三十秒当てゲームが始まる前、輝夜は羽休めにパーティー会場から出た。妙な気配を感じたというのもある。「妙な気配」の正体はすぐに分かった。不自然に誰もいないホワイエには、美しいのにどこか胡散臭さを感じさせる笑みを浮かべる女性がぽつんと立っていたのだ。
「あなたが来るとは思っていなかったわ。てっきり、私のところへ来るのは永遠亭の誰かだと思っていたのに」
大方、彼女の能力で何かしらの「境界」を曖昧にしているのだろう。それゆえ、輝夜にとっては知った仲である相手であるのに、はっきりと気配が感じられなかった。
声を掛けられた女性は、やはり胡散臭い笑みのままだ。その笑顔という仮面は、輝夜との再会に対して喜怒哀楽のどれも抱いていないのを隠すためにも見えるし、すべてを抱いていることを悟らせないようにするためにも見える。
「仕方がありませんわ。月の民では力が強大すぎてこの『狭いスキマ』を通れない。永遠と須臾を操る程度の能力を持つ、あなたでもなければね」
扇子で口元を隠し、紫水晶のような目を三日月のように細めて、女性は穏やかな口調で答えた。それから、どこか芝居がかったようにもみえる動作で、輝夜へと手を差し伸べる。
「そういうわけで、幻想郷に戻りましょう」
「どういうわけかしら」
「あなたのお家の人に頼まれちゃったのよ」
「あら、弾幕ごっこに負けでもしたの?」
「寝起きに襲われましたの。月の民は争いを忌避して月へ移動したというのは与太話だと確信しましたわ」
会話のテンポを崩さず、女性は大袈裟に肩をすくめてため息を吐いた。「やれやれ」と「よよよ」の中間の、これまた本心の分からない、ともすれば相手を馬鹿にしているようにも見える表情である。
「弾幕ごっこは遊びでしょうに」
そんな彼女の、おそらくは意図的に神経を逆なでしてくる言動を意に介さず、輝夜は呆れた目を向けた。
何せ、輝夜はこの大妖怪は常に胡散臭く、真意を見せないことをよく知っていた。どうせ今の会話も戯れに過ぎないのだろう。輝夜にとってもそうであるように。
「ええ、もちろん。けれど、あなたもご存知のように、遊びであってもルールはルールなのよ」
「そうね。私もそのすばらしい遊びをやりたい気分になってきたわ」
輝夜は不敵に微笑む。それは月の姫ではなく、蓬莱薬を飲んだ罪人でもなく、永遠亭の主でもなく、――謎を前にした探偵の笑みのような笑みだった。
「外へ行きましょう。思いっきりやりたい気分なの」
「ふう。こうなるような気がしていたのよね」
輝夜の子どものように無邪気な言葉を受け取った女性は、子どものわがままに困る大人ような表情を作って、パチンと扇子を閉じた。
そして二人は、夜空で再び対峙する。剣呑な雰囲気はどこにもなく、むしろ気安ささえ漂わせる。しかし気安さはイコール信頼ではないし、馴れ合いでもないことは、間違いなかった。
輝夜は両手を広げて、来訪者へと視線を向ける。余裕を崩さない表情で輝夜を見つめ返した濃紺の目は、灯りのない夜闇よりもなお暗い。それは輝夜の赤茶色の目も同様だった。互いに永きを生きる身。
都会の夜。新設されたビルの真上。当然、人工の灯りは昼のようにまばゆく地上を照らす。けれど二人を照らしうるのは、わずかな月明かりと星のきらめきだけだった。二人がいるのは、紛うことなく「月夜」であったのだ。
「私がこの『永遠』に違和感を覚えるときは、必ず『彼』が関わっているのよ」
輝夜は、小さな友人に敬意を表して、己の「推理」を妖怪の賢者へと聞かせた。妖怪の賢者――八雲紫であるならば、あるいは事の真相を知っているかもしれない。答え合わせというやつだ。
この世界の時は、何ら違和感なく進んでいる。けれどこの世界の「年月」は進まない。季節は巡るのに、人は年を取らない。誰もそれに気が付かない。長く幻想郷の者たちから永遠亭を隠した輝夜の扱う「永遠の魔法」ととてもよく似た現象だった。けれど、例外もある。
たとえば、酒巻監督を偲ぶ会で彼らと敵対する『組織』の一員を逮捕したとき。彼らが自ら『組織』の話をしたとき。学園祭で彼が元の姿に戻ったとき。
「『彼』は『鍵』であり、『世界』そのものだった。『彼』がいることでこの世界は成り立ち、進んでゆく」
そういった時には必ず、「永遠」は解けるのだ。そしてまた、いつの間にか「永遠」に戻る。この歪な「永遠」は、変化を嫌い、繰り返す「永遠」という性質を持ちながらも、時間が進むときがあるのだ。
それはまるで、重要な「事件」と「彼」が関わったときにだけ「年月」が経過するとでもいうように。空回りを続けていた秒針に、ようやく分針が反応したとでもいうように。永い永い回廊を走り抜け、ようやく小さな一段をのぼれるように。輝夜はこの「難題」を「進みながら繰り返す永遠」と名付けた。
そして、その答えはおそらく――。
(分かってしまえば、さみしいものね)
黒髪が夜風になびく。
そう。この「難題」に、「蓬莱山輝夜」は必要ない。「進みながら繰り返す永遠」を解くのは、輝夜であってはならないのだ。鍵を手にして、その扉を開くのは「彼」でなくてはならない。
そして、輝夜の目的もまた、「難題」を解くことそのものではない。「幻想郷に帰る」、そのために「難題」を解く必要があると思っていただけだ。蓋を開ければ、「難題」を解くべき人物は初めから決まっていて、輝夜が手出しをすることは、すなわち「世界を壊すこと」。
言い換えれば、この世界は「彼」のために創られた、「彼」を主役とした「物語」なのだ。
むろん、輝夜は友人のいるこの世界を壊すつもりは毛頭なく、そもそも、当の友人が「難題」を解きたがっているのだから、それに対して力尽くで水を挿すようなこともしたくない。
――もとから、難題ではなかったのだ。
輝夜にとっての「進みながら繰り返す永遠」はただの謎。小さな友人にとっての諸事件のようなもの。「難題」足りえるのは、その小さな友人が「進みながら繰り返す永遠」から世界を解き放ち、時の流れを正常に戻すからなのである。他の誰であっても、たとえ解き明かしたとして、解き放つことなんてできやしない。
「今は『永遠』の力が緩んでいるようね。だからあなた、『こちらの世界』との境界をつなげたのではなくて?」
「ご明察。さすがは永遠亭の主ですわ」
紫の笑みはまるで変わらなかった。退屈そうにも、楽しんでいるようにも見える。見る者に己の感情を委ねる、都合の良い液状の強固な仮面のようだ。
「さすがのあなたも『神』のほどこした『永遠』のからくりをどうこうして『境界』を操るっていうのは骨が折れるでしょうから」
輝夜は妖怪ゆえの紫の仮面を否定するつもりはない。妖怪とは、「畏れ」で成り立つ存在だからだ。境界を操る程度の能力を有するこの大妖怪を不気味で気味が悪いと感じない人間はそういないだろう。たとえどんなに友好的な笑みを浮かべていようと、妖怪とはそういうものなのだ。
「……それで? 人間のお友達でもできたから、彼らが死ぬまで待つとでも言うつもりなのかしら。まあ、私はそれでもかまいませんけれど。いくら人間の一生が短いとは言え、戻る時間を決めていれば、一時帰宅したくらいでは死なないわよ」
紫は大妖怪らしく、あっさりと揶揄するように笑った。
「……まあ、私も戻るつもりはあるのよ」
輝夜は、顎に人差し指を当てて、眉を寄せる。夜空の下、見ていたのが人間であれば、表情のひとつひとつがいちいち絵になる彼女に魅入られていたところであろうが、あいにくこの場で彼女と対峙しているのは人間ではない。紫は胡散臭さはそのままに、にこにこと輝夜の言葉を待った。
「だけど……ラーメン屋に行く約束を、しているのよね」
ぽつりと呟いた輝夜の言葉は、沈黙を生んだ。それが下手な言い訳でも本音を遠回しに表現したものではなく、彼女が本気で心残りに感じていることの一つであったから、余計に。
「は?」
ぽかんと、紫はらしくなく、常の胡散臭い表情を崩した。すぐに、おどけたように肩をすくめた彼女は「私、あなたの怖ぁい従者に言われているのよ?」と呆れたように言う。
「ええ。だから、言ったでしょう。遊びましょうって」
にこり。輝夜は誰もを魅了する絶世の笑みを浮かべた。しかし、「スキマ」と呼ばれる空間の裂け目に腰掛けた妖怪の賢者は、顔色ひとつ変えることはない。その反応に懐かしさを覚えた輝夜は愉快そうにふわりを空へ浮かんだ。
「私が勝てば、あなたは『永遠亭の者に私が息災であること、そのうち帰ることを伝える』。あなたが勝てば、私は『あなたと共に、幻想郷へ帰る』。謎は解けた。それなら、こうしてまた『永遠』の力が緩むとき、いつでも帰れるわ」
「…………」
紫はあらゆる境界を操ることができるが、それはただの便利な力ではなく、彼女の演算処理能力の高さによるところが大きい。この世界から抜け出すだけなら、輝夜にも力技でどうにかできるだろう。しかし、元の世界線の幻想郷に正しく帰るとなると、力技だけではどうにもならない。
「永琳は私に会いたくなったら、何度でもあなたに『勝負』を仕掛けるでしょう。それに、あなた自身この世界に興味を抱くと思うわ。永く生きる者にとっては、飽きない世界よ。何せ大なり小なり、毎日事件が起きているから」
輝夜が自分の能力をはじめから当てにしていたと気付いて閉口していた紫はため息を吐いた。それから、へらへらと胡散臭い表情を一度ひっこめ、悠然と微笑む。
「異界での弾幕ごっこ、楽しませてもらうこととさせてもらいますわ。私にとっては、勝とうが負けようがどちらでもかまわないことだし」
輝夜は、誰も認知できない須臾の世界へと紫を招く。そして、美しく刺激的な――ナンセンスの塊である遊びを、始めた。
*
呆然と輝夜を見るコナンに、彼女はにこりと笑みを向けた。笑顔自体は作ったものではなく、自然と浮かんだもののようにも思えたが、顔色は悪く、無理をしているようにも見える。
「輝夜さん、どうしたの!?」
彼女からのアクションがあって、コナンはようやく弾かれたように輝夜へと駆け寄った。ゆるゆると立ち上がった彼女に怪我はないが、コナンは蓬莱山輝夜という女性の特殊な体質のことを知っている。ドレスに目立った汚れや損傷はなさそうだが、「彼女であれば誤魔化せるのではないか」と感じていたため、体温を確かめるためにも、彼女の手を取る。白い手袋で覆われていても分かる冷たさだった。
「知人と話をしていたら、疲れてしまったのよ。久しぶりだったから、……白熱してしまって。大丈夫、この通り、怪我もないわ」
「輝夜さんは『怪我をしない』んじゃなくて、『怪我をしてる状態が続かない』んだろ。オレには、『今は』怪我もないって言ってるように聞こえるよ」
輝夜が目を細める。この成長を喜ぶ親のような、困った弟を見る姉ような、それでいて新しいおもちゃを見つけた子どものような、複雑な笑みだった。
「どうしてそう思うの?」
「根拠なんてない。怪我が治っても、怪我をしたときにできた衣類の汚れや破れとかが直るわけじゃないだろうし。だけど、そう聞こえたんだ。『今は怪我してないから大丈夫』なんて、そんなわけない。輝夜さんは怪我をするし、そうなれば痛いんだ。だって、あのとき顔を歪めてたじゃないか!」
ぎゅ、とコナンは小さな両手で彼女の手を握った。
「コナン君は、心配性ねぇ」
くすくすと笑った輝夜は、するりと手を離して、少年の脇に差し込み、抱き上げた。軽々とした動作には、確かに体調不良は感じられない。
「ほら、この通りよ。心配してくれて、ありがとう」
常なら頬を染めるくらいはしていただろうに、少年は真面目な顔をして、輝夜を見つめた。「探偵」としての勘か、それとも、実のところ自分でも気付いていないだけで何かしらの手掛かりを掴んでいるのか。違和感がある。それでも、何に違和感を覚えているのかは分からない。
(輝夜さんは何かを隠してる)
いつものことと言われれば、そうなのかもしれなかった。彼女は「蓬莱山輝夜」という人物の輪郭も核心も、常に捉えさせてはくれない。
「さあ、会場に戻りましょう」
輝夜はコナンを下ろして、手を繋いだ。あれほど濃密に感じた血のにおいは、もう感じられなかった。
さて、事態が動いたのはそれからだった。二人が会場に戻ると、ちょうどツインタワービルのオーナーで、パーティーの主催者の常盤美緒、それから設計者の風間英彦、ビルのオープンに際してお祝いにと富士山の絵を送った日本画家の如月峰水が壇上に上がり、挨拶をするところだった。
閉まっていた幕が開くと――常盤美緒が、富士山の絵を真っ二つに割るように、首を吊っていた。即座に小五郎が幕を閉じ、美緒を下ろすようにと怒号交じりに指示を飛ばす。時は既に遅く、美緒は亡くなっていた。
会場には警察が呼ばれ、捜査が開始される。輝夜はステージ下ですっと目を細め、騒然とする人々を観察するように見ていた。一方、コナンは捜査にしれっと加わり、ステージ上でトリックと犯人の動機に思い至っていた。さて、どのような手順でいつものように推理ショーをするか考えようとした、その時である。
大きな音と揺れがパーティー会場を襲ったかと思うと、ビルの電気室とコンピューター室が爆破されたとの報告がされたのだ。
会場にいる人々は、さらに騒然となった。声を張り上げる警察とビルの関係者たちの指示に従いながら、一同は煙と炎から逃れるための避難を開始する。
コナンと輝夜は、先に少年探偵団をエレベーターに乗せ、重量オーバーになってしまったからと次のエレベーターに乗ることになった。
下りる途中、輝夜はエレベーターの外を見やり、にこりと微笑む。それから、何かに気が付いたコナンの唇に、「しぃー……」と指を押し当て、園子の手を軽く引いた。
パリン、と乾いた音がエレベーター内に響く。それからもう一度、パリン、とエレベーターのガラスが打ち破られた。誰にも当たりはしていないが、ビルの爆発により、ただでさえ混乱し、不安を煽られている人々は、悲鳴を上げて、恐慌状態に陥ってしまう。
「そんなに慌てないで。扉を開ければいいのよね?」
マイペースにエレベーターの扉に手を掛けようとした輝夜に、コナンが待ったを掛ける。周囲の人々の中には、彼女なりの気遣いゆえの天然発言だと思ったらしく、くすっと笑っている人もいた。
「輝夜さん、いくらなんでも止まった状態のエレベーターのドアを開けるのは無理があるだろうし、ボクが天井に上ってみるよ」
輝夜に肩車されたコナンは天井を外し、彼の的確な誘導でエレベーター内にいた人々は全員脱出することができた。ツインタワービルは、その名の通り、A棟とB棟の二棟から成るビルである。パーティーが開かれていたのはA棟の七十階、A棟とB棟の連絡橋があるのは六十階と四十五階のみだ。爆破が起きているのは、会場があったA棟であり、警察の指示で、女子どもはVIP用の直通エレベーターを使って一階まで避難、男性陣は非常階段を使って連絡橋のある六十階まで下り、そこからB棟に移って避難するという指示が飛ばされていた。
当然、直通で下りられるはずのエレベーターが故障してしまったのだから、爆破されていないB棟へと移動する流れとなる。幸いにも、四十五階の連絡橋が近いこともあり、美緒の秘書であった沢口が案内して連絡橋を渡ることとなった。
しかし、不幸は重なるものである。六十階の連絡橋が爆破されたことにより、上から連絡橋だった物が落下してきたのだ。
「コナン君っ!」
避難する人々の安全を確認するように最後尾を走っていたコナンに向かって、蘭が声を張り上げた。このままでは分断されてしまう。
「コナン君! 必ず、助けに行くわ」
前を走っていた輝夜は、切迫した空気など感じさせない笑みを浮かべて、A棟になんとか逃れたコナンへとひらりと手を振った。コナンを守るために落下物から逃れるためA棟へと一緒に飛びのいた蘭は、心配した園子の呼び掛けに応えて、大きく手を振っている。
「私たちは避難を続けましょう」
輝夜に促された沢口の先導で、恐怖と驚きで泣き出していた人々も、ぐすぐすと鼻をすすりながらB棟内を歩き始めた。到着していた消防隊や救急隊員に全員を引き渡し、避難も無事に完了。
園子はべそべそと泣きながら祈るように両手を組んでA棟を見上げている。コナンと蘭の二名がA棟に残っていることを報告しながら、輝夜は探偵団の子どもたちがいないことに気が付いた。園子と同じように、彼女も上を仰ぎ見る。ただし、その目に映っているのは轟々と光る炎にかき消されて星の見えない夜空だ。
「……お仕置きをしなくてはね」
輝夜はその日、二度に亘って空を駆けた。
*
少年探偵団は恐怖を押し殺して座り込んでいた。コナンや輝夜たちより一足先にエレベーターで避難を開始していた彼らだが、途中、エレベーターを降りたのだ。というのも、泣き出した赤ん坊を宥めるために下の階で休憩していた女性が詳しい事情を知らずにエレベーターに乗ろうとしてきたからである。コナン一人分の体重が加わっただけでブザーが鳴ってしまうような満員の中、女性と赤子が乗る余裕はどこにもない。
だから、探偵団の子どもたちはみんなでエレベーターを降りた。自分たちなら六十階の連絡橋を渡るから大丈夫と言って、灰原の持っていた時計型ライトを頼りに連絡橋へと向かっていたところだった。
しかし、頼みの綱の連絡橋も爆破されてしまい、灰原のライトも電池が切れてしまう。
めそめそと弱音を吐き出そうとしたときに、探偵バッジを通じてコナンから連絡があった。
ちなみに、連絡橋のある四十五階に取り残されていたコナンは、そこで爆発による火災が発生したため、蘭と二人で消火用のホースを使い、窓ガラスを割って下の階に侵入。そこから階段を使って地上に避難をしていた。そこで、探偵団の面々がいないことに気が付いたのだ。
連絡橋を渡っていないという話をすると、コナンは「待ってろ!」と言って通話を切った。それから数十分か、どれくらいの時間が経ったのか。
コナンは現れた。ヒーローのように、B棟の連絡橋から、博士の作ったスケボーで勢いを付け、命懸けで探偵団のもとへ訪れたのである。
「屋上に行くぞ。救命ヘリを呼んでもらうよう、博士に頼んでおいたから」
頼もしい少年の言葉に勇気付けられた探偵団は、恐怖と不安に染まっていた心が、奮い立つのを感じた。彼がいれば大丈夫、と誰もがそう思い、先導してくれるコナンの後に続く。
「悪ィ、オレ、ちょっと寄るところがあるから。みんなで先に行っててくれ!」
「ええっ?」
しかし、信頼する少年の言葉である。歩美、光彦、元太の三人は、言う通りに屋上へ向かった。灰原だけはコナンへと付き従った。三人はそれに不満を抱きつつも、彼らが自分たちに何かを隠しているだろうとは思いつつも、けれど彼らを信頼していたから、まっすぐに屋上を目指した。
「ね、ねえ……アレ……救命ヘリ……?」
息を切らして屋上に辿り着いた子どもたちが見たものは、ヘリポート上で轟々と火を噴き上げるヘリコプターと、ぎりぎり炎に巻き込まれない場所で悠然と微笑む輝夜の姿だった。
「輝夜さん!」
「危ないわ。私がそっちへ行くから、あなたたちはそこから動かないでちょうだい」
子どもたちでさえ熱波を感じる中、輝夜は熱さなど感じないとでも言うように、炎に照らされ、この世の者とは思われないほどに――浮世離れした、おそろしく美しい笑みを浮かべて、歩いていた。
「け、怪我はない?」
「そうだぜ! 火傷してんじゃねぇか!?」
「輝夜さんは、どうして屋上に……? それに、あのヘリは……?」
涙目になりながら、口々に言葉をまくしたてる子どもたちを、輝夜は細い両腕でまとめて抱きしめた。
「あのヘリコプターは、爆発に巻き込まれてしまったわ。私はコナン君と蘭ちゃんと四十五階の連絡橋で別れた後、避難先の地上であなたたちがいないことに気が付いたの。連絡を取る方法もなかったから、先に屋上で待っていたというわけよ」
「ああ」と、彼女はのんびりとした口調で付け足す。
「ヘリの中にいた人は、爆破する前に『避難』したわ。どこへ行ったのか、もう分からなくなってしまったけれど」
腕の中で、子どもたちはそれぞれ泣き出してしまった。安心か、それともまだ続く恐怖からか、縋るように輝夜に抱き着いている。
「ここにいても、この状況ではヘリコプターは救助に来られないでしょう。下へ向かうわ」
「あのね、コナン君が、七十階で用があるって言って……今、パーティー会場だと思うの」
「灰原さんも一緒ですから、とりあえず二人と合流しましょう!」
「みんな揃ったら、怖いモンなんてねぇな! よっしゃあ、行くぞ!」
強引に涙をぬぐった元太が声を張り上げたのに合わせて、輝夜は子どもたちを抱きしめていた腕をそっと離し、ほんのわずかに、火の海に沈むヘリコプターへ視線をやった。
勇ましく、七十階へ向かおうとしていた子どもたちには気付く余地もなかった。輝夜の視線が、仄暗く冷たいものであることに。
ヘリコプターから視線を外した輝夜は、子どもたちの後を追い掛けた。
七十階のパーティー会場に着くと、コナンと灰原は目をむいた。二人とも、輝夜がいるとは思っていなかったのである。子どもたちが輝夜が屋上にいた理由と、屋上では爆発に巻き込まれたらしいヘリが墜落していて火の海になっていたこと、ヘリポートを使った救助は見込めなさそうであることを説明した。一通りの説明が終わると、ここからどうやって脱出しよう、という話になる。
「私が全員抱えて、空でも飛びましょうか?」
「もう、輝夜お姉さんったら! 真剣に考えてよ! 歩美たち、そんな言葉で誤魔化されるほど、子どもじゃないんだからっ!」
「オレたち六人に加えて、眠っている峰水さん……全員が助かる方法は……」
此度の事件の犯人である如月峰水は、七十階で、ひとり己の描いた富士山の絵を見ていた。その横顔は、激情のままに人を殺めた殺人犯というよりは、墓参りをしながら空虚を伝える老人そのものであった。
その人に、コナンは事件の真相を伝えた。真実が暴かれたことを知った峰水は自殺しようと服毒しようとしたが、その前にコナンが時計型麻酔銃で眠らせてしまったのである。
「無駄よ。会場のテーブル全てに爆弾が仕掛けられてるみたいだもの」
「爆弾が仕掛けられてるのがテーブルだけなら、全部投げ捨てましょうか?」
「輝夜さん! 冗談を言っている場合じゃないんですよ!」
輝夜が光彦に怒られてしゅんとしている間に、コナンは小五郎がゲームの景品で当てたマスタングに目をやり、探偵団に作戦を話し始めた。初めは「そんなことできるのか」と驚いていた子どもたちも、真剣な表情のコナンを見て、覚悟を決める。
この作戦において、要となるのが「時間」だ。マスタングに乗ってしまえば、爆弾のタイマーは見えない。電池の残っている時計を持っている者もいない。ゆえに、誰かがぎりぎりまで時間を読み上げて、残りを爆発のタイミングに合うように正確にカウントダウンしなければならないのだ。コナンと灰原がそう説明すると、「私、コナン君が隣にいてくれたらできると思うの!」と頬を染めながらも、きりりとした表情の歩美が言った。
「それなら、歩美ちゃんが当てられる三十秒前まで、私がタイマーの見える場所からカウントダウンをするわ」
「いいえ。私がやる」
輝夜の提案を蹴って、当然のように灰原が爆弾のタイマーへ近寄ろうとする。輝夜はその首根っこを掴んで、にこりと微笑んだ。
「私は車の運転をしたことがないし、やり方が分からないわ。だったら、子どもが走るよりも速い私がその役目につくべきじゃない? ほら、二人とも。しっかり捕まえていてちょうだいね」
ひょい、と輝夜は灰原を元太と光彦に向かって投げる。二人はあたふたとそれをキャッチして、「もうちょっと丁寧にやってくれませんかねぇ!」「こんなところで怪我したらどうすんだ!」と輝夜に向かって非難を浴びせている。それをくすくすと笑う輝夜に、目暮警部へB棟屋上のドームを開けるよう連絡していたコナンが呆れた目を向けた。
「さあ、シートベルトをしっかり閉めるのよ」
残りタイマーが一分になると、輝夜は明朗にカウントダウンを始めた。
「三十三……三十二……三十一……」
「三十……」
歩美が両目を瞑ったまま、輝夜のカウントダウン引き継いで、祈るように数え始める。輝夜も皆の待つマスタングへと駆け寄ろうとして――何もないはずの空間から、手を伸ばされた。
「輝夜さん!? 何を立ち止まっているのよ!」
どうやら、角度的に子どもたちからは輝夜を引き留める手は見えないらしい。灰原が車から飛び出そうとして、光彦と元太の二人に押しとどめられている。
「思っていたよりも早かったわね。言伝はきちんと伝わってなかったのかしら?」
「姫様。私は姫様の口から聞きたいのです。必要とあらば――」
両端をリボンで結ばれた、小さなスキマ。そこから白い腕が伸びている。当然、輝夜には見覚えのある腕だ。
輝夜は笑った。きっと紫はぶつくさ文句を言っていることだろう。なにせ、そう間もない中、二度も弾幕ごっこに興じて負け、さらには便利に使われているのだ。もちろん輝夜のことも永遠亭の面々のことについてもどうでもいいであろう紫は手を抜いていたに違いないが、それでも多少は体力を消耗する。
「これは命令だわ、永琳。邪魔することは許さない。ラーメンを食べたら一度帰るわ」
「承知しました。またすぐに、御連絡します」
それはちょっと紫が可哀想だな、と思って笑ってしまった輝夜に、しびれを切らした子どもたちが三人、飛びついてくる。どん、と彼らの体が触れた瞬間、輝夜をとらえていた腕と、この世界を繋げていたスキマは跡形もなく消え去っていた。
「何やってんだよ! ボーッとしてんじゃねぇよ!!」
「行きますよ、輝夜さん!」
「あなたまで……あなたまで、幻になるなんて、許さないんだからッ!!」
元太、光彦、灰原の三人を抱いて、輝夜は「ごめんなさいね」と言って、跳躍した。
それは須臾の時間。誰も気付くことのできない、輝夜だけの時間に、危険を顧みず輝夜を「救おうと」した友人たちを招き入れる。そして、輝夜はぴったり残り十秒を残して、子どもたちを抱きしめながら車に乗り込んだ。物言いたげなコナンにウィンクをひとつ送ると、彼は頬を赤く染めた。しかしそれは常の可愛らしいものではなく、明らかに怒気を孕んだ表情であったが。
「ゼロ!!」
集中していて、周りで何が起こっていたのか気付きもしていない歩美のカウントダウンに合わせて、コナンがマスタングを発車させる。輝夜が調整するまでもなく、ぴったりのタイミングだった。
「……大丈夫。絶対に離さないわ」
恐怖で身を縮める子どもたちを抱きしめたまま、輝夜は優しく語り掛ける。
爆風に煽られて窓を突き破り、放物線を描いた車は、開いたドームのその先、プールに吸い込まれるように着水した。