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以前にプロデューサーさんと打ち合わせをさせてもらった部屋があるのとは別の階にエレベーターが止まります。まるで道を間違えた人を呑み込んでしまうとでも言いたげに廊下にはいくつも扉があって、そんな中を私はもう迷わずに歩けるようになりました。もう、とはいっても何日も、それも一日のうちに何度もうろつくことでやっと道順を覚えたっていうのが本当のところです。残念ながら私は一歩きして建物の造りを理解できるような勘の良さを持ち合わせてはいません。
各階のエレベーターホールは降りると左右の廊下と繋がっています。細かいところを省略したかたちになりますけど、真上から見ればHの真ん中の横棒がホールですね。ホールから右に折れて今度は左に曲がった先の、ちょうど廊下の真ん中辺りに扉があります。なんとなくオフィスによくありそうな、中の覗けるガラスの入った扉です。扉そのものが重たいのかそれとも廊下と中との空気の違いなのか、楽には開けられないので私はいつももたれかかるようにして開けています。
「おはようございます」
いわゆる “業界” でのあいさつに慣れるために、私は現場でなくても時間に関係なくおはようを使うように決めました。とはいってもそれを適用しているのは現場と本社だけなのでプライベートはその限りではありません。いまは朝なので時間のずれはありませんけど、実際に口に出してみるとけっこうな違和感があってまだちょっと戸惑ってしまうことがあります。いつかそれが当たり前になる日が来るのでしょうか。
朝の光が今度は床のタイルに反射して視界が一瞬白く染まります。ドアを開けて一般的にイメージされるような部屋の広さではありません。一室の中に衝立や資料棚で間仕切りをしてはいますが、全体として見ればワンフロアになっていると言えばいいのでしょうか。それらの間仕切りで広大なワンフロアをいくつかのスペースに区切っていると言ったほうが正確かもしれません。たしかに資料棚は背も高いので壁と認識してもよさそうですが、結局はそれも天井には届いていませんから厳密に壁とは呼びにくいですし、間仕切りできっちりスペースを分断しているわけでもないので閉じているという印象は受けません。それに廊下とフロアのように扉があるわけではないので部屋の移動という感覚自体が存在しない感じがします。外に面しているのはガラスで、合わせて見ると開放感のあるフロアと言えそうです。
だいたいが出払っていてそれほど人数の多くないプロデューサーさんたちの事務スペースを通り抜けると、ゆるっとした雰囲気の休憩スペースがあります。椅子もテーブルもかわいらしいものですし、さっきの資料棚と比べると背の低いラックにもお洒落というか明らかに空気感の違う小物が飾られています。仕事のための空間と比べるとそれはそれは場違いなくらいに女の子のスペースです。その女の子のスペースに、ギターを手にして難しそうな顔をした女性がひとり座っています。
「おはようございます、恵磨さん」
「おー、おはよ、まゆ」
恵磨さんはいつものビーズクッションのある一角ではなくて、黒革張りのソファに腰かけていました。事務所には社員さんとは別に私たち用のスペースがあって、言い方は悪いですが、そこにはおよそ職場とは思えないような緩い空間が広がっています。ヘリクツですけどアイドルの現場はそこではないので、気合を入れる場所でなくてもいいのかなとも思います。もちろんうるさくするのはいけませんけど。
普段なら恵磨さんはヘッドホンで音楽を聴いているか楽しくおしゃべりしているかのどっちかです。後者の場合はたいてい声が大きすぎて怒られるまでがセットです。
「恵磨さんはギター弾かれるんですか?」
「あはは、弾けない弾けない。ただこれ弾けたらもっとやれること増えるかなって思って」
「すごくお似合いだと思います。お買いになったんですか?」
「いや借りてる。涼と夏樹ってヤツらが二本ずつ貸してくれてさ、あはは、超重いの」
「あ、ギターの練習って何本も必要なんですね」
「一本で十分だって、つーか涼の貸してくれたやつ右利き用なの。アタシ左利きなのに」
「じゃあ三本は返したほうが……」
夏の空みたいにすかっと笑う恵磨さんは厳密な意味で私の先輩です。つまり担当されているプロデューサーさんが同じ、ということです。なるほどたしかに恵磨さんと私では系統が違いますから、周子ちゃんがびっくりしていたのも納得です。けれどそんな快活な恵磨さんは私にすごくよくしてくれて、おかげでついつい頼りたくなっちゃう相手の一人になっています。
恵磨さんは周子ちゃんよりもさらに髪が短くて、雑誌くらいでしか見たことのないベリーショートが驚くほど似合っています。ベリーショートが似合うのは本当の美人だけ、なんて話を聞いたことがありますけど、恵磨さんを見てるとその通りだなと思います。美人というのは顔の造作が整っているだけではいけないのだとはじめて知りました。これはちょっと偏見ですけど見た目だけならもうギターが上手そうに見えます。
「ほらまだ経験ゼロだからさ、逆に右利き用のが合うかもしんないじゃん」
「そこは素直に左用のでいいかと……」
「物は試しって言うだろー? その前にまだテクいことなんにもできないんだけどな」
恵磨さんはちょっと照れながら、ネックと呼ぶらしいギターの細長いほうに愛おしそうに視線を投げています。
「あれ、そういえばけっこう時間早いじゃん。今日なんかあんの?」
「はい。今日は簡単な撮影のお仕事が入ってるんです。雑誌の」
「お、もう仕事入ったのか。アタシの後輩は優秀だな!」
「優秀なのはプロデューサーさんですよ。まゆは、なにも」
「かもしれないけど、それはまゆの仕事ってのも本当だろー?」
裏表がこれほど感じられない人もこれまでの人生で初めてで、別に後ろ向きな気持ちがあったわけではないのに素直に励まされてしまいます。ファッション雑誌の写真撮影は慣れたものですが、この事務所に来てからは最初の仕事になります。十分に気合を入れて取り組まないといけません。そのためのやる気をしっかりと受け取ったんですけど、恵磨さん自身は意識してすらいないんでしょうね。
恵磨さんがギターの練習をする横でぽつぽつと世間話のようなものをしました。ちょっとだけ相手の物事に対する考え方を知るだけの、ほとんど実にさえならないお話。私と恵磨さんでは興味を持つジャンルがかなり違うので、話題はお互いまったくわからないことが多いんですけど、でも、知らないことを知るのはとてもいいことだと思います。新しい面白いものは知らないところにあるのが自然なんですから。
「そっか、まゆは新人だからしばらく現場は藤林さんがセットか」
「はい。本当のことを言うとまだ社内でも迷子になりそうですし」
「大丈夫大丈夫。アタシもまだわからないとこあるし、だいたいはそのうち慣れるって」
「うふふ、ありがとうございます」
「なんかあったら藤林さんに聞けばいいしな。ちょっと変だけど頼れる人だよ」
「ちょっと変、なんですか?」
「だってアタシをアイドルにしようってくらいだからな!」
「それは変なことじゃなくありませんか?」
「なんだよ可愛いなこいつぅ」
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私は自分が契約したこの事務所のスケールをどうやらまだ勘違いしていたみたいです。読モのスナップとはまた違った撮影ですから専用の撮影所に行くのかな、と思っていたら社内にそれがそっくりそのままあるのだから驚きです。光源の位置の確保のために天井もしっかり高いですし、機材のためのスペースも十分に確保されています。これならむしろカメラマンの方々がここを利用しに来るなんてこともあり得そうです。
きょろきょろしていると左のちょっと上から声が降ってきました。私は背の高いほうではありませんから、男性から話しかけられるときには多くの場合そうなります。ああこういう顔だった、といつも思い出させられる印象の薄いプロデューサーさんがにこやかに私を見ていました。
「ひょっとして撮影所は珍しい?」
「いえ、経験はあるんです。けどまさか社屋の中にあるとは思ってなくて……」
「……そういえばきちんとびっくりされるのは初めてかもしれないな」
「そうなんですか?」
「むしろ貴重なんだよ。キミみたいに撮影の経験のある子って」
「そう言われると納得できるような気もします」
一人でうんうん頷く様子を見ていると恵磨さんの言っていた人物評がふと頭に浮かびます。たしかにちょっと変なところがあるのかもしれません。恵磨さんをアイドルとして選ぶことにおかしな部分があるとは思いませんけど。
「今回雑誌からもらえたスペースは大きなものじゃないけれど、それでも魅力を最大限に発揮するような一枚にしていこう。アイドル佐久間まゆはここから始まるよ」
「はい」
「僕から言えるのは気合を入れすぎないことだけ。あとはキミのほうがよく知ってるはず」
「意外です。プロデューサーさんはモデルの経験がおありかと」
「冗談を言う余裕があるなら大丈夫だね。任せたよ、まゆ」
撮影はすぐに終わりました。大きくないスペースに一枚だけですから衣装替えも当然ありませんし、ポーズをいくつか変えて数枚撮るだけでした。その中から選ぶっていうことなんだと思います。拍子抜けの感じもありましたし、こんなものだろうっていう思いもありました。ファッションモデルとしての仕事にそうそう違いは出ないんでしょうね。たとえば表紙を飾るようなランクになってくればまた話は別だと思いますけど。
ライトの熱のせいで浮かんだ汗を叩くようにしてタオルに吸わせます。普通に拭いたってメイクに影響は出ないと思いますけど、それは女の子としてのエチケットみたいなものです。万が一にも人前で堂々と崩してしまうわけにもいきませんから。
パイプ椅子に座って他のモデルの撮影を眺めていました。みんな整った顔立ちに衣装、街中を歩いていればきっと道行く人の目を引くでしょう。それぞれポーズをとっているので、ぼーっと見ているとすごく早くめくる紙芝居を見ているような気分になります。
「初仕事お疲れ様。前とあまり変わらないと思うけどどうだった?」
「そうですね、固くならずにできたと思います」
「うん。傍から見てても不安にはならなかったよ。でも」
「でも?」
「もっともっと眩しい姿が見られると思ってる」
「ありがとうございます。次のお仕事も頑張りますね」
顔色ひとつ変えずにちょっと恥ずかしいことを言えるのは職業柄なんでしょうか。けれどその言葉を今は前向きに捉えなければなりません。今日撮った写真が佐久間まゆの最高の一枚だなんて、最高の仕事だなんて言わせてはいけないと私も思います。これからもっと進歩を重ねないと、プロデューサーさんが私を口説くときに使ったあの言葉の意味を確かめられません。この人の見た私の価値が、言い方は悪いかもしれませんがこの程度のところに転がっていていいはずがありません。そのためにもこれから先、口だけでなく本当に頑張る必要があります。とはいえ今日はお仕事も終わりましたし、これくらいにしておきましょうか。