりつつある頭で思考を回すことに。

 

(水柱様のお姉様……? 確かに、よくよく見てみると似てる気がする)

 

 義勇と同じ蒼い瞳、烏の濡れ羽色した漆黒の髪。所々の部位の酷似は、血縁と言われてみれば成る程、納得できる。

 義勇の好い人かもしれないという最悪の想像が打ち砕かれた瞬間、カナヲは一先ずだが心底安堵した。

 

 尤も、胃痛の種が消えた訳ではないのだが。

 

「……義勇くんのお姉様だったんですね! 申し遅れました、私は()()()と申します! 義勇くんとは大学時代からずっと、ずっと仲良くさせて頂いていますっ!!」

「ちょっと姉さん、蔦子お()()()()に失礼じゃない! 申し遅れましたました、私は()()()と申します。これから末永く、よろしくお願いいたしますね」

 

(人のこと言えた義理じゃないけど二人とも恋愛が下手くそ過ぎる……っ!?)

 

 顔良しスタイル良し器量良し性格良しと、およそ女性が羨む要素の殆どを内包したカナエとしのぶだ。これまで想われることは多々あっても、自分からというのは全くないのだろう。見るからに加減が分かっていない。

 気持ちが先走り過ぎてか、姉二人がマウントを取り合いつつ当事者だったら普通にドン引くくらいのロケットスタートをかまし出した。カナヲの胃壁が悲鳴を上げている。

 青い顔してあわあわするカナヲと、笑いたいけど笑えない状況に頬を痙攣らせる天元。

 どんな反応が正解なのかも分からないまま、一同は蔦子の返しを待つしかない。

 

 しのぶとカナエの勢いにややキョトンとした蔦子であったが、浮かべたのは柔らかな微笑みであった。

 

「……ふふっ。義勇をよろしくね、カナエちゃん、しのぶちゃん」

『はいっ!!』

 

 天使か女神なんだとカナヲは思った。

 義勇に似てもしや天然なのかとも考えたが、これ以上軋轢を生むことなくこの場を凌げるのであれば何だっていい。尊敬と感謝を込めてカナヲは心の中で蔦子お義姉様と呼ぶことにした。

 

 緊迫した空気が解れるのを感じ取って、此処しかないと天元は口を開く。

 

「おっと、もう朝礼が始まる時間だな。一旦校舎に戻ろうぜ」

「そうですね。カナエ姉さん、しのぶ姉さん、遅刻はダメだよ」

「あらいけない、本当だわ」

「私としたことが、うっかりしてました。ありがとね、カナヲ」

 

 狂愛の獄炎が無事鎮火されてるのを見てとって、カナヲと天元は内心で一息つく。痴情のもつれで流血沙汰など肝が冷える。

 ……ただまぁ、この業火はこれから頻繁に、いとも容易く着火されるのだと思うとカナヲは生きるのが辛くなるのだが。

 

「蔦子姉さん、ありがとう」

「えぇ。お仕事頑張ってね、義勇」

 

 何が起きていたのか全く理解していないだろう義勇は、そのままてちてちとマイペースに校舎へと向かっていく。両隣に連れ添うように歩くカナエとしのぶは朗らかだが、やはり空気がヤバい。

 

 三人が歩いていく光景を後ろから見て、カナヲはふと思う。

 

(……なんだろう、この一件で二人から致命的なものがなくなった気がする…………)

 

 遠慮とか、気遣いとか、恋愛の醍醐味であるむずむずとする心の動き的な、そういうのが。

 事故とは言え、取り返しの付かないやらかしだったのかもしれないと後悔しても時既に遅し。

 

 朝起きた時よりも確実に胃も心も重くなったカナヲは、とりあえず学生の本分たる勉学へと気持ちを切り替えようとして。

 

「二人とも、少しいいかしら?」

『?』

 

 振り向いた先にはちょいちょいと手招きする蔦子の姿。

 置いてかれる形で残っていたカナヲと天元は目を合わして首を傾げるも、拒否する理由もないので距離を詰めた。

 

「ごめんなさいね、時間もないのに」

「走れば間に合うんで」

「私も大丈夫です」

「じゃあ、単刀直入に聞くわね」

 

 チラッと離れていく義勇たちを一瞥して、蔦子は軽い口調で核心に切り込む。

 

「うちの弟はあの二人から逃げられると思う?」

 

『無理だと思います』

 

「そうよねぇ……」

 

 一切の反論を挟ませない二人の断言に、蔦子は頰に手を当てて諦念を滲ませる。

 それにしては慣れたように苦笑いする姿にカナヲは疑問を覚え、情報収集も兼ねて思考を巡らせた。

 

「もしかして、似たようなことが過去にもあったのですか?」

「そうなのよ。あの子、モテる時は異常にモテるから……大学入学時に、あまりにもあんまりだったから逃げるようにこっちに引っ越ししたのよ」

 

 驚愕の事実にカナヲは顔を青ざめさせ、天元は頭痛を堪えるように片手で頭を抑える。

 義勇はまず顔が良い。口下手で難ありだからそれだけで近付いてきた女性はそこまでだろうが、根は誠実で優しい男だ。のめり込んでしまう人はいるのだろう、カナエとしのぶのように。

 

「今までは物理的に距離を取ればね、みんな子供だったからなんとかなったのよ。大学入ってからはそういう話をとんと聞かなかったし、宇髄くんみたいなお友達も出来たみたいで安心してたのだけど……カナエちゃんが原因だったのね」

 

 家族になること前提で名字を名乗らない子は初めてだったわと蔦子はあははと笑ってみせるも、身内の恥にカナヲは両手で顔を覆った。

 

「貴方は二人の近親者かしら?」

「あ、えと、はい……血の繋がりはないのですが、胡蝶カナエと胡蝶しのぶの妹の栗花落カナヲと申します」

「そう、胡蝶さん……やっぱり姉妹なのね」

 

 心なしか疲れた眼差しで蔦子は宙を見詰める。

 

「義勇関係で結構凄い子たちを見てきたつもりだけど、あの二人は群を抜いている気がするわ……特にしのぶちゃん。義勇は一体あの子に何をしたのかしら……」

『…………』

 

 百年かけて熟成された狂愛です、とは言えない。一眼で見抜くその慧眼には恐れ入るものがあった。

 弟想いなのだろう蔦子はしばらくうんうんと悩んでいたのだか、最後に大きく頷いてカナヲと天元を見た。

 

「……うん、義勇についてはカナヲちゃんと宇髄くんに任せるわ」

『…………え?』

 

 頭が言葉の意味を理解したくなかったのだろう。

 丸投げされた二人は思わずぽかんとしてしまうも、蔦子の中では決定事項なのか前言撤回する様子はない。

 

「二人はあの三人の事情を知っているようだし、なんだかんだ放って置けないって顔をしてるもの。可愛い弟には旅をさせよって言うし、それに私が出張っても、ろくなことにはならなそうだしね」

「いや、その、蔦子さん? 出来れば俺は遠慮したいっつーか……」

「お任せください、蔦子お義姉様! 私と音……宇髄先生にお任せください!!」

「おまっ!?」

 

 遠回しの拒否を口にしようとした天元を先んじてカナヲが常に無い威勢の良さで了承する。

 

 カナヲは思ったのだ。

 自分は絶対にあの修羅場に関わることになる。一人胃痛と戦うぐらいなら、責任感で雁字搦めにした道連れを用意した方がよくない? と。

 鱗滝一門ばりの判断の速さの所為で、天元は犠牲となったのだ。

 

 カナヲのお義姉様呼びにも頓着せず、蔦子はただ嬉しそうに両手を合わせた。

 

「本当かしら! ありがとう、カナヲちゃん!」

「はい! 私と、宇髄先生が頑張ります!」

 

 どこまでも天元の存在を強調して、カナヲは両拳を胸の前で握る。

 その姿は何があっても地獄へ付き合ってもらうという強烈な意思を感じさせた。

 

 それじゃあよろしくねー、と去っていく蔦子を見送って、天元はカナヲへ青筋を刻んだ笑みを浮かべる。

 

「やってくれたなぁ、テメェ……」

「さて、何のことでしょうか?」

 

 こほん、と咳払いをして、天元の抗議を一蹴。

 カナヲは死んだ眼で今後の予定を組み立てることに。

 

「とりあえず、本日の放課後に人を集めて会議を開きます。人選は私がしますので、音柱様は美術室を確保して下さい」

「……ちなみに拒否権は?」

 

 ダメ元で抗ってみるも、カナヲの眼は冷たい。

 

「一度でも逃走を企てた場合、あることないことを姉さんに告げ口します」

「……ちなみにどんな内容なんだ?」

「……音柱様は水柱様の住所を知っている。音柱様は水柱様の休日の趣味を知っている。音柱様は水柱様の写真データを保持している。音柱様は水柱様の恋愛遍歴を知っている。音柱様は」

「OK、分かった。頼むからヤメロ」

 

 此処に、前途多難で悲惨な同盟が誕生した。

 

 その名も──

 

 

 

 

 

 

 

 

 キメツ学園、放課後の美術室。

 絵の具の匂いがつんと香るその広い一室に、幾人かの男女が集まっていた。

 

「本日はお集まり頂きありがとうございます」

 

 黒板の前で頭を下げるのは、蝶の髪飾りで黒髪をサイドテールでまとめたカナヲである。

 適当な配置で座る面々はどこか重苦しい空気に静寂を保ち、気にせずにはいられないデカデカと黒板に書かれた文字列に目を向ける。

 

 絶対修羅場戦線ミズバシラ──

 

 もう嫌な予感しかしなかった。

 

「絶対修羅場戦線ミズバシラ会議の議長にならざるを得なかった栗花落カナヲと申します。副議長は音柱様こと」

「……宇髄天元だ」

 

 議長と副議長の眼が会議早々に死んでいることには、誰も突っ込めなかった。

 

「というわけで、私の独断と偏見で集まって頂いたほぼ顔見知りの皆さんですが、自己紹介と決意表明をしてもらいたいと思います。はい、炭治郎から右にリズム良く!」

 

 やけくそとなったカナヲに会話の主導権を振られた少年──竈門炭治郎は溌剌とはいっ! と返事をして立ち上がった。

 

「高等部一年の竈門炭治郎です! 正直この場がなんなのかよく分かっていませんが、よろしくお願いします!」

「高等部一年の竈門禰豆子です! 会議名の時点ですごく逃げ出したいし、この後カナヲ義姉さんに怒られることが何となく分かったので今すぐ帰りたいです! でもダメそうなので頑張ります! よろしくお願いいたします!」

「本年度からキメツ学園に赴任してきた煉獄杏寿郎だ! 俺もこの場がよく分かっていないが出来る限りのことはしたいと思う! よろしく頼む!」

 

 エネルギッシュな自己紹介が三つ続く。

 発言の元気の良さに反して滅茶滅茶弱気な宣言を口にした少女──竈門禰豆子と、暑苦しいとすら思える大声を出す青年──煉獄杏寿郎。

 

 うんうんと満足げに首肯するカナヲは、続いて視線を同級の女生徒へと向けた。

 それを受けて、嫌々、渋々、粛々と立ち上がるのは、蝶の髪飾りで青みがかった黒髪を二つに結んだ少女である。

 

「……高等部一年の神崎アオイです。禰豆子さんと同様に今すぐ帰りたいのですが、当事者であろうしのぶ様への恩返しの一念のみで踏み留まろうと考えています。よろしくお願いいたします」

 

 キッと表情を改めた神崎アオイ。

 会議名からある程度の事情を察しているのだろうが、この後の説明を受けて頭を抱える姿が目に浮かぶ。

 

 順調に進んだ自己紹介の最後を飾るのはこの二人。

 

「高等部一年の恋雪と申します。えーと、その、頑張ります!」

「高等部三年の狛治です。恋雪さんの付き添いですが、なるべく力になれるように努めたいと思います」

 

 まさかの人選に天元はギョッとした顔でカナヲを見る。

 当人たちを含めて理由を求める視線に、カナヲは虚な瞳で虚空を見詰め始めた。

 

「恋雪は私の清涼剤なんです……癒しが欲しいんです……あとは、私たちの事情を把握していて、かつ客観的な立場にいる人が必要だと思ったんです。こんな面倒ごとに巻き込んでしまい、本当に、ごめんなさい……」

「い、いいんですよ、カナヲさん! 何かあったら言って下さいってお願いしたのは私なんですから!」

「恋雪……っ! ありがとう……」

 

 あまりの健気さにカナヲの胃痛が少しだけ和らいだ。

 なお、この後木っ端微塵になることをカナヲはまだ知らない。

 

「というわけで、狛治先輩と炎柱様は今仲良くなりました。共に頑張りましょう」

 

 カナヲの無茶振りに、然れど杏寿郎は快活に笑ってみせた。

 

「うむ、俺は一向に構わん! 君の活躍は耳にしている! 前世はあくまで前世! 共に頑張ろうではないか!」

「……あー、えーと……はい。煉獄先生に遺恨が無いのであれば、俺もそのように振る舞いたいと思います」

 

 細かい段取りをすっ飛ばしてカナヲは話を進めることを優先していく。平素ならもっと淑やかなのだが、今はそんな余裕などないのだ。

 

 さてと、とカナヲは一息入れて、状況説明に入る。

 

「えー、まずはこの会議の目的についてです。文字通りですが、水柱様こと冨岡義勇先生を取り巻く修羅場の解決となります」

 

 淡々と告げられる内容に炭治郎と杏寿郎以外の面々はまぁそうだろうなという悪い予感の的中に黙り込み、そこから先が気になっていたアオイは皆を先んじて発言する。

 

「それでなんだけどカナヲ、一体誰なの? 一人はしのぶ様というのは分かっているけれど……それにそんな心配しなくても、しのぶ様と渡り合える女性なんていないと──」

「カナエ姉さんだよ」

 

「……………………え?」

 

 アオイの思考が停止する。

 予想だにしていなかった方向からの一撃に頭が働くことを拒絶するも、自分のことを棚に上げて他人の現実逃避は許さないカナヲは厳然と告げる。

 

「だから、カナエ姉さんとしのぶ姉さんが水柱様を取り合う修羅場の解決がこの会議の目的だよ」

「あっ、私用事を思い出して」

「禰豆子逃げないっ!!」

 

 逸早く脱兎の如く逃げ出そうとした禰豆子の後ろ襟首を鷲掴みにして、カナヲはいやー! 

やめてー! と駄々を捏ねる禰豆子を席に連れ戻す。

 末恐ろしい理不尽な強権を振りかざす議長の姿に、呆気に取られた恋雪は口をぽかんと開けていた。

 

 カオスにカオスを重ねた現場。状況の劣悪さを目の当たりにして、それでも冷静だった狛治は意を決して発言する。

 

「……すみません、詳しい説明をお願いいたします」

 

 

 

 そこから語られたのは、前世で起こったしのぶの悲劇の数々。カナヲ視点でカナヲが知る限りのしのぶの過去。

 加害者側にいた狛治が罪悪感で死にたくなるくらいには凄惨な出来事が続き、恋雪は恋雪で感極まって涙目になってしまう。

 

「そんな……そんなことがあったんですね」

 

 ぐすんと鼻を鳴らす恋雪の目元を狛治はハンカチで拭い、冷や汗で青くなったままの彼は吐き気を堪えて話を進める。

 

「上弦の弐は水柱が……それで、その後は……」

「無惨を倒した後は抜け殻のようになり、笑顔を浮かべる時は虚空に向かって水柱様とお話する時間だけでした。そして、それ程時を置かずに、まるで後を追うように……」

 

 重苦しい沈黙が場を包む。前世の話をすると大抵はこうなってしまうのだが、恐ろしいことにまだ本題にすら入っていない。

 

「しのぶ姉さんは多分、水柱様が目の前で死んだあの時に、自身の恋心を知ったんだと思います……一生叶うことのない、たった一度の恋情だったのかと」

 

 カナヲの言葉に、遂に恋雪は本格的に泣き始めてしまう。これまで詳細に鬼殺隊士の前世の話を聞いた経験が無かったための結果だ。

 

 なお、自分たちの話は記憶のある元鬼殺隊士には出回っており、聞いた殆どの者が滂沱の涙を流してたことを狛治と恋雪は知らない。

 

 悲しみに暮れる恋雪が落ち着くのを見守る中、悲哀を上回る焦燥にだらだらと冷や汗を流すのは天元と杏寿郎であった。

 

「よもや……胡蝶が冨岡を……全く気付かなかった」

「ああー、ヤベーなー……これやべーなー……」

 

 杏寿郎はここまで話を聞いて、ようやくこの会議の目的を心の底から理解した。

 

 改めて、黒板に書かれたこの会議名を見てみる。

 

 絶対修羅場戦線ミズバシラ──

 

 畑違いにも程がある苦手分野に、杏寿郎は前世含めても生まれて初めてこの場から逃げ出したいと強く思ってしまった。

 

「……つまり、ここまでの話をまとめると、胡蝶さんは前世で好きだった冨岡先生と死に別れ、今世で運命的な再会を果たした、ということですか?」

「……美談で語れたのであれば、それが正しいです」

 

 狛治の要約に苦虫を百匹は噛み潰したような顔で肯定を返すカナヲ。

 まぁそうなんだろうなと狛治は思う。先程のカナヲとアオイとの会話内容とこの会議名から、最悪も最悪な事態に陥ってしまったということは既に察していた。

 

「細かいことを確認しますが、胡蝶さんは()()()()()んですよね?」

「はい」

「冨岡先生は?」

「それが……思い出していないようなんです」

「成る程……では、最後に一つ」

 

 こうしてやっと、本題に入れる。

 

「胡蝶()()が、冨岡先生のことを好きなのは確かなのですか?」

「……………………え゛?」

 

 ここにきてようやく、修羅場という言葉の意味を正しい意味で理解していなかった炭治郎が素っ頓狂な声を上げた。

 お前マジかと全員から半ば呆れた眼差しを向けられるも、軽いパニックになった炭治郎は気付かない。

 

「え? え? え? ど、どういうことですか狛治さん!?」

「どういうこともないだろう。むしろなんで分からないんだ。書いてあるだろう、修羅場って」

「……あ、修羅場って、そういう……」

 

 サァーっと青褪めた炭治郎は、ようやっとこの話し合いの本題を察する。

 狛治の問いの意味とそれに伴う惨状を想像して全員が顔面蒼白になる中、ふるふると怒りに身体を震わせたのはカナヲだった。

 

「というか音柱様っ!!」

「うおっ!? なんだいきなり?」

「どうしてカナエ姉さんが水柱様を好きになってるんですか?! 貴方はしのぶ姉さんが水柱様のことを好きだったって知ってたはずです!! どうしてカナエ姉さんと会った時点で、しのぶ姉さんと引き合わせなかったんですかっ?!!」

 

 そうすればこんなことにはならなかったのに!! というカナヲの心の叫びが轟く。たった数日だが、募り募ったストレスは膨大なものとなっているようだ。

 言わんとすることは分かるし、今になっては後悔も多少はあるが、しかし天元にだって言い分はあった。

 

「無茶言うな。胡蝶……カナエは記憶がない時点で只の同級生だぞ。妹に会わせろなんて会話の流れになるわけねぇだろ」

「これは個人の見解だが、例え前世を思い出していない者も、あの頃の性格や思い出は心の奥深くに刻み込まれているように思える! だからこそ当時の者とは出逢って仲良くなるのは早かったが、胡蝶……カナエは異性からの踏み込みには敏感だったぞ! 不用意な言動は警戒されていただろうな!」

 

 擁護ではないのだろうが天元の発言を補足する形で杏寿郎が続き、正論には違いない二人の反論にカナヲは怒りを抑えるように奥歯を噛み締める。

 ままならないという気持ちはあるものの、どうにかこうにか頭を冷やそうとカナヲは長く息を吐き出した。この路線での責任の押し付けは怒りの捌け口になるだけで、事態の解決には一切結び付かない。言ってしまえばかなり虚しい。

 

 それならもう、ずっと気になっていたことを尋ねる方が無難だ。

 

「……では、カナエ姉さんはどのような経緯で水柱様に懸想するようになったのですか? どんな人にも大らかなカナエ姉さんですが、恋にまで至ったのはこれが初めての筈です。何かきっかけがあってもおかしくはないのですが……」

 

 この疑問は至極真っ当だと思っている。

 義勇から、という可能性は疾うに頭から消えていた。見た感じそんな態度ではなかったし、もしかしなくともカナエとしのぶのあからさまな好意にすら気付いていない。蔦子の話であれば過去にそういう経験はあったのだろうに。

 

 ともあれ、ここを確認せずには話が進まない。

 

 たとえ聞いたことを心底後悔するのだとしても。

 

「あぁー、それな……結論からいうと、まぁ、あれだな」

 

 もうなんか疲れて逆の意味で吹っ切れ始めた天元は、キリッとキメ顔を決めてこう言った。

 

「劇的に恋に落ちたな、カナエは」

「うむ、俺も人が恋に落ちる瞬間というのを初めて見たからな! ある意味で爽快だったぞ!」

 

 わはは! と空元気で笑う杏寿郎。

 この時点で耳を塞ぎたくなった面々だったが、カナエの恋模様を知っている身としては盛大に巻き添えにしたいという願望があった。

 

「不死川や伊黒含めて俺たちは大学時代で仲良くなってな。俺の嫁含めて男女グループとしてわいわいやってたんだが、ある男にカナエが目を付けられてな」

「その者は厄介だった! カナエはその男に対して、女性がたまに言う『生理的に無理』という、カナエにしては珍しい状態でな。出会った瞬間に距離を取るくらいだったのだが、それが逆に相手の関心を惹いてしまったようで、気付けば相手が殆どストーカー紛いの行動に出始めたのだ!」

「…………あれ? その話、何処かで……」

 

 二人の話に顎に手を寄せて考え込んだのは狛治であった。

 

「狛治さん? どうかしましたか?」

「いえ、最近そのような話を聞いたなと思いまして……確か、キメツ大学で…………あ」

 

 狛治は今朝カナヲに話した内容に思い当たる。

 点と点が線で繋がった瞬間、狛治は拳をポンっと打って顔を上げた。

 

「もしかしてその男、上弦の弐──童磨のことではないですか?」

「なっ!?」

 

 まさかの名前にカナヲは驚愕を露わにし、天元と杏寿郎も目を見開いて驚いていた。

 

「よく知ってるな。俺たちも学長を問い詰めて後から知ったんだが」

「先日、俺も鬼舞辻学長の愚痴に付き合わされまして……」

 

 苦笑する狛治に幾つもの哀れみの視線が突き刺さるが、他人を慮る余裕が無くなっていたカナヲは茫然自失となって呟く。

 

「え、じゃあなんですか? カナエ姉さんが水柱様を好きになった原因は、上弦の弐ということですか?」

「ああ」

「その通りだな!」

「あの糞野郎……っ!!!!」

 

 常のカナヲからは考え付かない汚い言葉が迸り、激情に染まった顔で指の骨を鳴らすその様子に恐怖を抱いた竈門兄妹は思わず互いの両手を握り合わせて震えた。

 カナヲの急変に大人組も若干の恐怖を覚えたものの、ここは語りきる場面と判断して話を続ける。

 

「あいつは性根は屑だが不思議とカリスマ性があってな、酷い奴らは心酔しててほぼ下僕と変わらねぇ状態だった。ある日、そいつら使ってカナエに仕掛けに来たんだよ」

「言い分としては二人で話をしたいというものだったが、追い込み漁に近かったな! 気付けば俺たちも分断されてしまって、あわやというところで冨岡が颯爽と現れたそうだ!」

 

 おぉう……とカナヲは頭を抱えてしゃがみ込む。

 何故姉二人はそんな劇的な恋愛をするのだろうか。何気ない日常の中で、とかだったらまだ取れる手段だってあったものを。

 

「俺たちが駆けつけた時には粗方片付いていたな!」

「そんでまぁ最後に、冨岡が微笑みの爆弾をカナエにぶっ放してフィニッシュだ。急転直下で恋に落ちて、後は底無し沼に嵌まったかのようにズブズブと、って感じだな!」

 

 あいつにしては派手派手だったぜ! と天元は死んだ眼で愉しげに語り終えた。ああああああああ……と蹲って変な唸り声を上げるカナヲは不憫極まりない。

 仕方無しに話の進行役を担おうと、狛治は話の総括を行うことに。

 

「……つまり胡蝶先生も冨岡先生にゾッコンで、どちらも引く気は一切なさそう、ということですか?」

「端的に言えばそうなるな!」

 

 単純明快、だからこその修羅場である。

 

 この瞬間、もう既にどう足掻いても取り返しの付かない事態を全員が認識して、ズーンと音を立てて顔を手で覆い俯くしかなかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

「……現状把握が完了したところで、今後の対策に話を移したいと思います。何か素晴らしいアイデアがある方!」

 

『………………………………………………………………』

 

 沈黙、圧倒的沈黙が場を襲う。

 藁にもすがるようなカナヲの問い掛けに、意見を出せる者は誰もいない。だってどうしようもないのだから。

 

「……下手に手を出さないで、見守るのはダメなの?」

「私に胃痛で死ねと、アオイはそう言いたいの?」

「そんなこと言ってないわよ!」

 

 アオイの様子見の一手を、カナヲは青白くなった顔でぶった斬る。切羽詰まり過ぎて冗談なのかすら分からないのが本当に怖い。

 とはいえ、簡単になんとかなるのならこうなってはいないのだ。発想を切り替える必要があるだろう。

 前世の罪を償う気持ちで狛治は場を回し続ける。

 

「胡蝶先生は冨岡先生に気持ちを伝えたりはしていないのですか?」

「多分だがしてないな。あれであいつも乙女チックなのか、告白は男性からして欲しいっていう願望があるらしい」

 

 嫁情報だから信憑性は高いと天元は付け加える。

 

「となると、行動に出るとしたら胡蝶さんの方ですかね。何か目的があるとして、誰か心当たりはありませんか?」

「あっ、それなら」

 

 控えめに挙手をする禰豆子は、隣にいる炭治郎と視線を合わせて大きく肯く。

 

「しのぶさんの目的は義勇さんに前世の記憶を思い出してもらうことだと思います。協力を持ち掛けられたので確かかと。……今思えば、親密度を一気に縮めたかったのかもしれません」

 

 禰豆子の推察に今朝の茶番劇を思い出したカナヲの双眸に闇が宿るも、竈門兄妹は知らぬ存ぜぬの態度で冷や汗を流しながらそっぽを向いた。

 

「ふむ、意外と理性的ですね。話を聞く限り、胡蝶さんならもっと過激な行動に出るかと思っていたのですが……」

「……えーと、その、狛治先輩。過激な行動というのは、例えば?」

「胡蝶さんは頭がいいので、現代の科学機器に慣れるのは早いでしょう。ですから、その、まぁ……愛情が暴走して、GPSや監視カメラ、盗聴器といったストーカー必須アイテムに手を出してもおかしくはないのかと……」

 

 大分酷い物言いではあったが、言われた全員が想像して違和感が無いことに絶望する。

 そして悪い想像とは際限が無く広がるもので、アオイの顔色が土気色へと変貌していった。

 

「それも怖いですが、しのぶ様の本領は薬学です。痺れ薬や睡眠薬、はては媚薬、など、も……」

「義勇さん逃げて、今すぐ逃げて!!」

 

 既成事実待った無しのゴールインまで想像した禰豆子が叫んだ。とんでもなく失礼な話をしているのに、当人たちには一切のお巫山戯が存在していない。

 

「……あのぉ、素朴な疑問なのですが」

「どうしたの、恋雪?」

「いえ、そのですね……」

 

 控えめに手を上げる恋雪にカナヲが会話の主導権を振ると、消え入りそうな弱々しい声音で触れてはいけない真実(アンタッチャブル)を問う。

 

「前世を含めても構わないのですが、冨岡先生には、どなたか好い人はいらっしゃるのでしょうか? 一番重要だと思うのですが……」

 

『…………………………………………』

 

 全員がまるで責任を押し付け合うように、無言のまま顔を見合わせる。

 

 前世では長い時間を柱という同僚の立場で過ごし、現世では同級生として学生時代を共にした天元と杏寿郎。

 家族の命の恩人にして兄弟弟子として最も仲良くしていただろう炭治郎。己の腹すら懸けて守ってもらい、幼児化して自意識がしっかりとしていなくとも無邪気に懐いていた禰豆子。

 蝶屋敷を訪れる時だけとはいえ、カナエとしのぶの側でそれなりの頻度で会話を交わしたアオイとカナヲ。

 

 これだけの面子をもってしても、誰からも明確な答えが出てこない。

 

『…………………………………………』

 

 この瞬間、カナヲを除いた全員の意思疎通が完了。一つの結論へと至った。

 

 

 

 ──あっ、これ無理だ。

 

 

 

「副議長、決を取りましょう」

「へ?」

「承った」

「へ?」

 

 唐突なアオイの提案にカナヲは呆けた声を出し、それに対して即答する天元にも呆然とした眼差しを向ける。

 

「神崎の『とりあえず様子見』という案に賛成の者は挙手を」

 

 間髪入れずにシュバババっと七つの手が天井へと伸びる。恋雪だけはカナヲを見限れずにおろおろとしていたのだが、狛治が問答無用で手を挙げさせていた。

 

「賛成多数を確認。以上を今会議の議決とし、第一回絶対修羅場戦線ミズバシラ会議を閉会とする……解散!」

 

 天元の宣言を受けて各々が静かに立ち上がり、何故か準備運動を始める。前屈やアキレス腱といったストレッチで主に下半身を解し、その間に部屋の間取りを確認。美術室には廊下に繋がる正規の出入り口が二つあり、一階に位置するため形振り構わなければ窓からも脱出が可能だ。

 狛治がおもむろに恋雪を横抱きに抱えて、突然のお姫様抱っこに恋雪の頰が紅潮する。

 

 一連の動きが逃走の準備だということに、カナヲはようやく気付いた。

 

「……いや、やめて、お願い…………」

 

 目の前の光景を信じたくなくて、カナヲの口から嘆きの囁きが溢れる。

 誰一人として視線が合わない。唯一の癒しである恋雪ですら羞恥が上回ってか狛治しか見ていない。

 

 絶望の現実を前に、それでもカナヲは願いを叫んだ。

 

「──お願いだから、私を見捨てないでっ!!」

 

 皮肉にも、その叫びが合図となった。

 

 カナヲ以外がこの部屋からの脱出を目指して、ダンッ! と音を立てて一目散に駆け出すのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 自慢でもなんでもないが、自分は他人から好かれ易いことは理解していた。

 特別なことをしているつもりはない。ただ自分の良心に従って思うままに振る舞っているだけだ。それが周りから好感を持たれているのは、幸せなことだろう。

 お陰で友人も多い。青春というのも一通りは何不自由なく楽しめたと思う。

 

 恋だけは、よく分からなかったけども。

 

 異性にも親しい友達は沢山いる。何なら告白されたことだって少なくない。彼氏彼女という関係には、なろうと思えばなれただろう。

 ただ、どうしても、その一線を超えてもいいと思えることがなかった。男女の仲にそれほど夢を見ているつもりはないのだが、軽々しくお付き合いするのもなんだか納得がいかない。

 

 そんな心持ちでいたからだろう。

 気付けば大学生で、恋愛経験は皆無だけど告白された数は両手の指では収まらないという厄介な価値観を持った美女が完成していた。

 

 名前は胡蝶カナエである。

 

 

 

 そんなカナエの転機となったのは、大学生活を送り始めてわりとすぐのこと。

 

「うまい! うまい!」

「煉獄ゥ、テメェは黙って飯を食えねぇのかァ」

「全くだ。毎回毎回馬鹿の一つ覚えのように感想を連呼するな」

「まぁいいじゃねぇか。煉獄が黙ってたらそれこそ異常だろ」

 

 やけに騒がしいグループを食堂で見つけた。

 カナエから見ても随分と顔立ちの整ったその男子たちは、喧騒な食事所においても一線を画して目立っていただろう。

 

 何故かは分からないが、彼らとは不思議な親近感が湧いていた。

 

「あいつらに何か用か?」

「っ!?」

 

 トレイを持ったまま中途半端な位置に突っ立ていたカナエは、突然背後から話しかけられて一瞬びくんと震える。

 慌てて振り返ったカナエは、これまた目を見張った。

 闇夜を溶かしたような漆黒の髪を一つに結んだ、深い蒼を双眸に宿す美丈夫が目の前に立っていた。こてりと首を傾げる仕草がどうにも子供っぽいが、それすらも可愛いと思えてしまうような魅力がある。

 思わず見惚れてしまうも、カナエはすぐさま再起動した。

 

「ご、ごめんなさい! ここにいちゃ邪魔よね」

「いや。何か用があったのではないのか?」

「う、いや、その、ね……」

「おーい、冨岡ー。こっちだ……って、あ?」

 

 後になって知った保護者役の一人である派手な装飾の男性が此方に声を掛けてきたが、カナエの姿を捉えた瞬間に声音の質が変化した。

 視線をそちらに移すと僅かにだが目を見開いた男性が四人もいて、カナエは内心疑問に思うも己の直感を信じて封殺。

 

 ここで会ったのも何かの縁だ。

 

 カナエは外行きとは違う種類の微笑みを浮かべた。

 

「良かったら、ご一緒してもいいかしら?」

 

 これが、運命との出逢いだった。

 

 

 

 

 その日から妙に気の合った面々とは性別を超えた親友となり、彼らの繋がりも介して同性の友人も増えていた。

 

「カナエさ〜んっ!! 課題を手伝ってぐだざいぃいいい〜〜〜〜っ!!」

「あら〜」

「須磨、アンタねぇ……」

「こら、カナエさんを困らせないの」

 

 淑女にあるまじき泣き顔で縋ってくる友人。彼女は以前食堂で宇髄天元の恋仲の一人である須磨という。連れ添って歩く女性二人が呆れた様子で苦笑していた。

 なんと驚くべきことに、この女性二人──名はまきをと雛鶴である──も天元と恋仲であるらしく、流石のカナエも衝撃で目が点となったのは良い思い出……なのだろうか。当人達が納得しているのであれば、他人がとやかく言うことではないと持ち前ののんびりとした性格で流していた。

 

 三人はこれまで出会ってきた同年代と何かが違っていた。持ちつ持たれつといえば表現が一番しっくりくる。気付けばグループの中心的立ち位置にいることが多かったカナエにとって、真に対等な関係というのは新鮮で尚且つ楽だったのだ。

 親しくなるのに然程時間は掛からず、大学にいる間は大抵この三人か天元たちと過ごしていただろう。

 

 今日も今日とて騒がしくも楽しい一日が始まるのだと思っていた矢先。

 

「わぁ、可愛い子がいるね〜」

 

 そんな風に声を掛けられて、平穏が崩れ去ったのだ。

 

「え?」

 

 明らかに自分たちに話しかけられたためにカナエは振り返り、相手の顔を見た瞬間に全身が震えた。

 其処にいたのは一言でいえば美男子に部類されるだろう男性だ。頭頂を紅で彩る金色の長髪を背に流した、瞳に虹を宿す青年。にこりと笑う姿は老若男女に好かれそうなもので、決して恐怖を抱くような容貌では無いというのに。

 

 カナエは何故か怖気に身体が震えるのが止められなかった。

 

「……あのぉ〜、何かご用ですか?」

 

 カナエのどこか異常な様子を見てとった須磨が、遠慮気味な口調ながらカナエを隠すようにずいと前に出る。雛鶴とまきをも双眸に警戒を滲ませながらカナエの両脇に付く。

 その一幕に青年は驚いたように少しだけ目を見開いて、また人好きする笑顔を浮かべた。

 

「あぁ〜、ごめんね。今のじゃナンパにしか思えないもんね」

「そうですねぇ〜。可愛い子って私ですか? だとしたらありがとうございますぅー」

 

 うんうんの楽しそうに頷く青年に対して、須磨は軽い調子で冗談を返しつつ会話の主導権を握りに掛かる。

 

「うーん、君も可愛いと思うけど」

 

 青年は視線を須磨からズラして、まるで怯えたように此方を見るカナエを捉える。

 

「俺はそっちの蝶の髪飾りを付けた子が気になるなぁ」

「っ!?」

 

 関心を向けられただけだというのに、カナエはこれまで感じたことのない悪寒が走った。

 声を聞くのも、姿を見るのも苦痛なんて。初めての経験にカナエは無意識のうちに雛鶴とまきをの袖を握っていた。

 

 流石におかしいと、もしかしたら何か因縁のある相手ではないか察した須磨たちは、即刻退散を決定付けた。

 

「今日は調子が悪いんですよぉ。今から帰るところなので、残念ながら貴方のお相手は出来ません」

 

 それではー、と続けて須磨たちは手荷物を纏めてその場を後にする。

 意外にもその行動を見逃されたが、去り際になって青年が声を掛けてきた。

 

「俺の名前は童磨。君の名前は?」

 

 無視すればいいものを、生来の善性からカナエは名乗ってしまった。

 

「……胡蝶、カナエです」

「そっか! よろしくね、カナエちゃん!」

 

 

 

 その日からカナエにとって心身休まらない日々が続いた。

 どうしてかその青年──童磨はカナエに興味を抱いたようで、事あるごとに絡もうとしてくるのだ。

 不安に思った須磨たちは天元へ相談して、護衛を兼ねて必ず男性陣の誰かがカナエに付くようになった。

 

「ごめんね、冨岡くん」

「俺は構わない」

 

 ぶっきら棒に思える態度でそう返したのは、食堂で初めにカナエに声を掛けた青年──冨岡義勇である。彼が口下手だけど優しいと分かっているカナエは嘘ではないと分かり安堵の微笑みを浮かべるも、それもどこか空虚なものであった。

 カナエとしても何故こんなにも童磨に恐怖を抱くのかが説明出来ず、迷惑を掛けっぱなしのこの状況に疲れ始めていたのだ。

 

 それなりの時間を共に過ごしてきたが、弱っているカナエというのを初めて見た義勇は内心焦りつつ、なんとか励まそうと言葉を紡ぐ。

 

「苦手なものくらい誰にでもある。胡蝶も人間なんだと俺は実感した」

「……ふふっ、なにそれ」

 

 斬新な気遣いにカナエの心労も少しだけ軽減される。義勇の独特な言葉選びには首を傾げることもあったのだが、今ではニュアンスで理解するようになっていた。

 義勇が弟気質であり、カナエが姉気質というのもあってか、天元たちと比較すると義勇との時間が一番過ごしやすかったのも事実だ。後に述懐するなら、この頃から片鱗はあったのだろう。

 

「今日もありがとね」

「明日は煉獄が迎えにくるはずだ」

 

 義勇がカナエを家に送り届けたその頃。

 

 ところ変わって、キメツ大学の学長室には前世の因縁をこれでもかと煮詰めたような状況が完成していた。

 

「にしても、アンタが学長なんて未だに信じられねーな」

 

 部屋にあるソファにどっかりと座った天元は横目に学長を見て、その姿にどうしようもない嫌悪が滲むも頭を振るった。

 他の面々──元柱である煉獄杏寿郎、伊黒小芭内、不死川実弥も同じような面持ちであるのだが、学長こと元鬼の始祖──鬼舞辻無惨は彼らの様子など気にも掛けなかった。

 

「無駄話をするなら即刻失せろ。私は見ての通り忙しいんだ」

「チッ、一々腹が立つなァ」

「不死川、幾らなんでもそれは暴論だと思うぞ!」

「全くだ。俺は逸早く此処を出たい。ならさっさと話を進めるべきだろう」

 

 喧嘩腰の実弥を嗜める杏寿朗と小芭内であるが、苛立つ気持ちも理解出来るためにその不躾とも言える態度の謝罪は一切ない。

 無惨とて今は紛れもない人間。人として感性はある程度蘇っているので、普通に煩いなぁとか居心地悪いなぁと思うも、絶対に埋まることのない溝だと一応は弁えていた。

 

「それで何の用だ」

「あぁ、んじゃ単刀直入に聞くんだが」

 

 天元が一枚の写真をピッと投げ付ける。

 脆弱な人間の動体視力しかない無惨は人間離れした柱の行動にギョッとし、精一杯の挙動でなんとか写真を躱した後に渋々拾い上げる。

 映っていた男の姿に、無惨は盛大に顔を顰めた。

 

「童磨……」

「やっぱり心当たりがあるんだな。んで、其奴はなんだ?」

「元上弦の弐だ」

 

 つまらなさそうにそう告げる無惨に、天元や実弥は当たってほしく無かった推測の答えを得て舌を打つ。

 

「それで、此奴がどうした?」

「連れがストーカーされてる」

 

 どうせ今世でもロクでもないと決め付けていた無惨は写真を裏返して話を促すと案の定だった。

 大きな溜め息を吐いた無惨は仕方無しに情報を提供することに。

 

「此奴はいわゆるカルト宗教の教主なんてものをやっている。前世でもそうだったが妙なカリスマもあってか崇拝している者が少なからずいる。学内にもいた筈だ」

 

 想像以上に厄介な相手だったのだと驚く一同を無視して、無惨は顎に手を寄せて思考に耽る。

 

「しかし妙だな。此奴は何かに執着するような感情とは無縁だと思っていたが」

「どんなヤツなんだ?」

「あくまで前世の話だが、屑だな。まともな人間性をしていない」

「お前が言うのかァ……」

 

 人間では無かった代表の無惨の言葉に実弥が米神に青筋を浮かべるも、無惨としては正直に話しているので撤回などしない。

 

「ともあれ、気を付けることだな。記憶は恐らくないが、此奴は頭がおかしい。常識など通用しないと思え」

 

 

 

 無惨の忠告が正しかったと知ったのは、すぐのこと。

 

 

 

「やあやあ、やっと二人きりになれたね」

 

 思えばその日はおかしかった。

 いつもと変わらないメンバーで過ごしていたいつもの日常。講義を受けて、お昼を食べて、他愛のない雑談に興じて。

 呼び出されたからと一人別れて、別の用事が出来たからとまた一人離れて。集団から小規模になり、連れ添いになり、瞬く間にカナエの周りから人が消えていった。

 極め付けはこの直前。

 

「きゃあ! ひったくりよ!」

『っ!?』

 

 気付けば義勇と二人で歩いていたその時に、女性の甲高い悲鳴が聞こえてきた。

 反射的に目で追えば一人の女性が道端に倒れていて、其処から走って逃走する男の姿。

 ()()()()()()()()()()()()違和感を他所に、正義感で動く二人の判断は早かった。

 

「胡蝶!」

「行って、冨岡くん! 女性は私が!」

 

 駆け出すと同時に二手に別れた二人。

 義勇は類稀な身体能力でひったくり犯と思われる男性を追走し、カナエは倒れ込んだ女性へと寄り添った。

 

「お怪我はありませんか?」

「はい……いえ、脚を少し擦り剥いてしまって」

「見せていただいても?」

 

 少しだけ場所を移したカナエは、常備していた簡単な消毒薬や絆創膏で傷口を治療する。

 滅多にない事件に身体を震わせる女性を励ましながら、カナエは安心させるように笑顔を浮かべた。

 

「冨岡くん、さっき追っていった男性なら大丈夫ですよ!」

「ありがとうございます。……お二人は付き合っているのですか?」

「え? いえいえ! わ、私と冨岡くんはそんな関係ではっ!?」

 

 結構踏み込んだ質問をいきなりされてカナエはやや慌てふためく。

 カナエのその様子をどこか観察するような眼差しで見詰める女性。

 その不自然さに気付かなかったカナエは、話題を切り替えるように口を開いた。

 

「そう思えば、その、何を盗られたのですか?」

 

 聞きにくいことであるためにおどおどしてしまったカナエだが、返ってきた答えは予想外過ぎるものであった。

 

「実は、何も盗られていないのです」

「…………え?」

「私の目的は、貴方からあの男性を引き離すことだったんです」

「な、何を言って……」

 

 理解の及ばない返答にカナエが硬直し、その間隙を縫って女性はいとも簡単に立ち上がる。

 呆然と見上げるカナエを置いて、その場にもう一人の声が割り込んだ。

 

「うん、ご苦労様。お陰で助かったよ」

「教祖様! 勿体ない御言葉です!」

「っ!?」

 

 その声にカナエは全身が震え始めるのが止められない。

 恐る恐る振り返れば、其処にはここ最近で望まない邂逅を繰り返した男である童磨の姿。

 

「あっ、君はもう帰っていいよ」

「はい、では失礼いたします」

 

 何事も無かったかのようにこの場を離れる女性。カナエからすればこの二人がどんな関係性なのかも分からず、ただただ状況の理解不能さに思考が停止してしまう。

 此処に来て、カナエはようやく嵌められたことに気付いた。

 

「やあやあ、やっと二人きりになれたね」

「……何が、目的ですか?」

 

 震える身体を押さえ付けるようにカナエは自身の腕をギュッと握り締める。やはり得もいえぬ恐怖は際限なく湧き上がり、本能的な忌避感に苛まれて仕方がない。

 

(どうして、どうしてこんなに怖いのっ!?)

 

 己のことなのに理解出来ない現象は、カナエの冷静な思考を狂わせていく。

 その状況下にあってもカナエは強かに、己がやるべきことをやり遂げるために、ポケットの中を手探り操作する。

 

「そんなに怖がらなくてもいいのにー。俺はただ、カナエちゃんとお話したいだけだよ」

「わ、私は話すことなんてありません」

「そんなこと言わずにさぁ。……うんうん、やっぱりだ」

 

 満足そうに頷く童磨はニコリと笑う。

 全く温度のないその笑みは、カナエの怖気を倍増させるだけで。

 

「君は俺のことを初対面の時から怖がってるよね。どうしてかな? 俺、女の子に出会った時点で嫌われるなんて今まで無かったんだ。カナエちゃんと会ったのも大学が初めてなのに、だからちょっと気になったんだ!」

 

 無邪気な好奇心だと笑うその言葉は嘘には思えない。

 それでも、ちょっと気になったぐらいでこうまでしつこく付き纏われるなんて。

 

 世間一般では、それをストーカーと言うのだ。

 

「貴方は……」

「ん?」

 

 まともな反応を見せたカナエに童磨は首を傾げる。

 無垢とも思えるその仕草。

 カナエはその本質を、出逢った時点で見抜いていたのかもしれない。

 

「貴方は、可哀想だわ」

「……何?」

 

 楽しげな表情が一時停止し、童磨の眉が僅かに動く。

 カナエは相手が不快に思うだろう言動をした経験は少ないけれど、何をされるか分からないこの現状に抗う術がこれしか思い浮かばなかった。

 

「貴方には、感情が殆ど存在してないんでしょう?」

 

 この言葉に、童磨の笑みが固まる。

 

「貴方からは喜怒哀楽を感じないわ。笑っているのもただ仮面を取り繕っているだけ。私のことが気になると言ってるけど、珍しい動きをする動植物に向けるような目をしているわ。……暇潰しで私にちょっかいをかけるのはやめて」

 

 恐怖と共に募った鬱憤を吐き散らかして、カナエはキッと眼光を鋭く光らせる。

 言ってやった。性質(たち)の悪いストーカーに対して反感を覚えるような言動は控えるべきだったのかもしれないが、幾ら温厚なカナエとてやられっぱなしは趣味ではない。

 重苦しい静寂が場を包み、童磨の雰囲気が一変。

 

「……今まで、随分な数の女の子とお喋りしてきたけど」

 

 すぅ、と冷える童磨の双眸。

 

「君みたいな子は初めてだよ。うん、やっぱり気になるなぁ」

「っ!?」

 

 その変化にカナエは息を飲む。

 明らかに童磨が宿す感情が変わった。新たに生まれたとも言える激変。

 

 初めて童磨の瞳に、欲望という感情が見えた。

 

「カナエちゃんの言う通りだよ。俺にはみんなが言う嬉しいとか悲しいとかがよく分からない。色んなことをやってみたつもりだけど、もう全然。正直、ずっとこのままなんだろうなぁ〜って思ってたんだ」

 

 達観した様子とは裏腹に微笑みを絶やさないその表情は最早癖なのだろう。だからこそ仮面たり得ているのだ。

 

「でも、カナエちゃんを一目見た時に、ふとね。なんか興味でてきてね。何だろう、うん。何なんだろうね」

 

 心底不思議そうにする童磨であるが、カナエからすれば迷惑この上ない。

 それでも、そんな不明瞭な気持ちですら、童磨にとっては新鮮だったのだろう。

 だからこそ、こうまでカナエに関心を抱いたのだ。

 

「そしたらカナエちゃんも俺のことを特別に感じてくれているみたいだし。だから思ったんだ。これがもしかしたら運命ってやつなのかもって!」

「…………は?」

 

 飛び出てきた単語に、カナエから思わず素っ頓狂な声が漏れる。

 カナエの困惑を余所に、童磨は滔々と語り続けた。

 

「実は俺、万世極楽教の教祖をやってるんだ。信者の皆と幸せになるのが俺の務め。極楽なんて人間が妄想して創作したお伽話なのに、それでも集まる人はいるんだよねぇ。可哀想だから話を聞いてあげるんだけど、そうするとね、何故か俺の言葉なら何でも聞いてくれる人たちが出来上がる。さっきの子なんて正にそうなんだよ」

 

 からからと笑う童磨に対し、先程の謎が解けたカナエは一歩後ずさった。

 

 これは拙い。

 このまま此処にいてはいけない。

 一刻も早く逃げ出さなければならないのに、脚が上手く動かない。

 

「今でも極楽なんて信じてないし、天国や地獄なんて存在しないと思ってる。でも、カナエちゃんとの運命があるなら、もしかしたらそういうのも存在するのかもしれないね」

「な、何を……」

 

 思考回路が全く読めない。

 ある意味で純粋無垢なその精神性は、カナエには理解不能の怪物にすら思えてくる。

 

「だからそれを確かめる為に、カナエちゃんには俺に付いてきてもらいたいんだ!」

 

 笑顔のまま近付いてくる童磨。

 まるで決定事項のように宣ったその言葉は、カナエにとって恐怖以外の何物でもない。例え相手が童磨で無かったとしても、これは普通に怯えずにはいられない状況だろう。

 

「いや、来ないでっ!」

「そんなに怯えずにさ〜。大丈夫、俺がカナエちゃんを幸せにしてあげるから」

 

「──胡蝶に近付くな、下衆が」

 

 突如、頭上から舞い降りる声。

 たんっと二人の間に降り立ったのは、長い黒髪を風に靡かせた一人の美丈夫で。

 

「と、冨岡くん……」

「済まない、胡蝶。遅くなった」

 

 颯爽と現れたのは、先程ひったくり犯と思われる者を追っていた筈の義勇だ。何故か身体の至るところが傷付いたように見える義勇であったが、その瞳には童磨に対する強い敵意が浮かんでいた。

 味方が現れたこと一気に緊張の糸が解けたカナエはすとんとその場に座り込んでしまい、童磨は突然の乱入者に驚いたように目を見開く。

 

「あれぇ、おかしいな。どうして此処に来れたのかな? 誰も近付けさせないようにお願いしたのに」

「あれはお前の手のものか。押し通らせてもらったが」

「あっはは! 凄いね、十人以上はいた筈なのに」

 

 愉快そうに笑う童磨に対し、義勇の敵意は萎むどころか増すばかりだ。

 強引な手段を訴えようとした場面を目撃されても、童磨には一切の反省の色がない。例えここで見逃したとしても、性懲りも無くカナエへとちょっかいを出してくるだろう。

 この場でケリをつけなければならないとその一瞬で考え至った義勇は、おもむろに携帯機器を取り出した。

 

「お前と胡蝶の通話は録音してある。然るべきところに出せば、お前は終わりだ」

「……へぇ。それは困るなぁ」

 

 鋭利に光る童磨の眼光。

 ぱんぱんっ、とそのまま手を鳴らすと、その大きな音を聞いたのだろう人々が集まってくる。

 彼等が童磨の言っていた信者だということには、流石のカナエも気付いた。

 

「じゃあ二人のスマホだけでも回収しないとね」

「っ、と、冨岡くん!」

 

 まさかここまで大事になるとは思っていなかったカナエは、自分の所為で義勇を危険に巻き込む訳にはいかないと思うも、一度頽れた身体はどうしても上手く動かない。

 そんなカナエの姿を一瞥して、義勇は迷いなく前を向く。

 

「安心しろ、胡蝶。力付くで来るのならむしろ都合が良い」

 

 すぅ、と冷徹を宿す義勇の碧眼。

 

「必ず護る」

 

 そこからは大乱闘、とはいえない一方的な殲滅であった。

 

 義勇の体術は並の相手など物ともせず、多勢に無勢であったにも関わらず次々と向かってくる相手を伸していく。一人二人と瞬く間に地に伏していく光景は目を疑うほとであった。

 

「うわぁ、凄いな君……これはもう無理かなぁ」

 

 鬼神の如き義勇の動きに童磨は空いた口を塞ぐように上品に口元に手を寄せる。

 

「うーん、仕方ない。ここは皆に任せようかな」

「おいィ、ここで逃げるなんて言わねぇよなァ?」

「……あれ?」

 

 音も無く童磨の周りに現れる四人の姿。

 ポンと童磨の肩に手を置くのは、怒りで米神に青筋を浮かべてただでさえ怖い形相が更に恐ろしいものへと変貌している実弥であり、後ろに続く杏寿郎、天元、小芭内も同じような表情をしていた。

 

「あぁ〜、皆来ちゃったん」

 

 これは拙いと思った童磨は何事かを喋ろうとするがもう遅い。

 

「死ね」

 

 容赦無く一発ぶん殴った実弥によって、この騒動は終幕を迎えた。

 

 

 

 此奴のことは俺たちに任せろと言って実弥と小芭内が童磨を連行してゆき、座れる場所を目指して移したカナエたちは公園へと辿り着いていた。

 

「怪我はないか、胡蝶?」

「うん、大丈夫……あの、その」

 

 労わるように義勇に声を掛けられたカナエは、もじもじと手を弄った後にバッと義勇へ視線を合わせる。

 

「あ、ありがとう、冨岡くん! 本当に、本当に……っ!?」

 

 今更になって恐怖がぶり返したのか、カナエの瞳からは大粒の涙が零れ落ちていく。

 突然の事態に義勇はギョッとし、おろおろと側にいた天元と杏寿郎に助けを求めるも、二人は空気を読んでか何も言ってはくれない。

 どうしようと悩む義勇は、ふと幼い頃のことを思い出す。犬に追いかけ回されて泣いていた時、姉がしてくれたことを。

 

 ぎゅっ、と。

 自分の体温を分かち合うように義勇はカナエを優しく抱き締めた。

 

「安心しろ、もう大丈夫だ」

「〜〜〜〜〜っ!!」

 

 柔らかなその温もりに包まれて、カナエの涙腺が決壊する。暫くの間は、嗚咽混じりの声しか響かない。

 ようやっと落ち着いてきたカナエだったが、途端に恥ずかしくなったのだろう。赤面する顔を両手で覆って、羞恥に震えながら縮こまってしまった。

 

「ご、ごめんね。私、迷惑ばかり掛けて」

「謝る必要はない。……胡蝶」

 

 呼び掛けられて、カナエは目と鼻の先にあった義勇の顔を見る。

 いつも無表情で無愛想にも見えるその口元が、その時だけは、穏やかに綻んでいた。

 

「お前が無事で良かった」

「…………ふぇっ」

 

 どくん、と心臓が跳ねる。

 かつてない感覚にカナエの全身の血の巡りはどんどんと早くなっていき、身体が熱くて堪らない。

 

 これが恋に落ちるということなんだと、カナエは初めて知った。

 

 いつの間にか距離を取って見守っていた天元や杏寿郎ですら一眼で分かったカナエの恋心。義勇の性格を知ってか、これは前途多難だなと快活に笑う杏寿郎に対し、あれこれヤバくね? などと天元は思っていたが、その懸念が後悔に変わるのはもう少し先のこと。

 

 その日以降、カナエはカナエなりの積極性で義勇との仲を詰めていく。

 疑うことを知らない義勇を口八丁手八丁で丸め込んで、名前で呼び合うように誘導し。

 練習も兼ねてと称してお昼ご飯を毎日作り。

 下心を持って義勇へと近付く女性の全てを遠ざけ。

 就職先すら同じところへなるように動いた。

 

 このままどんどんと距離を詰めていこう。

 そうすればきっと、義勇もカナエを異性として見てくれる。

 

 だと思っていたのに──

 

「冨岡先生、大丈夫ですか?」

 

 立ち眩みしたのだろう義勇へと寄り添う妹の姿。

 まるで行く道を遮るようにした妹の挙動。

 

 その瞬間、カナエは己の敵となる存在を認識した。

 

 どうして私の邪魔をするの、しのぶ?

 なんで義勇くんに近付くの?

 私はしのぶのことを愛しているけど、それはダメよ?

 

 灯る闇は確実に、カナエの心を広がっていく。

 

 極め付けとなったのは、その直後。

 

「──あっ、いたいた。義勇!」

 

 自分より義勇と仲が良い女性。

 後で義勇の実の姉と分かったが、それが判明する前に抱いた自分の感情は止め処なく。

 

 私以外の女性も仲良くしないでほしい。

 私だけを見てほしい。

 

 私だけ──

 

 際限なく溢れる独占欲。

 自分がこんな醜い考えを持っていたなんて。

 

 それでも、どうしても、欲しいと思ってしまう。

 初めてだったのだ。

 生まれて初めて好きになって、これまで側に居続けたのだ。

 

 だからもう、離れることなんて考えられない。耐えられない。

 

 そうだ、これは運命なのだ。

 

 私と義勇くんが結ばれないなんて、それこそ有り得ない。

 たとえ愛する妹であろうと、私から義勇くんを奪うなんて許されない。

 

 歪んだ心は元に戻ることはなく、自分の正義だけしか見えなくなる。

 もう悠長にしている心の余裕は無くなって。

 考えるのは最愛のあの人のことだけ。

 

 

 

 ──ああ

 

 ──ワタシダケノ、アナタ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 









オマケ


【挿絵表示】






次回
閑話 しのぶさんの日常

つづく……?




▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。