佐久間まゆの壊し方   作:箱女

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06 トロイの木馬

 

 おそろしく晴れた日の午前中で、朝の天気予報では午後に向けて季節を先取りの暑さになるとのことでした。空の色にあてられたのか、どうにも気分が逸ってしまって、寮のそばの短い横断歩道の赤信号を無視してしまいました。もちろん周囲に車も人もいないことは確認しましたけど、本当ならルール破りはいけないですよね。

 

 私がエレベータから降りてきたところで、珍しく事務所の休憩スペースではなくロビーで恵磨さんに出会いました。私からすれば初めからそうだったのですが、私より前を知る皆さんももうすっかりギターケースを背負う姿が様になったと声を揃えています。恵磨さんはいつもみたいに周囲がちょっと明るくなるような笑顔をぱっと弾けさせて、私のほうに足を向けてくれました。

 

「ようまゆ! なんかいいことあったか!?」

 

「えっ、ありましたけど、どうして?」

 

「そりゃそんな顔してりゃわかるさ、ドラゴンボール見つけたーって顔だぜ」

 

「あ、マンガの、ですよね。願いが叶うっていう。まゆもちょっと知ってますよ」

 

 恵磨さんはマンガを集めるのも趣味のひとつのようで、いくらでも面白いものがあるから、と今度貸してもらう運びになりました。内容はそういうわけではありませんが、ロビーで立ち話をするのはなんだか大人っぽい感じがして、なんだか胸を張りたいような気持になりました。周りをあくせくと行き交う社員さんたちがそういう空気を作り出しているのかもしれません。

 あらためて足を止めてみると、本社には曜日の感覚が薄いように感じられます。学生アイドルが本社に来るのはレッスンやお仕事の打ち合わせくらいで、まあ遊びに来るなんてこともないではありませんけど、それは学校が休みの日が中心になります。あるいは放課後の夕方とかその辺りでしょうか。なのでいつ来ても忙しそうに人が行き来しているこの空間は、まるで世間から切り離されてしまっているかのようです。でもよくよく考えたら世の中の多くのお店は毎日営業されているわけですから、単に私の考えすぎということなのでしょうか。

 いくつか遠回りした話題を通り過ぎて、恵磨さんとのお話はいちばん最初のところへ戻ってきました。

 

「ああそう、そうだよ思い出した、結局いいことって何があったんだ?」

 

「一つはコンプライアンス的に言えない感じのやつで、もう一つは歌のレッスンで褒められたんです」

 

「なるほど、いい恋をしたんだな」

 

「へ?」

 

 何をおっしゃっているのでしょう。恵磨さんは私にいいことがあったことを根から喜ぶように目を細めています。ほかの可能性を考えてはいない、もうそれを事実として捉えている表情です。よかったじゃん、なんて言いながら背中をばしばし叩いて祝福してくれそうな雰囲気さえあります。けれど、別に私は恋なんかしていません。たしかにアイドルですから、それは言えない感じのいいことに分類されてもおかしくありません。むしろされるべきでしょう。でもそもそも相手がいないじゃないですか。だからそれは間違いですよ。

 

「いやほら、歌に感情が乗せられないって話したじゃん?」

 

「あ」

 

 空気を入れられた風船のようにむくりとあの日の記憶が蘇ってきます。ものすごく恥ずかしいことを正面きって聞いてしまったあの日です。いますぐ逃げ出してあの観葉植物の後ろに隠れるか、それでなくても顔を手で覆いたいぐらいの心情です。ですけど、それは自分で蒔いた種なんですから筋違いもいいところです。

 恵磨さんは先ほどと変わらずニコニコしています。きっと心から私にいいことがあったのを喜んでくださっているのでしょう。けれど今はその笑顔がちょっとつらいというか。あけすけな人というのも時と場合によっては棘を持つことがあるんですね。もちろんその性格はなかなか真似のできない素晴らしいものではありますし、そこに憧れのようなものを持っているのも本当ですけど。

 

「その節はお恥ずかしいことを聞いてしまってごめんなさい……」

 

「ま、否定はしないけど別に気にしてないよ。大事なのはまゆの話だしな」

 

「あ、それなんですけど、恋とかそういうのじゃないですよ?」

 

「あれ? こないだの話の流れからしてそうじゃないかと思ったんだけど」

 

「なんというか、感情を向けるやり方がわかったというか、そんな感じなんです」

 

 さっきまで嬉しそうだった顔をスムーズにきょとんとしたものに変えて恵磨さんが私のほうに視線を向けています。けれどその表情の意味が私にはいまひとつわかりません。難しいことを言ったつもりはありません。外した返答をしたつもりもありません。私のイメージでは、 “へえ、やったじゃん” とかそれぐらいのリアクションが返ってくるものだと思っていました。

 今度はきょとんとした表情から視線を斜めにそらして、考え込むように手をあごの辺りに持ってきます。何度か見てきた恵磨さんの考えをまとめる時の仕草です。ベリーショートの髪も相まって、純粋な夏の少年みたいに見えます。

 

「んー、感情を向けるやり方ってことは、向ける先があるってことだよな?」

 

「はい」

 

「でもってまゆが前に持ってきた相談はラブソングについて、だ。それに関してトレーナーさんが褒めてくれたんだろう?」

 

「まあ、はい」

 

「じゃあ決まりだよ、恋してる。あの人たちプロだもん、そういうの聞き逃さないよ」

 

 簡単な数学の問題の答えを読み上げるようにさらりと恵磨さんは言ってのけました。でも、ええそうですねと受け入れるわけにはいきません。だってもしその通りなら、私はプロデューサーさんに恋をしていることになってしまいます。まさか。たしかにプロデューサーさんには感謝をしていますし、それを今の原動力にしているのは事実です。けれども私は彼に男性を見てはいません。少なくとも意識的には。

 論理的に恵磨さんが破綻していないのはもちろん私にもわかります。でも現実はそういうものだけで構築されてはいないはずです。たとえばアイドルが職種として成り立っているように。

 

「そうなんでしょうか?」

 

「うん。大丈夫だよ、その経験はオンナを綺麗にするってね。よく言うだろ」

 

 片思いまでは推奨する、なんておっしゃっていたのは間違いないですけど、でも相手を考えたらそれは確実にアウトですよね。100人に聞けば100人が首を横に振るんじゃないでしょうか。だからその可能性は蓋をされているべきなんです。固く閉じて鍵をかけて、海にでも放り込んでおくべきなんです。

 ロビーにあった時計を見て、恵磨さんが慌てました。今日出会った経緯を考えれば簡単に想像がつきそうなものです。私は用事が終わって帰るところに鉢合わせたんですから、恵磨さんには用事があったに決まってます。すでに走り出しながら、じゃあな、なんて告げる恵磨さんに手を振りながら私も帰路につくことにしました。

 

 

 カーテンを開けて覗く夜は、ちょっと不思議なものです。生垣があるせいで、視線を地面と平行に伸ばしてもなんにも見えません。ただ暗いだけです。ちょっと視線を上げると月や星に照らされて、ご近所さんのお家の屋根がやっと見えます。分厚い生垣の縁も薄明るく照っています。部屋の電気を消せばまた違ったふうに見えるんだと思いますけど、とくにそうすることに意味は感じません。

 プロデューサーさん。あんなことを言われてしまえば意識しないわけにはいきません。自分ではない人から誰かへの恋の可能性を指摘されて、それで平然としていられるほど私は経験豊富な人生を送ってきてはいないからです。シンプルに好きか嫌いかでいえば、それは好きに分類されるとは思います。けれどそれがすぐにそういうのに結びつくかってことになってしまうと、さすがに。でもその恵磨さんが前に言っていたことが気にかかります。その気持ちがピンポイントで恋かと聞かれてもこれだとは言えない。私のこの言葉に対する理解が合っていて、そしてもしそうなのだとしたら、なかったはずのものに現実味が出てきてしまいます。未経験だから余計に判断がつかなくて、こう思い悩むこと自体が泥沼なのだとしても、ただ困る以外にないじゃないですか。

 

 どうしてあのとき目を逸らしたの。

 

 不意に頭の奥から奇妙な声が響きました。それに抵抗することもなく、私は不思議に思えるほど素直に自分の記憶をたどり始めました。目を逸らしたとはいつのことでしょうか。ちょっと思い出そうとしてみただけではその場面はヒットしません。隣に並んで視線を前に投げたまま話すようなことはありますが、いちど目を合わせて話をしていたとして、途中でそれを逸らすようなことをするでしょうか。動きがあって視線が外れるとかならあるかもしれません。けれどそれなら言い方が違ってくるはずです。

 ちりっ、と何かが頭の隅をかすめます。それは自身の行動としての記憶ではなく、何かを見た記憶。小さな糸口をつかんでどうにかして手繰ります。あれは、カメラ。撮っていただいた写真をいくつも見せてもらって、私が、どうしてか一番惹かれた写真。覚えもなく視線を外していた一枚。あのとき私がカメラの向こうに何を見ていたのかなんて思い出す必要をさえ感じません。それよりも、どうして、私は。

 もやもやしたものを吹き飛ばそうと思い切り頭を振ります。けれど望んだ効果は得られません。一定の強度を持って生まれた信じられない感情が、ぐるぐると脳の隅々を回っては可能性を膨らませます。

 

 私はプロデューサーさんが、好きなのでしょうか。

 

 駄目です。それは絶対にいけないことです。だってそれは誰も幸せになれません。アイドルが恋をするのは咎められないかもしれません。アイドルである前に人間ですから。でもその相手が、自分を売り出すために力を尽くしてくださるプロデューサーさんというのだけは許されません。関わる人のうち一人だって報われません。

 気が付けば、奇形でおぞましい考えが完成したかたちを持って私の頭の三分の一くらいを占めていました。私が、佐久間まゆがもっとも美しいのはその瞬間なのです。私の魅力は私自身に依拠してはいませんでした。世界が、ひっくり返りました。

 

 

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