蓬莱山輝夜お嬢様がコナンの世界入りした話   作:よつん

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永夜返し―世明け―

 輝夜たちが無事にツインタワービルから避難して、警察や救助隊に保護されていた頃。

 

 満身創痍の様子で、ひゅうひゅうと危うげな呼吸をする男たちがいた。肩を支え合い歩くその様子は、誰かに見られれば救急車を呼ばれていたかもしれない。

 

 しかし、すぐ近くでツインタワービルで大規模な爆弾事件があったのだ。闇夜に溶ける黒ずくめの恰好をした男たちに気付く者など誰もいない。

 

「くそッ……化け物め……! 絶対ぶっ殺してやる……ゲホッ」

 

「あ、兄貴、喋んねぇ方がいいですぜ。ひどい怪我だ……。さっき、下のモンを呼びつけました。怪我の手当てをしてもらいやしょう」

 

 ジンとウォッカというコードネームを持つ、黒ずくめの組織の一員であった。彼らの計画は順調なはずだった。

 

 組織を裏切ったプログラマーの原佳明を殺害し、さらには裏切り者のシェリーがツインタワービルのオープンパーティーに出席することを突き止め、原の遺したデータと共に、シェリーと――ついでに、おそらく何も知らずに組織に楯突いた「カグヤ」を同時に始末できるはずだったのだ。

 

 原の遺したデータは、ツインタワービルを爆破することで始末することができた。先に避難していた中にシェリーはいないと、見張りをやらせていた下っ端が報告していたし、無茶な脱出をしたのは子どもと老人、それから「カグヤ」だけで、そこにもシェリーはいなかったそうだから、少なくとも目的は三つ達成できた。シェリーがパーティーに参加していなかった場合も含め、それでも二つは達成していることになる。

 

 だが、達成感はない。

 

 次は必ず殺す、と心に決めるのと同時、ジンの頭には「カグヤ」の言葉が焼き付いて離れなかった。

 

「殺さないわ。だって、あなたはきっと『必要な人』だもの。その命、大事にしなさいね」

 

 ――このオレが。あんな小娘に!

 

 はらわたは煮えくり返り、怒髪天を衝く思いだった。

 

 

 ツインタワービルのエレベーター内で狙撃した「カグヤ」は、こちらに気付いているとしか思えなかった。銃弾が当たらないようにシェリーに似た女の手を引いただけでなく、自らも避けてみせた。偶然の成せる動きではない。ジンがそのことに内心驚きながら、ヘリに乗り込み、撤退を開始しようとしたときだった。ビルにいたはずの女は、いつの間にかジンの背後にいたのだ。

 

 離陸を始めたヘリの中で、にこにこと微笑みながら「こんばんは」とのんきな挨拶をかましてきたのだ。

 

「てめぇ、何者だ。どんなトリックを使いやがった」

 

「それも分からないまま、私は命を狙われたのかしら? でも、教えてあげるわ。私は蓬莱山輝夜。あなたは?」

 

「名前なんぞ聞いちゃいねぇ。選べ。オレに殺されるか、ここから飛び降りて自分で死ぬか」

 

 チャキ、とジンは輝夜のこめかみに銃を突きつけた。ヘリを操縦しているウォッカは着陸すべきかこのまま撤退すべきか悩んでいるようで、ちらちらとジンの方を見ている。

 

「私は殺されるつもりはないわ。私が怪我をすると心配する子がいるもの」

 

 緊迫した雰囲気に似合わない、やわらかな雰囲気だった。

 

「お仕置きに来たのよ。私のお友達を危険な目に遭わせるなんて、痛い目でもみてもらわないと割りに合わないわ」

 

「丸腰のくせに随分余裕じゃねぇか」

 

 カチャリ。ジンが引き金に掛けた指へ力を籠める。パン、と乾いた音がした。

 

 だが――そこに輝夜はいなかった。

 

「余裕だわ。あなたの方こそ、随分余裕があるみたい」

 

 輝夜は、閉じているヘリコプターの扉に手を掛けた。「あんまり遠くへは行かないでね」とのんきに言いながら、めりめりと、あり得ない音を立てて、ジンの眼前でありえない光景が広がっている。

 

 女の細腕で、力任せに扉を外したその化け物は、ぽいっと軽々しい動作でその「鉄クズ」をツインタワービルの屋上目掛けてぶん投げた。

 

「我ながらいいコントロールだわ。下には人がいっぱいいるから、危ないものね」

 

「て、てめぇ……」

 

「あら、何かしら? 命乞いでもする? まあ、命乞いされてもされなくても、ぼこぼこにはなってもらうけど」

 

 目で追えない動きで、ジンは輝夜に胸倉を掴まれた。焦ったウォッカが操縦桿を片手で支え、片手で銃を突きつける。

 

「安全運転した方がいいんじゃない? それか、どこかへ不時着させることね。ツインタワービルのヘリポートなんかおすすめよ。ほらほら、そんな不安定な狙いじゃ、お仲間に当たっちゃうわ」

 

 分からなかった。自分の体が動かされているというのに、衝撃が来てから、ジンは顔面を壁に打ち付けられたのだということに気が付いた。ジンにとって幸いだったのは、これが輝夜の拳による殴打でなかったことであろう。人間との――それも、暴力的な関わりなんて久しくしていない輝夜だ。力加減は期待できない。それに比べて、壁に「軽く」当てたくらいなら頭は吹っ飛ばないので安全と言えた。

 

「あ、兄貴ィ! この女ァ!! ぶっ殺してやる!」

 

「元気なのはいいことよ。でも、あなたも怪我の一つくらいは負わなくちゃね」

 

 意識が飛びかけているジンを片手に、輝夜はウォッカに近寄った。にこやかな笑み。暴力なんて今までの人生で関わりもしてきませんでしたという、お花畑を歩く能天気な少女の足取り。

 

 それなのに、女は血に濡れた大男を片手で持ち上げ、目には生き物を本能で屈服させる狂気と力を宿らせていた。

 

「あ……」

 

 息をするのを忘れていた。息をしていることがバレてしまえば、そのまま永遠に息の根を止められると本能が警鐘を鳴らしていた。無駄なのに。姿をとらえられているのに。死んだふりでもすれば助かるかもしれないという、本能が見出した淡い希望は、辛くも打ち砕かれる。

 

 衝撃。

 

 すぐに意識を飛ばしたウォッカは、己の頭部に衝撃を与えたのが鈍器代わりにされたジンの頭部であることに気付かなかった。

 

「ちょうどよかった。ツインタワービルの真上ね。これならこのまま墜とせば下の人たちに被害はないわ」

 

 ぽい、とヘリの中にジンを捨て、輝夜は踵落としをヘリコプターに食らわせた。ずどん。音と動作が合っていないようにも見える一撃で、文字通り力尽くでヘリコプターを屋上に墜落させることに成功。

 

「あら、困ったわね」

 

 しかし、そのときの衝撃でジンの隠し持っていた起爆装置が押されてしまった。最後の起爆装置はまさに屋上のヘリポートからシェリーが逃げるのを防ぐためのもので、爆破に巻き込まれたヘリコプターはみるみる内に炎に囲まれていく。

 

「がはっ……これで……てめぇも終わりだ……」

 

 気合か根性か、わずかに意識が戻ったらしいジンが血の混ざった唾を吐き出すと、輝夜はにこりと笑った。

 

「私は終わらないわ。それに――あなたたちも」

 

 よっこらせ、とウォッカと暴れる力もないジンも抱き上げた輝夜は、彼の長い髪で隠れた耳にそっと口を寄せる。

 

「殺さないわ。だって、あなたはきっと『必要な人』だもの。その命、大事にしなさいね」

 

 ぽい。

 

 ジンとウォッカには、そこからの記憶がないため、なぜ自分たちが死んでいないのかは分からない。けれど、事実として分かっているのは――おそらく自分たちはツインタワービルの屋上から投げ捨てられたにも関わらず、何かしらのことをされて、生きているということだった。ジンが気に入らないのは、単純に自分たちが情けを掛けられたことではない。

 

 生殺与奪全てを握られていたのだ。

 

 あの何の力もなさそうな小娘に。己の生も死も、好きなように弄ばれた。あんなに軽々しく。こちらの攻撃は無意味で、あちらの攻撃には抵抗ができないままに。

 

 

「化け物め……」

 

 吐き捨てるように呟いたジンは、間もなくして現れた組織の者の車に乗り込んだ。

 

 

 

 *

 

 

 

 一応検査を受けた方がいい、と救助隊と子どもたちに引き留められた輝夜は、渋々それを承諾した。医者の問診を受けて、特に異常なしと判断されたので機械による精密検査は丁重にお断りし、博士や小五郎たちと一緒に子どもたちを一人ずつ送り届ける。

 

 疲れ切っていた子どもたちは車の中で寝てしまい、大人たちは彼らの保護者に事件の概要と、一応医師の診断で軽い怪我以外はなさそうなこと、万が一体に異常が見つかれば、すぐに病院に行ってほしいことを伝えた。探偵事務所で小五郎、蘭、コナンと別れた輝夜は、灰原の「……今夜はうちに泊まっていったら?」という誘いを受け、阿笠邸で寝ることにした。

 

 コンビニで下着を買い、風呂と博士の服を借りて髪を乾かし終え、ひとつあくびをしたときだった。博士が客用の布団を用意している間に風呂から出てきた灰原が、まだ髪の毛を濡らしたまま、輝夜を見つめている。

 

「……どうして、あのとき、立ち止まったりしたの。何を考えていたの?」

 

「あのとき?」

 

「とぼけないでッ! パーティー会場で、私には死に場所を与えもしなかったくせに! なんであんな……自分を危険に晒すようなことしたのよッ!!」

 

 「誰か」と重ねているのだろうか。そう思って、けれど口には出さず、輝夜はくすりと笑った。

 

「私は死なないわ。立ち止まったのは――『声』が聞こえたのよ。永琳と言ってね。我が家の大黒柱の声が」

 

 危険が身を襲ったときに、家族の声が聞こえる。それは自然なことのように思えた。だから灰原は、それ以上、あのときのことについて責められなくなってしまった。

 

「家には――帰らないの? 家族が、いるんでしょう」

 

「帰るわよ。けれど、まだ帰らない。言ったでしょう? 私は人が難題を解く姿を見るのが好きなの」

 

 ごくり。灰原の喉が鳴る。それは、こみ上げてきた涙を呑み込む動作にも見えた。薄暗い灯が灯る部屋で、輝夜は湯上りで温まった少女のやわらかな頬に手を添えた。

 

「それに何より、ラーメンを食べに行く約束を果たしていないもの。さあ、いらっしゃい。髪を乾かしてあげる。このままでは風邪を引いてしまうものね」

 

 ドライヤーを片手に、輝夜は灰原を椅子に座らせる。温風の吹く中、しばらくの間無言で俯いていた灰原は、聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。

 

「……私、お姉ちゃんがいたの。組織の一員だった私を助けようとして、死んでしまった――」

 

 膝の上に置いた拳を握り、ぶるぶると身を震わせた灰原は、目に涙を浮かべている。

 

「工藤君に聞いたわ。輝夜さん……狙撃されかけたって。私、私、やっぱりあそこで死んでおくべきだったッ! 私がいなければ……!!」

 

 ドライヤーの電源を切り、輝夜は灰原のふわふわとしたくせ毛を撫でた。

 

「はい、乾いたわ」

 

 やわらかな声だった。聞いているだけで、激情が鎮まるような感じがする。

 

「何度も言うけど、私は死なない。心配はいらないわ。それに、私にはなぜ、あなたの姉が守ったものを、あなた自身が放棄したがるのかが分からない。ねえ、哀ちゃん」

 

 輝夜は幼子をあやすように、灰原を抱きかかえた。

 

「優しいのはたぶん、いいことよ。でも、自分のしたいようにすればいいんじゃないかしら。あなたが本当に死にたいなら、私、止めないわ」

 

 見つめ合う。仄暗い灯では、瞳の赤茶色は不明瞭で、底の見えない沼のような、先の見えない洞窟のような深さとおそろしさを抱かせる。そこに映る涙にぬれた自分のあまりの小ささに、灰原は途方もない孤独とさみしさを感じた。

 

「だけど、誰かのために『そうしなければならない』って考えているのなら、あなたがどれほど嫌がっても、あなたの『死』を阻止する。理由は簡単よ。私がそうしたいから」

 

 やはり。やはり、蓬莱山輝夜は姉ではない。灰原は、当たり前すぎる事実が、すとんと胸に落ちた。

 

 姉を想起させる、姉とは正反対な人。けれど、姉と同じく、灰原という一個人を何よりも尊重してくれる人。

 

 その日、灰原は姉が昔使っていた番号に電話を掛けることしなかった。ほんの数十秒の間だけ録音された姉の声を聞く必要は、その日からなくなった。姉が死んでしまったことではなく、姉が生きていたことを想いたかった。

 

 だから、幼子のように泣いて縋るのはやめようと、そう思った。

 

 

 

 *

 

 

 

 輝夜の仕事の予定が空いたから、ラーメンを食べに行きたいと提案してきたのを、どういうわけか灰原は断りたかった。けれど、自分が断ったところで彼らは行くだろうし、それは嫌だった。

 

 断りたかったのは――輝夜とラーメンを食べに行くことなのだ。ラーメンが食べたくないわけでもないし、輝夜と食事をしたくないわけでもない。

 

「輝夜さん――帰っちゃうの?」

 

 灰原の言葉に、少年探偵団と博士は足を止めた。ラーメン店に向かっていたうれしそうな表情は途端に曇り、「そうなの?」と歩美が首を傾げる。

 

「ええ。もちろん、最初から帰るつもりはあったもの」

 

「謎解き勝負には勝ったのかよ? それとも、負けちゃったのか?」

 

 元太の言葉に、輝夜は「どっちかしらね……」と腕を組んだ。

 

「私も家の者も、謎は解いたわ。答え合わせはしていないけれど、多分同じ結論に至っていると思うの。だけど、勝敗ははっきりしないわね……。もともと、私が一方的にそう思ってただけだし。向こうには勝負なんてつもり、なかったんじゃないかしら」

 

「結局、どんな謎だったんですか?」

 

 光彦の質問には、輝夜は自信たっぷりの笑顔でこう答えた。

 

「私はこう呼んでいるわ――『進みながら繰り返す永遠』と」

 

 しかし、探偵団と博士の反応は芳しくない。全員が首を傾げ、「よく分からない」というのを分かりやすく顔に出している。負けん気の強いコナンだけは「なんの比喩だ? いや、暗号か?」とぶつぶつ呟いていたが。

 

「ま、まあ……いいじゃないの。私はラーメン屋さんで半ライスを頼むのよ」

 

「輝夜さん、いつ帰っちゃうの? 歩美たち、また会えるよね?」

 

「帰るのは、家の者から迎えに来たらということにしているわ。もちろん、私はまた会いにくるつもりよ」

 

 その言葉でしゅんとした子どもたちはうれしそうに輝夜の手を引き、ラーメン屋への案内を再開した。

 

 呆然とする店員と客を置いてけぼりにして、子どもたちはわいわいとメニュー表を見ながら輝夜にあれこれと教えている。

 

「おすすめは塩ラーメンだぜ! チャーシュー倍盛りにもできるぞ!」

 

「ラーメンも美味しいですが、ここは餃子も美味しいですよ!」

 

「どれも美味しそうね。私は塩ラーメンと餃子、半ライスにビールでもつけようかしら」

 

「ええー、まだ昼だよ? それなのにお酒飲むの?」

 

「まあまあ、輝夜君は運転するわけでもこのあと仕事があるわけでもないからのう……あ、わしはラーメンとチャーハンセット」

 

「だめよ。炭水化物はどちらかにしなさい」

 

「うう……哀君が手厳しい……」

 

「博士、言う事聞いとけ」

 

 店長に頼まれたサインを断り、写真のみ快諾した輝夜は、酒を飲みながらあっさりと食べやすいラーメンを食べ、探偵団とのお喋りに興じながらまた酒を飲み、餃子とご飯ももりもりと食べた。

 

「お腹いっぱーい!」

 

「オレもさすがにもう食えねえ……」

 

「元太君は食べすぎなんですよ! 輝夜さんの奢りだからって調子に乗りすぎです! でも……楽しかったですねぇ」

 

 昼下がり、そのまま博士の家でゲームでもやろうと帰路についていた一行は、輝夜が足を止めたのに合わせて、足を止める。そして、その視線の先を辿った。

 

「あら、そういう恰好も似合うわね」

 

「お待ちしておりました」

 

 きれいな礼をしたのは長身の女性だった。白銀の髪に、灰色がかった目は、外国人のようにも見える。ただし、彼女が発した言葉は間違いなく流暢な日本語で、しかも輝夜ほどではないにしろ、普遍的な美しさを有していてどこの国の人とは判断しにくい。紺色のシャツワンピースに、黒いタイツ、ブーツを合わせている。

 

「もしかして、見張ってたってことはないわよね?」

 

「私ではなく、八雲の式が」

 

 二人のやりとりを見ていた博士と子どもたちだったが、いち早く好奇心を瞳に宿らせたコナンが小さく挙手をして「その人って、輝夜さんのお家の人?」と尋ねた。二人同時に視線を向けられたコナンはたじろいだが、ふわりと輝夜がいつもの笑みを向けてくれたので、ほっとした表情を浮かべた。

 

「ごめんなさいね、先に紹介すればよかったわ。彼女は八意永琳。我が家の薬剤師であり、医者でもあるわ。永琳、この人たちは私のお友達よ」

 

「私は八意永琳と申しますわ。姫様がお世話になっております」

 

「姫様だって! 輝夜お姉さん、本当にお姫様みたいな暮らしをしてたのね!」

 

(そりゃ、こんだけ美人で、名前が「かぐや」だったら、姫ってあだ名がつくよなぁ……)

 

 はしゃいでいる歩美をよそに、コナンは改めて輝夜の美貌をまじまじと見ていた。

 

「あ……で、でも……お家の人が迎えに来たってことは、輝夜さん、帰っちゃうんですよね……?」

 

「バーロォ、また来るって言ってたじゃねーか。輝夜さんはマンションも借りてるし、今生の別れってわけじゃねーんだ。家の都合もあるだろうし、あんま引き留めても迷惑だろ」

 

 頭の後ろで手を組みながら、コナンは寂しがりの「同級生」に呆れた視線を向ける。今の世の中、どこにいてもわりとすぐに会えるものだ。海を渡った先でさえ、船なり飛行機なり、移動する方法がある。

 

「そうね。今は別れではないわ」

 

 ひとりひとりの頭を撫で、博士とは握手をして、蓬莱山輝夜は笑みを浮かべた。

 

「ね、いいでしょう?」

 

「姫様がお望みならば」

 

 ひらり。輝夜は手を振った。まるで、また明日、と疑いなく帰路につく小学生みたいに。

 

 

 ――そして、輝夜が姿を消し、世界は「蓬莱山輝夜」の存在を忘れた。

 

 「カグヤ」というモデルは引退会見も開かず家庭と本人の体調の都合という理由で表舞台に出なくなり。いつの間にか彼女の過ごしていたマンションは引き払われ。

 

 あれだけ強烈に、視線を、心を奪っていた一人の女性は、あっけなく、どこか強制的に、忘れ去られていったのだった。

 

 そして世界はまた、歪な永遠の中で繰り返してゆく。

 

 彼女がいようがいまいが、初めからそう決まっているとでもいうように。

 

 本物の月を取り戻すために偽物の永遠の夜を生み出した妖怪と人間の努力むなしく、強大な力によってあっけなく夜が明けたときのように。


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