転生して電子生命体になったのでヴァーチャル配信者になります 作:田舎犬派
真っ白な空間にテレビのようなディスプレイが浮かんでいる。先ほどまでそのディスプレイには記憶データが動画ファイルのように再生されていた。ディスプレイの前に佇む二人の人影は、映像が終わったのを確認し、互いに視線を合わせた。
片方の人影は艶のある黒髪と、黒くふわふわとしたイヌミミを持ち、ゆらゆらと太い尻尾を揺らすわんこーろ。
もう片方の人影は……只の人影。人のような輪郭がぼんやりと浮かび上がっているだけの、かろうじて人の形をしているだけの影だった。
影がわんこーろへと体を向けると、もはや役目は終わったとばかりに空中に固定されていたディスプレイが掻き消える。
この空間にはわんこーろと影以外は見当たらない。どこか懐かしく、どこか寂しさを孕んだ空間でわんこーろは明瞭に言葉を紡ぐ影へと顔を上げる。
「どうだった? 君の……いや、君が君になる以前の……いうなれば先代わんこーろの記憶は」
「……疑問に思っていた事はありました~。なぜ、電子生命体であるはずの私が、声だけは最初から持っていたのか~。どうして、わんこーろという名前にどこかなじみ深さを覚えていたのか~。それと、CL-589の空間に懐かしさを覚えていたのかも~」
「君が電子生命体として真っ白な犬守村で目覚めた時、既に声を手に入れていたのは過去に声を用いて重里と会話を行っていたから。わんこーろという名前は、君に用いられた開発者コード:01から取られた愛称。そして主塔の管理空間を懐かしく思ったのは、そこで重里と暮らしていたから」
「……私の魂は、かつてわんこーろと呼ばれていた彼女に、この時代へと
「……どうかな、当時わんこーろの事を誰もが電子生命体だと判断していた。だが、それはあくまで人間が彼女の生態を自らが知る最も近しい存在に当てはめてそのように呼んでいたにすぎないのかもしれない。実際の彼女は、人類が想像する電子生命体という存在以上に高位の存在だったのかもしれない。……それこそ、自身の器に他者の魂を任せる、なんて事が出来るくらいに」
「ネットワークは彼女が行動できる一つの世界に過ぎなかった、という事なのでしょうか~? その気になれば現実世界や、ニコさんが仰っていたような魂さえも観測出来る存在だったと~?」
「もしかしたら君という存在がその証明になるのかもしれないね。先代わんこーろは自身の消滅により重里を守ろうとした。だが、完全に死ぬことはできなかった。ヴィータの人間はあくまで先代わんこーろを電子生命体としてしか見ていなかった。故にAIを削除するように先代を削除しようとした。だが、電子生命体のようで電子生命体ではない高位の知的生命体である先代を消し去るにはそれでは不十分だった。しかし先代はヴィータとの約束を律儀に守り自身の死を受け入れ、その心は消し去られた。だが、その"体"は残った。先代が意図したのか、はたまた偶然なのか、その電子生命体の体は削除されて集積地帯へと捨て置かれた。……君が犬守村と名付けた集積地帯にね。そしてその亡骸に君の魂が宿った。かつての自然豊かな地球を知る、君の魂が」
「先代のわんこーろは、私にシゲサトさんの思いを継いで欲しいと考えたのでしょうか~? 伝統、文化、風習のすべてを復興するだけの能力を持った体に、当時を知る私の魂が入り込むことで~それが現実になると~」
「さあ、そこまでは分からないね。断言できるのは、先代の心は死に、代わりに君がわんこーろとなった。そしてそれは先代も望んだことだろうという事」
「どうして……望んだと言い切れるのです~? 私は、先代わんこーろの体を奪っているようなものなのですよ~?」
「分かるさ。わたしは、あの子の最も近くで、あの子の事を見てきた。だから……わかるのさ」
「! ……貴方は……貴方が、シゲサトさん……?」
「実際には少し違うかな。……知っているかい? 人類が今ほどの仮想空間を手に入れたのは、先代わんこーろのおかげなんだ。先代が主塔のサーバーに現在のNDSと互換性のある次世代の仮想空間を創り出し、現在はそれが主流となった。だが、その仮想空間にはいくつかの問題があった。電子生命体の能力以上のもので形作られた仮想空間は知らず知らず、その空間に干渉した存在の残滓を貯め込んでしまう。……君が、主塔の管理空間に入り込んだ時に懐かしいと感じたように、空間そのものにまるで履歴が残されているかのように情報がこびり付くんだよ。私は、そんな空間に残された重里の残滓なのさ」
「それでも……貴方が、なこそさんのお父さん……」
「くふふ、……君にはあの子が非常にお世話になっているようだ。……本当に、至らない父親だが礼を言わせてくれ。……ありがとう」
「……貴方の想いは、なこそさんに届いています。絶対に」
「……くふふ、その断言の仕方、本当に懐かしいよ……。さあ、もう行きなさい。私も先代わんこーろも、今は昔の者たちだ。これからは君と、フロント・サルベージと、数えきれないほどの配信者達のための時代だ……君を待っている人がいる。目を覚ますといい。この記憶によって構成された空間はまもなく閉じられる」
「貴方はどうするのですか!?」
「言っただろう? 私は重里本人ではない。あくまで彼の記憶によって構成された残滓なんだ。一緒にはいけない。……だが、もし可能なら」
「なんですか?」
「那子に……なこそに、愛している、と伝えてくれ」
「! ……必ず」
「くふふ。……保管されていたデータとはいえ君は先代の記憶を取り戻した。今ならニコに遅れは取らないだろう。……どうか、あの子を止めてくれ」
古来より人間は様々な困難と闘ってきた。それは災害による病や怪我、あるいは戦争による憎しみや悲しみ。それらと無縁であったとしても、人は寿命から逃れられない。人はいつか死んでしまう。……だが、それはもはや過去のものとなる時代が来た。人々は病や怪我を負う事も無く、戦いも存在せず、いつまでも幸せに生きる事が出来るようになった。夢物語ではなく、視聴者は知っているはずだ。今は無き雄大な自然の姿を、このネットワークの世界で。
……そのような内容を高らかに演説するニコの姿はまさに模範となるべき指導者のそれだった。万人受けするような眩しい笑顔を配信画面に映し、適切なタイミングで身振り手振りを制御し、強調すべき場所とそうでない場所の抑揚の付け方も完璧だった。
狂信的な人気を博した歴史の指導者たちの姿を模倣したニコの演説には人の心を動かせるだけの説得力があった。実際にニコの言う通り、人の命を永遠のものに出来るのは事実なのだろうから、ただ口だけのでまかせでは無い。それがニコの言葉にさらなる厚みを持たせ、真実味を帯びさせていた。
「──さあ、皆さん。私と一緒に行きましょう。死ぬことに怯えない、素晴らしき世界へ」
ニコが画面の向こうへと手を伸ばす。それはまさに神からの誘惑。永遠の命を手に入れられる最大級のチャンス。
ニコの言葉には人を説得させ、その気にさせるテクニックが数多く盛り込まれていた。政治家や巨大企業の代表、国家元首や詐欺師。ありとあらゆる話術を組み合わせた抜群の説得力のある語りではあるが、決して嘘は言っていない。
古来より人間が死を回避することに邁進していた事実は歴史が記録している。不老不死となるための秘薬、修行法、幻想生物の血肉。それらを権力者が探し求めていた事は明らかだ。永遠の命を求め夢見るのは古今東西、たとえ歴史が消失したとしても求める者は居なくならない。
わんこーろの配信を視聴している視聴者たちはあまりにも突然の事に真偽を疑うコメントばかりが流れていく。だがニコは笑みを崩さない。人間は突然大量の情報を目の前に提示されれば混乱してしまうと分かっているのだ。
しかしその混乱が収まればこちらのもの。FSとヴィータが起こした葦原町での戦いは世界中の人間が視聴している。ヴィータが焦って各方々へと戦力の投入を指示したことで情報の秘匿性が薄れているのだ。室長と灯が合衆国軍の駐留基地の動きを日下部局長から教えてもらったように、現在ヴィータが行っている作戦行動が外部へと漏れ始めている。
そしてその裏の事情までも察している視聴者も居るだろう。少なくとも現状の塔の様子や、電子生命体という存在が実在しているという事実にたどり着くのは容易だ。それを現実として受け入れるかは別の問題だろうが、少なくともそれらの真実からニコの言っている不老不死やネットワーク内で永遠に生き続けるという内容も全くの嘘ではないと思わざるを得ないだろう。
しばらく混乱するコメント欄を覗き見るニコ、次に自身が言葉を発するのは混乱が落ち着き、こちらの次の言葉を待っている状況となった時。
そしてその絶妙なタイミングを見極め、ニコが声を発しようとした瞬間、それを遮るかのような叫び声が真っ白な空間に響いた。
「わんこーろさんっ!!」
「……」
「わんこーろさん! わんこーろさん! お願いですから目を開けてください……!」
言葉を待っていた視聴者の耳に届いたのはわちるの声だった。今にも泣き叫びそうな悲痛な声を上げ、画面の端に現れたわちるはそのまま画面に映らない場所で倒れ込んでいていたわんこーろの体を抱きしめる。上体を起こし、その頭を支え、意識の無いわんこーろへと何度も何度も呼びかける。
「死んでないよ。まだ」
他人事のように言い放つニコ。わちるはわんこーろの傷だらけの体をニコから庇うように抱き締め、その背に隠す。涙で濡れた双眸はニコを力強く睨み付ける。
「なんでっ! なんでこんなこと……!」
わちるはなぜこのような状況になっているのか訳が分からない様子だ。わんこーろのアカウントより始まった配信に映ったニコを見た時は、ここまで決定的な敵対行動をニコがわんこーろに対して取っているとは考えもしていなかった。
わちるにとって電子生命体のイメージはわんこーろで固定されており、それ故に塔の管理者もわんこーろのような穏やかな性格の持ち主だと考えていた。だが、ニコはそうではない。こちらに対する明確な攻撃を行ってきた。
「……? 人を守るためだよ?」
「なにを……」
「邪魔をしたら、人が守れないから」
「っ、どうして──」
だが、直にニコと相対したことでわちるは目の前の存在が敵対心など抱いていないと嫌でも理解した。ニコは人に対する愛着や憎悪といった感情を持ち合わせていない。
ニコは人など眼中に無く、それらを包括した人類という大きな枠組みを"守る"という命令を遂行しようとしているだけに過ぎないのだ。
「あなたも、人間。だから……、……私はあなたを守る。涙を流すような悲しみなんて無い。そんな世界へ」
配信に見せた慈愛の滲む顔でニコはわちるに手を差し伸べた。その微笑みと友好的な雰囲気から思わず無意識にその手を取ってしまいそうになる。
「……わんこーろさん、こんなに傷だらけになって……私達の為に、ありがとうございます……」
だが、わちるにはその笑顔が只の作り物であると一目で分かった。感情豊かなわんこーろでさえ違和感を見抜いたわちるにはその程度造作もなく、故にわちるは目の前の存在を意に介さない。その手を無視してわんこーろの容体を確認する。現在最も重要なのはわんこーろであるから。
「……、……貴方は、死ぬことが怖くない? 怪我をすることが、病気になることが……、……寿命で、
わちるに向けた手を下ろし、不思議そうに首をかしげるニコはわちるへと近づく。怯える小動物を宥めるように温和な笑みを浮かべているように見えるが、わちるには人形のように貼り付けた偽物の笑みにしか見えない
「……っ、わんこーろさん」
わちるはまだ温かさの消えていないわんこーろの手に自身の手を合わせ、握る。わちるの手のひらの二回りも小さなわんこーろの手のひらは本当に幼子のようで、強く握れば壊れてしまうのでは無いかと思えるほどに儚い暖かさを保っている。
だが、その小さな手でわんこーろは様々なものをこの世界に生み出してきた。
犬守村という住処や葦原町という学びの場を創り、命のあり方を守り、人々との絆を育んだ。そんなわんこーろの在り方に、わちるは救われた。
はじめの出会いは偶然だったかもしれない。けれど、その偶然から始まったわんこーろとの関係はわちるにとって救いだった。
夏は見たことも無い景色を一緒になって楽しみ、仲間と共にこの国が目指すべき復興の先を見せてくれた。
秋の騒動はわんこーろだけでなく、様々な配信者との絆を深め合う事になった。○一と真夜のようにわんこーろのおかげで良い方向へと変化した絆もあった。
冬は寒いだけの寂しい季節ではないと教えてくれた。耐えるだけではつらい事も、笑いに変えて配信してしまうのが配信者なのだと。
春は彼女の温かさをより一層感じた。自身の心の中に沈んでいた記憶が絆されるように、わんこーろと共に生きたいと願った。
「私は……私は昔、一人ぼっちでした。でも、今は違います。FSの先輩お姉さんたちが居て、いろんな配信者さんたちと知り合えて、それで……わんこーろさんと出会えました」
ヴァーチャル配信者は決して楽しいだけで続けていけるようなものでは無い。だが、決してつらいだけではない。それを知ることができたのはそれだけの思い出があるからだ。
今の時代では決して感じることの出来ない四季のうつろいと時間の流れ。それをわんこーろはわちるに、FSに、配信者に、数億人の視聴者に届けた。
そう、世界中の視聴者へ。
「……、……まさか」
ニコはわちるの登場から放置していた配信のコメント欄へ視線を移す。最初の混乱はある程度静まり、数多くの同時視聴者数の中から元々わんこーろの配信の視聴者らしき者たちがコメントを書き込み始めている。
ニコの演説は完璧だった。鉄とコンクリートと合成樹脂に囲まれた地下の居住区で変わることの無い生活を続ける人々にとって未来に待つ"死"という漠然とした不安の根源は消し去りたいと思うはずだろうから。
だが、ニコが配信を行ったのは、わんこーろのアカウントだ。わんこーろと交流する事を良しとする移住者たちだ。ならば、彼ら彼女らがどのような答えを出すかなど……もはや語るまでも無いだろう。
『なーんかさっきから難しい話してっけどさー』『俺らは別に不老不死とかいらんわ』『いっつもおんなじ景色とか飽きるだろーからなーw』『そうそうw俺たち移住者の楽しみはわんころちゃんと狐稲利ちゃんの成長を見守る事だからなーw』『まあ、わんころちゃんと一緒に生きられるってのは魅力的かもだけど、そんなのわんころちゃんは望んでないでしょ』『望んでたらわざわざ犬守村で人のように生活してないわなw』『わんころちゃんは俺たちを人として生きるように言ってるんだよ』『人としてしっかり生きて欲しいと思ってるだろな』『てかわんころちゃんの配信見てたら分かる』『毎年同じように四季が回ってたとしてもさ』『同じ季節なんて一度としてやってこないんだって』『永遠にネットの中で生き続けるのって、何の変化も無いんだよね』『変化が無いなんて、そんなつまらない人生ありえなくねw』
『人じゃないはずの、わんころちゃんに教えてもらった』
『人として生きるのって大変で』『すっごい難しくて』『煩わしい事ばっかだけど』
『けど、すっごい楽しい!!』
「……、……」
『てか、コイツ誰?』『わんころちゃんの知り合いか?』『塔の管理者。電子生命体ねえ……わんころちゃんと比べて感情薄いな』『それよりさっき聞こえた声、わちるんじゃねえ?』『わちるん居るの!?』『今の声はわちるんだ!間違いない毎回わんころちゃんの配信に顔見せてるからすぐ分かった!』『草 もはや犬守村に住んでるじゃねえかw』『しかし……そうか、わちるんが此処に居るなら、なこちゃんたちの時間稼ぎは間に合ったのか!』『でもさっきの声、わんこーろさんって……』『わんころちゃんも居るのか!?』『ちょっとー画面見切れてるんですけどー』『わちるん!わんころちゃんは大丈夫?』『こっち見えてるか?』
「……なぜ」
ニコは移住者が不死に関して消極的であることに衝撃を覚えた。わんこーろの配信に現れる常連視聴者である移住者はわんこーろを"推し"などと呼称し、わんこーろを慕う者たちばかりの集団だ。
その中にはわんこーろが本物の電子生命体だと知っている者も少なくなく、その生き方と在り方に憧れを持つものばかりだと考えていたのだ。
わんこーろと一緒に遊びたい。わんこーろと一緒にご飯を食べたい。わんこーろと一緒に犬守村で生活してみたい。そんな声は配信のコメントでもSNSでも聞こえてくる。中には現実よりも仮想世界で生きたいという声さえもある。
だからこそニコは最初の配信をわんこーろのアカウントから始めたのだ。大々的に全世界のテレビを乗っ取って行えば混乱の規模は一つの配信枠とは比べ物にならないほどになり、ニコの考えに反対する勢力も出てくるだろう。
だが不死に対して好意的な者たちが集まるわんこーろのアカウントから情報を公開すれば、後は移住者たちが勝手に拡散してくれる。SNSの繋がりは自身と他者との共通点が繋がりとなっており、好きなもの同士が集まっている傾向にある。ニコの考えに賛同する者のSNSは同じように好意的な意思を示す者たちとの繋がりであり、その連続によってニコの考えは"ニコの考えに好意的な者たち"の中でのみ拡散されていく。
もちろんそれらに抵抗感を示すものも居るだろうが、そんな者たちがニコを知る頃には好意的な意見が世間を埋め尽くしており、否定的な意見は封殺される。
そうなるはずだった。しかしニコの思惑は外れ、移住者はわんこーろと共に生きる道を拒否した。
その代わり、わんこーろが指し示してくれた道を歩むことを決めた。
決して永遠などというものが何物よりも素晴らしいなどと、わんこーろの配信を見ていれば頷くことなどできない。開拓される世界、移り変わる景色、少しずつ成長する自然に、狐稲利やわんこーろ。それは時の流れがあって初めて生み出された尊い姿なのだ。変わらぬ永遠を肯定するという事は、わんこーろの生み出した世界を否定する事。成長する事を何よりも喜んでくれる推しを否定する事。
「……、……なぜ。……よくわからない」
ニコは主塔に保管されていた人類の歴史を数十年も調べ、知識として蓄えていた。人類の歴史は科学の進歩と共にあり、その原点には不死を願う人間の探求心が深く刻まれていた。現在は否定されている魔術や魔法、錬金術と呼ばれる分野は当時学問として真面目に研究され、その到達点に不死と成る
現在ならば鼻で笑うような荒唐無稽な事柄が信じられてしまうほど、人間の生への執着は凄まじい。それなのに、なぜ目の前の人間たちはそれらに関心が無いのか。
「……、……ああ、そうか」
「ひっ、う……」
『配信画面動いた!』『わちるさん!それにわんころちゃんも!』『うげえすっごいボロボロ……大丈夫なのか?』『あんなに傷だらけになって……』『お願い無事でいてくれ』『わちるん逃げてくれ』『わちるさん!』
おもむろにニコはわちるの傍にしゃがみこみ、視線を合わせる。ニコの瞳は幾つもの格子状の模様が浮かび、粒子が煌く不思議な瞳だ。遠目から見ればただ綺麗で不思議な瞳も、息がかかりそうなほど近くで覗き込めばその理解を超えた瞳に怖気さえ感じるだろう。わちるは喉元までせり上がった悲鳴を何とかこらえる為、息を止めてその瞳を見つめ返す。
わんこーろを抱きしめる両腕に力が入り、唾を飲み込む動作で喉が鳴る。
ニコはそんなわちるの喉……首を片手で絞めた。
「あっ……ひぃ──」
声が出ない。あまりにも自然に伸ばされたニコの手をわちるは視線で追うしかできなかった。そのままわちるの首を掴んだニコの手は、片手とは思えないほどの力でわちるの首を絞め上げる。
「私、知ってるよ? 分からないものは、怖いんだよね? ……、……じゃあ、見せてあげる」
『おい!?なにやってる!!!』『手はなせぼけ』『やめろ』『わちるがしぬ!!』『なにわらってんだ!!!』『わちるん息が』
ニコは配信画面に向かって微笑む。その後ろで首を絞められているわちるは呼吸する事が出来ず、かすれるような悲鳴を吐き出すしかできない。酸欠で意識が朦朧としているらしく、わんこーろを抱く手も力を失い、だらんと下げられている。
「貴方たちを守ってあげるから、心配しなくても大丈夫だよ」
過去人類が不死を追い求めてきたとはいえ、かつての知識は消失し、歴史に学ぶ機会も少ない現代の若者には不死と言われてもそれほど魅力的に映らないのかもしれない。だが、それは不死となりたくないという意味では無く、どのようなメリットがあるか知らないから二の足を踏んでいるだけなのだ。そう考えたニコは視聴者へと未知に対する抵抗感を弱める事にした。
目の前にいるわちるの精神と現実の肉体とを切り離し、配信中に不死の人間を生み出して見せようとしたのだ。
『意味わかんねえ事いってんな!』『笑ってももうその手は通用しねーよ』『いいから手を放せ』『今分かったコイツ敵だわ』『最初っから分かってただろうが、わんころちゃんのアカウント乗っ取ってんだぞ』『わちるん意識をしっかり!』『わちるさん!』『わちる!!』
「あ、う……わん、こーろさん……」
抵抗しようにも体が上手く動かない。腕を持ち上げてニコの手を掴む事すらできそうにないわちるは、それでも手を必死に動かしわんこーろを強く抱きかかえた。
意識が途切れようとしている
「ごめん、なさい……守ってあげられなくて……」
「大丈夫……、……私が守ってあげる。この世界に存在する、すべての人間を私が……、……守ってあげるから」
わちるの意識が消失する瞬間、ニコによって無理やりNDSの緊急浮上命令が発信され、わちるの意識が現実へと浮上する。だがニコが空間からの精神の離脱を妨害。空間に留まったままのわちるの精神と、現実の肉体との繋がりを切断しようとした瞬間──
「申し訳ありませんが~手を放していただけますか~?」
「っ!」
緩やかで穏やかな声がわちるの腕の中から聞こえ、声の主が手のひらでニコの胸元を軽く押した。その瞬間ニコはとてつもない衝撃に襲われ、後方へと吹き飛ばされる。吹き飛ばされる瞬間にニコは衝撃に対する干渉を行い、そのエネルギーを打ち消そうとしたが、なぜか不発に終わる。自身が管理しているこの空間で、自身の干渉が及ばない事にニコは驚き、衝撃のままに吹き飛ばされるしかなかった。
「わん、こーろ……さん?」
「ええ~あなたのわんこーろですよ~なんて。んふふ~大丈夫ですかわちるさん~」
「! わんこーろさんっ!」
「おやおや~わちるさんから抱き着いてくるなんて~中々成長しましたね~」
『うおおおおおおおお!!!』『きたあああああああ』『わんこーろ復活!わんこーろ復活!』『目覚めたかわんこーろよ』『これは胸熱展開!』『よかった、ほんとによかった!』『覚醒直後にわちこーろ補給たすかる!!』『燃えと萌えが合わさって最強に見える』
コメント欄が配信主の登場に沸き立ち、これまでにないほどのスピードでコメント欄が流れていく。ボロボロながらも立ち上がったわんこーろが今度はわちるを支え、抱き着いて涙を流す彼女を宥めながら目の前のニコへと視線を移す。
「なぜ……、……動けるの?」
「んふふ~……どうしてでしょうね~」
わんこーろの体はニコとの戦いによっていくらか削り取られていた。ニコが管理する空間内であるため体の修復も妨害される状況で、わんこーろは体を構成する中枢部分を貫かれたはず。それ故に先ほどまで意識を無くしていたわんこーろが現状立ち上がり、ニコへと対処不可能な反撃を与えた事はニコの電子生命体としての処理能力を用いても予測出来なかった事象だ。
ニコの攻撃は本当にわんこーろを殺害できるほどの威力があった。かつて先代のわんこーろが殺された時のようなヴィータのお粗末な削除とは異なる、電子生命体を殺すための攻撃によってわんこーろを構成するデータ群を破壊し、その中枢まで貫いた。まだ死んではいないが、しばらくすれば自壊すると思われていた。
にも拘わらずわんこーろは立ち上がった。
ニコにとって想定外だったのは、この空間はニコの管理下に置かれているがそこに保管されている情報まではその限りでは無いというところだ。3Dモデルより抜け出たわんこーろの意識はCL-589内に残されていた記憶の残滓へと行きついた。そこで先代わんこーろの記憶を取り戻し、重里の記憶と邂逅した。
失われた体の情報を、残滓をバックアップとして復旧し、その上かつて先代わんこーろの記憶も現在のわんこーろの知るところとなった。
それはつまり、電子生命体を超えた、遥か宇宙の果てより来た上位の存在の記憶。
わんこーろの、本来の体の使い方を記した記憶。
「……、……邪魔しないで」
「それは無理です~」
漂う粒子が収束し刃へと変換される。それらがわんこーろへと殺到するが、それらは先ほどのようにわんこーろを刺し貫くことは無かった。わんこーろはもはや回避する必要も無いとばかりにわちるの前に立ち、彼女を庇いながら空に視線を向けるだけ。
それだけで迫りくる刃は元の粒子へと強制的に初期化される。
「人は立ち止まったままでは生きていけません~。先へ進む事こそが生きるというものです~。変化が無いという事は悲しみも苦しみも存在しない反面、喜びも無いのです~。そんなの、つまらないじゃないですか~」
「……、……」
遠距離攻撃が無駄だと理解したニコは再度わんこーろの後方へ空間座標を利用して跳ぼうとするが、わんこーろが指定座標を弄ったことで失敗に終わる。
裁ち取り鋏の複製品を手に取り距離を詰め、その刃をわんこーろへ突き立てようとするが、その刃をわんこーろは素手で掴み取る。
『うおおおおお!?』『すっげえ!?』『まさか、見ただけで!?w』『なんつーチートなw』『強すぎワロタ』『こーれレイドボスです』
「ニコさん、無駄です。もう大人しくしてもらいますよ~」
わんこーろの手に現れたオリジナルの裁ち取り鋏。それはわんこーろの本来の能力を拡張し、その力を空間全体にまで波及させていた。未だニコの管理下にあるが、それに対抗できるだけの勢いで空間を侵食していた。
「……、……そう」
「ニコさん? ──なっ!?」
「あ──」
あらゆる攻撃を受け止め無力化するわんこーろを前に、ニコは目を伏せる。それを諦めたのだと判断したわんこーろがニコへ鋏を収めるように言おうとした直前、ニコはわんこーろに掴まれた鋏を分解し、再度鋏を手元に再生成する。そしてその刃が狙うのは、わんこーろでは無く、何の防御方法も持っていないわちるだ。
『やべ』『逃げろ』『はやすぎ』『ダメだ』
人を守ることを命令として指示されているニコがわちるを狙う可能性は薄いと判断していたわんこーろはその動きを妨害するタイミングを逃す。
わんこーろは失念していたのだ。最初からニコは人の命を奪うつもりは無い。あくまでニコの行動は"人を守るため"のものであり、そのためならば首を絞める事も、その体に鋏を突き立てる事もためらわない。
鋏の挙動を予測した移住者が短いコメントを飛ばすがそれも間に合わない。
「──っ!!」
ニコの動きに割り込むには遅すぎた。初動を抑えることが出来なかったわんこーろはわちるに迫る凶刃に対処する方法に対し、選択を迫られる。時間にしてもほんの僅かな瞬間。人では知覚する事さえ難しい刹那の時間。
わんこーろは永遠とも思えるその瞬間に覚悟を決め裁ち取り鋏を握りなおし、その切っ先をニコへと向けた。
「──ごめんなさい。ニコさん」
ニコの鋏はわちるの胸元に突き刺さる寸前で停止していた。ぴったりとわちるの肌に触れるか触れないかという場所で静止した鋏は、切っ先より粒子になって消えていく。それは鋏の持ち主が鋏を維持出来なくなった証。
ニコはわんこーろの鋏に貫かれ、その場から一歩も動けないでいた。突き立てられた鋏からはニコを構成するデータが粒子となり、血液のように鋏を伝う。
「あ……」
わんこーろが鋏を消すとニコの体は力なくその場に崩れ落ちる。それをわんこーろは両手で支え、ゆっくりと床へ体を横にさせてやる。
「ごめんなさいニコさん……これしか、あなたを止める方法が分かりませんでした……」
「……、……」
浅く呼吸を繰り返すニコの体からは急速に体温が失われていく。ニコの刃を止めるためには全力で、それこそニコを即死させるほどの力でなければならなかった。わんこーろはニコを害する覚悟を決め、そして鋏を振るった。
その結果、ニコを構成するデータはわんこーろの鋏によってズタズタに切り裂かれた。空間とのリンクを含めた様々なシステムから切り離され、瀕死となったニコはわんこーろと視線を合わせながら何とか言葉を紡ぐ。
「……、……問題、無い……。こうなって欲しい、と思っていた、から……」
「ニコさん……?」
「安心して……、……私は、人を害せない……、……さっきのも、わちるさんには、とどかなかった」
「どうして……」
「……、……分からなくなった……から。私が信じていたものは……、……お父様からお願いされた"人を守る"。……その方法が、本当に合っているのか、分からなくなったから」
ニコは重里の死を見届け、塔を閉鎖した後も真っ白な空間で塔に残された情報を元に知識を蓄えていた。主塔と中央管理室を切り離すことで主塔そのものを管理下に置いたニコは主塔のシステムすべてを掌握し、そこで衛星への干渉方法や散布されているデブリ回避用マイクロマシンを利用したデブリの位置情報を得る方法を知った。
そうしてデブリの隙間を見つけ出しニコは僅かな時間ではあるが地上の様子を覗き見れるようになる。そこで見つけたのだ、重里がその手で殺したはずの、自身のコピー元となった開発者コード:01の姿を。
ヴァーチャル配信者として活動しているわんこーろを見つけたニコは不思議とその配信を視聴するようになった。かつてはお母様と呼んでいたけれど結局会う事の無かったわんこーろの姿に、母親というものを無意識に感じ取っていたのかもしれない。
かつてこの世界に存在していた自然の姿、人々の生活風景。その中で楽しそうに生活するわんこーろと、それを見守る移住者たち。
その姿を見てニコの中には疑問が生まれた。自分の考えは本当に正しいのだろうか? このまま計画通りに進めていいのだろうか?
彼らは、本当に永遠に変わらぬ世界を求めているのだろうか?
僅かな疑問はわんこーろの楽しそうな姿を見続けるうちにニコの中で大きな疑問に膨れ上がる。それが決定的な懐疑となりニコの計画を鈍らせる要因となったのが、秋に実行したV/L=F参加者をネット内に取り込む計画がわんこーろに防がれてからだった。
ニコはそれでも重里より命じられた"人を守る"事に注力した。そうしなければ自身の存在意義の消失に繋がると理解していたから。それでも膨らんだ疑問はどうしても払拭出来ずニコの中に燻っていた。
そんな疑問をついにニコは抑えきれなくなり、塔へとわんこーろを誘い出す決意をした。衛星の衝突で制限時間を設け、主塔へとアクセスできるタイミングを知らせて誘導した。
そしてわんこーろと直接会って、話をしたい。自身の考えが本当に正しいのか、人に近しい場所で生活しているわんこーろの意見を聞きたいと願った。
わんこーろが強く否定するなら、それこそ自身を打ち倒してでも止めようとするのならば、それに従おうとニコはわんこーろへ細工箱を送った時より決めていた。わんこーろに倒されれば素直に受け入れ、逆にわんこーろを返り討ちにしても、ニコは計画を停止するつもりだった。
その後は、あらかじめ決めていた方法で自身の活動に終止符を打つつもりだった。
「逃げて……」
「ニコさん……?」
「……、……ここは、もうすぐ衛星が衝突して、崩壊する」