奇跡的に一命を取り留めた奈緒子は、意識の戻らない寿美と共に本土の病院に搬送されることとなった。同時に、寿美の件でも通報を受けていた警察が、本格的に捜査を始めた。捜査の中で、一晩中燃え続け、全焼した蔵の中からは一体の焼死体が発見される。青い服を着ていたらしいことが分かったため、コナンや平次の提案によって、本土の歯医者に連絡し、遺体の歯の治療痕を確認してもらったところ――焼死体は君恵であることが発覚した。
「嘘だ……嘘だ! 嘘だあ!!」
膝を付き、痛々しいほどの叫び声をあげた禄郎に、コナンや平次たちも表情を険しくする。犯人を絶対に許さない、そう胸に誓った。
それから、神社に掛かってきた奇妙な電話を蘭が取ったことにより、沙織の父親である弁蔵の不審な点が浮き彫りになり、平次とコナンは二手に分かれて捜査し始めた。平次は宴会を取り仕切っていた代表者や、参加していた島の人々のもとへ聞き込みへ、コナンは沙織の家へそれぞれ向かい、互いの携帯電話へと、逐一連絡を入れる。
「……服部、今からオレの推理を話す。聞いてくれ」
電話口の平次が思わずたじろいでしまうほどの、真剣な声だった。小五郎や蘭、それから沙織の家の鍵の場所を教えてくれた禄郎の目を掻い潜り、コナンが電話の向こうの平次へと導きだした「真実」を語る。
「アホォ! そんなわけあるかい! オレは絶対信じひんぞ!」
「服部、不可能なものを除外していって、残ったものがたとえどんなに信じられなくても……それが真相なんだ」
たしなめるような口調のコナンに、平次は「なんやとぉ!」と噛み付くように声をあげた。家から家へと、弁蔵さんの行動について聞き込みをしていた平次は、その道中、悔しそうに空いていた拳を握る。
「あら、喧嘩かしら?」
砂浜近くで電話をしていた平次のもとに、鈴の鳴るような美しい声が掛かった。
「輝夜さん……」
振り向いた平次と和葉が同時に彼女の名前を呟く。美しい微笑みに憂いを少しだけ滲ませた輝夜は、「君恵さん、亡くなったと聞いたわ」と静かに言った。
「せやねん。君恵さん……奈緒子さんに『沙織さんを見た』って呼ばれて、探しに行ってしもうたんです。アタシらが一緒について行ってれば、こんなこと……」
和葉が目に涙を滲ませながらそう言うと、輝夜はぽん、とその頭に手を置いた。
「一緒に来たあなたたちに何かあった方が、彼女は心を痛めるんじゃないかしら」
「輝夜さん……アタシ……」
ぼろぼろと涙を流し始める和葉の両肩に手を置いた輝夜は、やわらかな笑みを浮かべる。
「和葉ちゃん。生きることは苦しいかしら? それとも、よろこびに満ちているかしら?」
「へ?」
「死ぬことは恐ろしいかしら? それとも、解放なのかしら?」
言葉を重ねる輝夜は、和葉をじっと見つめた後、平次の方を向く。
「あなたは?」
「……そんなもん、自分次第とちゃいますか」
輝夜は目を伏せ、それからもう一度、平次の顔をじっと見た。
「私、君恵さんとも同じ話をしたわ」
「なっ!?」
「人の命とは儚いものね。それだけでなく……大抵の人の心は、とても脆いわ」
和葉の肩から手を離した輝夜は、海の近くへとゆったりと歩きながら、どこか遠くを見ている。ザザン、と大きな音を立てて波が押しては引く中、輝夜は潮風に黒髪を遊ばせながら、ふっと笑みをこぼした。
「服部君。迷いがあるなら行動することをおすすめするわ」
そう言って、彼女は海沿いをゆったりと歩いていってしまった。呆然とした表情の平次は、やがて覚悟を決めたように口を引き結ぶ。
「!? 平次、どこ行くん!?」
「こーなったら、納得いくまで調査や、調査!」
「ちょお待って! 平次ー!」
ポニーテールを弾ませながら、和葉はずんずんと歩く幼馴染を追い掛けた。
*
君恵の通夜や葬式は開かず、家族――たった一人の肉親である自分だけで彼女を弔う、と弥琴は自分の意向を蘭や禄郎など、周囲にいた人々に伝えた。そういう理由もあって、小五郎に神社まで呼び出された島の人々は、せめて弔意を示したい、ということで全員が喪服を着用していた。
島の人々と同じく呼び出された輝夜は、急遽用意した喪服に身を包みながら、眠っているように見える小五郎の正面に座った。その直後、大きな音を立てて障子が開かれ、警察が相も変わらず酔っている様子の弁蔵を連れてくる。
「おや……大阪弁の少年はどうしました?」
小五郎の声と共に、コナンの声も聞こえた輝夜は、そのからくりにすぐに気が付いた。学園祭のときに、灰原がコナンに変装したのと同じことを、この少年もやっているのだろう。ただし、こちらの場合は小五郎が本物なので、彼が眠っている隙に、コナンが「名探偵毛利小五郎の口から伝えるべきこと」を伝えているようだが。
「大阪弁の少年? 少し話をしたが、それ以降は見ていないが……」
「そうですか……」
返事をした「小五郎」はしばらく待つように、と座っている者たちに告げた。ちなみに、輝夜はコナンに島以外の者で一人だけ呼ばれたのだが、「眠りの小五郎の推理ショーが見れるかも!」と人が亡くなったにも拘らずのんきなことを言っていたスタッフたちは何人かついてきている。
警察がしびれを切らしたころに、蘭が弥琴を伴って部屋に入ってきた。弥琴は輝夜の隣に座り、蘭はそんな弥琴の隣へと腰を下ろす。島の人々はどよめきながら「なぜ『命様』が……!」と口々に発言していたが、それに反応することなく、「小五郎」は「では、役者も揃いましたので」と語り始めた。
ひとつひとつ、「小五郎」は今回の事件について丁寧に説明していく。
寿美は事故ではなく、「誰か」に滝つぼへ落とされた。本土の病院で詳しく検査を受けた結果、彼女の体からは睡眠薬の成分が検出されたことが分かっている。さらに、彼女の衣服からは水で流れ落ちなかったわずかな土の汚れがあり、現場には「何かを引きずったような跡」も残っていた。事故で足が危険防止の綱に絡まって落ち、身動きの取れないまま綱が切れて滝つぼへと落ちたのなら付着するはずのない場所についたその汚れと、地面に残された跡は、彼女が森の中で眠らされた後に古い綱で足を縛られて杭で固定され、ひもの着いた浮き輪を使って滝の手前に流された証であるとのことだった。
浮き輪が寿美を川の中腹に運ぶと、犯人はすぐに浮き輪についたひもを引っ張って回収し、森の中に捨てた。事件後すぐのタイミングでは、暗かったことと、平次とコナンを禄郎がすぐに迎えに来たことで、地面に残された跡だけが「事故ではないかもしれない」手掛かりであったが、その後の調査で現場近くに、割れて空気の抜けた浮き輪が捨てられているのを発見し、「小五郎」たちは事故ではなく事件であるという認識を持ったそうだ。寿美への犯行は、溺死か、綱が切れたときに滝つぼへの落下したときの怪我を狙ったものだろうと説明された。
また、第二の事件である蔵の全焼についても言及した。寿美同様、死には至らなかった奈緒子の頭には殴打された跡と、腕や胴体には縛り上げられたような跡、顔には猿ぐつわを噛まされた跡があった。これは焼ける蔵から逃げられないようにするためであり、凶器は燃えて残らなかったことから木の棒か何かであろうということも付け加えられる。そうして、昏倒させた後に腕や胴体を縛り上げて放置した。おそらく犯行時刻は神社に人が集まる、宴会の前であると推測される。急遽決まった宴会でバタバタしている中、誰も用事もなく、施錠もされていて境内からは少し離れた場所にある蔵などには立ち寄らない。「儒艮祭」そのものであるならともかく、ただの宴会に必要な物は蔵になどなく、島の人たちで持ち寄ったり、君恵と弥琴が居住スペースから貸し出したりしていたからだ。
「も、もしかして、犯人は……!」
声を上げたのは、輝夜の撮影スタッフの一人だった。
「か、カグヤさんなんじゃ……!? おかしいと思ってたんだ、島の人でもないのに、一人だけ呼び出されるなんて!」
「カグヤさんがそんなこと、するわけないだろ!」
「でも、こんなに目立つ人なのに、たまにふらっといなくなってただろ! まるで人目を避けるように……」
「いい加減にしろよ! カグヤさんが何のためにそんなことするんだよ!」
「そうですよ、カグヤさんはそんな人じゃありません!」
スタッフだけでなく、島の人たちも、ついでに警察も巻き込んで騒ぎ始めた周囲を見て、輝夜は深いため息を吐いた。その挙動ひとつで、しん、と静寂が落ちる。
「それで、『毛利さん』の見解はどうなのかしら」
「当然、犯人は輝夜さんではありません」
「小五郎」が落ち着いた声でそう答えると、安堵したようにほっと息を吐く音が聞こえた。最初に騒ぎ立てたスタッフは、土下座をする勢いで、輝夜に向かって「失礼なこと言ってすみません!」と頭を下げている。輝夜は「気にしていないわ」と、さらりと返事をしていた。殺人犯に仕立て上げられそうになったというのに、淡々とした寛大な態度を取ったことで、謝ったスタッフは彼女のことを拝み始める。そんな彼らに注目が集まる中、隣にいた蘭は、安堵の息が弥琴からも同様にこぼれていたことに気が付いたが、特に不自然なことではないと感じ、視線を「小五郎」へと戻した。
「犯人には迷いがあったんでしょう。だから、殺したところを見届けずにその場を去った。犯行の手口から、周到さが見える犯人が、三件中二件も殺人未遂で終わらせたのは『ミス』ではなく、あえてだと私は判断しました」
「それなら、やっぱり沙織が、幼馴染を殺すのを躊躇して……!?」
「いいえ、沙織さんでもありません。なぜなら沙織さんは、既に亡くなっているからです」
禄郎の言葉に、「小五郎」は極めて冷静に返答した。それから、蔵で見つかった遺体は君恵のものではなく、沙織のものであることを補足する。本土へ歯の治療に行ったのは、本当は君恵ではなく沙織であったこと、自分の保険証を使わせるために、君恵が沙織の保険証を隠したこと、君恵の保険証を使用するために、沙織は君恵の名で治療を受けたこと。そして沙織を殺害し、蔵ごと焼くことで、死んだのは君恵自身であると錯覚させたこと。
「そしてその蔵には、宴会で忙しくなる前に呼び出し、捕えておいた奈緒子さんもいた」
つらつらと、探偵は犯行現場の不審な点、怪しいと思われていた弁蔵や禄郎――ついでに輝夜などが犯人から除外される理由を述べていく。弁蔵は宴会に乗じて神社から名簿を盗み去ったが、それは偶然拾った寿美の番号札を自分が手に入れたことで疑いを掛けられるのを避けようとしたためであった。ついでに、手に入れた矢は沙織が失くしたと思っていた矢と同様、誰かに高額で売りつけるつもりだったようだ。
「小五郎」の推理が進むと、人々は「この場にいる」と探偵が宣言する君恵を探し始めた。輝夜はすっと目を細める。それは笑みではなく、何かをよく見ようとする人がそうするのと同様で――しかし、彼女がやるとぴりりと緊張感が走るような、そんな仕草だった。
「そう、犯人は――『命様』、あなたです!」
宣言と共に、部屋にいた全員が老婆を見る。しかし、誰の目にもそれは老婆としか映らない。「そんな馬鹿な」と震える声で言う禄郎に、「小五郎」は映画で金賞を取るほどの君恵の特殊メイクの腕前や、「命様」が素顔で人前に出ないことを挙げて、実在する人物に成り代わるよりも格段に難易度が下がることを説明した。
「思い出してください……三年前の火事で燃えた蔵から発見された、奇妙な遺体。本来、足があるべきところにその骨がなく、島の人々から『人魚の亡骸』と呼ばれたあの焼死体……あれはおそらく、足を折り曲げ、ひもか何かで固定したまま焼け死んだ女性……あたしの推理が正しければそれは君恵さんの……」
「母さんよ」
可憐な声だった。老婆から発されたとは思われぬほどの、透き通り、張り詰めた声。ぱちん、ぱちん、と衣服をめくったその中にある、足を固定していた金具を、慣れた手つきで外していく。
「『命様』の役をおばあちゃんから引き継いで、島の人のために一生懸命演じ続けた……」
立ち上がった老婆は、息を呑む人々を意に介さず、まっすぐに「小五郎」を見て、あらゆる感情が湧き出ようとするのを堪えるように、力強く言った。
「憐れな女の……成れの果てよ!」
それから、ゆっくりとそのしわくちゃに見える手を、己の顔へともっていく。ぺり。そんな音は、ゆっくりと、連続して、彼女の正体を露わにしていった。
「よく分かったわね、探偵さん……。このメイク、けっこう自信あったのに」
はがした面の皮をかつらごと脱ぎ捨てた君恵は、まとめた髪を解き、首や手のメイクもはがしてゆく。その表情は、どこか晴れやかにも見えた。彼女は蘭の質問に答える形で、「命様」に化けながらも、君恵と同一人物だと思わせないからくりを語った。
「でも……なぜだ、君恵! あの三人は仲の良い幼馴染だったじゃないか!」
禄郎が、「命様」から君恵に変装を解いた姿を目の当たりにして、それでも「信じられない」といった表情のまま問うと、目を伏せた君恵はゆるやかに頭を振った。
「母さんの敵討ち……幼馴染なんて関係ないわ」
君恵は、三年前の真相について語り始める。祭りで矢が外れた腹いせに、「命様」に扮した君恵の母親が蔵に入って行くのを見て、「本当に不死の体かどうか試してやる」と言って三人が放火したこと。一週間前、矢を失くしてパニックになった沙織が言うまで、知らなかったこと。君恵の母は、「命様」に徹した方がやりやすいからと、五年前に海で行方不明になったことにしていたこと。
「炎の中……母さんはこう言ったのよ。『君恵……あとは頼んだよ。母さん、この島が好きだから……命様を、命様を殺さないで』って……!」
しかし、放火をした三人――少なくとも、沙織に反省の色は見られなかったという。矢を失くして怯えた沙織は、君恵に「代わりの矢をくれないなら、人魚の墓の場所を教えてよ!」と詰め寄り、自分も「『命様』のように、炎に包まれても平然と生きている、不死の体になりたい」と言ったそうだ。
「許せなかったのよ……寿美も奈緒子も……! 呼び出すのは、簡単だったわ……『祭りで矢が当たったら、墓の場所を教える』って言ったら、二人とも目の色を変えていたから……あれは母さんの……私と二人っきりで頑張っていた、母さんのお墓なのに……!」
目に涙を浮かべながらそう言った君恵の言葉の後、障子が開く音が聞こえる。
「二人っきりやないで」
平次だった。なぜか体をぼろぼろにして、手からは血を流した姿で、障子にもたれかかる。
「この『命様』のからくりを知っとったやつは、他にもおったんとちゃうか?」
「えっ」と君恵が声を漏らすと、平次は「君恵さんが死んだら祭りは終わりや言うてた、そこのじいさんとか!」と、気まずそうに目を逸らす老人たちへ視線を向けた。
観念したように、島の人々は「若い者たち以外はみんな知っていた」と告げ、君恵に向かって次々に頭を下げ始める。
「う、嘘……!」
立ち尽くす君恵に、島の人々は三年前に火事で亡くなったのが君恵の母親だということも分かっており、「祭りはもう終わりにしよう」と言おうと思っていたが、神社を訪ねたら「命様」の姿で出てきた君恵を見て、言えなくなってしまった、と語った。それから再度頭を下げ、島のためとはいえ黙っていたことを、口々に謝罪した。
「そ、そんな……それなら、どうして……」
ふらついた君恵を、輝夜は立ち上がり、抱きとめるようにして支える。
「……輝夜さん、ありがとうございます。私のせいで誤解されそうになって、すみません。あなたは――私に、殺人を思いとどまらせてくれたのに」
「そう、そこが不思議だったんです」
静観していた「小五郎」が声をあげた。頭を下げていた人たちも、ゆるやかに顔をあげ、再び注目の的となった輝夜を見つめている。
「君恵さん、あなたは『幼馴染なんて関係ない』と言いました。それならなぜ……寿美さんと奈緒子さんの二人を、殺さなかったんです?」
「殺すつもりでした。三人とも、絶対に許さないと、そう思っていましたから」
君恵は輝夜へと視線をやり、それからそっと手で彼女の体を押して、一人で立つ。輝夜は口を出す気はないらしく、黙って優雅に腰を下ろした。
「祭りの前に、輝夜さん、私に声を掛けてくれたんです。私があまりに思い詰めた表情をしていたから……」
ぽろり、と溜まっていた涙をぼろぼろとこぼしながら、君恵は嗚咽交じりに言葉を紡ぐ。
「全てを見透かすような目で……こう言ったんです……『人はなぜ不老不死を求めるのかしら』って……」
鼻をすすりながら、涙をぬぐいながら、君恵は隣に座る人の、この世のものとは思えない絶世の美貌を見つめた。見つめ返してきた深い赤茶色の目は、一見優しげに見えるのに、決して底の見えない深淵のようである。
「生きることは苦しみか、よろこびか。死ぬことは、恐怖か、解放か。そんなことは、死んで生き返りでもしない限り、誰にも分からない。『生きて死ぬ』ことが人間の定めであるなら、苦しみの果てで『死ぬ』ことと苦しみを抱え続けて『生きる』こと、どちらがより恐ろしいことなのかしらね、って」
輝夜は笑わなかった。周囲の人々は、彼女が少しだけ目を伏せたことで、作り物めいていて現実離れした美貌の人が「生き物であることは知っているはずなのに」、今初めてそのことに気が付いたようにハッとした表情を向けた。
「だから、私、『運命』に委ねることにしたんです。私は憎い人たちを『殺した』――あえて、生き残る余地を残して。死んでいなくても、『殺した』つもりになって、それであの人たちが助かったなら、それでもいいって、そう思うようにしたんです。輝夜さんは、私が人を殺そうなんて思っていなかったと思いますけど……」
輝夜が口を開きかけたその時、禄郎の携帯電話が鳴った。電源を落とし忘れていたことを思い出した彼は、着信画面を見て、寿美の父親からであることに気が付く。
「どうぞ」
まるでこの神社の家主――あるいは祀られる神のように、誰よりも堂々とした輝夜がそう言ったことで、彼は電話を取った。
「な、なんだって!?」
それから、悲鳴のような叫び声をあげて、しばらく電話口で語られる事柄に耳を傾ける。やがて通話を終了した彼は、耳をそばだてていた周囲の人へ向けて、力ない声で言った。
「寿美も奈緒子も、目を覚ましたそうだ……」
喜んでいいのか複雑な空気が流れる。喜ばしいことであるはずなのに、その二人が人を殺めたことで君恵を追い詰め、殺人未遂をさせてしまったという真実が、誰の心にも重くのしかかっていた。
「二人とも、正気を失っているらしい」
ぽつり。禄郎がさらに、呟くように言った。
「それ、どういう……?」
そう言ったのは、誰だったのか。禄郎は携帯電話が壊れそうなほど力強く握りしめる。
「二人ともうわ言で『人魚が来る。もう生きたくない。殺してくれ。どうして殺してくれなかったんだ』と……そう言っているそうだ。医者が言うには、生死をさ迷っている間、恐ろしい夢でも見たんだろう、と……時間が解決するだろう、とのことらしいが……」
「こんな形になる前に、もっと早う醒めるべきやったんや」
平次が厳しい表情のまま、部屋にいる人々を睨みつけるように見た。
「不老不死なんちゅう悪い夢からな。命っちゅーんは限りがあるから大事なんや。限りがあるから頑張れるんやで。……お二人さんが、早う『恐ろしい夢』から目ぇ覚ますことを祈っとるわ」
彼の言葉に、本日何度目かの沈黙が落ちる。誰も言葉を発することができない雰囲気の中で、輝夜だけは、いつも通りの笑みを浮かべた。
「さ、用が済んだなら私は帰るわ。見事だったわよ、『探偵さん』」
平次と小五郎――心なしか、小五郎についてはその奥を見つめてから、輝夜は部屋を出るため歩き出した。慌てて立ち上がったスタッフたちは、中にはしびれた足を引きずる者もいたが、その後に続こうとする。
「輝夜さん……私……」
小さく、か細い声だった。それは朗らかに微笑む「お姉さん」としての姿とも、凛と気丈に振舞う巫女の姿とも違う。疑いもしていなかった者たちに裏切られ、自分の信じていたことは虚構で、己を己たらしめていた軸が失われ、寄る辺がなくなった人間の声だった。
「何かしら」
平次の立つ障子の手前。輝夜は振り返りながら、ゆるりと微笑む。
「どうしたら、よかったんでしょうか」
縋るような目だった。立ち尽くしたままの君恵に、輝夜は寄り添わない。手を差し伸べることはしない。
「知らないわ。私はあなたじゃないもの」
明確な拒絶。しかし、輝夜の表情はやわらかい。そのギャップに戸惑った人々は、やはり何も言えないまま、二人の様子を見守ることしかできなかった。
「だから、自分で立ちなさい。あなたの感情はあなただけのもの。あなたが迷って出した答えは、あなただけのもの。だったら、あなたは立って、導き出した答えのその先を見に行かなくては。考えるべきは、『どうしたらよかったか』ではなく、『これからどうするか』よ。あなたは不老不死ではないのだから、時間は有限なのよ」
突き放すような言葉に、君恵はたまらず破顔する。笑いながら、泣きながら、「はい!」と、よく透る可憐な声で、返事をしたのだった。輝夜は頷き、平次の横を通り抜ける。それから障子にもたれかかって浅く息を吐く、彼と同じく傷だらけのポニーテールの少女に目を向けて微笑んだ。
「大変だったみたいね。『納得できるまで調査』はできたかしら?」
「ああ。ほんで、事件に関しては工藤……やのうて、おっちゃんと同じ結論に至ってまいましたわ。ついでに、同時に大事なことに気付かされたっちゅー感じです」
輝夜は再び歩き出し、「それは素敵ね」と笑った。
翌朝、君恵は沙織の殺人と、寿美と奈緒子への殺人未遂で島を離れることとなった。海は荒れ、彼女が島から出ることを拒むように、船は中々出航できなかった。見送る島の人々も、涙を流しながら彼女との別れを惜しんでいる。
「ねえ、輝夜さん。ちょっといいかな?」
ようやく出航した船へと視線を向けたまま、コナンは隣に立つ輝夜へと声を掛けた。輝夜は二つ返事で了承し、人混みをそっと離れ、人魚の墓――と思われていた、君恵の母親の墓の前まで歩く。
「随分とみんなから離れたわね」
「ああ。輝夜さんに、ちゃんと聞きたかったし……それなら、他の人に聞かれない方がいいだろうって思って。蘭や服部にも」
島の人々からのお供え物や献花であふれかえった、森の中の賑やかな墓を見つめながら、輝夜は微笑んだ。
「輝夜さん、被害者の二人に何をしたんだ?」
コナンの表情は厳しい。君恵が犯人だと見抜き、服部に電話で告げたときよりは、戸惑いの表情が色濃かったが。
「あのあと、島の人たちがいなくなって、服部たちが怪我の手当てをしに行って、蘭たちもそれについて行って……君恵さんは気持ちを整理したいからと、警察の監視のもと、神社に一人でいたんだ。だからオレ、一人で君恵さんに気になったことを聞いた。君恵さんは何も知らなかったみたいだけど……」
強い風が二人の間を吹き抜ける。
「オレの推理では、輝夜さん――あなたは、君恵さんが二人を殺そうとする前に、寿美さんと奈緒子さん、それぞれに会っていたんじゃないか?」
「なぜそう思うの?」
輝夜の表情は変わらない。吹き抜けた風がたかれた線香の煙を散らし、香りを運んだ。
「君恵さん、奇妙なことを言っていたんだ。寿美さんも奈緒子さんも、呼び出しには簡単に応じたわりに、君恵さんが手を掛ける前に『人魚の墓はもう教えてもらわなくていい』って笑っていたって。『何かあったの?』って聞いたら、二人とも、『もう死なないから』って言ってたって。君恵さんは『儒艮の矢』が当たって、気が大きくなっていたんだろうって言っていたけど……オレはそうは思わない」
「人魚の墓」の話をする際に「お茶でも飲みながら」と、事前に遅効性の睡眠薬を飲ませていた寿美は、森へ呼び出して少し話をすると、うずくまって眠気に抗いながら君恵を見たそうだ。それでも、その顔には疑いこそあれど、恐怖には歪んでいなかったという。それから、完全に眠りに落ちる直前に、呂律の回らない口で「本当よ」と言い残したらしい。
宴会の準備が始まる前に蔵に呼び出した奈緒子も、「人魚の墓の話だけど」と切り出すと、にやりと笑って「別にいいわ」と断ったそうだ。「私は永遠を手にしたのよ」と語る奈緒子が沙織の遺体を発見してしまい、「あなた、まさか……」と動揺している間に、力の限り奈緒子を殴り、昏倒させた後に、体を縛り、目が覚めても助けを呼べないように猿ぐつわを噛ませた。
「二人には、『気が大きくなるようなこと』が起きたんだ。だけど、それは『儒艮の矢』じゃない。奈緒子さんはともかく、寿美さんは、当選したとはいえ、まだ矢を手にしていなかったんだからな」
ふるり。コナンは決意を固めるために、小さく頭を振った。
「不老不死を求める二人が、『儒艮の矢』や『人魚の墓』に縋らず、『もう死なない』と言い切った理由……輝夜さんが、何かをしたんだ。輝夜さん、オレに前言ったよな。『怪我ができない体質』って」
「ええ。言ったわね」
輝夜は頷き、にこりと微笑んだ。美國島で、人目を避けるためにされていた印象操作は今は行われていない。彼女の長い黒髪は下ろされたままだし、上品なブラウスにロングスカート、つくりの良い物だと分かる革のブーツは、青の古城で突然声を掛けてきたときの「蓬莱山輝夜」そのままの姿のように、コナンの目には映った。
「輝夜さんって、常識知らずだし、のらりくらりこっちの言葉を受け流すし、曖昧な言葉とか表現でお茶を濁してくるけど――たぶん、オレに嘘をついたこと、ないでしょ?」
「ええ。必要がないもの」
「だったら……」
コナンは眉を寄せて、泣きそうな表情になりながら、しかし涙を流すことはせず、まっすぐに輝夜を見つめる。
「言葉通り、輝夜さんは『怪我ができない』んだ。比喩でもなんでもなくて、輝夜さんは『怪我をしない』んだ。だから、拳銃を突き付けられても顔色を変えないし、『キケン』って看板のある鍾乳洞にも『大丈夫』と断言する。輝夜さんの性格なら、本当に怪我をしちゃいけないような体質だとすれば、『怪我をしちゃいけないと家の者に言われてる』とか、別の言い方をするような気がするんだ。それに、物件を探すときに病院を『必要ない』って言ってたのも、そういうことでしょう?」
「うふふ」
輝夜は心底楽しそうに笑った。それは「いつもの」輝夜ではない。おだやかでのんきなお嬢様でも、子どもをウノで陥れ続ける大人げない大人でもない。たとえば、そう、それは――「謎」を前にした探偵のような。
「何の証拠もないのに、私の今までの言動だけでよくそんな答えを導きだしたわね。いいわ、ご褒美に見せてあげましょう」
輝夜は、落ちていた木の枝を拾った。そんな何気ない動作でさえ洗練されたもののように思える至上の美貌は、とろけるような視線をコナンに向けた。しかしコナンは、その視線に心を奪われることはなかった。なぜなら――直後、輝夜が己の腕に、折れて鋭利になっているその枝を、思い切り突き刺したからである。
「っ……!」
漏れたのは、輝夜の苦悶の声か。叫びそうになったのを堪えたコナンの声か。
覚悟はしていたものの、コナンは枝を抜いた輝夜の腕に起こった現象を信じられなかった。
「そうよ。あなたの言う通り、私は『怪我ができない』。でも、さっきあなたの言った『怪我をしない』は間違いね。私は怪我をするわ。だけどご覧の通り、すぐに元に戻る。だから、正確に言えば『怪我をしている状態が続かない』ってところかしら。それで? 私のこの体質が、『死ななかった二人』に関係あると言いたいのね?」
傷など元からなかったかのように、輝夜の腕は血の一滴も流さず、白くなめらかな表面をさらしていた。しかし、目の錯覚ではなかったことを裏付けるように、枝には彼女の皮膚を突き破り、肉を抉った証拠として、赤黒い血が滴っている。
「輝夜さんは、二人が君恵さんと会う前に、話し掛けたんだ。その体質を見せて、『不老不死』を渇望する二人に、『不老不死はある』と言った。そこで――二人に、『不老不死』になったと信じこませた。なんの目的があってそんなことをしたのかは知らないけど」
「ふふ。私はあの二人が『不老不死になりたい』と言うから、『魔法』を掛けてあげただけよ。とっても喜んでいたわ。ただ――まあ、『魔法』は解けてしまったようだけど。ああ、服部君の言っていた『夢』という表現もいいわね。『恐ろしい夢』を見て、『不老不死を夢見た女性』は『解放のための死』を求めるようになった。おぞましい話だわ」
「輝夜さんっ!」
人の不幸を、くすくすと笑った輝夜に対し、コナンは責めるように名前を呼ぶ。
「教えてくれ……! なんの目的があって、そんなこと……! 二人の心を壊したのは、輝夜さんなのか!?」
輝夜はしゃがみ、コナンと目線を合わせた。
「私は『不老不死』の『夢』を見せてあげただけ。何かを犠牲にしてまでも掴みたかった『夢』ならば、少しくらいは見てみたらいいと思った、それだけよ。彼女たちの心が壊れたんだとしたら、それは私のせいではなく、彼女たちが『夢』に耐えきれない脆い存在であったということじゃないかしら」
同じ高さから見る輝夜の目、その奥が、あまりに得体の知れないもののように思えて、コナンは肌が粟立つのを感じる。まぎれもない恐怖。未知に対して好奇心を抱く性質である探偵という生き物をもってしても、「蓬莱山輝夜」は触れてはならないと本能が警鐘を鳴らす「未知」だった。
(だけど、輝夜さんは……「友達」じゃねぇか……!)
足が震える。腰が引ける。今すぐ彼女の視界から消え去りたい。けれどそれを許さないのが、江戸川コナン――工藤新一という少年の、探偵としての、「人間」としての誇りであった。
「輝夜さん、オレ……」
口の中が渇く。酸素が上手く脳へ行き渡っていない気がする。
「悔しいんだ。オレはまだ、輝夜さんの『難題』を解けない」
それでも、少年は手を伸ばす。
「だからさ。もう一回、握手してよ。輝夜さんはオレの友達で、解くべき『難題』で、オレ、どっちからも逃げ出したくないから」
白魚のような手が、少年の小さな手を取った。
「うれしいわ。心の底から」
いつの間にか、輝夜から感じていた恐怖が和らぐ。あたたかいその手は、彼女が確かに「生きている」ことを伝えてきて、「未知」でありながら「既知」の存在でもある安心感をコナンに与えていた。
「あなたの『強さ』は美しい。この世界で、あなたと出会えたことは私のこれまでの中でも、一際すばらしいよろこびよ」
輝夜がコナンの手を離すと、空気が少し変わった気がする。ふと視界に入った線香の灰が、ぽろりと落ちた。
「戻りましょうか。あの二人が『夢』の果てに見たものから、立ち直れることを祈るわ。転んでも立ち上がり、挫けてもなお逞しくなる。たとえ今は弱く、脆い存在でも……やがてはあなたのように『強い』人間になれたら、それはとても素敵なことだもの」
「輝夜さんは、オレを過大評価しすぎだよ。ただ、オレは探偵として、謎を解き明かしたいだけなんだ。そこから導き出された、たったひとつの真実をつかみたい。それだけさ」
満足げにコナンの言葉を聞いた輝夜は、どこかのんびりとした雰囲気を漂わせながら、曇天の森の中をにこにこしながら歩いている。
「あら、コナン君。見て、雲間から太陽が見えてきたわ」
天を指差した彼女につられて、コナンは空を見た。確かに、曇天を晴らす陽の光が二人をあたたかく照らしている。
「帰りの船は、きっと穏やかに海を渡るわね」
「ああ、きっとそうだな」
美國島は、「人魚の棲む島」ではなくなった。「人魚」は幻想として消え去り、幻想の郷のないこの世界では行きつく場所もない。けれど、たぶん、それでよかった。
輝夜が二人にしたことは彼女の言葉通りなんですが、思うところがあり、カットしました。
気が向いたらいつか自然な形で番外編みたいな感じで書きたいと思います。