転生して電子生命体になったのでヴァーチャル配信者になります 作:田舎犬派
室長たちが現実世界で独立したサーバーを発見する少し前、札置神社を強襲した九尾とわんこーろの戦いは九尾からの先制攻撃によって始まった。
札置神社の境内に敷かれた石畳は荒れ狂う獣の攻撃の余波により舞い上がり、無残に破壊されていく。がらがらと軽い音や巨大な瓦礫がぶつかり合う音が響き、鋏の打ち鳴らされる音と九尾の叫びが木霊する。
金色に輝く体毛は太陽の光を反射して美しく輝き、その神秘性を極限まで映し出す。三日月のように鋭利な光を纏う鉤爪は容易く地面を切り裂き、空気に揺蕩う九つの尻尾は炎のようにゆらゆらと揺れ動いていた。
そしてその新緑の瞳は鋭く対象を捉え、ぎらつく牙から血のように真っ赤な舌をちらつかせる。
「もう、後で直すのが大変なんですよ~」
わんこーろはいつもの声音でそう呟きながら自身が管理している拡張領域に手を突っ込み、写し火提灯を取り出す。
目の前にいる九尾はそんなわんこーろの様子を注意深く伺うだけで、提灯の光をかざしても大した反応は見せない。
(この子が侵入者、ということでしょうか? ……いえ、この内部構造、この子は鵺や大蛇と同じ。ということは先の犬守村への不正アクセスの犯人によるもの……)
写し火提灯で覗き見た九尾の内部は今まで犬守村に現れた鵺や大蛇と同等のものであることが判明した。そこから今回の事件の犯人が、犬守村での騒動の犯人と同じであり、例のCL-589からのアクセスであるとわんこーろは理解した。
(CL-589からのアクセスは拒否しているはず……ということはV/L=Fで利用されているNDSを経由して直接犬守村内部に入り込んだ、ということですね、それでは犬守村と他空間との境界を監視していたヨイヤミさんは反応出来ない。それにしても、この子……札置神社全体にリンクが……?)
それ以上の考察をする前に九尾が動き出す。明らかにこちらを害する気の九尾に、わんこーろは裁ち取り鋏を向け牽制する。
「狐稲利さん、私から離れちゃだめですよ~」
「う、うんっ」
九尾がこちらを睨みつけ、前足に力を入れる。それだけでその脚が踏みしめていた地面に鉤爪が食い込み、地面に裂傷を作り出す。
「っ!」
驚くべき切れ味の鉤爪は、その直後大きく振りかぶられわんこーろの眼前に迫る。わんこーろは裁ち取り鋏によってその攻撃をなんとか受け止める。鉤爪と鋏の間でちりちりとした火花が飛び、拮抗するその最中、もう片方の九尾の腕がわんこーろに迫る。
「ほりゃ!!」
だが狐稲利が迫る腕を蹴り上げ、鉤爪は空を裂く。
「ごめんなさいっ!」
盾のように構え鉤爪を防いでいた鋏をわんこーろはまるで刀の刃を立てるように構え直し、力を込める。それだけで裁ち取り鋏に内包されていた"初期化"の能力が発動し、九尾の鉤爪をなめらかに切り落とした。
体勢を崩した九尾は後方へと下がるが、痛みを感じているようには見えない。単純に爪に神経が通っていないからなのか、それとも痛覚を持っていないのか。
「な!?」
しばらく九尾は切り取られた自身の爪を確認していたが、九尾がひと鳴きすると、先ほどわんこーろが切り落としたはずの鉤爪が元通りに修復されていた。
「先ほどのこの子から感じたリンクは、つまりこれですか……」
本来犬守村のCL-589からの接続はわんこーろが拒否しているため不可能だったはずなのだが、NDSを経由することで相手は間接的に犬守村との接続を可能としていた。そしてその接続経路を用いて相手は犬守村に九尾を
だが、どうにも犬守村に降ろしたのは九尾だけではないようだ。わんこーろが最初提灯ごしに見た九尾にはいくつものリンクが繋がっており、それらは九尾を降ろしているNDSの管理中枢空間だけでなく、この迷い路を含めた札置神社全域に複数本散らばっているらしかった。
「データのバックアップ、そのリンクですね……これも前回の失敗から学んだということですか」
迷い路内にわんこーろの知らない"何か"が降ろされており、それらは九尾と繋がっている。おそらくこの何かは九尾の動きを補助し、先ほどのように失った体の一部をすぐさま復元する九尾のバックアップデータと繋がるリンクらしかった。
「迷い路に散らしたのは私が簡単に破壊出来ないようにですね」
九尾とCL-589のバックアップデータが直接リンクしていた場合、わんこーろの鋏でまとめて簡単に切断することが出来る。それを阻止する為に幾つものリンクを用意し、それを迷い路のいたるところに分散して隠した。
「おかーさ! わたしが!」
「っ、狐稲利さんっ!!」
迷い路内にランダムに設置されたバックアップデータ。それをすべて破壊しなければ九尾の動きを封じることは出来ない。狐稲利が迷い路へとバックアップデータを見つけに向かおうとするが、その瞬間九尾が空に向かって咆哮する。
「うっ!」
「んう!?」
甲高く耳を塞ぎたくなるような大音量に思わず狐稲利は身をすくませる。九本の尾はまるで別の生物かのように縦横無尽に暴れ、わんこーろと狐稲利はそれを間一髪で回避していく。
(犬守村全体のスキャン実施……履歴に無いデータの検索……
再度の咆哮、鼓膜を震わせる叫びは空気を震わせ視界さえもぼやけさせ……いや、比喩ではなく本当に視界が、表示されていた検索データが歪む。そしてリンクが途切れる。
「これは……! リンクが切断されて……!?」
咆哮による空気の揺れがまるで波紋のように広がり、それに飲み込まれたものはその姿を崩壊させていく。
敷かれた石畳、朱色の瑞垣、大きな鳥居に神門。そのどれもが例外なく咆哮の衝撃を受けた直後、その姿を保つことができず、半ばポリゴンの状態へと還元される。
現実のリアルな物体と3Dモデルのポリゴンとの中間のような歪でバグのようなものがあたりに散乱し、それらが境内に"漂っていた"。
「物理演算も"初期化"されていろんなものが宙に浮いてますね……まるで宇宙空間です……」
「おかーさー……場所わからないー……」
先の咆哮、恐らくは裁ち取り鋏と同等の能力があるのだろうとわんこーろは考える。裁ち取り鋏がその初期化の能力を鋏という形に押し込め、圧縮することでその刃に触れたものを問答無用で初期化するのに対して、九尾の咆哮は自身を中心とした周囲すべての環境に"初期化"の能力を拡散している。
だが、拡散したことで裁ち取り鋏ほどの強力な消去能力は無く、せいぜいが3Dモデルの性質の幾つかを削り取る程度に収まっているらしかった。
「犬守村とのリンクが削られましたね……なこそさん! わちるさん! 聞こえますか!?」
『大丈…夫! 聞こえ……、わんころちゃん!』
『私も……、… そっちは大丈夫で……わんこーろさ……』
(これはマズイですね……お二人との通信も不安定で……いつ途切れてもおかしくない……)
「おかーさ!」
「っ! よそ見していられる余裕はなさそうですね……!」
四肢と九本の尾を駆使してわんこーろと狐稲利を翻弄する九尾、時折交ぜられる咆哮により二人のリンクは徐々に削られ、けれど二人がこの場所から離脱することは出来ない。
なぜなら、自分たちがいなくなれば、次の標的は迷い路内にいる配信者へと移る可能性があるからだ。
(犬守村の責任者として皆さんに危害を加えさせるわけには……!)
わんこーろは反撃を無効化され、防御に徹するしかない状況で徐々にリンクを削られるという状況に陥っていた。
(ジリ貧……ですね)
「なこそさん! わんこーろさんとの通話が!」
『落ち着いてわちるちゃん。私とわちるちゃんが通話出来ているのはわんこーろさんが繋いでくれているおかげだよ。だから大丈夫、わんこーろさんは無事』
『でも、どうしましょう……もうすぐ配信開始時刻になってしまいますよ……?』
『中止するしかねーか……?』
『とりあえず皆合流した方がいいんじゃない?』
『ログアウトは……やっぱり無理みたい……』
『わんこーろ先輩を助けにいくのは?』
『そんなの無理だって! 今でも邪魔になっているってのに』
わんこーろが繋いだリンクのおかげで現実の放送室と迷い路に散った配信者間での通話は何とか維持されている。
そのリンクを用いてFSや配信者は互いの意見を言い合い今後どのように行動するかを考え始める。
あるものは通話ができる今のうちに迷い路を進み配信者同士で合流することを提案し、あるものはわんこーろへ加勢するべきと発言しだす。
配信者が狐稲利とわんこーろを除き全員迷い路へと散らされた後、わんこーろとの回線によって札置神社に九尾なる巨大な存在が出現したことを配信者全員が把握していた。だが、それだけならば参加配信者もわちるもそれほど焦ることは無かった。これまでにわんこーろは鵺と、大蛇という個体を難なく無力化している。どれ程強化された存在であろうとも、この犬守村でわんこーろに危害を加えることなど出来はしない、そう思っていた。
だが、今回現れた九尾は今までの個体とは異なり、わんこーろの所有する裁ち取り鋏の初期化の能力を有していた。それは単純な戦闘能力ではなく、この世界そのものにダメージを負わせる、いわばメタな能力と言えた。
そして、わんこーろが札置の境内にとどまり続けている最大の理由が、自分たちであることが配信者をさらに焦らせる要因となっていた。
わんこーろならば迷い路の各地のバックアップデータを即座に特定し、その地点に転移してすぐさま破壊、九尾を無力化できただろう。だが、参加配信者が迷い路のあらゆるところにバラバラに散らされたことで、わんこーろの採れる選択肢は制限された。
九尾の咆哮は迷い路周辺のデータとのリンクを切断し、そのせいでわんこーろはバックアップデータの位置と、配信者たちの位置を特定できなくなっていた。
どこに誰がいるかわからない状況、それは実質迷い路全体への攻撃を防がなければいけないということであり、それ故にわんこーろは境内に九尾を押しとどめるしかなかった。
『配信なんてやってる暇ないよ! 早く逃げないと!』
『逃げるってどこにだよ! 俺ら閉じ込められてんだぞ!』
『なんでログアウトできないのぉ!!』
九尾の出現とともに先ほどまで何とか冷静さを保っていた配信者たちは不安を口にしていく。今まで一か所に集まっていたという安心感が、バラバラに離散し周囲に人が居ない状況になったことで無くなり、心細さを増長させる結果となったようだ。
すでに多くの配信者はこのイベントが中止になることを覚悟し、それが当たり前だと考えていた。そして状況が収まるまでどこかに隠れていようと。
わんこーろが後は何とかしてくれるだろうと期待して。
「配信……中止……」
わちるは迷い路の何処ともわからない場所で立ち尽くしていた。ぐらぐらと揺れ動く地面は、果たして本当に揺れているのか、それともわちるの中でぐるぐると回るごちゃまぜの感情を表しているだけなのか。朱色の瑞垣と鳥居が、今のわちるにはひどく怖いものに見えてしまう。
確かなのは、もうこのイベントを予定通りに進行することが不可能となったことだろう。事前の打ち合わせも、あらかじめ自分の配信で言おうと決めていたことも、わんこーろやFS、室長や灯の努力も、その全てが無駄に終わった。
そしてこの事件が比較的穏便に終了したとしてもNDSに侵入者が現れたことや、それによって配信者がネット内に拘束された事実は尾を引く。
安全性を認められていたはずのNDSが、外部からの攻撃によって不具合を起こし、利用者を危険にさらした。事情を知らない第三者から見ればそう認識されてしまうだろう。無関係者にとって侵入者が人外の能力を持っていることなど言い訳にもならない。
そのうえ、只でさえ炎上しやすいヴァーチャル配信者が主役となっていたイベントであることが荒唐無稽な噂話を生み出し、それは悪意なく人々の好奇心によって拡散され、やがて真実とみなされる。
その後はもう言わずもがなだ。世間はNDSの安全性を疑問視し、一般への普及はかなり遅れ、問題を起こしたV/L=Fは次回以降の開催は未定となり、さらにはヴァーチャル配信者という存在さえも否定される風潮が出来上がってしまうだろう。
NDSとヴァーチャル配信者は文化復興とそれを世間に浸透させる為に復興省にとって必要不可欠なものだ。それらが批判の的になるということは、復興省が計画しているシナリオを大きく遅らせる結果へと繋がる。
そして、それはつまり、崩壊ギリギリで立ち止まっている人類が完全に手遅れな事態へと陥ることを意味していた。元々NDSの普及が早まったのは復興省が国民に隠している今後数十年後には電気の使えないような生活が待っているという事実を受け入れやすくするためのテコ入れの意味があった。
ネット空間で犬守村のような、電気のない生活を体験させることでその時の衝撃を和らげようというシナリオを円滑に進めるための。
『中止……V/L=Fが、中止……』
『こんなことになったんじゃ、もう……』
『わんこーろさんでもどうにもできない相手なの……?』
しかし、今現在札置の迷い路に閉じ込められている配信者たちにとって復興省の事情などどうでも良いことだ。ましてやV/L=Fの今後や、ヴァーチャル配信者の立場など、考えられる余裕などない。
だがそれは仕方のない事でもある。今までただ情報端末の前で視聴者と一緒に配信を楽しんでいただけの一般人でしかない配信者たちには眼前に迫る命の危機に耐えることなど出来ない。
『わちるちゃん、聞こえる?』
「なこそさん……」
『私と寝子ちゃんの方から視聴者さんに現状の説明をするわ。視聴者さんの反応はネット制限で確認できないけど……』
「でも……それじゃあ……」
『仕方ありません……もう、配信している場合ではないというのは、事実です』
「寝子ちゃん……」
他の配信者も諦めた様子の弱弱しい発言が続く。このイベントは失敗だ、もうどうしようもない、という。
『……嫌、です』
しかし、そんな沈んだ雰囲気の中で、一人の配信者の声が響いた。
『私、嫌です……みんなで、せっかくここまでやってきたのに……憧れだったV/L=Fに、呼んでもらえたのに……』
その配信者は今回のV/L=Fに招待された新人配信者の一人だった。何十人も居る新人の中の一人で、何の変哲もない姿をした普通の配信者の一人だった。特徴的な配信者たちの中に埋もれてしまうような、個性というものが見えない、そんな配信者だった。
数年後にはもう配信者を卒業しているかもしれない。炎上の末にいなくなっているかもしれない。登録者が伸び悩み、ひっそりと消えているかもしれない。
けれど、彼女の思いは確かに本物だった。
『私、配信したいです……!! 配信して、視聴者の皆さんと一緒に、V/L=Fを成功させたいです……! だって、だって私は……――』
ヴァーチャル配信者だから。
その言葉に異論を唱える配信者はいなかった。現状を理解していない、夢見がちな発言だと思われるかもしれない。だが、彼女と同じ配信者である者たちは、その彼女の言葉に込められた情熱を否定することなど出来ない。配信者として、このまま終わることなどしたくはない。その思いを否定するものなど誰もいない。
同じ配信者として、否定なんて出来るはずもない。
『……はあ、新人ちゃんに教えられちゃったねぇ』
「なこそさん?」
『寝子ちゃん、配信準備始めて! イベント参加の配信者のみんな! 今から配信開始するよ!』
何かに吹っ切れたようななこその言葉は、今にも途切れそうなリンクを通ってすべての配信者へと届けられた。