佐久間まゆの壊し方   作:箱女

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02 ステージ

 

 プロデューサーさんの言っていた本格的なアイドルデビューの前の一仕事は、あっという間に終わってしまいました。私自身の感覚で言えばあまり良い意味ではありません。三誌での撮影でしたから、ファンに意識を置くことを試して、できればモノにしようと考えていました。けれど周子ちゃんの言葉のとおりに、見たことのない存在をカメラの向こうに置くのは難しいことでした。イメージできないものに自分の感情を注ぐことは、少なくとも私にはできませんでした。スタッフの方々が私にどんな期待をしていて、その結果どんな印象を得たかはわかりませんが、私は完全に失敗したと思っています。

 日程的に最後の撮影を終えて、ドレッシングルームで衣装を脱ごうとすると妙に服が引っかかります。手で確かめて見ると、汗でぐしゃぐしゃになっていました。きっとライトのせいだけ、ということではないのでしょう。今でも背中をなぞれば手がべっとりと濡れてしまいそうな気がします。

 午後三時の光の中でこんなことを考えていられるのは、はたしてまともなことなのでしょうか。そのあいだ表情に意識を回してはいませんでしたから、きっと私の顔は呆けたものになっていたに違いありません。ただここは周子ちゃんに教えてもらった寮から事務所への裏道なので、ある程度時間に限りがあるとはいえまず人通りはありません。だからといって気を抜いていい場所と考えてはいけないんでしょうけど、まあ、セーフということにしましょうか。

 

 もうカレンダーは四月の最後の段を数える日々で、ニュース番組ではしきりに行楽地の特集を放映しています。私はファッション誌の撮影が終わった辺りから始まった、本格的な歌のレッスンを続けています。事務所に所属しているアイドルなら全員が歌うことのできる曲と、もう一つ。どちらも曲そのものが難しいかと聞かれればそういうこともありません。問題はいつかプロデューサーさんが言っていたラブソングが、私の理解の及ばないままに私の手に収まっていることなのです。救いがあるとすれば、その問題の曲はすぐさま世間に発表する段取りになってはいないということくらいです。

 東京に出てきて、というよりは歌を活動の中心にしている恵磨さんと知り合ってから音楽には以前よりも触れるようになりました。さまざまなジャンルがある中で、もちろんラブソングを聴く機会もありました。けれど私が抱くことのできた感想は “キレイだな” とか “怖いな” というそれだけのもので、どうしてもそれ以上の印象を持つことができませんでした。そのことがレッスンを担当してくださるトレーナーさんを悩ませていることは承知しているのですけれど、どうやってもうまく消化することができません。音程が取れないわけではありません。トレーニングのおかげで声量に不安があるわけでもありません。ただ、乗せることができないのです。

 自分で解決できないのなら、誰かに相談するのが一番ですよね。

 

 すっかり通い慣れたアイドルのための部屋にはいつもより人が多くいました。次の収録や撮影までの時間をここで潰すのがその目的の大半です。私の場合はレッスンよりも早めに来て、ここでリラックスするのが習慣になりつつあります。寮でもお友達がたくさんできましたけど、この部屋で知り合うことができた方もたくさんいます。事務所所属とはいっても寮住まいでない方はたくさんいらっしゃいますから。

 恵磨さんはビーズクッションにギターを抱いたまま深く沈んでいました。脇には教本のようなものが落ちています。見る限り練習に疲れてしまったように見えます。私がここへ来るようになったのとほとんど時期を同じくして恵磨さんはギターの練習を始めましたから、どこかでそうなってしまうのも当然だと思います。

 

「ギターやべー……、超ムズい……」

 

「おはようございます。ギターの練習の調子はあまり芳しくありませんか?」

 

「ああ、おっすまゆ。全然進まねーの、これ完全に壁だよー」

 

 子どもがすねたような言い草で、ギターのネックのほうをわずかに持ち上げて示します。次はネックから手を離して指をくいくい動かして、コードがさ、なんてぶつぶつ呟いています。私にはよくわかりませんが、コードという難しいものがあるのでしょう。恵磨さん自身忙しい方ですし、それにご自宅では楽器を弾くのは禁止されているとも聞きましたからなかなか練習時間も取れないのだと思います。そんな恵磨さんから時間を奪ってしまうのは心苦しいところもありますが、それだと前に進めません。

 

「恵磨さん、まゆ、ちょっと相談したいことがあるんですけど」

 

「相談。どしたの、ここで大丈夫?」

 

「あ、隠すような話じゃないので」

 

 恵磨さんの隣に座って、お互いに顔だけを向け合います。外から見ればいつも通りの雑談をしているようにしか見えないでしょう。

 

「最近レッスンでは歌を中心にやってるんですけど」

 

「お、ちょっと力になれそうな気がしてきた」

 

「どうにもそこに感情が乗せられなくて困ってるんです」

 

「どういう歌なの?」

 

「恋の歌です」

 

「あれ、意外だね。まゆならその系統はいけると思ってた」

 

「実はそういう経験がなくて……。恵磨さん、恋ってなんですか?」

 

「んんー、猛烈に難しい話だな、ちょっと待ってくれ。……そうだな、アタシもこれでまあある程度の経験をしてはきたけど、まあいっしょに出かけたり、好きだと言って好きだと言われてキスをして、ってな具合でさ。こんな複雑な気持ちが自分にもあったのかと驚いたもんだけど、でもじゃあその気持ちがピンポイントで恋かと聞かれてもこれだとは言えないんだよな。自分でもそうなんだからまゆ基準になるともっと違うかもしれない。つってもその時期に恋をしてましたか、っていま聞かれたら頷くしかないんだけどさ」

 

 あれ? もしかして私ものすごく恥ずかしいことを聞いてしまったような。いえ、私が質問したこと自体はさておいて、周囲に普通に人がいる状況で話してもらうにはあまりにもセンシティブな内容です。聞いておいて何を言っているんだという話ですが、解けた緊張と課題への焦りがあるとはいっても配慮に欠けすぎです。躊躇も照れもなくお話してくださったことには感謝しかありませんが、恵磨さんはそれでいいのでしょうか。

 やってしまったと固まっていると恵磨さんが覗き込んでいます。見たことのない仕組みの機械を確かめるように。きっとこの愛すべき先輩は、私に混じりっ気のない心配を向けてくださっているはずです。硬直した私の視界から見える恵磨さんの表情に非難の色は浮かんでいませんでしたから、私には苦笑いを浮かべることしかできません。それを見て安心したように微笑んで、恵磨さんは表情をいつものものに戻しました。あの、安心してもらえるような顔色はしてなかったつもりなんですけど。

 

「ま、だから実際に体験してみなよ。言われてできるなら世話ないけどさ」

 

 これはある種のコンプライアンスに関わると思ったので、ひそひそ声で尋ねます。

 

「やっぱり恵磨さんも片思いの許可は下りてるんですか?」

 

「ん? ハハ、可愛いなそれ。アタシはその辺自由だよ、いちおう成人してるし」

 

「えっ、そうなんですか」

 

「他所のプロデューサーがどうかは知らないけどね」

 

 プロデューサーさんの言葉を借りるなら“自然なこと”ですが、誰を相手にという問題がそこには残ります。身近なところを考えるのなら学校の男の子ということになるのでしょうか。仙台にいた頃を思い出してみてもそうなるかどうかは怪しいものです。となれば私にできることは、とりあえず歌の技術面をさらに向上させることくらいしかありません。それに披露するのはまだ先ですし、もうちょっと余裕を持って考えてみたほうがいいのでしょうか。

 

 

 そこに立つ存在を指す言葉から連想されるイメージほどの可愛らしさはありません。足場は意識に残らないような白とも灰ともつかない色をしていて、派手に装飾された背景はもちろん、どちらかといえばそれよりは積まれている機材の方に目が行きます。袖から覗けば狭く見える舞台は、人間ひとりが支配するにはとても広いものです。あるいはその支配できる広さがアイドルとしての格を証明するものになるのかもしれません。

 客席のような上品なものなんてなくて、そこにあるのは一メートルと少しの段差に区切られたふたつの空間だけです。隔てるものは頼りない柵だけ。ここはアイドルとそのファンの距離がいちばん近づくところです。どこよりも何よりも、こういうライブスペースでのパフォーマンスこそが最も接近する行為だと私は確信しています。たとえば直に言葉を交わす機会のある握手会よりも、です。

 

 感情を歌に乗せられないという課題を克服できないままに、私の注釈のつかないデビューの日がやってきました。場所は事務所が所有しているライブハウスです。それなりに経験を積まれている数多くの先輩方が定期的に行っているライブに混ぜてもらうことになりました。事務所所属のアイドルであれば全員が歌える曲のひとつを、その日限りのユニットとして披露するという方式です。このようなデビューの仕方は私の事務所では一般的なものらしく、周子ちゃんも恵磨さんも覚えがあるそうです。なるほどと思い、一方で目立つという至上命題を達成するにはヘビーなような気もしましたが、そこは段階を踏んでいくべきことなのだと思います。まず私がやるべきことは、できる限りの歌を届けることだけです。まだ名前も顔も知られていない私にできることと言えば全力を尽くす以外にないんですから。

 たしかに緊張はありましたけど、動けなくなるほど強烈なものではありませんでした。楽屋ではユニットを組ませていただく先輩方が声をかけてくれました。それにステージに立つことくらいなんでもありません。段差の高いほうに立つというだけのことです。怯える必要なんてどこにもあるはずがないんです。大丈夫なはずなのに右手と左手それぞれを固く握っている自分がいて、それが不思議で仕方ありません。せめてどちらかの手が開かないとマイクが握れないのに。

 

 ライブが始まって楽屋にも盛り上がりの余波が響いてきます。びりびりと空気が震えています。出番の近い先輩方が準備を終えて舞台袖へと向かっていきます。私の手はまだ開きません。もう否定のしようもありませんが、私は怯えているのだと思います。何に対するものかはわかりません。でもそれが私の身体に影響を及ぼしているのは自分がいちばんわかっています。どうにかしないと。

 急いでお手洗いに向かって、水道のコックを上げます。冷たい水に手を当てて神経が通っていることを確かめます。やっとわずかに指が動いて、そこから思い通りになるまでそれほど時間はかかりませんでした。ほっと息を吐いて鏡を見ると血の気の引いた私がそこにいて、そのあまりの酷さにわけもわからず口角が上がります。力のない笑みを浮かべた顔は百歩譲ってもアイドルのそれには見えないでしょう。肌が白くなったといってもこれではただの不健康です。そんなことを考えて薄気味悪い笑顔をもう少しだけ動かしました。

 

( くだらないことすら考えられなくなるほど余裕がなかったんですね )

 

 鏡の中の私をじっと見つめ続けます。ここにいる私は、もう佐久間まゆです。ただの女子高生ではありません。プロデューサーさんに見出され、周子ちゃんと麗奈ちゃんに可能性を認められ、恵磨さんに独り占めしたいと言ってもらった佐久間まゆです。怯えていたかもしれません。認めます。自分に対してすら見栄を張ろうとしたかもしれません。否定要素はありません。でもそんなのは後のことです。まずは自分の出番に全力を尽くすのが最優先です。

 楽屋には出番を終えて休憩に入った先輩がいました。ライブ全体が終わってからの挨拶があるから着替えるのはまだ先なのだとリハーサルのときに教えてくれました。まだ出番は来てませんが私も例に漏れません。ファッションモデルのお仕事とはこういう部分が違います。順々に出番が流れて私の時間が近づいてきます。袖に入る時間が来ました。

 呼吸を落ち着けようとしながら楽屋の扉を開けると、プロデューサーさんが待っていてくださいました。私は新人ですから会場までついてきてくれるのは約束のようなものですけど、ここまで来てくれる必要まではなかったはずです。でも私にはなんとなくわかっていました。プロデューサーさんはそういう方です。恵磨さんの言葉の通り頼れる方です。楽屋は男子禁制ですから、私に声をかけるおつもりならこの場所しかありません。でも、それは許してあげません。楽屋での目も当てられなかった自分なんてまるで存在していなかったように、私から話しかけます。

 

「さあプロデューサーさん、ファンのみなさんがお待ちですよ」

 

「まいったな、もっとガチガチになってるかと思ってたよ。まゆ、期待していいね?」

 

「できないことはあります。でもできる限りはやってみせます」

 

 軽く背中を叩いて私に笑いかけたあと、プロデューサーさんは舞台袖から出て行かれました。ステージの下から見てくださるということなのだと思います。

 

 

 ほんとうに簡単な自己紹介だけをさせてもらって、いらしてくださった皆様に一礼をしました。その方々からすれば私は初めて目にする存在でしかありません。それでも拍手で迎えてくださる方もいて、ここは温かい場所なのだと、そう思いました。そしてそれが儀礼的なものであることに気が付いたのは、歌い始めからわずか十秒でした。

 まるで私のマイクだけが故障でもしているかのように、見えないはずの視線が自分に飛んできていないことがわかります。品定めするようなものすらありません。ステージに上がるのは初めてですし、歌声だって初めて人前でお披露目するわけですから言い訳は十分に立ちます。けれどそれらのことを勘定に入れようが入れまいが、私がどれだけ必死に歌ったところでサインライトは先輩方にだけ向けて振られていました。めまいがします。ステージに立つ人間が映えるように計算された熱いライトがちかちかと目にちらつきます。そのせいで客席は暗く、一人の顔も見えません。黒い何かが詰めていることしかわかりません。内臓からせり上がってくるような気がするイヤな臭いの呼気と液体をどうにか押し下げて、歌を損ねないように踏みとどまります。ここは私一人のステージではありません。それどころか参加させてもらっている立場です。絶対に壊してはいけません。視界の端が滲みます。一音一音が遠く感じられます。自分の中の虚勢をかき集めてはりぼての笑顔を貼り付けます。ここは一種の地獄なのかもしれません。彼らが見に来たのは先輩方であって私ではありませんでした。良く言っても知らないゲスト、あるいは添え物。悪く言えば邪魔者でしかありませんでした。

 

 五分足らずの地獄は強烈に私を削り取っていきました。袖に捌けていくまで無理をして表情を固定しましたが、本当は吐きそうで仕方ありません。ステージから下りるステップまでの距離がやけに長く感じられます。足から地面までの距離がつかめないせいで極端に内側に踏み出してしまい、ふらつきがより大きくなります。あらゆる感覚が脳漿の海を揺れています。なんとかステップの手すりにつかまって浅い呼吸を整えます。喉の奥がやすりでこすったように渇いて、胃の底のほうからすっぱい臭いが立ち昇ってくるような気がします。力が入らなくて足が震えます。ステージに立つ前どころか歌が始まるまでそんなことになるだなんて想像すらしていませんでした。けれどいま私はそれのせいで満足に階段を降りることさえできません。

 ざらつく感触が頬に残りました。おかしな話です。手すりを使って階段を下りようとしているのに、どうして顔に何かが触れる道理があるのでしょう。けれど今は何かを考える余裕なんて残っていません。そんなことは全部あとにして、いつの間にかフリーになっていた手で自分にくっついているものが何なのかを確かめます。ぺたぺたと手のひらを動かしても粗めの生地のような感触は変わりません。腕を回せているので、柱、のようなものでしょうか。

 ふと自分がもたれているのではないかということに思い当たりました。左頬から胸の辺りまでが前に向かって潰れているような感覚があって、首には普段の曲がりかたではない圧迫感があります。やはり足には力が入りません。……もしかして私はいま抱きかかえられているのではないでしょうか。

 

「よく頑張ったね、まゆ。見ていたよ。ちゃんとやり通したね」

 

 降ってくる声に私は平静を保てません。私をいないものとして進行していたあれを見られてしまったのです。寄せられた期待を裏切ってしまいました。

 

「っで、でも、私っ、ぜんぜ、できなくて……!」

 

「最後まで大きなミスなくできたじゃない。立派だよ、できてないなんてことはない」

 

 脇の下を通ってプロデューサーさんの手が私の頭と背中にやさしく添えられていました。立つ力はありませんでしたから、私が床に寝そべっていないのは彼が支えてくれていたからでしょう。いつの間に目を閉じていたのか、光の届かない視界の中で私は安心感に包まれていました。

 やがて頭が正常に働くようになってきて、自分が身内とはいえ人目につくところで恥ずかしいことになっていることに気が付きました。呆れてしまいます。どうして舞台袖で自分の失敗を子どもみたいに慰めてもらっているんでしょうか。およそアイドルとは似ても似つかない姿です。冷静になってみれば汗も涙も、鼻水まで出ているじゃないですか。ざらつく感触はスーツの生地。男性かどうかに関係なく人の身体なんですから腕を回せるのは当然です。私はきっと、階段を踏み外して倒れそうになったのでしょう。

 

「大丈夫。今日のキミを見てファンはついたよ。これからももっと増える」

 

「……こんなにボロボロなのに、ですか?」

 

「ボロボロじゃない。自分の足でステージから下りられたじゃないか」

 

 さっきまでは影さえ見えなかった気力をかき集めて、肩に手をかけさせてもらいながら自分の足で立ちます。本当だったらとても見せられないはずの、かわいくもなければカッコもついていないぐしゃぐしゃの顔で、でもプロデューサーさんと向き合う必要がありました。もしここで崩れたままでいたら、私は今日を言い訳にして逃げ続けてしまいそうです。足が震えていることなんて気にしている場合ではありません。

 初めて、プロデューサーさんの顔を見た気がしました。触れ合う距離にいるので近いのはそうなのですが、違う意味で彼が近くにいたんです。いえ、もしかしたら私が見ようとしていなかっただけなのかもしれません。ずっと変わらずに優しく見つめてくれていたこの表情を。ちょっとくらいはどこかで感謝していてもよかったはずなのに、私も佐久間まゆも薄情者ですね。

 早く立って、前を向いて言葉を口にしなければなりません。吐き出す言葉はもしかしたら自分自身にさえ虚勢に聞こえるのかもしれません。事実その通りなのでしょうけれど、それでも逃げないための楔をこの舞台袖に打ち込むんです。

 

「……約束します。佐久間まゆは強くなりますから。だから――」

 

 混乱に近い状態で何を言ったのか、私はよく覚えていません。

 

 

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