01 寮での出会い
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塩見周子ちゃんと出会ったのは寮での生活の初めも初め、最初の打ち合わせの終わったそのあとに初めて寮に向かったときのことでした。
プロデューサーさんに聞いたところによると、驚いたことに寮では一人に一部屋あてがわれているとのことでした。まだ契約しただけのデビューすらしていない私にも一部屋、私より年下の子にももちろん一部屋。なんとも豪勢というか、立地と一部屋の広さのことも考えれば分不相応のようにも思えます。これは考えすぎかもしれませんけど、うがった見方をすれば早くこの設備投資に見合うくらいのアイドルにはなってくれと言われてるような気もしてきます。
実際に寮の門の前に着いてみると、言葉のイメージで膨らまされていたような威容があるわけではありませんでした。まず端的に言ってしまえば、平屋です。それぞれの部屋には屋内の廊下から出入りするらしく、出入り口は大きな玄関ひとつでしたから、建物そのものはやたらオシャレな公民館のような印象を受けます。ちょっと微妙な言い方かもしれませんが、マンションやアパートとは違った外観だということです。門の両脇からは生け垣が伸びていて中を覗くことはできないようになっていて、その辺りのことはかなり気を遣ってくれているみたいです。頭の中の感想もそこそこに門を開いて敷地内に入ろうとすると、寮の玄関に女性がひとりいるのに気が付きました。かぶっているキャスケット帽のおかげで顔はよく見えませんが、これはいわゆる変装と呼ばれるもので、つまりきっとアイドルということなんだと私は判断しました。彼女も私に気付いたようで、すると口元だけで人好きのするとわかる笑顔で歩を進めてきました。
「あー、うん、オッケ。五分だけここで待ってもらっていい? 五分だけ。お願い!」
オッケーの意味がよくわかりませんでしたけど、この後でとくに急ぐ用事はありませんでしたからとりあえず頷きました。たとえば寮内に入る前に説明しておかないとならないことがあるのかもしれない、とも考えられましたし。ありがと、と聞こえて顔を上げてみると彼女はもう駆け出していました。私のほうに軽く手を振って。
それにしても初対面のはずの走り去っていってしまった彼女がどうも他人のように思えません。どうしてだろう、と考えてすぐにここが女子寮であることに思い至りました。なるほどアイドルに違いないとはさっきも思ったところです。顔はほとんど見えませんでしたけど、帽子の下にあったショートヘアは白に近い銀髪とでも言えそうな色をしていました。肌も強烈に白くて、日焼けはせずにすぐに赤くなってしまいそうな感じがします。けれどテレビを欠かさず見るというタイプではない私が親しみを覚えるくらいに有名な方でいま挙げたような特徴を備えた人なんて。………あ。
がさがさとビニール袋を鳴らして戻ってきた彼女の顔をやっと正面から見て確信しました。でもまさか、といった感じのほうが強いです。だって女子中学生や女子高生なら絶対に一度は話題にしたことがあるはずのアイドルがそこにいたんですから。
「やーや、ごめんね? いきなりこんなところで待たせちゃって」
「あ、いえ、それは構いませんけど」
実際そんなことなんてどうでもいいことでした。門に面している道は不思議なくらいに人通りがなくて、たとえば女子寮の前に立ち止まって注目を集める、みたいな居づらさを感じることもありませんでしたし。
さあどうぞ、と招くように彼女が門を開けてくれました。やわらかい風が頬を撫でます。敷地内に足を踏み入れると花の香りが鼻をくすぐりました。なんだかファンタジーな感じがして、こういうのも悪くないかもと思ってしまいます。もしかしたらここからは見えないところにお庭があって、そこできちんと育てているのかもしれません。マンションみたいなサイズの玄関は自動になっていて、さらにその奥に鍵を挿してからパスワードを入力して開けるドアがありました。そこを抜けるとけっこうな量が入りそうな靴箱が出迎えてくれました。
「置ける靴は基本ひとりにつき二足までなんだ。それ以上は部屋に持ち帰りがルール」
ということはそれに準じた人数がいるということです。生け垣の向こうからは見えていなかっただけで、実は公民館どころの大きさではないのかもしれません。
「ささ、それじゃあこっちこっち」
「えっ、わっわっ」
彼女が後ろに回ってぐいぐい背中を押し始めます。どったどったとかっこ悪い感じで転ばないようになんとか足を出して前に進むと、ものすごく広いフロアに出ました。たとえるなら修学旅行で泊まった旅館の広間くらいに思えるスペースです。一クラスか二クラスくらいなら余裕で過ごせるような、けれど内装は完全に家屋のリビングというちょっと感覚が狂いそうな部屋。その部屋のそれぞれ別の場所で固まってお話していた全部の目が私に集まりました。こんなに音を立てて入ってきたんですから、まあ、仕方ありませんよね。
「皆の衆ー、新しい寮の仲間だぞー」
間髪入れずに広い部屋にいた全員がわあっと集まって、もう大変でした。その時は二十人くらいだったと思いますけど、そんな多くの方に歓迎してもらえたのはとても嬉しかったです。とはいえ初対面の方がそれだけいて一緒に騒いでいると、なんだか視界がぐるぐるしているような気がしました。なんというか、人懐っこい方ばかりでなるほどこれがアイドルかと納得もしました。
私をここまで連れてきた周子ちゃんが、いつの間にか自分だけちょっと離れたところでニマニマしながら様子を眺めていたのをよく覚えています。
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初めて寮の部屋のベッドに腰を下ろしてひと息ついたのはもう夕方でした。さすがに夜遅くまで音を立てるわけにもいきませんから仕方のないことですけど、荷解きを途中で止めたままで眠りにつくのだと思うとは気分はすっきりしませんでした。部屋が片付いていないのはどうにも落ち着きません。だって引っ越し会社のマークが印刷されたダンボール箱なんてふつうなら部屋に転がっているはずがないんですから。
腰を落ち着けるとまるで蛇口をひねったみたいにこれまで考えていなかったことが次から次へと湧いてきました。なによりも寮生活ですから、さっきのごちゃごちゃにいなかった方に挨拶もしておきたいところです。そこから派生してこの寮の集団生活におけるルールなんかもあるんだろうななんて考えが頭をよぎったりして、どっと疲れが押し寄せてきます。ルール自体はあるのが当たり前だと思いますけど、新しいものを身に馴染ませるのは意外とエネルギーを使うってことを私は知っています。環境が変わるっていうのはこういうことなんですよね。それに寮の外に住んでいるアイドルの方もいると聞いていますし、挨拶について考えることは他にもたくさんありそうです。ちなみにお隣さんは泊まりのお仕事でもあるのか、今日は私が眠りにつくまで両隣のどちらからも物音は聞こえてきませんでした。
翌日の朝に一人の女の子と出会いました。といっても出会いそのものは特別なものでも何でもありません。その時間に彼女が私の部屋を訪ねてきた、というだけのことです。
その日の私は寮に来たばかりで緊張していたのもあったのでしょう、早くに目を覚まして手早く身支度を済ませていました。そうしてひと息をついて、そろそろ食堂で朝食をいただこうかなと考えたあたりで扉がコンコンと軽い音を立てました。扉を開けると私とそんなに背の変わらない子の姿が目に飛び込んできました。額の辺りでは短く髪が遊んでいますが、基調としてはさらさらの長い髪が印象に残ります。私とは少しイメージの異なるたれ目にはちょっと親近感を覚えます。昨日もまったく同じことを体感したのに変な話だと思いますけど、こんなにかわいい子が当たり前にいるのかと思うとやっぱりここはアイドルの寮なんだなあ、と変な感慨が湧きました。
「おはようございます。つい昨日からここでお世話になっています」
そう言って頭を下げると、私を訪ねてきたその子は驚いたように反応しました。
「えっ、あー、アンタまゆよね? 聞いてるわ。アタシ小関麗奈。麗奈でいいわ、ヨロシク」
「っ、はい。まゆです。よろしくお願いしますね」
名前を言うのに詰まりそうになりました。けれどもそれではいけません、私はもうここではまゆなのです。卒業証書を受け取ったときに呼ばれた名前とは違います。自己紹介をするのもそうですが、そう呼ばれることにも慣れないといけないと思うと道はなかなか険しそうです。そのためのいい方法をなにか考えたほうがいいのかもしれません。
聞けば麗奈ちゃんは私の右隣の部屋に住んでいて、それで寮のきちんとした案内を任されたとのことでした。案内の道すがらにこの春から中学校に通うと言っていましたが、そんな年齢で他人に物事の説明ができるのは立派なことだと思います。きっと賢い子に違いありません。
きちんとした案内とはいっても寮の基本的な使い方に説明なんかが必要ということではなく、たとえば門限の話とか空いていればキッチンは誰が使ってもいいとか、あるいは頼る機会の少なそうな倉庫や避難経路だとか、そうした内容のお話でした。
「だからまあ実家の遠い学生組全員がここに住んでるってわけでもないのよ、逆に学生じゃなくてここにいるやつもいるけど」
「いろんな人がいるんですね」
「まだ部屋に空きがあるぶんには構わないんでしょ、きっと。ちなみにアンタのもうかたっぽの隣も空き部屋よ」
年齢に物怖じしない麗奈ちゃんの調子は私にとって心地良いものでした。麗奈ちゃん本人がどう考えていたのかはわかりませんが、丁重に距離を置いて接してもらうより気楽でさえありました。もしかしたら私の人との距離感の考え方はすこしずれているのかもしれませんけど、そんなことよりもありがたいと思える出会いと巡り合えた今の幸運を大事にしたいと思います。
細かい説明を必要としない寮の案内に時間がかかるわけもなく、私は麗奈ちゃんと二人で朝食にすることにしました。食堂へ向かう廊下には春の日差しが差し込んで、空中の小さなほこりさえくっきりと浮かび上がらせています。もちろんイメージから外れることなく暖かな陽気です。まだ三月の下旬なのに四月下旬の暖かさだと天気予報では言っていました。春休みで起きてくる時間がゆっくりということなのか、窓の向こうの小鳥のさえずりが聞こえるくらいに廊下は静かでした。ですから食堂だって静かなものです。先客がひとりいるだけで、そのせいでむしろ室内の風景画みたいに造り込まれたような印象が残りました。
私たちの位置からは遠めに座っていましたけど、ひと目見てぴんと来ました。毛量がそれほど多くないのか頭のシルエットが見えそうなショートカット。オフィシャルには脱色しているとされていますが染めたってそうなるかわからない色の薄い髪。黒目がちでいたずらっぽいつり目。昨日という一日のなかでもっとも印象に残った人物がテーブルに頬杖をついて座っていました。
「あ、周子ちゃん」
「んー? あ、おはよ。まゆちゃんにレイナサマ」
「オハヨ。ていうか周子、アンタなんでこんな時間に起きてるの?」
「えー、そんなしゅーこちゃんを寝坊助さんみたいに言わんでもええやん」
「オフの日に起きてくるの早くて11時のくせに何言ってんのよ」
「恥部を晒さんといて、恥部を」
私は麗奈ちゃんと似たようなタイミングであいさつだけ口にしました。周子ちゃんと麗奈ちゃんとのやり取りにはお互い距離感をつかんでいるようなリズムがあって、そこにいきなり割り込むような真似はとてもできませんでした。どちらも年齢を気にしたようなそぶりがまったく見えないのが個人的には素敵なポイントに見えました。きっと敬意がどちらからも正しく払われているのだと思います。
「つーかさ、レイナサマも相当早起きしてない? 服もしっかり着替えてるし」
「来たばっかのまゆの寝ぼけ顔見ようと思って部屋行ってみたらこのザマよ。準備万端で逆にこのアタシがびっくりしちゃったってーの」
「んふふ、うまく行かんねえ、レイナサマ。まゆちゃんはそんなに早くに起きちゃったんだ?」
「あ、はい。さすがに初日はちょっと緊張しちゃいました」
「そんなガチガチにならないでよ、ここにいるのは皆ただの女の子だよ。世間一般じゃ別の評価をもらってるみたいだけどね」
なんたってあたしみたいのが住み着いてんだもんね、なんて言いながら周子ちゃんはひらひらと手を振っていましたけど、すぐにそれに順応するのはさすがに無理というものです。言ってみれば彼女はおとぎ話の登場人物と変わりありません。現実に呼吸をして歩いているなんてこれまで考えもしませんでした。少なくとも私はまだそのおとぎ話の世界をリアリティをもって捉えてはいませんでした。けれどももし私が立ち止まって想像力を働かせていたら、この寮で暮らすということはその世界に住むこととほとんど同じ意味だということに気付けていたのかもしれません。むろん実際に感触のある幻想どころか、幻想に違いないと思い込んでいたものが目の前の現実として存在しているなんて頭では理解してもかんたんには信じられないのが自然だとは思います。
そのまま向かいの席をすすめられて、朝食の時間が始まりました。そのときのメニューは和食の品目から食べたいものを選ぶもので、寮に住んでいる人数からすると自然なのかもしれませんが、早い時間に来るとちょっとしたビュッフェくらいに品数があってちょっと驚いてしまいました。
「周子、アンタもう食べたの?」
「レイナサマたちが来る前にちょっとね」
「食生活くらいはまともにしなさいよ? プロデューサーにも言われてんでしょ」
「ヨーグルトは健康食だもーん」
「ホント気ィ遣いなさいよ、コンビニ行っちゃ新作のスイーツだなんだと騒いでないで」
「いやいやスナック菓子も見てるから」
あ、昨日のビニール袋ってもしかして。
「やかましい。だいたいそんなのの味なんてどうでもいいでしょ」
「企業が本気で売るために作ったんだよ? そんな新作チェックしないわけにはいかないって」
「自分の体形とか仕事の台本とかチェックしなきゃいけないもの他にあるでしょうが」
「てへぺろ」
「どんなイメージ持ってるか知らないけど周子はこういう人間よ。素はだらしないんだから」
「来たてのまゆちゃんにそーいうこと吹き込むのよくないってしゅーこちゃんは思うな」
ほほえましい、で言葉が合っているのかはわかりませんが二人のやり取りについついそんな顔をしてしまいました。私は口さえ開いていませんでしたけれどその会話の中にたしかに私は含まれていて、それは居心地のいい不思議な体験でした。私のいたところの女の子同士の会話は基本的には誰もが話していないと成り立たないもので、黙ってしまうといつの間にかこぼれ落ちていってしまうものでした。それと比較するとこういう空気は貴重なもののように思えます。そういったものを作り出せるのはやはり二人が特殊だからなのでしょうか。
にこにこして話を聞いていると、鏡は持っていませんでしたけどきっとにこにこしてたはずです、ときおり麗奈ちゃんと周子ちゃんが私に笑いかけてくれます。もともとそんなつもりはありませんけど、こんなの絶対逃げられません。多少の行儀なんて脇に置いて楽しいことに集中しようと当たり前のように思ってしまいます。これが、アイドルなんですね。
三人での楽しい時間はそれほど長くは続きませんでした。とはいえ何かに壊されたなんてことではなく、麗奈ちゃんに用事があって場を離れてしまっただけのことです。惜しいのはもちろんですけど予定があるのなら仕方がありません。私の寝起きの姿を見るためだけに早起きするのも変な話ですから、きっと麗奈ちゃんはそのことを込みで動いていたんでしょうね。スケジュールが見事にはまったのは偶然かもしれませんけれど。
それまでの空気作りにきちんと染められたのか、あるいは周子ちゃんと昨日の段階でそれなりに接していたからか、二人テーブルになっても話が止まって居づらくなるようなことにはなりませんでした。それにしたってこんなに単純だったのかと自分でも驚いてしまいます。つい昨日に会ったばかりのときは混乱さえしていたのに、気が付けば冗談だって飛ばせるようにまでなるなんて誰が予想できるでしょうか。
周子ちゃんとのお話は雑談だったものが、次第に実際的なものと呼ぶべきなのでしょうか、このプロダクションに関する事柄に移っていきました。先日プロデューサーさんと面談したなかでは出てこなかった部分の話がいくつも聞けました。内部構造というか、プロデューサーというある種の独特なシステムについてのこともそれにあたると思います。
「一人で担当する業務の範囲が広いからさ、あんまり人数抱えられないんだよね。いいとこプロデューサーひとりにつき二、三人ってとこかな。二人三脚でやってるところのがまだ多いような気がするよ。あー、まあユニットとかになるとまた変わってくるんだけど」
「相当な激務なんですね」
「方針決めて育てて売り込んで、他にもコネ作ったり維持したりの上で社内向けにやることもあったり。あたしがぱっと思いつくだけでこれだから細かくいけばもっとなんじゃない?」
「目眩がしちゃいそうです……」
「あっはっは、でも真面目なハナシ気にしちゃダメだよまゆちゃん。仕事に打ち込む人はカッコよく見えるかもしれんけどね」
「どういうことですか?」
「世界がひっくり返っちゃう」
周子ちゃんの、このにんまりとした笑顔に込められた意味は何なのでしょう。それは私にはよくわかりませんでしたが、プロデューサーさんが大変なお仕事をされているということはわかりました。おそらくこの話しぶりだと私と周子ちゃんのプロデューサーさんはそれぞれ別の人なんでしょう。さっきの言葉の感じからすると、もしかしたら麗奈ちゃんと周子ちゃんは同じ方が担当していらっしゃるのかもしれません。
視界の端で朝日が斜めに滑り込んで、シンプルなガラスのコップが反射してきらりと存在を主張します。気にも留めたことのないようなことがいやに意識に引っかかります。生活環境が変わるということは思った以上に影響力を持っているのかもしれません。でもこういう体験をしてみると、本当に太陽の位置が動いていることが実感できて面白くもあります。光の眩しさに目を細めると、不意に周子ちゃんから声が飛んできました。
「ところでまゆちゃん、今日はなんか予定とかあるん?」
「ええと、落ち着いたところで近所をぐるっと一周してみようかなって考えてたぐらいです」
「よし、それじゃあ一緒に事務所行こうよ」
「え、事務所ってふらっと立ち寄っていいものなんですか?」
「ある程度のルールはあるけどね」
昨日の今日で事務所を訪ねようだなんて少しも考えていなかったので、周子ちゃんの言葉にすぐさま質問を返してしまいました。用件があるのならまた話は違いますが、いわば事務所は職員室のようなところだと思っていましたから。ふらっと立ち寄るにはちょっとハードルが高いように思われます。もちろんアイドルとして日の浅い私の感覚がずれている可能性はあります。でも周子ちゃんはそんなことなんて全然なさそうに笑っていて、そんな顔を見たら信じない理由なんてどこにもありません。つまり私のこれまでの人生経験にない、新しい関係と言えばいいのか文化と言えばいいのかわからないなにかが待っているということになります。もちろん不安もありましたけど割合として見ればそれほど大きくはなくて、これから本当に生活の仕組みが変わっていくんだなという実感のほうがはるかに大きな部分を占めていました。
せっかく事務所の仲間になったんだから他のアイドルに挨拶しちゃおうよ、なんてお誘いに私は一も二もなく頷いて、十五分後には二人で並んで玄関を出ていました。寮の中から見ていたのと変わることなくお天気は穏やかで、ときおり涼しい風が髪を揺らしました。周子ちゃんはメンズ感のあるスプリングコートに大きめのニット帽、それに寮内と違って縁の大きな眼鏡をかけています。一目で彼女だと見抜ける人はそういないでしょうけれど、それでも目立ってしまいそうな気がします。顔立ちが綺麗すぎるというのも考えものということでしょうか。マスクをしたって望むほどの効果は発揮されないように思います。
周子ちゃんは駅のほうへは向かおうとせずに慣れた様子で進んでいきます。事務所に向かう前に立ち寄るところでもあるのかな、と思ったところで二歩先を歩いていた周子ちゃんが振り向きました。
「そうそう、今日は歩いて行こうね。この時間に急いで行ってもあんま人いないだろーし、いま電車乗っても混んでるしさ」
あ。そういえばまだ早い時間帯だったのを思い出します。
「それに道知ってて損はないと思うよ? 三十分とちょっとで着くし。あ、寄り道できるところもいろいろあるんだよ」
川沿いの道を通って、まだ開いていないお店をいくつか教えてもらいながら事務所まで案内してもらいました。桜の花のつぼみが地元よりも大きいことに目を奪われます。そろそろ咲くのでしょうか。それなら散るのもすぐに見られそうです。仙台だと入学式や始業式のころに咲くのが通例なのでだいぶ気候に違いがあるのかもしれません。
「ねえねえいっこ聞き忘れてたんだけどさ、まゆちゃんのプロデューサーさんって誰なん?」
「藤林さんって方です」
「藤林さん?」
周子ちゃんのちょっと意外そうな表情が印象に残りました。